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2010年10月

2010年10月31日 (日)

060526 コペンハーゲン

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早朝にランジェリニー・ワーフに着岸した。

昨日に続いて、本日も下船する。寄港地の日は、慌ただしい。だとしても、贅沢な悩みである。815分には朝食を終えてくださいという日である。眠い目をこすって、洗顔し着替えを急ぐ。

朝食のテーブルには、一度ご一緒した方が先に着席していた。お名前は知らないご夫妻だ。

「ツアーに出ていますが、休む暇もなく出歩くので、今、此処が何処だったか、時々区別がつかなくなりかけていますよ」とお笑いになる。

「我々でも、話の中で取り違えが多くなってきましたよ」と返す。

「申し遅れました、萩原と申します」「久保でございます」

名乗った途端に、垣根が外れた。

「デジカメのお陰で、日付と時間から、どこの写真だったかは整理がつきますから、便利になりましたね」と話すと、

「そのデジカメですが、ずっと日本時間ですの。修正の仕方が解りませんので、そのまま」と奥様が、照れくさそうに言う。

「カメラがあれば、修正いたしますが」

「いま、此処にあります」

「私で判れば、直してみましょうか」

ダイニングの柱時計を見やりながら、今の日時に修正する。

「また、ロンドンから時間が変わりましたら、私たちを見つけてください」と妻。

やはり、人とのコミュニケーションで、悩んでいることが消えることもある。今回の船客は、なかなかうち解けない、いや、名乗らないから憶えようともしない、憶えないから表面的な挨拶しかしない。この繰り返しが続いている。昔は違ったね。

ネプチューンバーで飲んでいた人に言われていたが、まさにそうした空気がなんとなく、ぎこちなさを生んでいる。年度によって、客層が変わってくるのだろう。

 

久保夫妻と会話しながらも、8時には食事を終えていた。デッキに出て体感温度を測る。10℃ほどか。寒い。タートルネックに風防ベスト、それにオスロセーターを着込む。これは、氷河航行でデッキゴルフをした時のレベルである。妻はやはり、ダブリンで買ったアランセーターを着た。寒い海に漁師が着込むため、雨が降ってもよしと聞いたからだ。

 

コペンハーゲンは36年ぶりで来たのだ。前回、チボリ公園は閉まっていて入れなかった。鉄格子を両手で握って中を窺った記憶がある。なんとしても、今回は入ってみたい。中にあるはずの「ミニチュア・ワールド」を見たい。台湾では精巧な「小人の国」という公園を観てきた。早い話が、ガリバーの世界だ。日本にも生まれた「東武ワールド・スクエア」の元祖である。

入園料はクローネでしか買えないという。ユーロが使えないのだ。クローネに両替しないと入れないのだ。これでは、46年前と同じ悔いが残る。ツアーデスクで入園料を訊いてみると、一人2000円ほどだという。船内での両替サービスで、1万円分を450クローネに替えた。

 

シャトルバスは予定通り、9時に発車した。現地のガイドが乗っている。いつものシャトルバスなら、コペンハーゲンの街についてアナウンスをしてくれるのだが、それがない。一緒に出掛ける菅井美子さんが、それを指摘する。僕は40年前の記憶を引き戻そうとするが出てこない。豆電球が点いたままの園内と、その回りにある市庁舎、そして路面電車くらいがぼんやりとするだけだ。どの辺りに泊まったのかさえ判らない。妻はチボリの正面だったというが、違うとも言えない。

妻の買い物は、「ロイヤル・コペンハーゲン」。菅井夫妻は、孫へのレゴと決まっていた。

僕は例によって、キャップ。洒落たシンプルなデザインのキャップがあれば買う。今日頭に被ったのは、タイで泊まったホテル・ソフィテル・セントレ・ホアヒンのキャップにした。ホテル・ソフィテルは、コペンハーゲンにもあるし、ホアヒンが北欧人の避寒地として人気だからである。

Dscf2250 Dscf2296 Dscf2301 目抜き通りに建つビルには、所狭しと企業ロゴが貼り付けられてある。事務所がその階にあるというのではなく、明らかに、ビルの壁面がアドボード化されている。建築中の工事現場は、これまた格好のアドボードにされている。日本も見習う必要がありそうだ。

 

アンデルセン像がある市庁舎前広場からストロイエという銀座通りを歩く。このストロイエ、世界で最初に歩行者天国を実施したことで有名になった。初めてと言えば、サッカーの試合応援に、国旗を顔にペインティングしたのもデンマーク人が最初だったという。ここを夕方歩いたことを思い出した。あの当時は、雪で凍結しないように電熱が敷設されていると言われ驚いた。そしてなかなか暗くならなかった。4月中旬だった。

 

Dscf2230 Dscf2232 街には、ニューヨークも香港もあった。「ロイヤル・コペンハーゲン」のロゴが右手に見えた。オープンは10時だ。そのまま、ぶらつこうと先に進む。まだ何処も閉まっている。がらんとした街に日本人だけが歩いている。ガンメル広場を抜け、聖霊教会を過ぎて、右前方に2店舗目のロゴが見えた。妻が目的とする「ロイヤル・コペンハーゲン」だ。王室の援助で創立された陶磁器メーカーだ。ここの2階、日本でいえば3階に、一級品の特価がある。工場直送のアウトレットである。ガラス食器の「バカラ」同様、毎年ひとつずつ買いそろえる人もいるらしい。

日本に入ってこない、気に入ったデザインがあれば、儲けものと思いたいというほどに注目のフロアである。隣はジョージ・ジェンセンの店だった。当然ここも10時である。ホイブロ広場の角のカフェで開店まで待つことにする。

Dscf2237 Dscf2239 これから始まる「ロイヤル・コペンハーゲン」のドラマ開幕前のウエイティング・バーにいる気分。店の中から眺めていて解ったことだが、「ロイヤル・コペンハーゲン」の建物だけが、左右の建物と異なっている。外観は色褪せ、剥げ落ちたままである。頑なに手を入れないで歴史的な時を刻ませている。プライドのオーラーを感じる。ますます、妻たちは心待ち顔で、陶磁器の大きなコーヒーグラスを手にしている。このコーヒー125クローネ分。

Dscf2238 ホイブロ広場にも、徐々に日本人以外の観光客が増えてきた。道路に顔が現れる。地下鉄の口ではない。公衆トイレなのだ。奇妙な風景を眺めていると、10時になった。目的のショップに人が入っていくのが見える。我々4人も腰を上げた。

