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2010年11月

2010年11月15日 (月)

060529 ロンドン2日目

 2006_05290600244時には目覚めた。これも、昨夜早く眠ったせいだろう。

臨時通船が出るという船内アナウンスがあった。朝7時発の通船は、窓から見ている限りでは数人が乗るだけで、出て行った。眼を凝らすと、対岸間際に砂地が見える。ここまでの水位、干潮だったのだ。テムズ川は海水川であるから、当然といえば当然だ。水鳥が集まってきていた。

本日の通船運行時間は、750分の後は930分までない。どうにも、今回の運行時間の計画が腑に落ちない。たとえば、7時に出た船客は、カテイサーク駅まで歩き、キャナリー・ワーフ駅で乗り換えて、さらに地下鉄ジュビリー線に乗らねばならない。グリニッジ・ピアには、流しのタクシーは来ない。捕まえられないから、事前に呼ばなければない。7時に下船した船客は、迎えの人が来ていたのだろうか。

2006_0529060020 2006_0529060019 朝食後の930分発の通船で着岸しても、三越(ピカデリー・サーカス)行のシャトルバスは1035分まで無い。1時間をグリニッジの町で、待ちぼうけだ。既にカンペールショップの開店時間は過ぎている。ピカデリー・サーカスに到着しても、もたもたしていれば、すぐにも昼食時間となる。この1時間40分の差は大きいはずだ。

 

そう思っていたところ、これまた、予定外の臨時通船だという。誰かが同じことを思い、インフォメーション・デスクに具申したようだ。急いで、朝食を済ませたが、女性陣は思いがけずの臨時便に大慌ての身支度で大変だった。

 

845分へ急ぐ通船に、待ったがかけられた。我々、自由行動組よりも、オプショナルツアー組の乗船が優先された。乗り遅れを防ぐために、これまでは、ツアー組はシアターに一旦集合させ参加者数を確認した上で出掛けることが多かった。今日はそれもなく、直接集まっているので、狭い下船口は混み合った。

100人は乗れると聞いている通船だ。ツアー組が100人もいないのなら、自由行動組から順次、ギャングウエイを渡らせて、この混雑を解消すればいいのにと、客の中から愚痴が聞こえる。

 

 

ピアに降りても問題が起きた。ツアー組のバスは手配されていたが、自由組には都心への足の保証はなかった。そのまま置き去りにされた。950分まで待つのだ。

「臨時通船はツアー出発のお客様用ですが、対岸まで乗船を希望される方は、どうそご利用ください」とでも、アナウンスしてほしかった。

 

2006_0529060005 なんのことはない。急がせられて、時間を持てあます結果となった。ならばと、菅井夫妻とグリニッジ・パークをぶらつく。子午線の場所までは時間がない。川岸に丸いドームがある。テムズ川の地下道入口である。時間潰しに、対岸へ抜けて、往復してくると言う人、コイン・トイレボックスを試す人など他愛ないことで時間を費やしたそうだ。通りの店は、未だ開いていなかった。前日にグリニッジ天文台に上がった人たちは、ぼやくことしきり。配慮不足で、船客の不満が溜まり始めていた。

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1時間が経った。シャトルバスが着いたが、乗車できない。ざわめきが起きた。

950分のシャトルバスに乗り合わせる船客が来ないというのだ。後発の通船が定時に着岸していない。干潮の浅瀬に阻まれて立ち往生していることが原因だそうだ。なんてことだ。水先案内人や通船のクルーと情報交換していないのか、苛立つ気持ちが高まって、ひそひそ声でクレーム」が囁かれていた。明らかに船側の失態である。

 

Dscf4257t 一龍齋貞心さんと写真を撮った。シャトルバスは、1時間以上の足止めを余儀なくさせられた我々のために、見切り発車した。苦虫を噛みつぶした表情の重い空気で、バスは走っていた。しばらくして、後部座席にいた貞心さんが突然、発声した。

「みなさま~、バスが、ここを左折しましたら~、カメラのご準備を~!」

「かのロンドン・ブリッジが~、橋の上から、しっかり、撮れま~す!」

「昨日、ちゃっかりと撮れた方は、ご遠慮願いま~~す」(大爆笑)

「帰りは、この橋を渡りませ~ん」

2006_0529060152 どっと笑いが弾けた。彼のサービス精神は、それまで、くすぶっていた乗客の気持ちをほぐした。さすが、プロ。場の空気を笑いで自分に向かわせる。一気に和やかにさせた。

 

三越に着いた。今日は国民祭日だ。菅井夫妻も判ってくれている。早足になった。菅井夫妻にとっては、初めての道になるのだが、同調してくれた。

ピカデリー・サーカスを右折して、昨日のように、コンヴェントリー・ストーリーから、レイスタースクエアを抜け、コヴェント・ガーデンのカンペール店に入る。にこやかに店員が待ってくれていた。42サイズは用意されてあった。足を入れる。大丈夫。支払いを済ませて、大英博物館の方角に歩き出した。コヴェント・ガーデン駅から45ポンドの1日券を買うことも考えたが、そのまま歩くことにした。タクシーに乗るほどの距離ではないからだ。

 

小洒落た通りのニール・ストリートに入る。小さな小道の中にあるブティック通りだ。原宿の感覚。我々の女性たちは、興味も持たない。少々歳を取りすぎている。

乾いた路面に点々とシミが増える。雨が、ぱらつきだした。早めの昼食にしましょうか、と荘輔さんに問うと、大英博物館へ先に入ってしまおうや、と返ってきた。それに同意する。そのまま、オックスフォード・ストリートに出るまで歩く。それを越えれば、大英博物館だ。

 

大英博物館の前は、雨宿りをするでもなく、多くの人たちが雨に濡れながら、階段に座って待ち合わせていた。

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威圧感のある館内のドアを開ける。大理石に囲まれたエントランスホールは、天窓から降りてくる太陽の光で、白く明るい。表の佇まいとは違い、現代的な空気が迎え入れてくれた。予想外だった。そして、入場料は無料。

2006_0529060093_2 但し、今日有るための、今後有るための費用として、寄付という形での心遣いを出来ればどうぞお願いいたします、という姿勢。最小のそれが、3ポンド。あちこちの会場に、樹脂製の洒落たドネーション・ボックスが備えられてある。我々もそれに賛同して、入れた。

 

