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2010年7月

2010年7月 7日 (水)

060521 ドーバー海峡へ

上げ潮に乗って船は早くにイギリス海峡に出てこられた。深夜230分には、ル・アーブルの河口に出た。セーヌ川が蛇行しているので、子午線を行きつ戻りつをして、今は東経に戻ってきた。

八点鐘コメント昨晩20:00に出港、川の流れに乗って航行し、本日02:30にセーヌ川河口でパイロット(水先案内人)が下船しました。

現在、にっぽん丸はフランスの沿岸から11海里(20km)の沖合い、イギリスの沿岸からは19海里(35km)の沖合いであるイギリス海峡の中の狭い部分、ドーバー海峡を航行中です。
現在、ディープシー・パイロットという水先案内人を乗せています。本船は、この海域を頻繁に航行しているわけではないので、海上交通ルールの変更や、潮流などの自然条件が変わるなど、不案内な面もあるため、ルーアンからリューベックまで乗せているわけです。

本船のルーアン入出港にあたっての本初子午線通過をご報告します。1908:17に東経に入りました。 そして本日の02:30に東経から西経に移り、03:30に再び西経から東経に戻りました。

ドーバー海峡の最狭部は、フランス側のカレー市とドーバー市の間で、幅は17海里(31km)です。本船の位置は、すでに北緯50度を超え、日本の北海道よりも北、サハリン(樺太)の中央部の緯度に達しています。天気は、イギリスの西側に低気圧があり、まだ春爛漫とはいきません。

本日の航行予定は、現地の潮流と航行管制により、昼12:30頃に川の入口で投錨、夜22:00頃、水先案内人を乗せて川を上り、明朝05:00頃、アントワープに接岸予定です

まだ天候は変化するとキャプテンのアナウンスだった。西南西の風が10mあるが、追い手と追い波で揺れもない。気温13℃、海水温106℃。昨日は、この周辺は、5mの波が立っていたそうだ。

 

二人とも風邪気味である。少々鼻水が出る。朝食は遅くに入る。早々と食べて出る。部屋に戻り、アンダーウエアを冬用にして、後部甲板に出る。

 

9時スタートのデッキゴルフ、1回戦。自軍は、高橋、ミセス松田、菅井、萩原、高嵜の面々。美子さんが権利玉を放棄し、敵の3人のゴールを時間切れまで阻止するヒール役になると言ってくれた。ところが、敵は3人、巧い連携で目くらましをし、美子パワーをすり抜けて、1人がホームゴールを決めた。1015分リミット。この時点で、負けが決定。萩原、高嵜さんの二人が先に上がったことが最大の敗因だった。反省。

 

2回戦は1115分リミットでスタート。横田、ミセス松田を円滑に移動させるために周囲をガードし、攻撃する役回りを僕が引き受けたのだが、自分自身が2ホール目の上がりに時間がかかり過ぎ、権利玉の数が時間内に増えないのだ。敵は好調な中島を中心に、巧妙な連係プレイで4ホールへの上がりが早くなった。僕がドボンされ、救出にきた松田キャプテンまでもがドボンして自滅。この時点で劣勢は覆らず、連敗で終わった。反省しきり。

 

 

 

昼食後、1230分。船は、投錨して、上下船規制のため、潮待ちとなった。

 

Pict2688 デッキゴルフの打ち上げ会は1630分、リドテラス右舷テーブル。現在、にっぽん丸以外の船では楽しめないゲームであるため、航海中の時間を目一杯楽しもうという人たちが自然に熱くなる。絆も強くなる。ホールインを出した者が、拍手された分、ワイン代を寄付をする。名付けて、「ホールイン・ワイン」である。

最初は、ビールから始まり、持ち寄ったり、買ったりしたおつまみで、粛々と始まったが、「え?、ワイン開けてないのお?」の菅井さんが拗ねるまで、誰も気がつかずに忘れていた。美子さん、ワインオープナーに悪戦苦闘する。あらためて、乾杯をする。

待ってましたとばかりにワンボトルが空いてしまった。2本目を開ける。まだ何本もあるから、イケイケの空気だ。スタッフの黒川君、田実君、蘇君が加わった。彼らは、勤務時間中なので、ソフトドリンクしか口に出来ない。

 

