060526 コペンハーゲン
早朝にランジェリニー・ワーフに着岸した。
昨日に続いて、本日も下船する。寄港地の日は、慌ただしい。だとしても、贅沢な悩みである。8時15分には朝食を終えてくださいという日である。眠い目をこすって、洗顔し着替えを急ぐ。
朝食のテーブルには、一度ご一緒した方が先に着席していた。お名前は知らないご夫妻だ。
「ツアーに出ていますが、休む暇もなく出歩くので、今、此処が何処だったか、時々区別がつかなくなりかけていますよ」とお笑いになる。
「我々でも、話の中で取り違えが多くなってきましたよ」と返す。
「申し遅れました、萩原と申します」「久保でございます」
名乗った途端に、垣根が外れた。
「デジカメのお陰で、日付と時間から、どこの写真だったかは整理がつきますから、便利になりましたね」と話すと、
「そのデジカメですが、ずっと日本時間ですの。修正の仕方が解りませんので、そのまま」と奥様が、照れくさそうに言う。
「カメラがあれば、修正いたしますが」
「いま、此処にあります」
「私で判れば、直してみましょうか」
ダイニングの柱時計を見やりながら、今の日時に修正する。
「また、ロンドンから時間が変わりましたら、私たちを見つけてください」と妻。
やはり、人とのコミュニケーションで、悩んでいることが消えることもある。今回の船客は、なかなかうち解けない、いや、名乗らないから憶えようともしない、憶えないから表面的な挨拶しかしない。この繰り返しが続いている。昔は違ったね。
ネプチューンバーで飲んでいた人に言われていたが、まさにそうした空気がなんとなく、ぎこちなさを生んでいる。年度によって、客層が変わってくるのだろう。
久保夫妻と会話しながらも、8時には食事を終えていた。デッキに出て体感温度を測る。10℃ほどか。寒い。タートルネックに風防ベスト、それにオスロセーターを着込む。これは、氷河航行でデッキゴルフをした時のレベルである。妻はやはり、ダブリンで買ったアランセーターを着た。寒い海に漁師が着込むため、雨が降ってもよしと聞いたからだ。
コペンハーゲンは36年ぶりで来たのだ。前回、チボリ公園は閉まっていて入れなかった。鉄格子を両手で握って中を窺った記憶がある。なんとしても、今回は入ってみたい。中にあるはずの「ミニチュア・ワールド」を見たい。台湾では精巧な「小人の国」という公園を観てきた。早い話が、ガリバーの世界だ。日本にも生まれた「東武ワールド・スクエア」の元祖である。
入園料はクローネでしか買えないという。ユーロが使えないのだ。クローネに両替しないと入れないのだ。これでは、46年前と同じ悔いが残る。ツアーデスクで入園料を訊いてみると、一人2000円ほどだという。船内での両替サービスで、1万円分を450クローネに替えた。
シャトルバスは予定通り、9時に発車した。現地のガイドが乗っている。いつものシャトルバスなら、コペンハーゲンの街についてアナウンスをしてくれるのだが、それがない。一緒に出掛ける菅井美子さんが、それを指摘する。僕は40年前の記憶を引き戻そうとするが出てこない。豆電球が点いたままの園内と、その回りにある市庁舎、そして路面電車くらいがぼんやりとするだけだ。どの辺りに泊まったのかさえ判らない。妻はチボリの正面だったというが、違うとも言えない。
妻の買い物は、「ロイヤル・コペンハーゲン」。菅井夫妻は、孫へのレゴと決まっていた。
僕は例によって、キャップ。洒落たシンプルなデザインのキャップがあれば買う。今日頭に被ったのは、タイで泊まったホテル・ソフィテル・セントレ・ホアヒンのキャップにした。ホテル・ソフィテルは、コペンハーゲンにもあるし、ホアヒンが北欧人の避寒地として人気だからである。
目抜き通りに建つビルには、所狭しと企業ロゴが貼り付けられてある。事務所がその階にあるというのではなく、明らかに、ビルの壁面がアドボード化されている。建築中の工事現場は、これまた格好のアドボードにされている。日本も見習う必要がありそうだ。
アンデルセン像がある市庁舎前広場からストロイエという銀座通りを歩く。このストロイエ、世界で最初に歩行者天国を実施したことで有名になった。初めてと言えば、サッカーの試合応援に、国旗を顔にペインティングしたのもデンマーク人が最初だったという。ここを夕方歩いたことを思い出した。あの当時は、雪で凍結しないように電熱が敷設されていると言われ驚いた。そしてなかなか暗くならなかった。4月中旬だった。