菅井夫妻と退出時間を決めて、分かれた。

ミケランジェロのドローイング特別展が開催されていた。フィレンツェで観てきた記憶があるうちに、とは思ったが時間があればとした。

まずは、エジプト室から見て回ることにした。

2006_05290600812006_0529060087 次にギリシャ室。ローマ時代の遺跡から持ち帰った物だ。最近は、出土国への返還を求める声も多いが、世界人類のために保管維持している?貴重な品々を見歩いた。それが本物であるということに興奮する。驚いたのは、これほどの品々に、なんと、カメラ撮影も許可されていた。

 

親が子供に指さしてなにやら教えている。子供の目が一番印象的だった。世界史の教科書でお目にかかったものが、多くあった。年号と歴代の王や将軍の名前をやたらに暗記させる世界史や日本史の試験は、僕の最も嫌いな科目になっていった。

ピラミッド建設が、過酷な使役ではなく家族共々ニンニクやタマネギを供されての農閑期の労働対策だったということや、バイキングがなぜ南下したのか。ロシアを創り、ノルマンディにも住みついたということや、あのシンドバットが実は中国と関係していたということとか、ナポレオンが缶詰を創らせた背景とか、地球を人間たちが欲につられて、帆を張り、海を走り回ったから、いまの文化が創られたのだ、などという歴史の面白さを教えてくれる教師は、いなかった。

2006_05290600852006_0529060088 教科書のページをなぞるだけで、世界を観ていたような口になる。商売として歴史を学生よりも先に頭に叩き込んだ教師が、十字軍の遠征をハリウッドの映画のように正義ぶって言う。ムーア人が地中海という内海をどう利用していたのか、イスラム教がなぜ東南アジアに根付いたのか、ポルトガル人が偶然に種子島にきたことや、コロンブスが勘違いで行き着いた島のこと、米国大陸は発見していないことや、ペリーが浦賀に来た本来の目的などを、歴史の「外」論として、教師が話さない。

興味のあるところから解きほぐす教え方をしないで、試験の科目として暗記させる歴史にしてしまった。歴史の教え方は、算数より幾何であるべきで、「なぜ?」という疑問や興味が、紐解かれていくプロセスが面白い。

歴史を教える教師が宮崎先生のレベルなら、世界を観る眼は変わってくる。年号や王の名前を記憶させるのが、歴史の勉強ではないでしょうと、宮崎先生に訊いてみたが、私の興味も教え方もその通りですよ、と同意してくださった。

3年前のワールドクルーズで彼の講義を聴いてからというもの、寄港地を見るのがどんどん面白くなっていったのだ。アラウン・ザ・ワールドの費用を払って、宮崎教授の話が聞けた。歴史嫌いだった僕には、有り難いやら、情けないやら。

いま、小学校からの英語教育が問題になっている。英会話が満足に出来ない担任教師が英語を教えるといって、怯えている。高校の英語教師が修学旅行先で外国人に通じなくて、失笑をかったでは済まされない。形ばかりの杜撰な英語教育で、英語嫌いが増えるとしたら、ぞっとする。日本語できちんと語れないと、喋れても理解されない、留学生の言葉は、重い。となると、僕も日本史を学び直す必要がありそうだ。

 

大英博物館で日本画は、アッパーの92辺りに行かないと見られない。念のため、係員に訊いてみた。今は残念ながらクローズしているが、セレクションされた貴重な物なら、数点が特別展示室にありますよと教えられた。まだ、他に、「ミケランジェロ展」も見たい。回れるか、時間が気になる。

2006_05290600992006_0529060096  昼食を館内で食べようとレストランに上がった。メニューを見ると品が良すぎる。顔を見合わせて、カフェテリアスタイルの1階にしようと、階下を見ると、満席だった。立ち食いする気なら、どこか他にしてもいいねと言う。

 

2006_05290600972006_0529060098青空になり、光も強くなっていた。昼食は外の店で食べようとなった。途中にあったサブウエイで簡単に食べて戻ろうかと提案したら、サブウエイは何だと訊かれた。新潟には未だサブウエイは出店されていないという。日本でも100店舗以上になったのだが、サントリー側の出店計画が遅れているのだろう。博物館から歩いて数分の、その店のドアを開けた。狭い。テーブル席が3卓しかなかった。空いていたのは、1卓だった。この店は、持ち帰り客が多いのだろう。

 

ホワイト、セサミ、ウィート、ハニーオーツの4種類からパンを選び、サイズを指定して、あとは、オニオン、レタス、トマト、ピーマン、ピクルス、オリーブの6種の好み野菜を指示して、量の増減も自由、ただし、サンドイッチによってお勧めのドレッシングが決まっている場合があるが、ドレッシングやマヨネーズ、チリトマトソースなど好みの調味料を、やはり指さしてこれで自分好みのサンドイッチが出来上がる。日本人には、パンの長さはハーフで充分だ。飲み物を足しても、45ポンドほどである。

 

4人が、思い思いのサンドイッチを頬張っていると、西出夫妻ともう一組の夫妻が通りかかった。店内にいる我々を見つけた。博物館の位置を確認したいと入ってきた。昼食も未だだと言うから、我々の席と入れ替わった。名古屋でのサブウエイは栄ビルの地階にあるのだが、余り知られていない。やはり西出さんも知らなかったようだ。

日本では、「イギリス」で思い浮かべるのは「フィッシュ・アンド・チップス」だが、アンドというように、魚とポテトチップスのことで、余り美味いものではない。ましてや、小魚ではなく、タラの類だから、魚が苦手の僕は、好んでは食べない。ツアーでは、これを食べることを楽しみにしている人が居た。

 

戻った博物館で、「ミケランジェロ展」のチケットを買おうとしたが、少し前にソルドアウトしたと言われた。前売りを買うかと、窓口の係に尋ねられたが、今夕にロンドンを発つと告げると、それは残念だと肩をすぼめて、ウインクしてくれた。午前中に見ておくべきだった。順序を間違えた。

2006_05290601102006_0529060111残念だがと、日本物も展示されているセレクションコーナーとスーベニールショップに立ち寄った。



これで、もう此処へ来る機会はない。威風堂々とした博物館を振り返った。カイロの考古博物館でも、こんな気持ちだったことを思い出した。

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気持ちを切り替えて、地下鉄の駅に向かう。トッテンハム・コート駅からオックス・フォード駅まで3ポンド。地下鉄に乗る。日本と同じで、コインを入れて、自動改札に通す。下船したときには、45ポンドの1日券を買う予定でいたが、今の3人の状態を見ると、オールド・オックス・フォードからピカデリーまでは、歩き通せる元気があるだろうと考えたので、1回券にした。

