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2009年5月

2009年5月 6日 (水)

060516 ポルト


 

朝は時差の調整で1時間巻き戻した時間となっていた。起きたのは、715分。つまり、時差がなければ、朝食にはアウトだった。昨晩は、二人とも3時までパソコンを叩いて写真の整理をしていた。


999_3447 朝食には、高嵜さん、東夫妻、仲野先生とのテーブルに案内された。なんだかんだとメールの話などをしているうちに、シャトルバス発車の時間になってしまった。急いだ。

「このポルトには、カンペールを売っている店はないようですね」内山さんが僕を見つけ歩み寄ってきて申し訳なさそうに、そう報告してくれた。この街で、靴探しは、諦めた。

 

<コース名:ぶらり散策 古都ポルト半日観光(午前)>これが、本日のオプショナル・ツアーのタイトル。

9時のスタートで、バスは2号車。日本人ガイドは清水さん、ローカルガイドはパウロさん、そしてドライバーはマルデマールさん。にっぽん丸の赤いポロシャツを着たツアースタッフは、ディラーをしている佐藤敦子さんとスポーツトレーナーの高橋けいこさんの二人。「夜の女と朝の女のコンビです」と、巧い自己紹介があった。乗客に受けた。拍手しながら笑いこけた。

 

ポルトはヨーロッパ大陸の最西端で、リスボンに次ぐ第2の都市。商工業の街である。人口は1000万人で、ほぼ東京都と同じだが、土地は92100㎢で、スペインの1/5。北から南までは560km、海岸線は850kmと、細長い国である。

市内に30万人、郊外には60万人で、都心部への通勤ドライバーによる朝のラッシュは何処の国も同じだ。街が世界遺産に認定されたために、街のあちこちで道路や世界遺産建築の保全工事が行われて、年中工事中になっているそうだ。ポルトガルのオフィスは10時始まりが多いので、このラッシュ時を港から中心街に向かう道は30分と少々時間がかかる。

 

999_3445ポルトは、正しくは冠詞が付いて「オ・ポルト(港の意味)」という。昔から交易、航海の出発点としていたことが解る。カレはローマ軍が駐留していた当時、リスボンとブラガ、またローマとブルガを結ぶ交易の中継地点として栄えた。

ローマ帝国が衰退した後は、ムーア人に50年間支配され、フランス・ブルゴーニュの貴族アンリ(エンリケ)伯爵が、教会勢力や十字軍などの支持を得て、レコンキスタ(国土回復運動)を起こした。ポルトゥカレ伯になったアンリ伯の息子、アフォンソ・エンリケスが、更にレコンキスタを進めて、1143年にカスティーナ王国から分離独立をした。ここに、ブルゴーニュ王朝が始まり、初代ポルトガル王になった。この時、北のポルトとドウロ川を挟んだ南の、ガイアという地が共に連合した。ガイアは、以前、カレと呼ばれていたことから、「カレの港」、「ポルトゥス・カレ」という呼称が、この国名、ポルトガルになったのである。

 

14世紀には、欧州に蔓延した黒死病を怖れた貴族や地主が、教会や修道院に土地財産を寄進したことから国王の税収が減少し、再びカスティーナ王国の軍が動き出した。この対抗策として、英国の弓兵の援護を受けることで、英国との同盟が強化されていった。ワイン製造輸出業者には、何代も住み着いた英国人が多くなっていくのは、こうした背景があったからである。

 

15世紀から16世紀にかけてポルトガルは、世界に君臨する海洋王国だった。その植民地だったブラジルやアフリカの一部では、現在でもポルトガル語が通用する。

1543年、日本の種子島に来たのは、ポルトガル人だった。それ以来、随分と日本語化された言葉が多いのは、よく知られているところだ。


Paoのパン、capaのカッパ、kopのコップ、それにボタン、タバコ、金平糖、カルタ、ばってら(バテラ船)、チャルメラ(チャラメラ)、シャボン、ピンキリ(ピント=ひよこ、キリ=キリスト)、おんぶする(オンブ=肩)、先斗町(ポント=先っぽ)、トタン、天ぷら(テレプラス。この日は、肉食が御法度のキリスト教徒は、野菜や魚をフライにしていた)だが、カステラに至っては、豪州のカンガルーと似た問答が語源となった。大名に献納するとき、木箱に入れた。家来が指さしてこれは何だと問うた先には城の焼き印があった。ムーア人を追い出した七つの城を紋章にした焼き印だった。キャッスル=カステラと答えたというのだ。誤解がそのまま、日本語化したのだ。ポルトガル人には、意味不明の代物となったのだそうだ。