「ロイヤル・コペンハーゲン」のグランド、0階を見回してから2階に上がる。絵付けされた器は、結構な値段が付いている。ブルー・フルーテッド模様の皿一枚を完成させるのには、絵筆を1197回動かすそうで、熟練絵師でも30分はかかるという。一筆でも間違えれば、初めからやり直しだ。

何も絵付けされていない「白い黄金」と言われる陶磁器を手にとっては、価格を見て換算する。ほうという声。これは、なにも日本人だからではない。他の外人観光客からも漏れているのだ。互いに目があって微笑む。

妻は真剣に選んでいる。菅井夫妻と僕は、あちらこちらをぶらぶら。彼女の最大の目的は此処だったのだから、仕方がない。リスボンのジェロニモ修道院前でジプシーが創ったテーブルクロスを買い損ねて以来、40年間悔やまれてきたのだ。女性の執念とは恐ろしいものだ。しかし、おかしなことに、自分たちの家への物は買わず、息子の嫁たちや人へのプレゼントに終始した。また、10数年、悔やまれるか。そう思ったので、お買いくださいと言ってたろうと姿を探したときは、もう支払いを済ませて店の外に出ていた。

ホイブロ広場で東夫妻に、ばったり出会う。これからアマリエンボー宮殿の12時の衛兵交代を撮るのだという。帰船せず、昼食はコペンの街でと決めておられるのだろう。

 

Dscf2243 Dscf2244 聖霊教会脇に焼き栗屋のような大きな鍋を煎っている露店が出ていた。覗き込むと砂糖に絡めて焼かれているのは、アーモンドだという。

タイ人かと訊かれる。キャップにある文字を指さしている。ホアヒンの解る人物が意外なところにいた。日本人だというと、僕も行ったことがあると、急に人なつっこそうになる。ホアヒンは、バンコックから100km南下した処にある避暑地である。国王のご用邸があり、治安は悪くない。北欧の観光客が多く来るリゾート地である。移住するつもりでリタイアー・ビレッジを下見に妻と訪れた。写真を撮らせてもらったので一袋買った。25クローネだった。コーヒー一杯分だった。

Dscf2245 Dscf2256 子供を乗せた自転車の形態は、日本でも採り入れたらいいと思うものがあった。不安定なハンドル前に重心をかけるよりも、サイドカーを直列にしたようなデザインなら、子供も伸び伸びとするだろうに、と思わせた。気になったので、意識してカメラを向けた。

 

ストレイエの出口に近いところに、目指していた「BR」という大きなトイショップがあった。心勇んで入る。菅井夫妻の目的であるレゴ売場を探す。探しているサイズのレゴ・チップが売れてしまっているのか、取り扱っていないのか、見あたらない。とりあえず店員に商品カタログをもらった。他のデパートで探してみよう、と、我々はその店を出た。

 

今日の僕は、まずいことに腎不全の薬をワンセット服用してしまった。外出の日には、その中から利尿剤を外すのだが、それをしなかったため、しばしば、尿意を催す。寄港地でのトイレは迷わず「M」に飛び込む。これは、2003年の時に、オスロで経験した。ホテルを探そうにも、そう簡単に見つかるものでもない。時間の無駄。そこへいくと、各国何処にも目につくのは、「M」のマーク。マクドナルドに入って、ひとまずはコーヒータイムにしてもらった。

それからの行動だが、待てよ、と。チボリ公園に高価な陶磁器を持ったまま、チボリ公園に入って、人に当たったりしたら・・・、いや忘れでもしたら、一大事だ。気になるので、一旦シャトルバスで帰船することにした。幸いなことに、臨時バスが増発されていたので、待たずに乗れた。こうした臨機応変のシャトルダイヤのサービスは、実に助かる。

 

ツアーのある日の寄港地では、手短に済ませられるようにと、船内食はバイキングになっている。写真をPCに取り込んでから、再びシャトルバスに乗り込む。

 

午後からの目的は、デパートでのレゴ探しと36年お預けだったチボリ公園だ。デパートは、王立劇場の前の「マガジン」を目指した。ストロイエへ入る反対側が入口だ。

目の前を浜畑さんが歩いていた。両手にいっぱい、「マガジン」のショッピングバッグを手にして帰ってきた。生花を仕入れてきたのだという。生花を選ぶのも飾るのも、浜畑さんが考える。生ものであるだけに、蔭ながら大変だと思った。

 

シャトルバスの発着所は、チボリ公園横だ。下車すると、アンデルセン通りの市庁舎をやり過ごし、チボリ公園とカールスベア美術館を挟んだティアテンス通りの角を左折して、ストーム通りを遊覧船の船着き場方向へ歩く。

Dscf2255 Dscf2265 Dscf2264 昔の船溜まりの場だった、このニューハウン通りで蚤の市が開かれていた。ドーハルセン美術館の対岸である。種々雑多な、ガラクタ市に思えた。眺めるだけで通り過ぎようとした時、1969の数字が目に入った。その数字は、我々の結婚した年である。

Dscf2266 文字の描かれた絵皿は、ローゼンタール製で、月面着陸の絵が焼かれてあった。価格を訊いた。なんと、25クローネというではないか。すかさず買った。コーヒーやアーモンドと同じ値段だった。神様は36年ぶりに訪れた国で、粋な出会いをさせてくれたものだ。

 

午後も、思いがけず、割れ物を手に歩くことになってしまった。目指す目的地は、聖ニコライ教会の裏手だと頭に入れてある。菅井夫妻のために「マガジン・デパート」へ急いだ。ブレマホルム通りに出た。「マガジン」に入ろうとして左手を見ると、なんと、更に大きい「BR」があった。何はともあれ、我々は当然のように、飛び込んでレゴ売場を探す。Dscf2273 幸い、美子さんの求めているサイズのレゴ・チップがあった。美子さん、破顔で、レゴの形の大きなギフト・ボックスを買った。その中に、お目当てのサイズのチップがかなりの量、詰め込まれてあるのだそうだ。

その間に、僕は、「マガジン」に入る。エスカレーターで5階のトイレに上がる。男女が互い違いに長い行列をなしている。なるほど、NY並みになってきたかと、感心しながら並ぶ。つまり、男女混用なのだと思ったからだ。ところが、女性陣が振り返りながら男性になにやら言っている。列んだ先頭の男性は困っている。デンマーク語もドイツ語も聞き取れないでいる。どうやら、僕と同じ観光客らしい。と、男は、頭をかきながら女性陣に礼を言って、消えた。次も。次も。なんということだ。女性のトイレに列んだことになっていたのだ。やはり、男性用は別にあった。用を足してエスカレーターで降りる時、