3連休の最後だというのに、地下鉄の車内は混んではいなかった。狭い車内で天井まで円くなっているのを美子さんが指さした。なにか思い当たる?と訊いてみた。

色を塗った「チューブ管」が地下を潜り回っているので、ロンドンの地下鉄は、チューブと言われたのだと説明しておいた。英国では、文字通り、アンダーグランド。フランスでは、メトロ。米国では、先ほど入った店と同じサブウエイ。地下鉄通勤者相手に販路を作ったので、店名を「サブウエイ」としたが、名古屋は1店舗だけで、東京での展開は路面店だ。

2006_0529060114 2006_0529060115 37年前、ロンドンを訪れた時、木製のエスカレーターだったことを妻が話しだした。僕は、「右側に寄れ!」と、英国人に注意されたことが印象的だった。

「ロンドン」というのは、「ロンデヌス」(ケルト語で、勇敢な者という部族名)が支配していたテムズ川流域の地という意味をこめて、ローマ帝国の占領軍が「ロンデニウム」と呼んだことに由来する。

 

 

2006_0529060118 2006_0529060122 2006_0529060112 オックス・フォード駅で地上に出た途端、凄い人波に押された。祭日の銀座四丁目よりも人が溢れていた。ここから、リージェント・ストリートを歩く。「リバティー」の側に「スワロスキー」店が見えた。カミサン達は、目的の者があるらしく、さっさと店内に吸い込まれていった。男共は、所作なく外で待つ。眉を寄せて出てきた。思うものが無かったようだ。クリスタルカットされたビーズ屋も探すが見つからなかった。

 

2006_0529060119 2006_0529060037 カーナビー・ストリートへ入る。昔なら、入りたい店だったのだろうが、今はその気がない。それほどに歳を取ったのだと自覚した。

T字路を右折して、リージェントの「ザラ」から横断して「タルボット」へ。

2006_0529060124 2006_0529060123 低い位置に小さなプレートが止めてあった。車椅子の客に対する「タルボット」の心遣いが見えた。店の入口は、1段階段があった。それをパチリと撮ってから、オールド・ボンド・ストリートへ入る。

2006_0529060129 いかにもという威厳のある古い建物、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツを通り抜けると、「カンペール」の店は近いはずだった。バーリントン・アーケードは、シャッターが下りていた。ブランド好き人間には、あのドーヴィルの街と同じくらい、短時間にブランドショップを梯子できるエリアだ。クレジット・カードには、危険なエリアなのである。

 

右の「ラルフローレン」は兎も角、左が「フェラガモ」、正面が「ミキモト」、「テイファニー」、「DKNY」。右が「カルティエ」、「シャネル」、左折すると、「モンブラン」、「ダンヒル」、「プラダ」、「ダクス」と続く。ここら辺は、女性と歩くと、男には危険なエリアである。「カンペール」のあるロイヤルアーケードの左は、「ロレックス」、「グッチ」、「デ・ビアス」に「バカラ」の店が軒を連ねている。ハイエンドなワイングラスなどで富裕層に知られる「バカラ」は、丸の内の国際ビルに、世界で初めての直営バー「Bbar」を開店させた。バカラのシャンデリアの下、バカラのグラスでサーブされる。酒の肴もバカラのプレートだ。世界で初めてのバーだというのが、果たして日本人には知られていることかどうかである。

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昨日の日曜日、閉店で断念した「カンペール」の店に着いた。

菅井美子さんは、アテネの店で「カンペール」ブランドを気に入ってくれた。彼女は、踵を上手く包んでくれる革のサンダルを買った。この店でも、足が気持ちよくフィットする靴を見つけたようだ。荘輔さんは、我関せずと店の外で待ている。

2006_0529060134 美子さんはいそいそと買いたい靴を手にレジに向かった。ところが、暗証番号が違うと言われ、戸惑った。それは荘輔さんのカードだった。自分のカードは持ち忘れていたのだ。バツが悪そうに、店の外で待つ夫を手招いた。荘輔さんは、サインのために呼び込まれた。口を結んで渋い顔を作った。

ギネスビール缶をしこたま買い込む約束で、美子さんが荘輔さんのご機嫌取りをする。滑稽な光景だが、美子さんは真顔だ。そもそも、僕が「カンペール」ブランドを教えてしまったのだからと、口を挟む。

「未だ、ロンドンパブに入っていないなぁ、そう言えば・・・、これから、探して入ろう」と、空気を変えた。レジの店員は、この会話を解っているような笑顔で、レシートを差し出した。丁度、「フォートナム&メイソン」の仕掛け時計が15時を鳴らした。

 

パブを気にしながら、ピカデリー・サーカスに向かって帰る。そうなると、これまで見えていたパブが隠れたように、通りに見つからないではないか。ならば、いっそ、ピカデリー・サーカスの近くにしたほうが、バスに乗りやすいと考えた。

 

2006_0529060142 2006_0529060141「ガイズ&ドールズ」を上演している劇場の前だった。店は創業1860年代に出来た「デボンシェア・アームズ」という老舗だった。シアターのポスターが、壁一面に貼られてあった。終演すると、演劇論でワイガヤとなる店なのだろう。

 

「バス・ペール」をオーダーした。だが、ここに置いてないと言われてしまった。菅井夫妻は、当然「ギネス」だった。飲むほどに、荘輔さんの機嫌は和らいだようだった。客のいない2階では、いつものように冗談ばかりで、大声を出していた。

だが、ゆっくりもしていられなかった。三越前の集合時間は16時。船は、グリニッジを離れているのだ。回遊していて、我々はティルベリー港で乗船となっていた。グリニッジ・ピアよりも更に1時間かかるということは、シャトルバスに乗り遅れると、大変なことになるのだ。手に入る地図を片端から見てみる。テムズ川を南下した場所だろうがこれに河口の入口ではないか。ティルベリー港という場所への距離も解らない。もし、不測の事態があった場合、シャトルバスに乗り遅れた最悪の場合、我々には鉄道などの交通手段も教えられていない。これは、ツアー企画会社も船側も、船客に対して情報不足であると言わざるをえない。パブにも入ったことだしとして、三越前へ向かった。

観光をし終えた?船客も集まっていた。

「飛鳥の乗船客が三越にいたわよ、でも、お高くとまっていて、同じ日本人なのに、話しかけても言葉を交わさないの、知らない素振りってふうで・・・」

「あら、私も、飛鳥に併走していたわよって、話しかけても、そうでしたっけって顔」「私は、聞けたわよ、トラブルがあったんだって、情けない原因だったから、話したくないって、笑って誤魔化されちゃった」