未知の人との交流には、思い違い、勘違いがそのまま、その人の評価にされかねない。だからして、この船の中での船客同士の誤解も、互いに避けたいものである。

 

バスは、シャトルバスの発着所になっている市庁舎の坂を降りていった。アリアードス大通りの広いグリーンベルトを抜けて、グレリスコ教会には向かわず、左折してサン・ベント駅から坂を下り、カテドラルへ到着した。

999_3462 カテドラルの正面を見上げると、鎧甲冑姿の銅像が立っている。イマラ・ペセラとかいう武将で、ムーア人をこのポルトから追い出した守護神のような人物だそうだ。聖堂の壁一面は、そのムーア人が残したアート・タイルの技術で描かれた青と白のアズレージョが、彼を引き立てている。

 

このカテドラルは祭壇が見事だと言われているが、内部に入る様子もない。「道路側」「道路側」とガイドが口にしたのは、眼下に流れる「ドウロ川」のことである。ここから、そのドウロ川の対岸にあるワインセラーの眺め、また、市中の眺めがいいのでカメラスポットとして停車したに過ぎなかった。



999_3473 ドウロ川には5本の橋が架かっているそうだ。その中でもエッフェルの弟子が1886年に造ったというドン・ルイス橋が見える。エッフェル塔を横倒しにしたような橋だ。設計したエッフェルの弟子は、ベルギー人技師で、この橋の高さは68mもあるという。両岸の高低差のために2重構造で、上はポルトの中心と対岸の丘の上を、下はポルト貿易センターとヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアのワイン工場を結んでいる。バスはこれから、ワインの貯蔵庫が建ち並ぶ街、ガイア地区に入るのだ。

宮崎駿のアニメ「魔女の宅急便」でキキがホウキに乗って飛んできた街だよねと、誰かが話していた。

 

エッフェルと聞いて、思い出すことがある。リスボンで、エッフェルの造った、いかにも堅牢そうな大きなエレベーターに乗ったときのことだ。今日が僕の誕生日だと口にしたら、乗り合わせたアメリカ人観光客がハッピバースディ・ツーユーと全員で歌ってくれた。パリに向かう前日の42日だった。エッフェルと聞くと、嬉しいそれを思い出す。


 

999_3480 999_3481 ドウロ川を渡ると、ワインブランドの看板が一斉に目に入った。牛のマークのオズボーンとか、よく飲んでいたサンデマン、帆船マークのカレム、獅子のマークのティラーズ他、ワインラベルの屋外広告が山の斜面に沿って立ち並んでいる。川縁には、クラッシックな船がワイン樽をくくりつけて浮かんでいる。ワインブランドのロゴやシンボルマークが帆に描かれている。訊くと、ラベーロ船という。あたかも、川がショーウインドーのようだ。現在は宣伝用としてドウロ川に浮かんでいる。今は、年に1度、624日の聖ジョアン祭の日に、昔ながらの衣装を着た船頭らが、河口からこの場所までレースをするんだそうだ。

 

日本人が最初に口にしたのは他ならぬポルトガルのワインである。16世紀半ばポルトガルの宣教師によってもたらされた。安土桃山時代にフランシスコ・ザビエルがまず鹿児島で領主、島津貴久にチンタ酒を献上し、次は長門の地に伝導し、領主大内義隆に献上した。織田信長は滋養強壮によいと珍重していた。珍陀(チンダ)とは、ポルトガルの赤ワイン、ティントであった。

「ポートワイン」と言えるのは、上流域のドウロ山地で栽培された葡萄酒をパイプという樽に詰め、ラベーロ船で、このガイア地区に運び、酒庫で一定期間の熟成を経てポルト港から出荷されたものだけである。尤も、いまではラベーロ船ではなく、大半がトラック輸送をしているのだが…。

 

999_3479我々のツアーバスのコースには、サンデマンで試飲することが入っている。バスは、サンデマン本社の前で下車した。



 

999_3492なにやら、柱に目盛りの描かれた玄関を入る。

 

理由が判った。雨季になると対岸のドウロ川は洪水になるそうだ。長年に亘るその洪水の水位を、玄関に掲示しているのだ。貯蔵庫の中にもそれがあった。伊勢湾台風に襲われた名古屋の実家も、その恐ろしさを忘れないようにしろと、父親が柱に傷を付けて、海水の高さを示していた。たとえ洪水に浸かっていようとも、1週間は持ちこたえられるように樽は造られているという。我々をガイドする社員は、ブランドマークのサンデマン・マントを羽織っている。

 