なるほど、「マガジン」という名前のデパートなんだと思わせるものがあった。壁面の広告は、雑誌スタイルでページをめくるように、各階を見せていた。開業するときから、決めていたな、このスタイルを、と、ちょっといい気分で外に出た。

 

菅井夫妻の買い物も終わったので、帰るという。シャトルバスの最終は、1630分だ。分かれてチボリ公園に急ぐ。カールスベア美術館側のチボリ公園口に向かった。

Dscf2285 園内に、今もあのガリバーワールドはあるのか、確認できなかった。外にはパンフレットもなかった。入場料は75クローネとある。あっ、と口に出た。ユーロでもクレジットでも支払いがOKなのだ。入園料のために、わざわざクローネに両替をしたのは、何だったのだ。


Dscf2288 Dscf2286 チケットを受け取って、ガチャンコと身体でバーを回す。入園した者に手渡されたパンフレットを開いて見る。また、あっ、という声を出した。「ガリバーがない!」消えていたのだ。既に、取り壊されていた。失敗だ。

妻は、せっかくだからと、チューリップなど咲き乱れる花壇を撮りまくった。絵葉書に、もしかしてその昔の面影くらいはないのかと売店で探してみたが、見当たらなかった。

此処に来たかった自分が恥ずかしくなった。確かめもしないで、来てしまった自分に腹が立った。

 

Dscf2294 反対側の出口に向かうと、この時間、まだまだ入園を待つ観光客で行列が出来ていた。どうやら、こちらが正門だった。その中に、見慣れた顔があった。にっぽん丸のオプショナル・ツアー組が列んでいた。3度目の、あっ、である。シャトルバスに戻ると、4度目のあっ、もあった。一足先に帰ったはずの菅井夫妻と同じバスになった。

 

帰港したが埠頭辺りの港町商店街を少し歩く。シドニーのロックにも似た石造りの中に商店街で出来ていた。残ったクローネを使い切ろうと、アイスクリームを食べ、絵葉書を買った。ユーロが使えることが判ったので、僕はシンプルなデザインのキャップを捜した。

 

Dscf2261 Dscf2303 Dscf2329 埠頭には、にっぽん丸の後ろに、11階層に3本マストの豪華客船が接岸していた。コスタリカ・アトランチカというジェノバ船籍の10万トンクラスだ。屋上のプールサイドには、船外に飛び出しそうなウオータースライダーまで見える。

にっぽん丸のデッキを見上げると、菅井夫妻がデッキゴルフに興じていた。夫唱婦随ではなく、婦唱夫随となっているようだ。美子さんは、ショートパンツをポートサイドで、サンダルをローマで、帽子はポルトで、手袋をコペンハーゲンで、デッキゴルフのために買ったのだ。今回誘い込んだ中では、一番意気込んでいるデッキゴルファーだ。そういえば、西出さんも密かに昨日の夜、自主トレをしていたらしい。

 

Dscf2333 コスタリカ・アトランチカが出航し始めたので、18時、展望風呂に入った。追いかけるように、にっぽん丸も離岸した。4階ではボンダンスがはじまったようだ。埠頭にいる多くの人たちが手を振りだした。

夕食は、コペン自由行動の旅・反省会と称して、菅井夫妻との4人席となった。それぞれが好きなアルコールをオーダーした。熱燗、赤、白ワイン、ビール。

美子さんが何かをすると、荘輔さんが諫めることがしばしばある。今夜は、何を以て「美子る(ヨシコルという動詞)」というのか、面白おかしく定義づけの説明をした。同級生同士の夫婦だから、忌憚なく話せるのだろう、実に仲がいいのだ。

 

船内にアナウンスメントが流れる。「パイロットの話ですと、例年以上にまだ長い冬だそうです。通年から5℃低い10℃です。まもなく、左舷側にハムレットの舞台にもなったクロンボー城が見られます。1925分、エーレ海峡の狭い処に差し掛かります。右舷側はスエーデンのヘルシングボリという街が見えて参ります。ここは、2海路の右側通行で2隻分の狭さです。これからカテガット海峡を通りますが、しばらくは、コスタ・アトランティカ号と併走していきます」

 

夕食後はひさしぶりに「ビンゴの日」となった。2003年よりも商品群の価格帯が落ちてしまった分、司会役の蘇君は意識してか、益々冴えている。役者志望だっただけのことはあるか。2回目はビンゴ成立だったが権利を放棄して、3回目のボーナスを期した。しかし、読み上げられた数字の2回目で、簡単に討ち死にした。この乗船優待賞金を手にするのが、毎回、裕福なリピーターになるのも、不思議なことだ。今年もついていない。カジノ同様だ。

 

ラウンジ「海」で3回目の講談席を聴きに出る。一龍齋貞心さんならではの、カルチャー講談と称する薀蓄話。続いて「倉橋伝助」。勘当された旗本が、名前を変えて下総の髪結い、老夫婦に支えられ浅野家に仕えるまでの勘当物語ならぬ、感動物語。彼の講談は、聞き応えがあると船客からも評判で、ラウンジは、座る定位置が決まりつつある。蘊蓄で笑わせて、講談で泣かせる一龍齋貞心さんの芸。あと何回か。

 

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2010年10月21日 (木)

060525 リューベック

Dscf2101 明け方に錨を上げて、河口を遡った。きれいな港町、トラヴェミュンデに入った。リューベックへは遠いのだが、それだけに落ち着いた保養地だ。

ツアーバスの出る日だから、朝食は、815分までに入らなければならない。

テーブルに着いてみると、辺りはちらほら。食している人がまばらだ。これだけ早めに済ませたということは、オプショナルツアーやオーバーランドツアーの参加人数が多いということだろう。オーバーランド組は、ベルリンからプラハを経て、ロンドンへ渡ってしまう45日、贅沢な316800円也。その間、我々は、コペンハーゲンを回る。

2階ロビーでは、パスポートの返却がなされている。9時発のシャトルバスには、まだ充分な時間がある。

下船した空は、雨雲だった。妻が、ギャングウエイにある貸し出し傘を2本持ってきた。シャトルバスは、田園風景を見せながら、アウトバーンに乗った。約20分で古都リューベックに着いた。帰りのシャトルバスに、もし乗り遅れたら、埠頭までは鉄道しか足がない距離だった。