「あら、それって、水漏れでしょ?」

「ええ、そうなの?」

「あら、私の聞いたのは、海水の塩分濃度の計算間違いだったって」

「????海水が漏れた?何処に?」

「日本船にするために、新しく増築したからなあ・・・」

「世界一周クルーズのデビューでしょ、今回は」

「張り合ってるのよ、華々しく出航した大型飛鳥だから・・・」

「知ってる人乗ってるから、留守家族にメールして確認してみよっと」

 

あの飛鳥への海上での呼びかけに応えなかった理由は、こういうことだったのかも知れない。ティルベリー港へ長い道のりのバスの中は、市内観光の話ばかりではなかった。

 

随分と長距離を走ってティルベリー港に着いた。殺風景な寂れた倉庫街というか、朽ちた波止場だった。肝心のにっぽん丸は、未だ着岸していなかった。

やがて、グリニッジ・ピアからのシャトルバスの船客も到着した。ティルベリーの古いがらんとした待合室に待たされた。待つ身には時間は長く感じられる。船客に不満の声がでてきた。

「何処にいるのか解らないなあ」、

「拉致されてきた日本人みたいね」、

「こんなにずれるのなら、三越前の集合時間を遅らせて欲しかったわ」。

なんら、情報が知らされないままに、がらんとした天井の高いウエアハウスのような処に座らされて、皆、苛立ち始めた。

こうしたときに、気をつけなければならないのは、不満が他の話題に飛び火していくことだ。顧客満足度を高める努力をしていないと、バッド・スピーカーが増殖するというのが、我々の世界では周知のことだ。

「にっぽん丸では、朝から菓子パンなのかと、がっかりしたのよ」

「やはり、クロワッサンや食パンの焼きたてが出されてこそ、贅沢な朝食よね」、

「飛鳥はね、フォアグラもよく出るし、ベジタリアンの食事もあるんですよ」。

こうなると、にっぽん丸のリピーターは、黙ってしまった。

「ハロッズで結構、お買い物しちゃった」

「ロンドン・タワーに行ってきたの」

「ロンドン・アイから、市内を見渡したわ」

 

2006_0529060041 2006_0529060121 そういえば、テムズ河畔をそぞろ歩きするなんて、映画のようなシーンは、時間が取れなかった。時間があれば、ソーホー地域もちょっと踏み込んできたかった。ニューヨークのソーホーへは行ける時間を作ろう。名古屋の「ソーホー・ジャパン」に、SOHOの文字が入ったカープレートを土産にしたい。

 

2006_0529060156 2006_0529060155 ぶらついていると、パンフレットがあった。いま居る場所が、グラベスエンド駅の対岸だと判ったのだが、今となっては何も意味はなさなかった。東京の晴海埠頭から、太平洋の外海まで南下した気分だった。地図の位置では、イギリス郊外の千葉県勝浦の辺りか。途中に風車小屋があったので、思わず撮ったことを思い出した。

 

4,50分が経った頃になって、ざわめいた。ようやく、にっぽん丸が着岸したらしい。我が家へ久しぶりに帰るような、妙な安堵感が各人の顔に浮かぶ。

 

乗船してキャビンに戻ると、メッセージがあった。2階のインフォメーションで、住友クレジットサービスからの封書を受け取る。

 

休む間もなく、慌てて夕食に向かう。先に入った妻は高嵜さんご夫妻と一緒のテーブルにさせてもらっていた。ウインザー宮殿に足を伸ばした高嵜さんは、イートン校にも行きたかったのだと残念がっていた。コペンではクロンボー城まで足を延ばすなど、実に精力的な行動である。ニューヨークでは、どこまで遠出をするのだろうか、話が聞けるのを楽しみにしたい。

 

高嵜さんに拠れば、今回の停泊地点、浅いテムズ河口に無理して満潮時を狙って入ったのは、我々に「カテイサーク号」を見せたかったのだろうという。だから、干潮時の出港は出来ないとして、水深の深いティルベリーへ移動したと説明してくれた。有名なサザンプトンは、更に大型の客船になるのだろうとのこと。高嵜さんは、商船大学一期生。それにしても、わざわざ浅瀬に入り込んでくれた意味を、船客に説明しないままでは、サービスを素直に受け取れないのだ。なぜならば、帰船しても、未だに不満の声は治まらないのであるからだ。

 

ニューヨークのサムに急いでメールを入れる。停泊中にヴォーダフォンを通してメール送信することで、今回は相当に通信費が節約できているはずだ。長男に感謝。

 

9時にネプチューンバーで高嵜さんと飲む。チーフバーテンダーを務める森田さんとKラインの話になった。どうやら、森田さんの父親もその会社のOBらしい。飯野海運がナイヤガラの脇に運河を造ったと教えられ、話はタイビルマにまで飛んだ。なぜか、落合信彦について二人から訊かれ、彼から聞かされたオルブライト大学での話をする。

 

11時になった。お開きとした。チェックして出るが、廊下をまっすぐに歩けない。酔っているのではない。船が揺れだしたのだ。

明日からは大西洋、1週間の航路。天候が荒れないことを願うばかりだ。

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2010年11月11日 (木)

060528 ロンドン1日目


 

4時に目覚め、6時に目覚めた。八点鐘が鳴った。

気温は106℃。波は1m弱。

リストウオッチとデジカメを手に、時差の調整をする。30分遅らせた。

 

朝食をとっていると、松田さんが全身でブロックサインを送っている。両手で箒を持って掃いているように、傍目には見えるのだろうが、我々には、「…着岸するのは昼やから、デッキゴルフやるでえ」という招集のサインと読める。

 

レストランの中に居る仲間に向かって、各自が、その掃き掃除のブロックサインを送りながら、船尾に集合。

昨日は14番パックまで創ってプレイしたが、やはり、10パックまでが限度だと反省。ゴルファーが増えても、今後は、10パックになったら、9時前でも打ち切ろうと示し合わせた。愉しくやるための約束だとした。遅れてきたら、10時頃の2回戦で入れ替えプレイしてもらおうと言うことで合意した。

 

先攻白組は、山縣、菅井、菅谷、高嵜、萩原。後攻赤組は、西出、中島、工藤、ミセス松田、松田。結果は、権利玉の数で白組は負けた。

 

Pict2708 テムズ河口に入ってきた。海中に朽ち果てた建物の残骸がそのままにしてあったが、何かは不明。聞くところによると、取り壊す費用も出せないらしく、いまは海図上、浅瀬の目印になっているという。