Pict2682 Pict2699 ここで、考えてきた各自のニックネームを発表した。何度も、笑いをもらう。喜んで当人から承認を貰った。

披露すると、(俺についてこい、嵐を呼ぶ男を自称する)「ユウジロー山縣」に、(夢の中でもイメージ・トレーニングしているという)「ユメレン横田」、(いつも笑顔の絶えない)「ニッカリット高橋」、(ホールインワン命中率を誇る)「ストレート菅谷」、(カンペールの高級サンダルを履く)「サンダルキック菅井」、(見逃す振りをして殺す)「オートボケール高嵜」、(短いパットの上手い)「ナイスチョット松田」、(ゲートボール審判員資格者の爺や)「ジャッジジー中島」、(既に03年分の試合を消化したので)「バテミス萩原」、(長い距離を刺す)「ロングシューター松田」にタクナウのギタリスト、「ゲンキ・ゴンチャン」。以上が下船までの仮の名前である。エピソードを盛り込んで、再考する場合があることを伝えておいた。06年度の船友は絆の強いメンバーとなった。

 

Pict2701Pict2705 場は益々熱くなり、笑い声も高まった。あの冷静な松田さんの喜び方は尋常でない。身体を泳がして笑っていた。いくら騒いだとしても、隣のプールサイドもフィットネス・コーナーにも船客はいないので、お構いなしだった。飲まない菅谷さんと松田さんに、コメントをと振ったのだが、美子さんが話し出した。

 

ワールドサッカー観戦涼子の話だった。プレミアムものの「クロアチア戦のチケット」を持って飛んだというので、かなりのサッカー狂だと思って聴いていたが、彼女に口から出たのは、

「私、サッカーってどんなスポーツか、全然知らなかったのよお」

聴いたみんなは、どっと体を崩した。もし、熱狂的なサッカーファンがいたら、どうなっただろうか。

Pict2694 バケツに山盛りの缶ビールも飲み干してしまった。酔いも回ってきて、支離滅裂になりかけた。後日、これまでの戦績表をエクセルで提示することにして、お開きとなった。繰越金は1万円強を残す。

次回は、ホールイン・ワインが10本目に到達次第直ちに、夕食を懇談会に変えることにした。果たして、あと9本は誰と誰が達成できるのだろうか。おそらく、キール運河通行の夜だと予測しておく。

 

夕食は、ほろ酔い気分だったので、奥座敷の席でひっそり座ることにした。妻と一緒に白ワインを飲んだ。差し出されたステーキは見た目にも食欲を誘うのだが、フォークを持ったままで、口に運ぶ気がしない。打ち上げ会で、アルコール腹になってしまったようだ。どなたも同席していないのを幸いに、食事を取らず、エスプレッソを飲んで、すぐに席を立って部屋に帰った。

 

夕方のワインが効いたせいか、無性に眠い。時間は丁度、メインショーの最中。パジャマに着替え、中継画面を部屋のテレビで見終わる頃には意識を失っていた。

 

左大腿部内側が攣ったことで、目覚める。ドライヤーを探す。熱風を当てて、バンテリンを擦り込む。3時間は眠ったことになろうか。

 

明日は、ブルージュまで足を延ばしたい。アントワープからブルージュまでの下調べをすることにした。

「アントワープ」は日本語地名で、現地では、「アントウエルペン」と発音しないと通じないかも知れない。「ブルージュ」もフランス読みで、地図上はオランダ語の「ブルッヘ」も頭に入れておかないと。「オランダ」という国名さえ、現地では「ネーデルランド」だ。ガイドブックでは、アントウエルペ駅からブルッヘ駅までは1時間と書いてあるが、船内で得た地図には、困ったことに、鉄道路線が記入されていない。着岸港からアントウエルペン駅まで歩く距離は、目測で約2km。ゲント駅で乗り換えなのかどうか、駅員に訊こう。列車の時刻表ってあるのだろうか。

寝ていた妻に、明日の行動はどうするのかを訊く。アントウエルペン周辺を独りで歩くわという答え。

 

24時、船が静かに走り出した。川を遡り始めたのだ。ブルッヘは、右舷側の方向で近い距離なのだが、船はアントウエルペに向かってしまう。だから、明日は、列車で戻ることになる。アントウエルペには、明け方の5時入港する予定だ。

 

部屋が寒い。足下が冷える。さあ、もう一眠りだ。

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2010年7月 1日 (木)

2007.05.20 モン・サン・ミッシェル

朝、6時のモーニングコールが2回来た。機械的な声ではない。生の声である。60名に電話するのだからツアースタッフも大変だ。

0階の食堂に降りていく。高い天井のレストランは、気持ちがいい。しかし、ダノン・ヨーグルトの国なのに、それはなかった。その商品の日本発売は、僕が担当した。新鮮な野菜をと見回したが、サラダもない。パンとスクランブルエッグ、スクイズされたフレッシュ・ジュースとコーヒーしか取れない。やはり、それだけの予算を組んでいないことを察する。