サンデマン・マントと呼ばれているこの黒マントは、コインブラ大学(ポルトからバスで1時間半の距離にある名門大学だそうだ)の学生が羽織る伝統的な黒マントであるが、実は、日本に伝わってきたポルトガル語に大いに関係する。これこそがcapa(カパ)、つまり、合羽である。


P1090084 上野の合羽橋の合羽は、人の名前である。湿地帯だったあの地域は、ドロウ川同様に、頻繁の出水で住民が困っていたのを、私財を投げ打って堀割工事に当たったのが、合羽屋喜八という人物で、隅田川の河童たちが手伝いに上がってきた完成させたという謂われがある。その河童は、河童川太郎として、商店街に立像が立っているが、現実の合羽喜八は、合羽本通りの曹源寺に墓がある。僕の家から歩いて10分ほどのところだ。

 

江戸時代の日本では、男の道中着が「合羽」と言われ、近年「ケープ」といえば、女性の、和装洋装に羽織る短いマントの名称になっている。

 

薄暗い樽の保存庫を抜けると、明るくなった広間に通された。ここで、PR映画を観させられた。日本語版だった。1928年に創業されたサンデマン・ワイン。「サンデマンは、見事なアドマンだった」のだ。実は、英国人が買い取って創りあげたワインである。経営者が実行したのは、同業者に先駆けてロゴマークを制定したことだ。ラベル・マークをデザインしてボトルに貼り付けた。媒体を活用して、ブランド化を加速した。そのロゴ・マークは、ポルトガルの学生マントとスペインのカバレイロ帽子を組み合わせたもので、名前まで、「サンデマン・ドン」と名付けてキャラクタライズしていたのだ。かの、牛のマークやティオペペのおじさんマークは、その後に生まれたキャラクターなのだろうと想像できる。いまでは、山の斜面に誇らしげに立っている姿を、ボルサ宮前のエンリケ航海王子が指さしているようで面白い。

 

ポートは、いわゆる通常口にしているワインとは違う。シェリーやマディラといわれるアルコールの強いワインである。アルコール度数は20度。発酵中のワインにブランディを加えて、発酵を途中で抑えることによって葡萄が本来持つ果実の甘さを残しているのが特徴。白は冷やし、赤は常温でいいとされる。

3年前のティオペテの工場では、試飲できる種類は多く、つまりは買える種類も多かった。ここで試飲できるのは、当てがいぶちの量で出された2種だけ。アペリチフとビンテージの極端な2品種だった。尤も、ティオペペの時も、空き腹で試飲を重ねた人は酔ってしまった。そしてあのときは、工場直販でしか手に入らないという銘柄を、僕も随分と買ってしまい、バスまで両手に重い荷物を持って閉口したが、今回は、玄関前にバスが着くのでこの点は楽だ。

ビンテージは、コルクを開けたら、二日間しか持たないが、1994年もののビンテージなら、いくらか日持ちがいいと説明される。結局は、1994年ものを買う人を増やした。

 

こうしたガイアのポートワイン工場は、20カ所弱ある。いい気分で試飲のはしごをすると、強いワインだから、酔うこと間違いなしだ。開館時間は10時頃から夕方までで、正午から14時までは休み時間となる。尚、土日祭日は閉館のところが多い。


 

999_3498999_3495 再び、ドウロ川を越えて、ボルサ宮に向かった。エンリケ航海王子が指さす銅像の前でバスが停まった。エンリケ航海王子は、外洋航海には2回の経験しか持っていなかったが、その後、彼は航海大学を創ったそうだ。

そう、このエンリケ王子は、ポルトガルの万国博覧会のシンボルとしてリスボンに建てられた「発見のモニュメント」で、バスコ・ダ・ガマやマゼランら探検家や科学者、ザビエルなど30名を率いて舳先に立つ王子である。

 

ボルサ宮の「ボルサ」は、株を意味する。焼失した修道院跡へ19世紀に建てられた証券取引所で、ポルト商工会本部である。ボルサ宮の特徴は、高い天井の明かり取りをガラスで設計した中央のドーム。1842年に、ポルトガルで初めて鉄を使った建築として残ったのだが、これが、後の鉄橋建築への先がけとなったのだという。証券取引所ありて、ドン・ルイス橋が架かった。

 