 

2回戦は、先攻白組が、西出、菅谷、ミセス松田、中島、高嵜に対して、赤組は山縣、菅井、工藤、萩原、松田。赤組が全員ゴールして、今度は勝てた。終了した時間は1115分だった。そのまま、昼食時までの僅かな時間を居残り特訓すると言いだしたのは、ミセス松田とフランク山縣、グリーンキャッチャー西出だった。

 

昼食は、新宿の住まいだという若い藤永夫妻。お二人とは初めてのテーブルとなった。デッキゴルフはトライしたものの、ダンス講習会に時間を取られてしまったという。木島夫妻とはダンス仲間でもあるらしい。

 

Pict2706 Pict2709 Pict2712 船はテムズ川の河口、グリニッジに投錨した。本初子午線の真下に位置しているのだ。まだ銀行担当者が船に乗り込んできていないという。ボンドへの両替サービスには、どうやら時間がかかるようだ。本日は、バンク・ホリディと重なって3連休である。いくら替えるかが思案のしどころ。ぶらぶら歩いて夕食は街ですることになるかどうかだ。

ほどなくして、妻が1万円分をポンドに替えてきた。3000円で138ポンド。レイトは21733円だった。

 

2006_0529060012 2006_0529060013 Pict2711 浮き桟橋に通船が横付けになって下船が開始された。100人は乗れるという通船は、通常は遊覧船として運行されているのだろう、カウンターバーもあるテーブル席の多い船だった。川の真ん中から、目と鼻の先にあるグリニッジ・ピアに着いた。あの「カティ・サーク号」が保存係留されている。紅茶を競って英国に運び込んだ快速帆船だ。船の模型を造る東さんにとっては、垂涎の場所だろう。

奥の小高い丘には、グリニッジ天文台があり、子午線を跨いでくるぞという船客が、天文台へ向かって歩き出した。僕は、何が何でも早くに街中にある目的の靴屋に着きたい。

 

Pict2728 Pict2730 ロンドンの中心街に向かうシャトルバスは1530分に出た。グリニッジは中心街から南東に位置する。テムズ川に沿って走る。辺りは、名古屋の中川運河沿いか、東雲辺りを走っている感じで、華やかさはない。途中に、ジャマイカ・ロードという標識があった。移民者たちのエリアではなかろうか、住民の多くは黒人たちだった。

 

2006_0529060036 Pict2727 徐々に、街の中に入ってきた。ロンドン・ブリッジを横目に見ながらしばらくして、橋を渡った。テムズ川の川岸に係留した観光船が目に入ってきた。ウエストミンスター寺院へと続く風景だ。都市に川があるとなぜか、落ち着く。関西の友人が、東京には川の風景がないという。川を埋め立てて高速道路が街の中に走っているのは、東京だけだが、昼間でもトラックが街の中を走っているのは、オリンピックで急ごしらえした道路建設の失敗だと。たしかに、江戸時代、日本の起点となった日本橋は高速道路の下に隠されてしまった。歴史がオリンピック工事の下敷きになった。

 

2006_05290600402006_0529060042 対岸に大きな観覧車が見えてきた。正式名は「B.A.ロンドン・アイ」である。ミレニアムの年に記念で造られ、ブリティッシュ・エアウエイズがスポンサーになっているからだ。空調の効いたカプセルには、25人まで乗れる。今回は、乗る時間もなかろう。つまりは、もう乗る機会もないロンドン・アイを遠くから眺めた。

2006_0529060148 2006_0529060032 川縁から右折して橋を渡り、トラファルガー広場を経て、ピカデリー・サーカス裏のロンドン三越前に着いた。ここまで要した時間は45分だった。

日曜日なのに閉店時間を1時間延長して、三越側は、にっぽん丸船客を待ち受けてくれたようだ。ローマ店にはあったのだからと、急いで店内を探したが、フェラガモ以外見当たらず、カンペール・ブランドは一足も置いてなかった。トイレを利用しただけで、街に出る。

 

ピカデリー・サーカス駅から東に、コンヴェントリー・ストリートを歩く。

2006_0529060059 Pict2724 2006_0529060052 黒塗りのロンドンタクシーも、時代には勝てないと見えて、カラフルに塗り分けられて、全身広告カーとなっている。テレフォンボックスも、四辺をアドボードで固めている。いずれは、日本もこうしたメディアを活用し始めるだろうなと重い、パチリ。

2006_0529060051 2006_0529060054 レスタースクエア駅前のシアターでは、映画スターの挨拶でもあるのだろうか、仮設の横長スクリーンに予告編を写し出し、TV局の報道カメラが放列を敷いていた。そうか、リメイクした「ポセイドン」だったのだ。もみくちゃになりながら、その人垣を抜けだし、さらに、ロング・エーカーに入った。地図の目印にしていたムジ(無印良品)やティンバー・ランドがあったので、それより1本南下してフォローラル・ストリートへ。

角から2軒目に目的のカンペール・ショップはあった。オールド・ボンドストリート店は休日クローズだったが、ここは開いていた。しかし、閉店時間ぎりぎりだった。それでも、ついに、3年がかりで直営店に辿り着いたのだ。

060529 2006_0529 ところが探し当てた店は、拍子抜けするほどに間口も狭く小振りだった。中央の細長いテーブルの上に、定番から最新デザインまで、メンズとレディズが2列、自社制作のデザインシューズの片方だけをずらりと並べてあるだけだ。そして、奥まったレジの背後のラックにシューズのボックスが入れてあるだけ。文字もパンフレットも無い。たったそれだけ。店内は実にシンプル。

 

探していた「Pelotas (173114006)」はあった。アテネにそれはなく、ポルトではサイズがなく、ローマの三越では、価格が高いからと買い控えてしまったシューズだ。2003年次のクルーズでは、寄港地で買えなかったダークブラウンのそれは、結局、日本の上野アメ横で見つけて買った。今回、履いている。当然だが、二足目はスポーティなライトブラウンに決めていた。

ところが、ここで再び暗礁に乗り上げた。サイズ42は、残念ながら売れたばかりだと言われた。しばらく何処かへ問い合わせていたが、にこやかな顔でこう言った。

2006_0529060061 2006_0529060062 「明朝、来てくれるなら大丈夫だ」。明日は、大英博物館やら、ほかに自由行動のコースが頭にある。やむをえない。この場所を目的地のスタートにしよう。「1030分の開店時間には必ず来るから頼む」と店を出る。まずは安堵した。