早々に部屋に戻ってディバッグを背負う。入り組んだ廊下のため、部屋に戻れない人や鍵を開けられない人が焦っていた。アテンドする。

正面玄関に出ると、地面が濡れていた。清水チカちゃんによると、12時近くに雨が降ったらしい。早くに眠ったんですねと返された。

 

バスはモン・サン・ミッシェルへと走りだした。ところが、しばらくすると、窓に激しい雨が叩きつけてきた。みな不安顔になる。

ガイドの後藤さんが解説する。この辺りは天気の変わりやすい地域で、1日に四季があると言っても不思議ではないのですと。一日に四季があるとは、3年前にセント・アンドリューズで聞かされた言葉と同じだった。モン・サン・ミッシェルの土地の天候は崩れにくい処ですからと、慰められる。

 

窓に容赦なく雨粒がはじける。車内は科目なってしまった。トイレ休憩で停車したのを挟んで、3時間、畑の向こうに、忽然と不思議な山が見え始めた。

Dscf1843 山に見えたのは、モン・サン・ミッシェルの城のシルエットである。

モン・サン・ミッシェルの広大な干潟は、湾を含めて世界遺産となっている。

 

おいでおいでと手招きするように、その山は、徐々に徐々に大きくなってきた。

幻のような、異様な光景であることは間違いない。蜃気楼の向こうに浮かんだアニメの世界の大きな張りぼてのようでもある。モンサン・ミッシェルは、かつて潮の満ち引き差が15メートルもあった。英国にも小島に立つ城があるそうだが、日本の厳島神社のあ廿日市市とは姉妹都市なのだそうだ。

Dscf1861 現実に引き戻すのは、人工的な橋である。ヨーロッパの江ノ島や蒲郡の竹島である。巡礼者が潮に呑まれて命を落としたことから、血続きで渡れるように道路が出来たのが、1877年頃だったという。約1000メートル、この橋を走って、城の下にバスが停車した。橋とは言えない堤防である。半島化してしまっているのが現実である。タンゴといわれる泥砂が30万トン堆積してしまって、潮の流れを壊してしまっている。このため、国家プロジェクトで、昔の島の状態に戻そうとしているという。堤防を橋桁にして、潮流を止めない方策も考えているとか。

 

城壁の旗がバタバタと音を立てている。雨は止んだが、強い風は残っていた。

 

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門を入ると、砲台と砲弾が置かれて あった。 緩やかな坂道を歩くと、左手にかの有名な伝説的なオムレツ屋があった。メニューは30ユーローとある。

イタリアと同じで、狭い参道の両脇には、昔ながらの職人店や土産店が軒を連ねる。一歩一歩踏みしめるように、ゆっくりと巡礼の気分で石畳を上る。

 

 

Dscf1871 Dscf1870 最上階には、修道僧が歩きながら瞑想にひたるというアルハンブラを思い出させる回廊があった。なるほど、周りを取り巻く円柱は修道士の歩くリズムに合わせた間隔で立っているのだそうだ。天井は木製の船底をデザインしている。そして、中庭は、「エデンの園」を喩えているという。「天空の神の国」である。

モン・サン・ミッシェルは、中世の研究センターだったとも言われる。数学、天文学を修道僧は学び、この回廊の中央は、薬草園として、予防医学の研究も行われていたようだ。そして、巡礼者の治療に当たっていたと伝えられる。回廊の周囲には、バラのモチーフにした彫刻が彫り巡らされており、かつては、真っ赤に塗られていたというが、いまは、色褪せているというより、既に年月を経て、白くなってしまっている。14世紀のころ、バラは、罪を知らないマリア様の純潔を表しているのだと言われている。その後、象徴は、白百合に変わっていった。

 

Dscf1874 大天使ミカエルが、夢を信じない聖オベールの額に印をつけるレリーフは、この城を訪れる者たちを釘付けにしている。フラッシュがひっきりなしに瞬く。

フランスの西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶこの小島に大天使ミカエルが

町の司教だったオベールの夢に大天使ミカエルが現れ、「あの岩山に聖堂を建てよ」と命じた。ただの夢だと思っていたオベール司教に業を煮やしたミカエルがオベールの頭に指を突いて告げた。翌朝、オベールの頭に穴を開けて、その要請が夢ではなかったと悟らせた。「天から露が降りた場所を乾かして、そこに建てよ」と言った。その場所は、ケルト人が「トンブ山」と呼んでいた岩山だったが、島の頂上に小さな礼拝堂を建てた。それまで陸続きだった岩山は、一夜にして海に囲まれる孤島と化した。そして修道院を造り、その回りを増築し続けて、やがて麓に街を造った。こうして、デコレーションケーキのような姿が出来上がったのだ。