また、「アラブの間」は、ムーア人、つまりアラブ芸術の微細な模様で、アルハンブラ宮殿を模したものだった。極彩色のアラベスクが見ものだが、壁のタイルの一部には、「すべてはアーラの神のもの」という、アラビア文字が文様となっていた。3年の年月を費やしたこの柱の装飾には60kgの金が、すぐ横にあるサン・フランシスコ教会では、樫の木で彫刻された、二重三重の立体的な内部装飾に金は100kgが塗られた。そう聞かされて、眺めていた船客から、感嘆の声が出る。当時植民地だったブラジルから金が大量に手に入るようになり、このような贅沢な装飾が可能となったという。

左から2番目の礼拝堂にある、キリストの家系を木の幹と枝に示したのは、有名な「ジェッセの家系樹」だった。また船に横たわったマリア様、というのはサン・フランシスコ教会だけだとガイドの説明があった。

 

 

どんよりとした曇り空だった天気は、光が出てくると、夏になっていた。長袖を着ていたが、汗ばんできた。帰船して半袖に着替えた。

ここ、ポルトガルの気候は、5月から10月までが夏で、特に、6月から8月までには、40℃の日が続くことがあるそうだ。冬は12月からで雨季に入り、3月のある日を境に急に春めいて4月は日本で言うところの梅雨になるという。つまり、日本と同じ四季があるのだ。

しかし、今冬は、52年ぶりにリスボンに雪が降ったことが世界的なニュースになった。雪が降ったことよりも、そのことで、リスボン市民が大人も子供も雪投げに興じて、1時間業務がストップしたことが事件だったのだそうだ。

 

999_3509 999_3507プショナルツアーが多くある日の船での昼食は、ビュッフェ形式になる。船内に残っている人数が少ないことからのバランスである。冷やしうどんを見つけたのでがダブルにしてもらう。僕にとっては、食べてはいけない牛丼があった。たまらず、1/4の小盛りにしてもらう。醤油味を口にしたのは、何ヶ月ぶりだろうか。刺身でさえ醤油を使わず、山葵だけにしている。ゆっくりとミニ牛丼を味わった。埠頭では、新鮮な食材が運び込まれていた。

 

シャトルバスは13時から1便のみとされていたが、ツアーバスの帰船時間が遅れたこともあって、1330分にも増発しますと、クルーズスタッフが教えてくれた。妻を急がせたこともあり、菅井美子さんは早く市中に入って、ゆっくり歩こうとステップに足をかけていた。

シャトルバスが走り出した。ツアースタッフがガイドをしてくれる。「アズレージョなら、是非、サン・ベント駅舎の壁を見てきてください」三木エージェンシーから派遣されているガイド役兼ツアースタッフの伊藤さんから薦められた。まずはそこへ向かうことにした。

 

下車したら両替をしたい、と菅井夫妻がいう。チベタベッキア以降、ヨーロッパでの船内両替は行いませんと通達があったので、ここらで不足分を変えておく必要があったのだ。探しながら歩くが両替所はなんなく見つかった。

自分たちだけで、替えてみるといい、二人は中に入った。レイトは149円だった。嬉しいことに高く戻っていた。


サン・ベント駅へは、下調べ済みの道で抜けて行こうと歩き出したが、美子さんが不安がった。一旦本通りに戻ってから駅を目指した。近道も間違ってはいなかった。頭に中に入れてきた地図は、大丈夫だと安心した。赤いポストがあった。街に対して急に親近感が湧く。

 

   999_3523_2 999_3522999_3516サン・ベント駅は、20世紀初頭に建てられたというポルトの表玄関である。事前にボルサ宮で絵葉書を買っておいたが、壁から吹き抜けの高い天井までのブルータイルの壁画、アズレージョをこの目で観ることができた。カメラにも収めた。史実に基づく歴史や生活をテーマにしたタイルの壁画だということだが、ガイド無しのため、詳しくは解らなかった。ここから更にリスボンへ向かう南に下ったアベイロ駅の駅舎には、もっと多くのアズレージョを見られるそうだ。鉄道列車での観光なら訪れることも出来るが、時間のない旅である我々には、記憶に留めるだけにするしかない。


999_3517 駅構内は終着駅としての列車留めがあり、上野駅に戻ってきたような気分になった。

改札口のない欧米の駅は、往々にして日本人を戸惑わせる。ホームに出る口に、電磁チェックの機械が立っている。日付と時刻をチケットの磁気カードに記録させるようだ。僕が、グラナダからマラガまで乗ったときには、こうしたシステムは、まだないアナログの時代だった。乗客がそれにチケットをかざして通るのを見て、菅井夫妻は、ローマでの列車体験の戸惑いが解消されたようだ。

 