時間がある。周辺をぶらついてから、コヴェルト・ガーデンへ足を向けた。若者たちが押し寄せている館内は、様々な雑貨が売られていて、アメ横みたいだ。

Pict2717 Pict2720 買いたい物があるとすれば、ロンドンを描いた絵を探してみることだった。あちこちを回っているうちに、独特のペン画があった。遠近法を破ったパースペクティブなロンドン風景で、彩色はヤマガタに似た作風だった。自宅には、昔、ニューヨークの近代美術館前の路上で画学生から買ったペン画がある。WTCが描かれている。それと対にするロンドン記念にと、1枚買った。16ポンドだった。

2006_0529060057 帰り道に別の店で、また目にとまった画があった。サッカー選手ばかりを描いてあった。サッカーに熱いイギリスである。もうすぐワールドサッカーの開幕だ。動きや表情がデホルメされて見事に描き切れている。その絵は、1000ミリの望遠レンズで捉えた動的なサッカー選手の写真からおそらくトレースした後に、油絵のタッチで描いた独特の画風だった。ロナウ・ジーニョとロナウドの2枚。10ポンドだった。

 

ソースのきつい食事は駄目なので、野菜主体に「サブウエイ」のサンドウイッチを食べてもいいのだが、間に合うことなら、三越前からシャトルバスで帰り、減塩の船内食を食べたほうがいいに決まっている。来た道を帰り急ぐ。

1715分のシャトルバスは、一足違いで出てしまっていた。ところが運良く、もう1台のシャトルバスが向こうから姿を見せたではないか。三越入口に設けられた「にっぽん丸サービス」係、つまりミキ・エージェンシーの社員に打診したところ、このバスに乗ってくださいとのこと。

乗っていいというが、半信半疑だった。妻と二人、たった乗客2名様で、大型バスをハイヤーしたことになる。次の2115分まで、何処で時間を潰すのかはノーアイディアだったので、有り難く乗せて頂いた。ドライバーは、無線マイクに怒鳴っていた。客が多いと聞いたのに、どうして、二人のためにグリニッジまで走るのだと、営業所にぼやいていた。我々のために済まないねと声をかけると、彼は、あなた方の問題ではない、心配しないでくれと笑って答えた。帰りのルートは、見慣れない道だった。ところが、信号もスムースで、近道を走ったせいか、スピードを出したわけでもなく、実に短時間でカティ・サーク号の横に到着した。おかげで、グリニッジ桟橋から1715分の通船で帰船できることができた。

 

Pict2714 目の前にある歴史的帆船、カティ・サーク号。僕の好みのスコッチだ。八角形のボトルに入った21年モルトの琥珀色の液体。バーボンならば、斜め格子切り子のボトル、「I・W・ハーパー」と、蝋で封印した「メーカーズ・マーク」。

ウイスキーはともかく、このカティ・サーク号、紅茶の新茶をいち早く届けようとしたティ・クリッパー。日本で言えば、八十八夜、5月の2日の新茶を待つロンドンの商人へ競って運んだものだ。木造帆船の細い船体で、中国福建省からロンドンまで99日間で走破したというのが、当時の驚異的快速。カティ・サーク号の最高速は15ノット、飛鳥2が最高23ノット。にっぽん丸は最速で21ノット、巡航速度は18ノット。

2006_0529060017我々は、この日数で、アラウン・ザ・ワールドをしている。東さんが、撮っておきなさいよと言ってくれた舳先のシンボルこそ、カティ・サーク号の魔女。

スコットランドの民話にあるナニーという魔女の「短い下着」が、カティ・サークという船名の意味である。下着である。色っぽい名前なのだ。後に、このカティ・サーク号は、オーストラリアを往復するウール・クリッパーになっていく。

 

夕食で案内されていった先は、山縣夫妻のテーブルだった。今日の山縣夫妻は、グリニッジ周辺を撮り歩いていたという。「家庭を割く」なんてことは微塵もない、仲のよいご夫婦である。奥様は、被写体になる場所を絶えず探していらっしゃる。シャッターを心ゆくまで切り終わる間、じっと黙って待ってあげている。おしどり夫婦である。趣味のカメラ機材を詰めたバッグは、相当に重い。だが、それを背負うことで、腰痛に効くのだという。背骨が後に引っ張られるからだとTVの健康番組でみたことを思い出させた。

彼が手にするカメラは、デジタルカメラではないのだ。ネガタイプのフィルムで、かっちりと撮りあげている。寄港地で毎日100枚以上獲っている僕らでも既に2000枚近い。だから、ネガタイプのフィルムマガジンを弾丸のように込めてシュートしている。ネガフィルムを探して買うなどは時間の無駄だとバッグには、その弾丸が詰まっている。家族でスライド上映するのが楽しみだというが、現像も整理も大変そうだ。写真キチガイと言われたコンクール荒らしの亡き父を思い出す。

 

山縣さんは、訥々とした語り口で真面目そのものだが、いたずらっぽい目をしたときは要注意だ。関西人らしく、ユーモアのある話術で、爆笑させられ、周囲を驚かすからだ。姫路に帰ったら、優しいおじいちゃんなんだろうな。

栄養士の免許をもつ奥様の千津子さんからは、腎不全による食事療法を聞くことで、参考になる話が多い。夕食の時間は、あっという間に過ぎた。

 

慌ただしかった昼下がりのロンドン市内は、靴屋の往復だけだった。しかも、明日、出直しというおまけが付いた。

菅井さん夫妻も一緒に歩きたいというからには、時間の無駄は避けたい。就眠前に、明日のコースを確認して置こう。靴屋と大英博物館と念のためにオールドオックスフォードにある二軒目のカンペールショップ、出来れば、スワロフスキー(SWAROVSKI)のジュエリー店とハロッズの店内歩き、それに何処かのパブでエールビア。すべてを回るには、大英博物館でどれだけ時間を費やすかに依る。

いつものように、自分の手で簡略化した行動地図を作ってから眠った。

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2010年11月 1日 (月)

060527 ザ・サウンド

八点鐘が鳴った。

ルウェーとデンマークの間にあるスガゲラック海峡のデンマーク寄り、ユトランド半島の北西端の沖6海里(11km)を南西にむかって航行中です。明朝8時頃からテムズ川を上る為の航行管制に合わせて、スピードを調整しています。

昨晩から今朝にかけて、この航海のヨーロッパ・シリーズでは一番緯度が高い海域を通過しました。ちょうどベーリング海の緯度に相当します。この航海を通じて一番緯度が高くなるのはこれから先のアラスカです。