Dscf1887 Dscf1877 Dscf1878 増築に増築を重ねた城であるから、ロマネスク様式からゴシック様式へ改修した

時代毎の特徴ある柱、梁のアラカルトが見られる。岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた痕跡は、深層部に発見されているという。

門の片隅にあった砲台と弾は、英仏戦争の砦になった証しだが、歴史に翻弄されたモン・サン・ミッシェルは、フランス革命後の18世紀には、四方を海に囲われていることから、監獄島にもなった。ナポレオン3世の勅命で閉鎖されるまでに、囚人は1万人以上が幽閉され、「海のバス ティーユ」と言われる時代があったのだ。

再び修道院として再開されたのは、修道院創設1千年記念にあたる1966年ので、13年後の1979年にユネスコの世界遺産に登録された。03年の世界一周クルーズで立ち寄れなかった妻の切望した場所である。

 

Dscf1873 Dscf1872 食堂は天井が高く、その天井は、やはり船底のように、中央で高くなっていた。天上の丸底は、ノルマンディー地方に上陸したバイキングの船底技術を用いたもの。ここが、あの旧約聖書にある「ノアの箱船」の大きさを現しているといわれる。隅には当時の煮炊きをした釜戸跡があった。

この「ノアの箱船」で思い出されるのは、平和のシンボルとされている鳩とオリーブのことだ。国連旗もオリーブで地球を囲んでいる。宮崎先生の本からの受け売りだが、ノアの箱船こそ、鳩とオリーブを生んだと一般的には思われているが、実はこうだ。

 ・・・人類の罪を怒り洪水を引き起こした神も、箱船に乗せたノアと動物たちに気遣い、信心深いノアたちのために、やがて天から降らせていた雨を止めた。台地が乾き始めたとき、ノアが空に放った鳥は、最初はカラスだったという。それから1週間後に飛ばした鳩が、低地に育つオリーブの葉をくちばしにくわえて帰ってきた。ノアは、水が引いたことを察知したというもの。・・・・・・・

この物語の原型は、シュメール人の洪水説話「ギルガメッシュ叙事詩」によるもので、オオガラスが鳩の役であったそうだ。カラスは死肉を食べるので、ユダヤ人は忌み嫌い、鳩に入れ替えたのだという。日本の誇る煙草「ピース」も、カラスだったら果たして世界的なデザイナーのアイディアだからといって、お役人は採用しただろうか。信心深い「ノア」の話をふと思い出した。

 

Dscf1886 Dscf1924 Dscf1881 一番興味深かったのは、古代のエレベーターだった。城から城下へ、斜めの石垣に滑り降ろす橇があり、それを大きな滑車が人力で引っ張り上げられる仕組みが考えられてあった。まさに大車輪であった。これは、囚人たちの労力によって、彼らの食料を下から引き揚げていたという。計算によれば、2トンの能力があったとされている。修道院から戦乱の砦となった時代には、武器を運んだのだろうか。

 

礼拝堂の横にある大テラスに、観光客が出て、ノルマンディーの海岸を見晴らしている。風が強いので、人の入れ替わりが激しい。

Dscf1896 Dscf1917 ここから、撮ったのかどうか忘れたが、遥か沖合いに、もうひとつの島が霞んでいた。モンサン・ミッシェルとは、ミカエルの山という意味だが、三山あったと言われる内のひと山は、海中に没したという伝説がある。今でこそ、この城の上空からの景色を見て感嘆するが、当時の巡礼者たちには、想像も出来ない光景だっただろう。

 

 

モン・サン・ミッシェルは、夜になるとライトアップされるようだ。海の浮かぶ幻の城としては、フォトジェニックであるに違いない。七つのホテルがあると聞かされたが、余り目に付かなかった。冬には、周囲が雪で覆われるそうだ。こうなると、もう、額縁を持ってきて眺めるしかない。干潟の先には、草を食べている羊の群れがよく見られるが、この草は、満潮時海水に没しても生育する草で、羊の飼育には、最適だという。こちらでは、その羊肉を「プレサレ」と称しているとか。

 

Dscf1895 尖塔に立つDscf1893Dscf1892聖ミカエルの像が内部に安置されてあった。帰りがけに、望遠レンズに聖ミカエル像を捉えておいた。

 


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参道の土産店でシールドを買うつもりだったが、湯人、家族のためにはクッキーだわと、妻に押し切られた。「プーラおばさんのクッキー」だった。

 

 

モン・サン・ミッシェルを後にしたバスは、近くのレストランで昼食を取るために停まった。ここでは、食べ損なったという不満顔の我々に、オムレツを食させてくれた。テラスの向こうには、堂々としたモンサン・ミッシェルの姿が眺められるのが売り物のレストランだった。

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