街には、ニューヨークも香港もあった。「ロイヤル・コペンハーゲン」のロゴが右手に見えた。オープンは10時だ。そのまま、ぶらつこうと先に進む。まだ何処も閉まっている。がらんとした街に日本人だけが歩いている。ガンメル広場を抜け、聖霊教会を過ぎて、右前方に2店舗目のロゴが見えた。妻が目的とする「ロイヤル・コペンハーゲン」だ。王室の援助で創立された陶磁器メーカーだ。ここの2階、日本でいえば3階に、一級品の特価がある。工場直送のアウトレットである。ガラス食器の「バカラ」同様、毎年ひとつずつ買いそろえる人もいるらしい。
日本に入ってこない、気に入ったデザインがあれば、儲けものと思いたいというほどに注目のフロアである。隣はジョージ・ジェンセンの店だった。当然ここも10時である。ホイブロ広場の角のカフェで開店まで待つことにする。
これから始まる「ロイヤル・コペンハーゲン」のドラマ開幕前のウエイティング・バーにいる気分。店の中から眺めていて解ったことだが、「ロイヤル・コペンハーゲン」の建物だけが、左右の建物と異なっている。外観は色褪せ、剥げ落ちたままである。頑なに手を入れないで歴史的な時を刻ませている。プライドのオーラーを感じる。ますます、妻たちは心待ち顔で、陶磁器の大きなコーヒーグラスを手にしている。このコーヒー1杯25クローネ分。
ホイブロ広場にも、徐々に日本人以外の観光客が増えてきた。道路に顔が現れる。地下鉄の口ではない。公衆トイレなのだ。奇妙な風景を眺めていると、10時になった。目的のショップに人が入っていくのが見える。我々4人も腰を上げた。
「ロイヤル・コペンハーゲン」のグランド、0階を見回してから2階に上がる。絵付けされた器は、結構な値段が付いている。ブルー・フルーテッド模様の皿一枚を完成させるのには、絵筆を1197回動かすそうで、熟練絵師でも30分はかかるという。一筆でも間違えれば、初めからやり直しだ。
何も絵付けされていない「白い黄金」と言われる陶磁器を手にとっては、価格を見て換算する。ほうという声。これは、なにも日本人だからではない。他の外人観光客からも漏れているのだ。互いに目があって微笑む。
妻は真剣に選んでいる。菅井夫妻と僕は、あちらこちらをぶらぶら。彼女の最大の目的は此処だったのだから、仕方がない。リスボンのジェロニモ修道院前でジプシーが創ったテーブルクロスを買い損ねて以来、40年間悔やまれてきたのだ。女性の執念とは恐ろしいものだ。しかし、おかしなことに、自分たちの家への物は買わず、息子の嫁たちや人へのプレゼントに終始した。また、10数年、悔やまれるか。そう思ったので、お買いくださいと言ってたろうと姿を探したときは、もう支払いを済ませて店の外に出ていた。
ホイブロ広場で東夫妻に、ばったり出会う。これからアマリエンボー宮殿の12時の衛兵交代を撮るのだという。帰船せず、昼食はコペンの街でと決めておられるのだろう。
聖霊教会脇に焼き栗屋のような大きな鍋を煎っている露店が出ていた。覗き込むと砂糖に絡めて焼かれているのは、アーモンドだという。
タイ人かと訊かれる。キャップにある文字を指さしている。ホアヒンの解る人物が意外なところにいた。日本人だというと、僕も行ったことがあると、急に人なつっこそうになる。ホアヒンは、バンコックから100km南下した処にある避暑地である。国王のご用邸があり、治安は悪くない。北欧の観光客が多く来るリゾート地である。移住するつもりでリタイアー・ビレッジを下見に妻と訪れた。写真を撮らせてもらったので一袋買った。25クローネだった。コーヒー一杯分だった。
子供を乗せた自転車の形態は、日本でも採り入れたらいいと思うものがあった。不安定なハンドル前に重心をかけるよりも、サイドカーを直列にしたようなデザインなら、子供も伸び伸びとするだろうに、と思わせた。気になったので、意識してカメラを向けた。
ストレイエの出口に近いところに、目指していた「BR」という大きなトイショップがあった。心勇んで入る。菅井夫妻の目的であるレゴ売場を探す。探しているサイズのレゴ・チップが売れてしまっているのか、取り扱っていないのか、見あたらない。とりあえず店員に商品カタログをもらった。他のデパートで探してみよう、と、我々はその店を出た。