今年のヨーロッパの春は、低気圧とそれに伴う寒冷前線や温暖前線が頻繁に通り過ぎ、例年よりも天気が変わりやすく寒いと港湾関係者が言っていました。緯度が60度近くになると、経度の幅が狭まり、極地に近くなればなるほどお天気も移り変わりが激しくなります。
現在の天気図を見ると、イギリスの北西に低気圧があり、スコットランドからフランスまで温暖前線と西の方向に寒冷前線が延びています。これをくぐり抜けな いと高気圧の下に入れないでしょう。ただし、これから天気が大きく崩れる心配はなさそうです。

極地に近く、目まぐるしく変わる天候なので、お天気を約束できないのが残念です。

デンマークの西海岸の景色をしばらくご覧いただいた後、イギリスに向かいます。北海の航海をお楽しみください。

 

すこし北に昇ったスカゲラク海峡を航行中であると、キャプテンのアナウンスは続く。黒海へ抜けるためには、デンマークの親指のような先をぐるりと回らなければならない。今航海、ヨーロッパでは一番高い、北緯58分に上がった。これは、アジア側で言えば、ベーリング海に近い高さである。地球儀を頭に入れてくださいという。経度が高くなればなるほど狭い範囲なので、天候の変化が速い。従って天気の保証がなかなかし辛いのです、と。速度は17ノット。明朝テムズ川に入るパイロットを乗せる関係から、速度を落としているのだそうだ。

綿雲が全天を覆い、曇り。西の風11m。右前から1mの波が来ている。気温は9℃。

 

朝食でひさしぶりに東さんが一緒の席に着いた。昨日は、衛兵交代を撮ったはずである。「東ギャラリーは、どうなったんですか?早く見せてくださいよ」

一番訊きたい質問を投げた。かなり多くの人から僕に質問されていて困っていた。モルジブ出港から3階のインフォメーション・デスクの壁は額が外されている。四つ切りのポジ写真がプッツリ消えている。船客から渇望されているのだ。東さんのご苦労はお察しするに余りある。同じ寄港地を歩きながら、東さんは、ウエブサイト用の航海日誌に配信する写真と、帰国直前のフィナーレの夜に船内で投写するハイライト写真を写し取っておかねばならない。

ところが、同じ観光スポットで、自分の撮った写真と比べてどう違うのか、妙な期待感さえあって、待ち望んでいる。そうした船客の眼に対抗もしなければならない。同じロケーションで課題を与えられた先生と生徒のような、楽しみな戦いをしているのだ。しかも、最近は船客の手にするカメラも、高品質なデジカメである。シャッターチャンスとコンポジションさえ巧く捉えれば、プロ顔負けのショットが得られるから、やりにくい。だからこそ、被写体のためなら対岸までタクシーで回り込む。限られた時間内に、プロならではのカメラスポットを探し続ける。重い機材を一緒に同伴されている冨美子さんのご苦労もある。

デジカメの影響で、従来の色調補正のダークルーム作業も自分の船室でパソコン処理する時間が加わった。寄港地の間隔が短くなれば、航海日が少なくなる。いわば、メッセージの編集に、相当な時間を費やす。体力も要る、目も疲れる。睡眠時間さえ削られると苦笑する。

「僕らは、常に70点を保っていなければならないのですよ」

最後に口にされた東さんの言葉だ。打者で言えば、ホームランバッターではなく、チャンスに強い3割バッターということか。「下手な鉄砲、数打ちゃあ当たる」式で、200人近い船客が、一斉に同じ方向にカメラを向けている。シャッター音だけを数えるなら、報道カメラ並みのシャッター回数だ。だから、難しい球が飛んで来ても、どう受けて、どう刺すかの美的センスを自分に課す。どういうメッセージを込めるかだ。あの東ギャラリーは、プロカメラマン・東康生のアイディンティティでもある。だからこそ、再開を強く望む声は大きいのだ。

 

 

朝食を済ませて船尾の甲板に急ぐ。デッキゴルファーは勢揃いしていた。先攻白組は、高嵜、山縣、工藤、萩原、黒川。赤組は、松田夫妻、西出、菅井、菅谷の面々。幸いにも白組が勝った。

2回戦には、高橋、横田、ゴンちゃんが遅れて加わり、総勢14人となった。インストラクターの黒川君が1314番パックを急造することになった。ここまで参加人数が多くなると、打順の待ち時間が長い。ゲームもリズム感が無くなり、緩慢になりがちだ。

11時半頃だったろうか、そんな空気を破るかのように、デッキに備え付けられた小さなスピーカーから、アナウンスが流れた。

 「左舷、水平線上に、飛鳥が、航走中!!」

Dscf2345Dscf2357 Dscf2355

パンフレットでは見ているものの、自分の目で見る飛鳥Ⅱは、初めてだ。偶々、飛鳥Ⅱを撮ろうとして妻が後部デッキに来た。

「そのカメラでは無理だ!僕のカメラを持ってきてくれ!300mmだから!」

いつもなら、カメラを袈裟懸けにしてプレイしているのだが、その日は、山縣さんと松田さんだけしかカメラを持っていなかった。慌てて妻は船室に走った。プレイをしていても、飛鳥の船足が気になっていた。

Dscf2341 Dscf2353 カメラが来た。まだ、右舷側に捕捉できる距離だった。人数の多い分、幸いにも、打順の間隔がある。撮りながらプレイをする。時々、みんなの眼もパックから飛鳥に移る。こうなると、時間内では終わりそうもない。案の定、時間切れでドローとなった。

 

まだ間に合う。6階の操舵室では、どうしているのだろうと、駆け上がってみる。

Img_1093 P1000172 Dscf2364 操舵室にいた船客に訊いてみた。挨拶の汽笛を鳴らすが、飛鳥Ⅱは応えないのだという。しかも、無線連絡で挨拶を試みたが、先方は、船長が会議中だそうだ。

にっぽん丸側から飛鳥との距離を縮めてみた。側面から1200mまで接近した。備え付けの10倍以上の双眼鏡を手にする。ファンネル近くに船客が6,7人出てきている。船尾のプールサイド最上段デッキに白服姿がやはり、78人立っている。

