060529 ロンドン2日目
臨時通船が出るという船内アナウンスがあった。朝7時発の通船は、窓から見ている限りでは数人が乗るだけで、出て行った。眼を凝らすと、対岸間際に砂地が見える。ここまでの水位、干潮だったのだ。テムズ川は海水川であるから、当然といえば当然だ。水鳥が集まってきていた。
本日の通船運行時間は、7時50分の後は9時30分までない。どうにも、今回の運行時間の計画が腑に落ちない。たとえば、7時に出た船客は、カテイサーク駅まで歩き、キャナリー・ワーフ駅で乗り換えて、さらに地下鉄ジュビリー線に乗らねばならない。グリニッジ・ピアには、流しのタクシーは来ない。捕まえられないから、事前に呼ばなければない。7時に下船した船客は、迎えの人が来ていたのだろうか。
朝食後の9時30分発の通船で着岸しても、三越(ピカデリー・サーカス)行のシャトルバスは10時35分まで無い。1時間をグリニッジの町で、待ちぼうけだ。既にカンペールショップの開店時間は過ぎている。ピカデリー・サーカスに到着しても、もたもたしていれば、すぐにも昼食時間となる。この1時間40分の差は大きいはずだ。
そう思っていたところ、これまた、予定外の臨時通船だという。誰かが同じことを思い、インフォメーション・デスクに具申したようだ。急いで、朝食を済ませたが、女性陣は思いがけずの臨時便に大慌ての身支度で大変だった。
8時45分へ急ぐ通船に、待ったがかけられた。我々、自由行動組よりも、オプショナルツアー組の乗船が優先された。乗り遅れを防ぐために、これまでは、ツアー組はシアターに一旦集合させ参加者数を確認した上で出掛けることが多かった。今日はそれもなく、直接集まっているので、狭い下船口は混み合った。
100人は乗れると聞いている通船だ。ツアー組が100人もいないのなら、自由行動組から順次、ギャングウエイを渡らせて、この混雑を解消すればいいのにと、客の中から愚痴が聞こえる。
ピアに降りても問題が起きた。ツアー組のバスは手配されていたが、自由組には都心への足の保証はなかった。そのまま置き去りにされた。9時50分まで待つのだ。
「臨時通船はツアー出発のお客様用ですが、対岸まで乗船を希望される方は、どうそご利用ください」とでも、アナウンスしてほしかった。
なんのことはない。急がせられて、時間を持てあます結果となった。ならばと、菅井夫妻とグリニッジ・パークをぶらつく。子午線の場所までは時間がない。川岸に丸いドームがある。テムズ川の地下道入口である。時間潰しに、対岸へ抜けて、往復してくると言う人、コイン・トイレボックスを試す人など他愛ないことで時間を費やしたそうだ。通りの店は、未だ開いていなかった。前日にグリニッジ天文台に上がった人たちは、ぼやくことしきり。配慮不足で、船客の不満が溜まり始めていた。
1時間が経った。シャトルバスが着いたが、乗車できない。ざわめきが起きた。
9時50分のシャトルバスに乗り合わせる船客が来ないというのだ。後発の通船が定時に着岸していない。干潮の浅瀬に阻まれて立ち往生していることが原因だそうだ。なんてことだ。水先案内人や通船のクルーと情報交換していないのか、苛立つ気持ちが高まって、ひそひそ声でクレーム」が囁かれていた。明らかに船側の失態である。
一龍齋貞心さんと写真を撮った。シャトルバスは、1時間以上の足止めを余儀なくさせられた我々のために、見切り発車した。苦虫を噛みつぶした表情の重い空気で、バスは走っていた。しばらくして、後部座席にいた貞心さんが突然、発声した。
「みなさま~、バスが、ここを左折しましたら~、カメラのご準備を~!」
「かのロンドン・ブリッジが~、橋の上から、しっかり、撮れま~す!」
「昨日、ちゃっかりと撮れた方は、ご遠慮願いま~~す」(大爆笑)
「帰りは、この橋を渡りませ~ん」