 

シャトルバスの中で、藤川君が、本日は、宗教的な祭日であり、土産物屋を含め、多くの店舗が閉じていることを予め了承しておいてくださいと予告。今回のツアーコースは、土日祭日が少し多すぎないかと、誰かが皆の不満をぼそっと代弁した。

街に入ると、尖塔が何本も目に入り始めた。リューベック・セントラル駅を右に見ながら、シャトルバスは観光バスの駐車場に入った。船側から事前に示されたシャトルバス停車位置は違っていた。ラディソンサスホテルからは、橋一つ離れていた。案内図を宛にして戻ってくると、迷う者が出るだろう。さすがの藤川君でも、それについて注意はしなかった。

 

Dscf2104 Dscf2105 「バルト海の女王」と呼ばれた古都は、南北2km、東西1km、周囲を運河と川に囲まれた中之島で、世界遺産に登録されている。現在ドイツで最も観光客を集めている州だそうだ。


Dscf2107 下車して、街のシンボルであるホルステン門に向かった。が、あいにくと、全面的な改修工事の真最中で、工事天幕には、その無粋な工事をみせないようにと、ホルステン門の原寸サイズの写真シートが降ろされていて、景観を保っていた。ここがそれであるという観光客への申し訳の処置と受けとめた。我が国でも、こうした策が観光客へものせめての姿勢だろう。2つの塔を左右に載せた市城門で、建築中から弱い地盤にめり込んで傾きだしていたのだという。ドイツ版ピサの斜塔になりかねなかった建物なのだ。改修中であっても致し方ない。街のシンボルが傾いたままでいいはずがないというドイツ気質がいいではないか。

門から緩やかな坂のホルステン通りを歩き、すぐ右手のペトリ教会に入ってみる。藤川君の話では、無料だが、献金をしていただければ申し分ないとのことだったので、献金箱に入れて、教会の階段を上ろうとしたら、女性の手が制するではないか。きちんとした料金所があり、入場料をというわけだ。あの献金箱は、自分の手の下せない管轄外のもので、ここに払って欲しいと言う。但し、先に入った日本人の団体と同じグループならば、団体扱いをしますが、と。

本来なら個人で3ユーロだが、2ユーロでいい。それも献金してくれたのだからと4人で6ユーロだけしか受け取らなかった。こちらも恐縮してしまい、お礼を述べた。妙なスタートになったものだ。

手にしたガイドブックでは、エレベーターに乗るなら有料だが、階段を歩くなら無料と記されていた。ガイドブックも改訂しておいた方がいい。

Dscf2112 Dscf2113 Dscf2114 我々はエレベーターで上がった。最上階は、360度視界が開けていて、川に浮かんだ観光用のクルーズボートや、これから行くマルクト広場で市場が開かれる模様や、赤い屋根の街、その中に高く聳える尖塔が眼下にあった。

 

教会を出てから道を横断して、そのマルクト広場に入った。祭日のせいか、マルクトは、まさにマーケットを開く準備で大童だった。帰りにもう一度寄ってみようということで、マリエン教会の世界最大級のパイプオルガンを見ようとしたが、今日は宗教的な祭日であるため、礼拝が行われていたため、遠慮した。外にあるデヴィル像と並んで写真を撮り、その裏手に向かった。

Dscf2128_2 Dscf2132 Dscf2127_2 裏のメンク通りという筋が、昔ハンザ商人たちの館だったというが、静かな煉瓦作りの建物が軒を連ねているだけだった。ペトリ教会からヤコブ教会までのブライテ通りは、普段なら一番人通りが多いのだろうが、今日は、ひっそりとしていて、我々、日本人と他の観光客だけが所作なく歩いている。

Dscf2143 Dscf2139 Dscf2145 再びマルクト広場に戻ってみた。広場に出店の店員達は、それぞれ、伝統的な衣装に着替えていて、祭りの日らしくなっていた。ロートシュポンという赤ワインのワインショップは修道僧の衣服で、パン屋も毛皮屋もお香屋も弓屋もスープ屋も、フイゴを吹いて金属装飾細工をする職人も、中世の衣装である。直径230cmの木材を素材に木彫りされた鷲や梟などをディスプレイしている男は、木こりの格好だ。ロビンフッドがぶらりと森から遊びに来るような中世の世界観を創って、客を楽しませようというわけだ。

名物のマルチパンという砂糖菓子がある。1407年飢餓になった当時、市政府がパン職人に、倉庫に残っているアーモンドを粉にしてパンを創らせたのがその元だが、土産用に袋に入っているのは、豚や熊や兎の形をしていた。可愛くて食べられないといって、買うのをやめたのは美子さん。Dscf2138_3 その代わりというのは、妙だが、出店のソーセージが、炭火焼きでいい匂いを振りまいていた。妻は、そのソーセージを美子さんと買っていた。日本では考えられない、6,7本分のボリュームが1本なのだ。僕は、好物のソフトクリームが買えないかと探し回ったが、残念ながら、中世の世界では、売っていなかった。

 

Dscf2155 Dscf2151 Dscf2153 1130分のシャトルバス発車時刻が迫っていた。カフェでお茶することもやめて、駐車場に急いだ。一龍齋貞心さんも町子先生も慌てた。これに乗り遅れると、船内での昼食がとれない。やはり、みな同じ気持ちのようで、満席となって出発した。

うとうとして眼が醒めた。バスは、もうトラヴェミュンデの港に近づいていた。「こっちの街のほうが、きれいだね」「人が多く出ていて、お店も開いてるじゃあないの」

おやおや、停泊した港は、バルト海を望むドイツ有数の保養地なのだということをご存じないようだ。今日は休みだからこそ、人手が多いのは当然で、その日のために、レストランもお土産店もかき入れ時なのだ。

「キール運河を出て、バルト海のリゾート地、トラヴェミュンデに寄港します。そして、世界遺産の古都リューベックを楽しみます」

せっかくの寄港地である。なぜ、商船三井客船側は、ガイドブックに、こう書かなかったのか。

 

午前中の自由行動は6802歩だった。ギャングウエイの下で、水野さんが自転車を畳んでいた。ここからリューベックまで走ったという。バスで20分、電車でも20分。この距離を2回迷って、1時間半で着いたという。体力を賭けた観光を続けている。