2回目の汽笛を鳴らす。遅れてかすかに汽笛が返ってきた。操舵室にいた船客たちが、おお~と声を漏らす。時折、霧に包まれて飛鳥が霞む。霧がドラマチックなシーンを演出しているようだった。飛鳥は195ノットで飛ばしている。我々の入港するテムズ川には当然ながら、浅くて入れないだろう。サンクトペテルブルグから出航しているらしく、今の予定では、ドーバーに入港するらしい。我々は昼過ぎに着岸すればいいのだが、飛鳥は朝には入港していなければならないのだと誰かがいう。だから、相当に速度を上げているのだそうだ。

Dscf2352 何処かで船体にトラブルがあったというニュースも飛び込んできた。いまは、船客同士のネット交信は無理でも、日本の留守家族を経由して事情が出来るのだから、更に詳しく判ってくるだろう。

 

しばらくして、飛鳥との距離を離した。むしろ我々は、テムズ川のパイロットの乗船時間に合わせて、速度を緩やかにしていくのだ。船内が異様に盛り上がったこの間の併走劇、30分だった。

 

 

さて、ロンドン入国後のタイムスケジュールを組み立ててみる。夕食帰船するまでの時間内に、オールド・ボンドストリートを往復出来るかどうかである。

テムズ川の浮き桟橋に接岸する。やや時間があって迎えの通船でグリニッチの陸地に降りる。シャトルバスが素早く発車するとして、ピカデリーの三越に着いたとして、そこからオールド・ボンドストリートのカンペール・ショップにタクシーを走らせたとしても、果たして閉店時間前に辿り着けるか。否だろう。

それなら、明日の大英博物館ツアーはキャンセルしておこう。カンペール・ショップも、大英博物館も、なんとか自分でコースを時間配分してみよう。ツアーをキャンセルすることにした。部屋に戻りながら、果たして1店舗しかないのだろうかと疑ってみた。ロンドンにカンペール・ショップが何店あるか、スタッフに調べて貰った。コンヴェント・ガーデンにもあることが判った。ピカデリーから歩ける距離だ。

 

昼食で菅井夫妻とロンドンの自由行動について話した。1日目、菅井夫妻は、野菜市場を探すという。我々は、コンヴェント・ガーデンのカンペール・ショップまで歩くと告げた。閉店時間ぎりぎりに飛び込むつもりだ。過日の「ローマ三越店」よりは直営店だから品数は間違いなく多いはずだが、三越の18000円台よりは廉価であることを願いたいものだ。

 

1330分からの宮崎世界史がドルフィンホールで始まった。

本日の講義は「シンドバッド時代から鄭和の大航海まで」。イスラムがアジアの海も征して、広州から東南アジアにまで大きな影響力を持ったことを説いた。特に、NHK特番で取り上げた中国の鄭和船団に関しては、「1491年」が、フィクションであると喝破して宮崎論を貫いたという話が面白かった。

 

今夕は、にっぽん丸特有のオレンジナイトである。2003年次の時は、確か、バミューダに向かう6月の大西洋上だった。大揺れの翌日で、話題は船酔い話ばかりだった。

オレンジとは、商船三井客船のファンネルの色を指すのだが、その由来を船内新聞「スター&ボード」が教えてくれていた。

そもそも「大阪商船三井船舶」とは、大阪商船と三井船舶が合併したからである。銀行名が、太陽神戸だったり、三井住友になったり、三菱東京とか、元の会社名を残すスタイルは欧米的だが、「大阪商船三井船舶」という社名は、「船」が左右に二つもある社名で、2003年次の船内から日本へ発信していた航海日誌では、「三井商船」と記述して、広報担当の川崎さんに修正を指摘されていた。

大阪商船は、大阪の「大」の白色、三井船舶は、三井の「三本線」の白色。このマークで世界の海を走ってきたわけで、ロゴマーク、コーポレートカラーでは意見百出ではなかったか。

僕がCIを担当したなら、どうだろう。「三」本線の中央に、現代的な筆文字で、「人」と描かせる。「空」と「海」と「水平線」のラインに「人」が重なり、“世界人と交流できる平和な海”をアピールしたかも。

 

『大阪商船三井船舶はトップ企業であり、トップにはマークは必要なし』という考え方を加福龍郎専務が主張した、と商船三井の100年史に記述があるそうだ。その理由が奮っている。英国の郵便切手には国名が印刷されていないという事例を挙げて、ノーマークを押し通したようだ。それは、一例に過ぎず、世界に冠たる企業群となるには、いかなる企業といえども、ロゴマークはアイディンティティとして必要である。郵政省はどうあろうが、ユニオンジャックがそれの証左である。結局はノーマークとなったが、ここからが面白い。コーポレートカラーを重視したことだ。

889 大阪商船・坪井五郎専務と三井船舶・鈴木久之助常務が考えあぐねて、決めたのが目の前に置いてあった煙草の「光」のパッケージカラーだったという。それがオレンジだった。理屈をつければ、海原に光輝く日の出であり、水平線に沈む夕陽だと言える。もしもテーブルに置かれていたのが、平和のシンボル、鳩の「ピース」だったら、ファンネルの色は、オーシャンブルーになっていたのだろうか。

いずれにせよ、結果オーライである。白い船体に燃えるオレンジのファンネル。かなりの遠距離からでも、まさに日の丸の配色である。

そのオレンジカラーを各自が衣装に配して夕食に臨むのが、オレンジデーに課せられている。そうしてにっぽん丸の乗船していることを喜び合おうという趣旨らしい。

630分、2階のエントランスでレストランの入口に列ぶ船客の衣装を眺めていると、オレンジのドレス、シャツなどなど、上手く採り入れていることに感心する。

 

西出夫妻と出遭ったので、4人テーブルを頼んだ。丁度、いい機会だからと、愛知県系親睦会の打ち合わせをする。大西洋に出ると揺れるので、それだけは避けようということで、61日のカジュアルデーに決めた。西出さんと一緒だと、名古屋弁に戻るのを妻は笑っている。白ワイン3杯、赤ワイン1杯。いい気持ちになった。

 

1830分、ドルフィンホールのメインショーは、狂言「縄綯い(なわない)」。博打に負けた主人から、太郎冠者を人質に差し出し、使役に供することを貸し元と約束したことによる、問答の喜劇。茂山千五郎、茂山茂、佐々木千吉の茂山狂言会の皆さんは、ロンドンで下船して日本に帰国するという。別れを惜しまれる感謝の拍手だったように思えた。

 

明日のために、ロンドンマップを見て、自分なりに簡略化した地図と所用時間、目的地への所要時間と周辺のランドマークを記入して、歩きやすい簡略化した地図を作った。文庫本でも読もうとしたが、睡魔が襲ってきた。25時、ダウン。

 

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