今日の僕は、まずいことに腎不全の薬をワンセット服用してしまった。外出の日には、その中から利尿剤を外すのだが、それをしなかったため、しばしば、尿意を催す。寄港地でのトイレは迷わず「M」に飛び込む。これは、2003年の時に、オスロで経験した。ホテルを探そうにも、そう簡単に見つかるものでもない。時間の無駄。そこへいくと、各国何処にも目につくのは、「M」のマーク。マクドナルドに入って、ひとまずはコーヒータイムにしてもらった。
それからの行動だが、待てよ、と。チボリ公園に高価な陶磁器を持ったまま、チボリ公園に入って、人に当たったりしたら・・・、いや忘れでもしたら、一大事だ。気になるので、一旦シャトルバスで帰船することにした。幸いなことに、臨時バスが増発されていたので、待たずに乗れた。こうした臨機応変のシャトルダイヤのサービスは、実に助かる。
ツアーのある日の寄港地では、手短に済ませられるようにと、船内食はバイキングになっている。写真をPCに取り込んでから、再びシャトルバスに乗り込む。
午後からの目的は、デパートでのレゴ探しと36年お預けだったチボリ公園だ。デパートは、王立劇場の前の「マガジン」を目指した。ストロイエへ入る反対側が入口だ。
目の前を浜畑さんが歩いていた。両手にいっぱい、「マガジン」のショッピングバッグを手にして帰ってきた。生花を仕入れてきたのだという。生花を選ぶのも飾るのも、浜畑さんが考える。生ものであるだけに、蔭ながら大変だと思った。
シャトルバスの発着所は、チボリ公園横だ。下車すると、アンデルセン通りの市庁舎をやり過ごし、チボリ公園とカールスベア美術館を挟んだティアテンス通りの角を左折して、ストーム通りを遊覧船の船着き場方向へ歩く。
昔の船溜まりの場だった、このニューハウン通りで蚤の市が開かれていた。ドーハルセン美術館の対岸である。種々雑多な、ガラクタ市に思えた。眺めるだけで通り過ぎようとした時、1969の数字が目に入った。その数字は、我々の結婚した年である。
文字の描かれた絵皿は、ローゼンタール製で、月面着陸の絵が焼かれてあった。価格を訊いた。なんと、25クローネというではないか。すかさず買った。コーヒーやアーモンドと同じ値段だった。神様は36年ぶりに訪れた国で、粋な出会いをさせてくれたものだ。
午後も、思いがけず、割れ物を手に歩くことになってしまった。目指す目的地は、聖ニコライ教会の裏手だと頭に入れてある。菅井夫妻のために「マガジン・デパート」へ急いだ。ブレマホルム通りに出た。「マガジン」に入ろうとして左手を見ると、なんと、更に大きい「BR」があった。何はともあれ、我々は当然のように、飛び込んでレゴ売場を探す。
幸い、美子さんの求めているサイズのレゴ・チップがあった。美子さん、破顔で、レゴの形の大きなギフト・ボックスを買った。その中に、お目当てのサイズのチップがかなりの量、詰め込まれてあるのだそうだ。
その間に、僕は、「マガジン」に入る。エスカレーターで5階のトイレに上がる。男女が互い違いに長い行列をなしている。なるほど、NY並みになってきたかと、感心しながら並ぶ。つまり、男女混用なのだと思ったからだ。ところが、女性陣が振り返りながら男性になにやら言っている。列んだ先頭の男性は困っている。デンマーク語もドイツ語も聞き取れないでいる。どうやら、僕と同じ観光客らしい。と、男は、頭をかきながら女性陣に礼を言って、消えた。次も。次も。なんということだ。女性のトイレに列んだことになっていたのだ。やはり、男性用は別にあった。用を足してエスカレーターで降りる時、
なるほど、「マガジン」という名前のデパートなんだと思わせるものがあった。壁面の広告は、雑誌スタイルでページをめくるように、各階を見せていた。開業するときから、決めていたな、このスタイルを、と、ちょっといい気分で外に出た。
菅井夫妻の買い物も終わったので、帰るという。シャトルバスの最終は、16時30分だ。分かれてチボリ公園に急ぐ。カールスベア美術館側のチボリ公園口に向かった。