レストラン瑞穂で、昼食をとって1330分には、再びイミグレを通って下船した。

 

Dscf2167 Dscf2177 Dscf2169 ここは、リューベックから20分、北の最終駅。ヨットハーバーであり、海岸線のプロムナード沿いに観光クルーズ船も多い、先回のニューオーリンズのような雰囲気。古い灯台もあれば、高層ビルのホテルもランドマークになっている。その先は、白砂一面に、ビーチに色とりどりのレンタル・ビーチベンチが広がっている。対岸には、パッサート号という4本マストの帆船が係留されていた。土産物屋には、古い灯台の置物や、パッサート号の文字が入ったキャップも売られていた。

地元の観光客やヨットマン達が、そっくり返って見上げる姿眼の先にある、日章旗をつけた8階建てのビルのようなにっぽん丸が、誇らしげに思えた。

 

意外にも菅井荘輔さんが、「デッキゴルフやってみたい」と言い出した。

「女もすなるデッキゴルフなるもの、男も一度は、せずばなるまい、て」照れながら言ってくれた。

Dscf2220 Dscf2219 今回、僕がデッキゴルフに誘って、美子さんのその夢中さ加減を呆れたように眺めていた荘輔さんが、してみたい、ならば、すぐにも、気が変わらぬうちに、と夕暮れのデッキに連れ出す。妻も誘って、4人で8個のパックを使う。徐々に面白くなってくれたようで、最後の1手違いで、僕らが勝ったものの、実に愉快な時を過ごした。これからも時間があったら、誰もいない、この夕暮れにやろうとなった。

 

大風呂に浸かった後、菅井夫妻の部屋でアペリティフを飲む。そのまま、ダイニングルームへ。

今晩は、船内イベントは無しの日、ノーアクティブティデーだ。ゆっくりとパソコンに日記が打てる。

 

食後に3階のフォトコーナーを通ると人垣が出来ていた。今日のハンブルグ・ツアー組も、つい先ほどの出港ダンスに興じていた姿も、プリントが掲示されていた。速くなった!

…それにしても、東ギャラリーは、なかなか再開されない。どうしたのだろうか。

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2010年10月 5日 (火)

060524 キール運河

オランダを越え、ドイツのヘルゴランド湾から645分、錨を上げる。

8時前だが、キャプテンからアナウンスメントが入った。

「昨日の変化のめまぐるしかった天候、また揺れの苦しみは、今日の日のためにありました。明日で、ちょうど、クルーズの半分が過ぎます。キール運河が折り返しだと考えていただいても結構です。8時の時点で、現在まで13,678海里。クルーズ最終の距離、30,800海里からすれば、44%しか走ってのですが、これは、地中海での停泊が長かったせいです

朝9時過ぎにキール運河入り口のロックに入り、ここで水位を調整して門が開き、先へ進みます。海面の高さ差は、エルベ川 1.69メートル、バルト海 1.7メートル。

キール運河は、北海(Holtenau)とバルト海(brunsbuttel)を結び、全長約99キロです。
1895
年に開通し、通峡するのに平均78時間を要します。通峡可能な最大船舶は、長さ235メートル、幅32.5メートル、喫水9.5メートル、Air Draft42メートルとなっております」。

 

Dscf2060 Dscf2061 845分には、最初の水門に入るという。丁度、朝食の最中になるか。エルベ川を遡る。気温は11℃、海水温13℃。昨日までは雨だったようだが、幸い今朝の天気は晴れである。ついている。

沿岸が牧歌的な風景に変わってきた。羊が緑の草の上に白い点々を創っている。その先に、大型の風力発電塔が何基も連なっている。南西の風10m、波の高さは20cm。

脇を一艘のヨットが併走している。キール運河を一緒に抜けるのだろうか。

妻が、思わず、セールを操るヨットマンの格好を見て、「寒そう」という。雪の上にいるスキーヤーに寒そうと言うようなものだ。

一カ月後になるが、毎年6月下旬の「キールウイーク」という時期に、世界のヨットマンが参集するヨットレースがある。その試走かも知れないのだ。

 

いよいよ、また、草原の中を航走するおとぎ話のような光景が始まる。北海とバルト海を結び、ユトランド半島を横切る全長987km、巾102mの人口運河である。ドイツ海軍の潜水艦Uボートの基地があったことで知られるように、北欧への玄関口である。スエズ運河やパナマ運河がウン千万円の通行料を支払うのに比べ、ここは、無料だと聞いた。運河にかかる橋は7本。高さは40mに規定。これは大型船舶の航行を可能にするために設けた高さであるが、5万トンクラスになった飛鳥Ⅱは、残念ながら、ここを通行できない。現在は年間45万隻も通過している。将来は、運河通過の自動化が計画されていて、船舶の位置と速度を示す装置が整備され、投下標識の遠隔制御など、より簡単な管理が可能になると言うことだ。

 

昨夜は遅くまで渡辺登志さんと飲んだのでそのまま就寝してしまった。酔い覚めのモーニング・シャワーとなった。

朝食を終えた時、浜畑さんが近寄ってきてこう言ってくれた。

「萩原さんの今日の昼食は、特別に作ってありますから、ピンクのチップを見せて受け取ってくださいね」

4階のデッキに出てみると、ロングシューター・キングの松田さんが既に居た。スイスイマダム工藤が、不満顔。「誰も出てきーへん」業を煮やして「呼んでこぉ」とインフォメーションに走る。次々に工藤コールがかかる。しかし、部屋にいないとなると、広い船内はなかなか探せないから諦めることになる。偶数の顔が揃った。ノイジー・サンダル菅井とフランク・ヤサイ山縣が来た。

誘っていた西出さんが顔を出した。パックの打ち方を近くにいたスイスイマダムに訊いている。マダムは、西出さんを褒めながら、「やりまひょ、やりぃな」と仲間に誘う。二人に言われて、彼もついにデビューとなる。マダムの主人と西出さんは麻雀仲間で、僕とはイタリア旅行の仲間で、名古屋人会のメンバー。

スタッフの黒川君と6人で見切り発車したら、ユメレン・ファイター横田がカメラをぶら下げて現れた。すかさず、パックの番号を与える。いきなり打つ順番になった。苦笑いしながらカメラを襷掛けにして、打ち始めた。1時間の勝負。