どっと笑いが弾けた。彼のサービス精神は、それまで、くすぶっていた乗客の気持ちをほぐした。さすが、プロ。場の空気を笑いで自分に向かわせる。一気に和やかにさせた。
三越に着いた。今日は国民祭日だ。菅井夫妻も判ってくれている。早足になった。菅井夫妻にとっては、初めての道になるのだが、同調してくれた。
ピカデリー・サーカスを右折して、昨日のように、コンヴェントリー・ストーリーから、レイスタースクエアを抜け、コヴェント・ガーデンのカンペール店に入る。にこやかに店員が待ってくれていた。42サイズは用意されてあった。足を入れる。大丈夫。支払いを済ませて、大英博物館の方角に歩き出した。コヴェント・ガーデン駅から4.5ポンドの1日券を買うことも考えたが、そのまま歩くことにした。タクシーに乗るほどの距離ではないからだ。
小洒落た通りのニール・ストリートに入る。小さな小道の中にあるブティック通りだ。原宿の感覚。我々の女性たちは、興味も持たない。少々歳を取りすぎている。
乾いた路面に点々とシミが増える。雨が、ぱらつきだした。早めの昼食にしましょうか、と荘輔さんに問うと、大英博物館へ先に入ってしまおうや、と返ってきた。それに同意する。そのまま、オックスフォード・ストリートに出るまで歩く。それを越えれば、大英博物館だ。
大英博物館の前は、雨宿りをするでもなく、多くの人たちが雨に濡れながら、階段に座って待ち合わせていた。
威圧感のある館内のドアを開ける。大理石に囲まれたエントランスホールは、天窓から降りてくる太陽の光で、白く明るい。表の佇まいとは違い、現代的な空気が迎え入れてくれた。予想外だった。そして、入場料は無料。
但し、今日有るための、今後有るための費用として、寄付という形での心遣いを出来ればどうぞお願いいたします、という姿勢。最小のそれが、3ポンド。あちこちの会場に、樹脂製の洒落たドネーション・ボックスが備えられてある。我々もそれに賛同して、入れた。
菅井夫妻と退出時間を決めて、分かれた。
ミケランジェロのドローイング特別展が開催されていた。フィレンツェで観てきた記憶があるうちに、とは思ったが時間があればとした。
まずは、エジプト室から見て回ることにした。
次にギリシャ室。ローマ時代の遺跡から持ち帰った物だ。最近は、出土国への返還を求める声も多いが、世界人類のために保管維持している?貴重な品々を見歩いた。それが本物であるということに興奮する。驚いたのは、これほどの品々に、なんと、カメラ撮影も許可されていた。
親が子供に指さしてなにやら教えている。子供の目が一番印象的だった。世界史の教科書でお目にかかったものが、多くあった。年号と歴代の王や将軍の名前をやたらに暗記させる世界史や日本史の試験は、僕の最も嫌いな科目になっていった。
ピラミッド建設が、過酷な使役ではなく家族共々ニンニクやタマネギを供されての農閑期の労働対策だったということや、バイキングがなぜ南下したのか。ロシアを創り、ノルマンディにも住みついたということや、あのシンドバットが実は中国と関係していたということとか、ナポレオンが缶詰を創らせた背景とか、地球を人間たちが欲につられて、帆を張り、海を走り回ったから、いまの文化が創られたのだ、などという歴史の面白さを教えてくれる教師は、いなかった。
教科書のページをなぞるだけで、世界を観ていたような口になる。商売として歴史を学生よりも先に頭に叩き込んだ教師が、十字軍の遠征をハリウッドの映画のように正義ぶって言う。ムーア人が地中海という内海をどう利用していたのか、イスラム教がなぜ東南アジアに根付いたのか、ポルトガル人が偶然に種子島にきたことや、コロンブスが勘違いで行き着いた島のこと、米国大陸は発見していないことや、ペリーが浦賀に来た本来の目的などを、歴史の「外」論として、教師が話さない。
興味のあるところから解きほぐす教え方をしないで、試験の科目として暗記させる歴史にしてしまった。歴史の教え方は、算数より幾何であるべきで、「なぜ?」という疑問や興味が、紐解かれていくプロセスが面白い。