園内に、今もあのガリバーワールドはあるのか、確認できなかった。外にはパンフレットもなかった。入場料は75クローネとある。あっ、と口に出た。ユーロでもクレジットでも支払いがOKなのだ。入園料のために、わざわざクローネに両替をしたのは、何だったのだ。
チケットを受け取って、ガチャンコと身体でバーを回す。入園した者に手渡されたパンフレットを開いて見る。また、あっ、という声を出した。「ガリバーがない!」消えていたのだ。既に、取り壊されていた。失敗だ。
妻は、せっかくだからと、チューリップなど咲き乱れる花壇を撮りまくった。絵葉書に、もしかしてその昔の面影くらいはないのかと売店で探してみたが、見当たらなかった。
此処に来たかった自分が恥ずかしくなった。確かめもしないで、来てしまった自分に腹が立った。
反対側の出口に向かうと、この時間、まだまだ入園を待つ観光客で行列が出来ていた。どうやら、こちらが正門だった。その中に、見慣れた顔があった。にっぽん丸のオプショナル・ツアー組が列んでいた。3度目の、あっ、である。シャトルバスに戻ると、4度目のあっ、もあった。一足先に帰ったはずの菅井夫妻と同じバスになった。
帰港したが埠頭辺りの港町商店街を少し歩く。シドニーのロックにも似た石造りの中に商店街で出来ていた。残ったクローネを使い切ろうと、アイスクリームを食べ、絵葉書を買った。ユーロが使えることが判ったので、僕はシンプルなデザインのキャップを捜した。
埠頭には、にっぽん丸の後ろに、11階層に3本マストの豪華客船が接岸していた。コスタリカ・アトランチカというジェノバ船籍の10万トンクラスだ。屋上のプールサイドには、船外に飛び出しそうなウオータースライダーまで見える。
にっぽん丸のデッキを見上げると、菅井夫妻がデッキゴルフに興じていた。夫唱婦随ではなく、婦唱夫随となっているようだ。美子さんは、ショートパンツをポートサイドで、サンダルをローマで、帽子はポルトで、手袋をコペンハーゲンで、デッキゴルフのために買ったのだ。今回誘い込んだ中では、一番意気込んでいるデッキゴルファーだ。そういえば、西出さんも密かに昨日の夜、自主トレをしていたらしい。
コスタリカ・アトランチカが出航し始めたので、18時、展望風呂に入った。追いかけるように、にっぽん丸も離岸した。4階ではボンダンスがはじまったようだ。埠頭にいる多くの人たちが手を振りだした。
夕食は、コペン自由行動の旅・反省会と称して、菅井夫妻との4人席となった。それぞれが好きなアルコールをオーダーした。熱燗、赤、白ワイン、ビール。
美子さんが何かをすると、荘輔さんが諫めることがしばしばある。今夜は、何を以て「美子る(ヨシコルという動詞)」というのか、面白おかしく定義づけの説明をした。同級生同士の夫婦だから、忌憚なく話せるのだろう、実に仲がいいのだ。
船内にアナウンスメントが流れる。「パイロットの話ですと、例年以上にまだ長い冬だそうです。通年から5℃低い10℃です。まもなく、左舷側にハムレットの舞台にもなったクロンボー城が見られます。19時25分、エーレ海峡の狭い処に差し掛かります。右舷側はスエーデンのヘルシングボリという街が見えて参ります。ここは、2海路の右側通行で2隻分の狭さです。これからカテガット海峡を通りますが、しばらくは、コスタ・アトランティカ号と併走していきます」
夕食後はひさしぶりに「ビンゴの日」となった。2003年よりも商品群の価格帯が落ちてしまった分、司会役の蘇君は意識してか、益々冴えている。役者志望だっただけのことはあるか。2回目はビンゴ成立だったが権利を放棄して、3回目のボーナスを期した。しかし、読み上げられた数字の2回目で、簡単に討ち死にした。この乗船優待賞金を手にするのが、毎回、裕福なリピーターになるのも、不思議なことだ。今年もついていない。カジノ同様だ。
ラウンジ「海」で3回目の講談席を聴きに出る。一龍齋貞心さんならではの、カルチャー講談と称する薀蓄話。続いて「倉橋伝助」。勘当された旗本が、名前を変えて下総の髪結い、老夫婦に支えられ浅野家に仕えるまでの勘当物語ならぬ、感動物語。彼の講談は、聞き応えがあると船客からも評判で、ラウンジは、座る定位置が決まりつつある。蘊蓄で笑わせて、講談で泣かせる一龍齋貞心さんの芸。あと何回か。
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