西出さんのデビューは、マダムに散々フレームアウトされ、黒星スタートとなった。

2071 キラー・コンドル菅谷が現れた。ボケ・デーヴィル高嵜がスティックを手にした。スタッフの黒田君に代わり、蘇君が参加することになった。

2回戦。じゃんけんの組み合わせがイレギュラーになり、白先攻組は、松田、高嵜、萩原、山縣、西出。赤後攻組は、工藤、菅谷、菅井、ミセス松田、蘇となる。

 

戦況は、赤の固まり対白の固まりという陣地争いの形相。

途中から雨になった。雹が降ってきた。甲板をころころと白い金平糖が転がっていく。パックが床面に張り付いて動きが鈍い。それでも、プレイをやめようという者が誰一人いない。苦戦しても笑いで誤魔化す。

山縣、西出の二人にゴールしてもらい、松田、高嵜と三人で攻防戦。時間切れをしないよう、急ピッチで二人もゴール。白組は、賭に出た。僕独りが残った。

コンドル菅谷のミスショットを誘い、僕にホームを狙う飛び石ができた。まんまと敵失を利用して僕が上がる。制限時間5分前に全員ゴールという完全勝利。これで僕自身、本日2連勝となった。

 

Dscf2072 川岸は、相変わらず牧草地帯だが、ときおり、フェリー乗り場の近くに住む方々が手を振ってくれる。この圏内のネッターが発信したインターネットで日本の客船が通過する時間を知らされたのだろう、川岸の老夫婦が日章旗を持ち出して、大きく振ってくれていた。なぜ日章旗を自宅に持っていたのだろうか。飛鳥やにっぽん丸が通る度に振ってくれているとしても、年に1度か2年置きだ。余程の親日家なのだろう。

Dscf2074 Dscf2075 予想外の場所で、日章旗を目にすると、胸が熱くなる。懸命に振ってくれている老人の顔を見ていると、なんだか昔から知っていたような気分にも鳴る。ありきたりの手の振り方では申し訳なくなってくる。船の上から、多くの船客が満面の笑みを投げかけた。デッキゴルフのゲームに入ってくれた蘇君が、大声を張り上げた。

「ダンケ、シェーーーン!!」僕らも「ダンケ、シェーーーン!!」声が届くと、川岸の人たちも両手を挙げて応えてくれる。誰かが、「バーム、クウヘ~~ン!!」「ヒルメーシ、クウッタア!!」。川岸には届かないで欲しかったが、8階の甲板では、どっと笑いが湧いた。

しばらくすると、反対の岸では、少年たちが、自転車のペダルを力いっぱい漕ぎながら併走してくれている。窓からは、大きな布を振ってくれている奥さん。犬に引っ張られるようにして走ってくるトレーナー姿の小父さん。

スエーデンの旗をつけたエンジン航走のヨットも、デッキに立った青年がヘルメットを大きく振って抜き去っていく。キール運河は、川幅が狭い分、親しみがグンと湧く。人と人とが確実に通じ合っている静かな交流だ。菜の花畑のイエローも楽しみだが、こうした川岸との交流は、2003年の時にも感動させられた。

 

1145分、船内では、カジノプレイ券を増やすチャンスゲームが行われていた。自分の100$券を元に、簡単なゲームをする。上手くいけば、倍増、三倍増となる。昨夜のカジノで妻が30分足らずの内に、すっからかんになってしまっていた。マダム工藤から200$寸貸で、ゲームに参加する。運良く10400$を手にした。

 

昼食は、2階の瑞穂に神楽弁当を受け取りに行った。ゆっくりと景色を楽しませる航路では、神楽弁当が支給される。船内の何処へ陣取ってもいいのだ。飛鳥の運河通過には、巧くすり抜けられますようにという意味で、鰻弁当が出るという。こうした時に、飛鳥組とぱしふぃっく組が、にっぽん丸組にその違いを教えてくれるのだ。3船制覇しようという船客はまだしも、満室で乗船できなかったという飛鳥組やぱしふぃっく組は、贔屓の船を自慢するため、にっぽん丸ファンは目を背ける光景が起きるのだ。時折、3船の旗色があぶり出される。船内に巨人阪神中日が呉越同舟しているようなものだ。

リドデッキの左舷にテーブルを取った。僕の弁当は、これまで同様、シェフの手を煩わせている。妻の炊き込みご飯は醤油味を効かせてあって茶色。僕のは、白飯で作り分けてくれている。有り難い。ここまでしてくれているのだから、下船時の外食こそ注意していなくてはと自戒させられる。

 

昼食を終えたリドテラスでは、海水が抜かれたプール脇で甲板員がタイルを修理している。廊下では、天井の蛍光灯がチェックされている。穏やかな波のない、こうした観光水域になると、船内のスタッフは、持ち場、持ち場の船内の修理作業を黙々と行っている。絨毯の掃除、階段のステップゴムの張り替え、電球の取り替え、プールの清掃、船窓の清掃などなど、水道・電気・左官工事屋さんが一斉に乗り込んできたかと思えるほどに、繋ぎ服が動き出す。考えて見れば、三ヶ月間、貸し切りのホテルが海を移動しているのだと、あらためて実感する。

 

Dscf2085 3番目の橋を過ぎた辺りから、菜の花畑が広がってくるのだが、菜の花は一部分だけだった。周辺の多くは刈り取られていて、前回のような黄色一面の海は、期待できなかった。考えてみれば、3年前は515日だった。

今回のキール運河通行は1週間も遅い日程だ。それもそのはずだ。地中海での寄港地が多かったことに加え、大西洋岸から内陸の川を遡る航路が組み込まれて、その潮待ちに半日を費やすという贅沢なプランだった。すべてを季節に合わせようとするわけにはいかない。天気も思わしくなかったのだから、ここは、我慢すべき処になった。菜の花畑の件は、同船した現地のパイロットに訊くまでもなく、案外、船側は既に判っていたに違いない。辺り一面のイエローを敷き詰めたような景色を見ていたキール運河経験の船客同士は、今年のクルーズ客は気の毒だわねと言い合っていた。たしかに、菜の花畑は、あるにはあったが、川岸からは遠く、しかも、岸に沿って植えられた樹木に視界を遮られて、カメラには収められにくい距離だった。

Dscf2092 060526_07 東さんは、フライングデッキの先のレーダーのある塔に登りはじめた。なにが何でも見つけて撮ってやるという意気込みだ。確か、足を痛めていたはずだ。随行カメラマンという仕事も大変だ。命綱を腰につけていた。留守家族の読むネットでの航海日誌で貴重なイエローの景色を目にすることだろう。(写真は、東さんから掲載許可を得ました)