歴史を教える教師が宮崎先生のレベルなら、世界を観る眼は変わってくる。年号や王の名前を記憶させるのが、歴史の勉強ではないでしょうと、宮崎先生に訊いてみたが、私の興味も教え方もその通りですよ、と同意してくださった。
3年前のワールドクルーズで彼の講義を聴いてからというもの、寄港地を見るのがどんどん面白くなっていったのだ。アラウン・ザ・ワールドの費用を払って、宮崎教授の話が聞けた。歴史嫌いだった僕には、有り難いやら、情けないやら。
いま、小学校からの英語教育が問題になっている。英会話が満足に出来ない担任教師が英語を教えるといって、怯えている。高校の英語教師が修学旅行先で外国人に通じなくて、失笑をかったでは済まされない。形ばかりの杜撰な英語教育で、英語嫌いが増えるとしたら、ぞっとする。日本語できちんと語れないと、喋れても理解されない、留学生の言葉は、重い。となると、僕も日本史を学び直す必要がありそうだ。
大英博物館で日本画は、アッパーの92辺りに行かないと見られない。念のため、係員に訊いてみた。今は残念ながらクローズしているが、セレクションされた貴重な物なら、数点が特別展示室にありますよと教えられた。まだ、他に、「ミケランジェロ展」も見たい。回れるか、時間が気になる。
昼食を館内で食べようとレストランに上がった。メニューを見ると品が良すぎる。顔を見合わせて、カフェテリアスタイルの1階にしようと、階下を見ると、満席だった。立ち食いする気なら、どこか他にしてもいいねと言う。
青空になり、光も強くなっていた。昼食は外の店で食べようとなった。途中にあったサブウエイで簡単に食べて戻ろうかと提案したら、サブウエイは何だと訊かれた。新潟には未だサブウエイは出店されていないという。日本でも100店舗以上になったのだが、サントリー側の出店計画が遅れているのだろう。博物館から歩いて数分の、その店のドアを開けた。狭い。テーブル席が3卓しかなかった。空いていたのは、1卓だった。この店は、持ち帰り客が多いのだろう。
ホワイト、セサミ、ウィート、ハニーオーツの4種類からパンを選び、サイズを指定して、あとは、オニオン、レタス、トマト、ピーマン、ピクルス、オリーブの6種の好み野菜を指示して、量の増減も自由、ただし、サンドイッチによってお勧めのドレッシングが決まっている場合があるが、ドレッシングやマヨネーズ、チリトマトソースなど好みの調味料を、やはり指さしてこれで自分好みのサンドイッチが出来上がる。日本人には、パンの長さはハーフで充分だ。飲み物を足しても、4.5ポンドほどである。
4人が、思い思いのサンドイッチを頬張っていると、西出夫妻ともう一組の夫妻が通りかかった。店内にいる我々を見つけた。博物館の位置を確認したいと入ってきた。昼食も未だだと言うから、我々の席と入れ替わった。名古屋でのサブウエイは栄ビルの地階にあるのだが、余り知られていない。やはり西出さんも知らなかったようだ。
日本では、「イギリス」で思い浮かべるのは「フィッシュ・アンド・チップス」だが、アンドというように、魚とポテトチップスのことで、余り美味いものではない。ましてや、小魚ではなく、タラの類だから、魚が苦手の僕は、好んでは食べない。ツアーでは、これを食べることを楽しみにしている人が居た。
戻った博物館で、「ミケランジェロ展」のチケットを買おうとしたが、少し前にソルドアウトしたと言われた。前売りを買うかと、窓口の係に尋ねられたが、今夕にロンドンを発つと告げると、それは残念だと肩をすぼめて、ウインクしてくれた。午前中に見ておくべきだった。順序を間違えた。
残念だがと、日本物も展示されているセレクションコーナーとスーベニールショップに立ち寄った。
これで、もう此処へ来る機会はない。威風堂々とした博物館を振り返った。カイロの考古博物館でも、こんな気持ちだったことを思い出した。
気持ちを切り替えて、地下鉄の駅に向かう。トッテンハム・コート駅からオックス・フォード駅まで3ポンド。地下鉄に乗る。日本と同じで、コインを入れて、自動改札に通す。下船したときには、4.5ポンドの1日券を買う予定でいたが、今の3人の状態を見ると、オールド・オックス・フォードからピカデリーまでは、歩き通せる元気があるだろうと考えたので、1回券にした。
3連休の最後だというのに、地下鉄の車内は混んではいなかった。狭い車内で天井まで円くなっているのを美子さんが指さした。なにか思い当たる?と訊いてみた。
色を塗った「チューブ管」が地下を潜り回っているので、ロンドンの地下鉄は、チューブと言われたのだと説明しておいた。英国では、文字通り、アンダーグランド。フランスでは、メトロ。米国では、先ほど入った店と同じサブウエイ。地下鉄通勤者相手に販路を作ったので、店名を「サブウエイ」としたが、名古屋は1店舗だけで、東京での展開は路面店だ。
37年前、ロンドンを訪れた時、木製のエスカレーターだったことを妻が話しだした。僕は、「右側に寄れ!」と、英国人に注意されたことが印象的だった。
「ロンドン」というのは、「ロンデヌス」(ケルト語で、勇敢な者という部族名)が支配していたテムズ川流域の地という意味をこめて、ローマ帝国の占領軍が「ロンデニウム」と呼んだことに由来する。
オックス・フォード駅で地上に出た途端、凄い人波に押された。祭日の銀座四丁目よりも人が溢れていた。ここから、リージェント・ストリートを歩く。「リバティー」の側に「スワロスキー」店が見えた。カミサン達は、目的の者があるらしく、さっさと店内に吸い込まれていった。男共は、所作なく外で待つ。眉を寄せて出てきた。思うものが無かったようだ。クリスタルカットされたビーズ屋も探すが見つからなかった。
カーナビー・ストリートへ入る。昔なら、入りたい店だったのだろうが、今はその気がない。それほどに歳を取ったのだと自覚した。
T字路を右折して、リージェントの「ザラ」から横断して「タルボット」へ。
低い位置に小さなプレートが止めてあった。車椅子の客に対する「タルボット」の心遣いが見えた。店の入口は、1段階段があった。それをパチリと撮ってから、オールド・ボンド・ストリートへ入る。
いかにもという威厳のある古い建物、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツを通り抜けると、「カンペール」の店は近いはずだった。バーリントン・アーケードは、シャッターが下りていた。ブランド好き人間には、あのドーヴィルの街と同じくらい、短時間にブランドショップを梯子できるエリアだ。クレジット・カードには、危険なエリアなのである。
右の「ラルフローレン」は兎も角、左が「フェラガモ」、正面が「ミキモト」、「テイファニー」、「DKNY」。右が「カルティエ」、「シャネル」、左折すると、「モンブラン」、「ダンヒル」、「プラダ」、「ダクス」と続く。ここら辺は、女性と歩くと、男には危険なエリアである。「カンペール」のあるロイヤルアーケードの左は、「ロレックス」、「グッチ」、「デ・ビアス」に「バカラ」の店が軒を連ねている。ハイエンドなワイングラスなどで富裕層に知られる「バカラ」は、丸の内の国際ビルに、世界で初めての直営バー「Bbar」を開店させた。バカラのシャンデリアの下、バカラのグラスでサーブされる。酒の肴もバカラのプレートだ。世界で初めてのバーだというのが、果たして日本人には知られていることかどうかである。
昨日の日曜日、閉店で断念した「カンペール」の店に着いた。
菅井美子さんは、アテネの店で「カンペール」ブランドを気に入ってくれた。彼女は、踵を上手く包んでくれる革のサンダルを買った。この店でも、足が気持ちよくフィットする靴を見つけたようだ。荘輔さんは、我関せずと店の外で待ている。