 

Dscf2058 ゆっくりと回っている白い風力発電機の林が現れた。ドイツには、1000箇所もあり、電力の19%が風力発電で賄われて、世界一だそうだ。また、この菜種油は、バイオ燃料として使われている。原子力発電ではない国策を試行している。

 

Dscf2100 レンズブルグ鉄橋橋に差し掛かった。「君が代」の曲がレストランから流れてきた。先回同様、日の丸は今年も掲揚されなかった。15時を過ぎたところで、急に陽が落ちた。景色の濃淡が薄くなってしまった。

デビュー戦を飾れなかった西出さんを後部甲板に誘った。デッキゴルフの練習を始めた。パックを真っ直ぐ打ち出すフォームと力加減を知りたがっていた。コースの中にある柱を狙って、ターゲットにヒットする練習をする。さすがにゴルフが上手いだけあって、呑み込みが早い。すぐにも、手強いライバルになりそうだ。

 

17時頃、7つの橋を抜け、ロックに入った頃、天気が崩れ始めた。また雨が降ってきた。ロックでは、20分ほど待機して出航した。途中キール湾にある、第二次世界大戦時のドイツのUボート造船所跡を船は迂回しながら見せて、8時間後にバルト海へ抜け出た。

 

船客は、おおかたが船室に戻りかけた。夕食前に大風呂に行っておくことにする。脱衣室での挨拶も、最近は静かなもので、淡々と黙々とそれぞれが手を動かしている。ツアーでの歩き疲れか、それとも人となりが見えてきたせいか、目礼が多い。

展望風呂というのは、日本船しかないのだが、湯船に浸かって外を眺めるのも一興だ。ロック内で待機しているので、反対側水路を通る貨物船の船橋から、望遠鏡をこちらに向けている船員が居た。我々側はどうってことないが、彼が首の向きを別の方に向けた。女性風呂の方角だ。首を前に乗り出した感じだ。隣の船員に何かを伝えている。その船もゆっくりと遠ざかった。

 

夕食が始まった。この時期になると、始まったという感じかただ。男女ともに、衣服に気遣うのにも肩に力が入らなくなってきたせいか、陸の上での素が見えてくる。普段はきっとああなんだなあ、と親しみを憶える人も出てきた。

 

席について、後ろを振り向きと、名古屋の高木さんご夫妻が並んでいた。

「ご一緒しませんか」高木敏恵さんから声をかけられた。喜んで、とセンターテーブルに移動した。そこへ西出さんが近寄ってきた。「名古屋系親睦会」を開こうと言ったら、西出さんが乗ってくれて、連絡簿作成のために、客室番号を尋ね歩いてくれていることが判った。

ロンドンを出航した日の夕食に“しよまいか”ということになった。レストランの平マネージャーに530日、16名席を「奥座敷(ダイニング瑞穂の左右は、奥まったスペースをそう呼んでいる)」に作って貰えないかと打診した。

今回のクルーズは、奥座敷を好む客が多くて、毎夕、自分たちの定席を持っているので排除できないとのこと。本来は、レストランの入口で、案内するというスタイルを採っているのに、定席を持つのはおかしいと差し込みたかったが、我慢した。センターテーブルのサイドとなった。どういう空気の親睦会になるか、楽しみである。

にっぽん丸船内で、県人会の集まりをしようと提案したのは、我々が初めてとなった。

 

夕食後のメインショーは、「京都茂山千五郎家 狂言鑑賞会」。初めての狂言である。なかなか出掛けてみる機会も少ないので、ドルフィンホールへ出掛けた。

茂山千五郎家とは、井伊直弼のお抱えの狂言師であるという。「豆腐のような狂言師」というのが家訓だそうで、誰からも愛され、飽きの来ない味わいがなければならないという意味が込められている。

600年続いている日本古来の笑いだが、金屏風以外大道具もないこの舞台では、観客に多くの想像をしていただきたいと、「つもりの芸」であることを説明された。さらには、「室町時代の吉本新喜劇だと、お考えくださいませ」、狂言師、茂山茂さんの挨拶に観客席は、空気が和らいだ。

「舟船(ふねふな)」、「仏師」の2題。言葉も判りやすかったし、所作も解りやすかった。茂山さん達の演目の選び方に感謝だった。クルーズの楽しみは、こうして滅多に接しられないカルチャーを見聞できることである。思いがけないヨーロッパの洋上で、鱧が楽しめたり、カイロの夜に、講談が聴けたりと。それいて、日本を離れていると忘れがちな、「子供の日」を鯉幟で思い出させてくれる。

 

高木さんに僕の本を進呈する約束をしていた。426号室のドアをノックした。西出さんには、明日まで待って貰う。

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2010年10月 1日 (金)

060523 北海

これまで服用を外していた利尿剤を昨夜は飲んだ。そのせいでもなく朝4時に目覚める。ゆっくりだが、うねりは大きく揺れ始めていたからだ。6時、7時、うとうとする。窓外は、広い範囲で霞んでいる。

 

Img_2308 船が大きく揺れている。久しぶりの揺れだ。今回のジブラルタル海峡通過が波静かだったから、初めての船客は、驚いていることだろう。この揺れは、紀伊水道から神戸に入る時以上の揺れだ。

朝食にレストラン瑞穂に出ていくと、やはり、人が疎らだ。

妻の様子も変だ。どうも食欲がないようだ。チョイスしたものを殆ど口にしないで残してしまった。先に帰ると言い出した。そうさせた。

 

八点鍾のアナウンスが天井に響いた。

昨晩、アントワープを出港後、川を下り北海に出ました。
にっぽん丸は現在、アムステルダムの南、ロッテルダム港に至る河口から北西方向20海里(37km)沖を北北東に向けて航行中です。

昨日、アントワープの港長が入港歓迎の訪船をしてくれた時の話では、本船が接岸した岸壁は、ナポレオンが最初に造った200年以上前の歴史的な岸壁だそうです。

アントワープ港は、内陸都市の中心部まで大型船が行き来することができ、物流の規模ではヨーロッパ第二の港と言われています。日本の港にはない、水運のスケールの大きさが想像できます。アントワープに至る川の名前は、ベルギー語でスケルダ(SCHELDE)川と言います。フランス語名はエスコー (ESCAUT)川と言い、フランス領土であった時代を偲ばせます。