美子さんはいそいそと買いたい靴を手にレジに向かった。ところが、暗証番号が違うと言われ、戸惑った。それは荘輔さんのカードだった。自分のカードは持ち忘れていたのだ。バツが悪そうに、店の外で待つ夫を手招いた。荘輔さんは、サインのために呼び込まれた。口を結んで渋い顔を作った。
ギネスビール缶をしこたま買い込む約束で、美子さんが荘輔さんのご機嫌取りをする。滑稽な光景だが、美子さんは真顔だ。そもそも、僕が「カンペール」ブランドを教えてしまったのだからと、口を挟む。
「未だ、ロンドンパブに入っていないなぁ、そう言えば・・・、これから、探して入ろう」と、空気を変えた。レジの店員は、この会話を解っているような笑顔で、レシートを差し出した。丁度、「フォートナム&メイソン」の仕掛け時計が15時を鳴らした。
パブを気にしながら、ピカデリー・サーカスに向かって帰る。そうなると、これまで見えていたパブが隠れたように、通りに見つからないではないか。ならば、いっそ、ピカデリー・サーカスの近くにしたほうが、バスに乗りやすいと考えた。
「ガイズ&ドールズ」を上演している劇場の前だった。店は創業1860年代に出来た「デボンシェア・アームズ」という老舗だった。シアターのポスターが、壁一面に貼られてあった。終演すると、演劇論でワイガヤとなる店なのだろう。
「バス・ペール」をオーダーした。だが、ここに置いてないと言われてしまった。菅井夫妻は、当然「ギネス」だった。飲むほどに、荘輔さんの機嫌は和らいだようだった。客のいない2階では、いつものように冗談ばかりで、大声を出していた。
だが、ゆっくりもしていられなかった。三越前の集合時間は16時。船は、グリニッジを離れているのだ。回遊していて、我々はティルベリー港で乗船となっていた。グリニッジ・ピアよりも更に1時間かかるということは、シャトルバスに乗り遅れると、大変なことになるのだ。手に入る地図を片端から見てみる。テムズ川を南下した場所だろうがこれに河口の入口ではないか。ティルベリー港という場所への距離も解らない。もし、不測の事態があった場合、シャトルバスに乗り遅れた最悪の場合、我々には鉄道などの交通手段も教えられていない。これは、ツアー企画会社も船側も、船客に対して情報不足であると言わざるをえない。パブにも入ったことだしとして、三越前へ向かった。
観光をし終えた?船客も集まっていた。
「飛鳥の乗船客が三越にいたわよ、でも、お高くとまっていて、同じ日本人なのに、話しかけても言葉を交わさないの、知らない素振りってふうで・・・」
「あら、私も、飛鳥に併走していたわよって、話しかけても、そうでしたっけって顔」「私は、聞けたわよ、トラブルがあったんだって、情けない原因だったから、話したくないって、笑って誤魔化されちゃった」
「あら、それって、水漏れでしょ?」
「ええ、そうなの?」
「あら、私の聞いたのは、海水の塩分濃度の計算間違いだったって」
「????海水が漏れた?何処に?」
「日本船にするために、新しく増築したからなあ・・・」
「世界一周クルーズのデビューでしょ、今回は」
「張り合ってるのよ、華々しく出航した大型飛鳥だから・・・」
「知ってる人乗ってるから、留守家族にメールして確認してみよっと」
あの飛鳥への海上での呼びかけに応えなかった理由は、こういうことだったのかも知れない。ティルベリー港へ長い道のりのバスの中は、市内観光の話ばかりではなかった。
随分と長距離を走ってティルベリー港に着いた。殺風景な寂れた倉庫街というか、朽ちた波止場だった。肝心のにっぽん丸は、未だ着岸していなかった。
やがて、グリニッジ・ピアからのシャトルバスの船客も到着した。ティルベリーの古いがらんとした待合室に待たされた。待つ身には時間は長く感じられる。船客に不満の声がでてきた。
「何処にいるのか解らないなあ」、
「拉致されてきた日本人みたいね」、
「こんなにずれるのなら、三越前の集合時間を遅らせて欲しかったわ」。
なんら、情報が知らされないままに、がらんとした天井の高いウエアハウスのような処に座らされて、皆、苛立ち始めた。
こうしたときに、気をつけなければならないのは、不満が他の話題に飛び火していくことだ。顧客満足度を高める努力をしていないと、バッド・スピーカーが増殖するというのが、我々の世界では周知のことだ。
「にっぽん丸では、朝から菓子パンなのかと、がっかりしたのよ」
「やはり、クロワッサンや食パンの焼きたてが出されてこそ、贅沢な朝食よね」、
「飛鳥はね、フォアグラもよく出るし、ベジタリアンの食事もあるんですよ」。
こうなると、にっぽん丸のリピーターは、黙ってしまった。
「ハロッズで結構、お買い物しちゃった」
「ロンドン・タワーに行ってきたの」
「ロンドン・アイから、市内を見渡したわ」
そういえば、テムズ河畔をそぞろ歩きするなんて、映画のようなシーンは、時間が取れなかった。時間があれば、ソーホー地域もちょっと踏み込んできたかった。ニューヨークのソーホーへは行ける時間を作ろう。名古屋の「ソーホー・ジャパン」に、SOHOの文字が入ったカープレートを土産にしたい。
ぶらついていると、パンフレットがあった。いま居る場所が、グラベスエンド駅の対岸だと判ったのだが、今となっては何も意味はなさなかった。東京の晴海埠頭から、太平洋の外海まで南下した気分だった。地図の位置では、イギリス郊外の千葉県勝浦の辺りか。途中に風車小屋があったので、思わず撮ったことを思い出した。
4,50分が経った頃になって、ざわめいた。ようやく、にっぽん丸が着岸したらしい。我が家へ久しぶりに帰るような、妙な安堵感が各人の顔に浮かぶ。
乗船してキャビンに戻ると、メッセージがあった。2階のインフォメーションで、住友クレジットサービスからの封書を受け取る。
休む間もなく、慌てて夕食に向かう。先に入った妻は高嵜さんご夫妻と一緒のテーブルにさせてもらっていた。ウインザー宮殿に足を伸ばした高嵜さんは、イートン校にも行きたかったのだと残念がっていた。コペンではクロンボー城まで足を延ばすなど、実に精力的な行動である。ニューヨークでは、どこまで遠出をするのだろうか、話が聞けるのを楽しみにしたい。
高嵜さんに拠れば、今回の停泊地点、浅いテムズ河口に無理して満潮時を狙って入ったのは、我々に「カテイサーク号」を見せたかったのだろうという。だから、干潮時の出港は出来ないとして、水深の深いティルベリーへ移動したと説明してくれた。有名なサザンプトンは、更に大型の客船になるのだろうとのこと。高嵜さんは、商船大学一期生。それにしても、わざわざ浅瀬に入り込んでくれた意味を、船客に説明しないままでは、サービスを素直に受け取れないのだ。なぜならば、帰船しても、未だに不満の声は治まらないのであるからだ。
ニューヨークのサムに急いでメールを入れる。停泊中にヴォーダフォンを通してメール送信することで、今回は相当に通信費が節約できているはずだ。長男に感謝。
9時にネプチューンバーで高嵜さんと飲む。チーフバーテンダーを務める森田さんとKラインの話になった。どうやら、森田さんの父親もその会社のOBらしい。飯野海運がナイヤガラの脇に運河を造ったと教えられ、話はタイビルマにまで飛んだ。なぜか、落合信彦について二人から訊かれ、彼から聞かされたオルブライト大学での話をする。
11時になった。お開きとした。チェックして出るが、廊下をまっすぐに歩けない。酔っているのではない。船が揺れだしたのだ。
明日からは大西洋、1週間の航路。天候が荒れないことを願うばかりだ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (1)
最近のコメント