この川はオランダ領土も通っている為、本日の02:15分頃、ベルギー人の水先案内人とオランダ人の水先案内人とが交代しました。そして04:時頃、河口付近の荒天によりボートが使えなかったため、水先案内人をヘリコプターで吊り上げて下船をさせました。

当初の予想よりも天気が悪く残念ですが、今日の天気図では西側に高気圧が張り出しているので、回復に向かうことを期待しています。

今夜2130分頃、エルベ川の河口で錨を入れてます。そして夜明けを待って、明朝0630分頃、水先案内人が乗船、09:時頃から、いよいよキール運河航行です。どうぞお楽しみに。

 

朝食を終えた後、4階のプロムナードデッキに出てみる。ピッチングとローリングをしている。果たしてデッキゴルファーは現れるか。防寒の用意をしてゴルフデッキに向かう。

9時少し過ぎになると、工藤さん、高嵜さん、松田さんが現れた。菅谷さんもニコニコしている。今日の床面の変動を楽しみにしているようだ。

P1000136 デッキゴルフが開始された。欠席したのは、中島、横田、高橋の3名だけ。もちろん、「ユージロー」あらため「フランク山縣」も、元気に姿を現した。ギタリストのゴンチャンも来た。これでシアターに行くのを諦めた。9時からの映画は、「不滅の恋、ベートーベン」(1994年米国映画)だった。

 

P1060019床面は、これまでになく、よく滑る。濡れているわけでもない。むしろ乾いている。パックが倍の距離を走る。用心しないと、フレームアウトして自滅しかねない。船尾の波を見ていると、うねりは、やはり大きい。日章旗は、大きくはためいている。プロムナードデッキから前方を見ると、水面が荒々しく上下動している。船がお辞儀をしているのがよく判る。

床面をかがんでパックを見つめるのに、誰も船酔いをしない。水平線など、誰も見ていないことが幸いしているのかも知れない。結果は、・・・2連勝できた。

終えてそのまま、ドルフィンホールに入る。

1115分から12時まで「入国説明会・ツアー説明会」が行われるからだ。タックス・リファンド(これまでに寄港地で多額に購入した者に還元される)の説明や、英国グリニッジ入港でのテムズ川桟橋の変更と、コペンハーゲン・ロンドン間のオプショナルツアーの先行説明会となった。

 

昼食を、やはり妻はパスした。瑞穂の入口で案内されるのを独り待っていると、後ろに高橋さんが来た。奥さんの姿が見えない。理由は、同じだった。では、男共で食べようと一緒のテーブルを頼む。

 

1330分から1430分までは、ドルフィンホールで、宮崎正勝先生の第1回目の講義。「地中海帝国と東の紅い海」

フェニキア人は、実は地中海文明の基礎を広く築いた人種であり、ローマ帝国は、実は海を制した国であったという講義だった。

 

妻は全く起きる気力もなかった。インフォーマルの夕食まで、身体を休めさせた。

P1020762 身支度をして夕食に出て行くことが出来た。気分転換に、今航海で初めて、カジノに出掛けてみないかと誘った。船客に与えられたカジノ券の封筒を持って、ルーレット台に立つ。妻は、瞬く間に、チップを失っていった。まあ、気分転換が出来たのならいい。隣のディラーの方をみやると、「ヒット!」、「スティ!」。山縣さんと工藤さんの声だ。工藤さんはしぶとく、山縣さんは苦戦していた。山縣さんは、カードが好きだ。

高嵜さんの部屋に電話する。呼び出し音が何度も続くが出ない。既に、行ってるのかなと、ネプチューンバーを覗いてみる。高嵜さんの姿はなかったが、渡辺登志さんが、僕を見つけて手招いた。カジノにいる妻へ、飲んでくることを告げる。

カウンターの止まり木に座る。ボトルキープしてある焼酎の「紅乙女」をお湯割にしてもらう。高嵜さんは、「紅乙女」を飲んで、ほんの少し前に部屋へ帰ったという。行き違いになったのだ。

 

登志さんが踊らなくなった理由を知る。腰痛で動けなくなっていたので、今度これに乗るためにリハビリをしていたのだという。元気に下船しても、3年間は長い。平均年齢が70歳のクルーズ客だ。この間に、皆いろいろあるのだ。

毎朝、プロムナードデッキを歩いているという。もう一度、華麗なソシアルダンスの足運びを見たいものである。

「貴男の本、あちこちの本屋で探したよ、見つからなかったんで、旅行業者に頼んで、手に入れたわよ」「そうだったんですか、有り難うございました」。

今回の06年度版も是非、出しなよ、と言ってくれる。

企画出版といっても出版社探しになかなか「難航」する。約束は出来ないが、今回のクルーズも毎晩メモを書き続けていると打ち明けた。

Dscf1964 ゴスペル歌手の磯村芳子さんの横で、水野さんが嘉田さんと飲んでいた。二人とも愛知県人。熱田区出身の水野さんは、自転車を持ち込んでいる。寄港地の街では、風を切って走っている姿をよく見かける。今の自転車は2台目だという。訳を聞くと、ルアーブル港で下船して、パリへ残すところ20kmという地点まで走り込んだ時、自転車が壊れたので、買い換えたのだ。

「ワールドクルーズ中に何度アクシデントがあろうが、自転車を買い足してでも、自分の足で漕ぐ」という。凄いバイタリティだ。

 

そんな話を聴きながら、登志姉御が両手を握って何度も言う。

「身体を大事にしてくれ、とにかく透析になる時期を遅らせるんだよ」

彼女は、最愛の人を亡くしているのだ。

「元気な姿で、来年会おう、07年の南洋クルーズで会おう!」

森田バーテンダーの見ている前で、カウンターに腕を持ち上げられて、指切りをさせられた。「軍資金の見通しも暗いなあ」と返すと、「金は天下の回りもんじゃあ」と一喝されてしまった。

何処をどう回って、自分のほうに来てくれるのだろうか。

「イヤ来る、きっと来る」。「宝籤で当てるか(笑)」。

「買わない奴には、当たらないよ(笑)」

「パットは、ショートしたら入らない!!」

「ホームランは、打席に立たなきゃあ、当たらない!!」

傍にいた客に、矢継ぎ早に、囃し立てられて、その気になった。

そうだ、申し込んで、駄目なら、いつでもキャンセルは出来る。

酔いも手伝って、意気揚々と廊下を歩いて帰った。

明日は、キール運河だ。ゆったりできる。

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