駅を出た右手には、少しだらだらとした登り坂がある。その先に、地元の人で賑わう商店街が見えているが、美子さんはどうやらこの坂は登りたくないらしい。それならば、と美子さんが行きたがっている青果市場へと、頭の中の地図を思い浮かべて、緩やかな道を選ぶ。しかし、市場の閉まる時間が気になった。マラガの二の舞になる。歩きながら妻には、この辺りの右側だがと、小声で言っておいた。5mも歩かないうちに、地下に色とりどりの花が目に入った。999_3528 999_3529 生花市だ。覗き込むと、青果も並んでいた。階段を下りてみると、ここが、目的のボリャオン市場だった。なんと、足下に市場が現れるとは!地下だとは、地図に書いてはなかった。夏でも冬でも室温が安定していて、いい考えだ。

 



降りると、美子さんは、一目散にキュウリを求めて早足になった。妻には、イチゴがあったら買おうと言っておいた。イチゴは1kg2ユーロだった。美子さんからは空豆も見つけた、と声があった。美子さん、マラガでは買えなかった酒のツマミを見つけて嬉々としている。きゅうり1本、空豆、イチゴお買い上げ!!

 

999_3537 頭の中の地図では、市場の裏側の通りが、確か、繁華街のサンタ・カタリーナ通りになるはずだが、念のため、野菜を売っている小母さんに訊いた。2本向こうだと教えられた。一足先に出て確認する。角にはアズレージョで彩られたアルマス教会があった。


さすがにサンタ・カタリーナ通りは観光客が溢れていた。この土地で、もしも「カンペール」があるとしたなら、ヴィア・カタリーナというショッピングアーケードかもしれないと、目星を付けておいた。意外に大きいビルだった。念のために入って探しておきたかった。僕以外は、靴に興味があるわけではない。念願のきゅうりや空豆も手に入れたことだからと、三人には階上のカフェで休憩してもらうことにした。999_3541

 

アーケードの掲示板から、フットウエアの店を3軒見つけ出し、その階数を憶える。エスカレーターで登り、素早くカンペールのロゴか、それらしい靴を探す。ロケハンの時、僅かな時間に買い物をしていた癖が出てきた。最後の1店舗に、ついに、それはあったのだ。

店内には、カンペールのロゴマークもなく、他のシューズと混じってひっそりとディスプレイされていた。ところが、探しているデザインではない。そのカンペールは、ブラウンの一枚皮。日本には未だ出ていない形だった。

サイズ42を出してもらう。プライスは123ユーロ。なんてこった!原産地のスペインでありながら、ローマの三越と同程度の価格とは。高い。…迷う。

……少し、気が急いているのが判る。クレジットカードを出す。ところが、この店、キャッシュ以外は駄目だという。「銀行で替えてから来てくださいな、待ってます」と、女店員はにこやかに笑顔で言うのだ。「オブリガード!」と一旦店を出て、みんなの待つ最上階のカフェテリアに上がった。経緯を話すと、美子さんが現金を貸すわよと言ってくれる。もう一度、冷製になる。

履きたいデザインとは違う。迷ったくらいなのだからと、此処では買わないことにした。エスカレーターで降りながら、全員で店を見て回った。ネックバックをカバーする帽子を美子さんが見つけた。女性用だった。彼女は迷うことなくそれを買った。これで、美子さんは、デッキゴルフのための帽子、短パン、シューズを外貨で揃えたことになった。

 

もう少しサンタ・カタリーナ通りを歩ける時間はあったが、バス停に早めに帰りたいという意見が強かった。左折すれば市庁舎の裏に出るだろうという勘で路地に入った。美子さんの不安そうな顔を横目で見ながら、ドンドン進んだ。やがて、視界が開けて市庁舎の脇に出た。美子さんが叫んだ。「あっらあ、あそこぉ、シャトルバスの乗り場ね、ね、そうでしょ!出たああ!はははぁ」笑った。


アリアードス大通りのシャトルバス発着所には、既ににっぽん丸の船客が集まっていたが、予定のバス発車時間からすれば、25分も前であった。

ブラジル王と呼ばれたドン・ペドロ4世の騎馬像のあるリベルダーデ広場から、以前はムニシピオ(市庁舎)広場と呼ばれたフンベルト・デルガード将軍広場までのアリアードス大通りは、銀行を中心としたビルに囲まれている。ぶらつこうにも、時間つぶしの場所はなかった。ただただ、バスを待つだけだった。

 

16時半、帰船して展望風呂に行く。中で、西出さんとバッタリ。一日中自由行動だったという。ドウロ川での50分間クルーズもしたし、ワインの試飲もしっかりしたし、自分たちの足で、ツアーバス分を安く体験してきましたよと語ってくれた。

山縣夫妻も、パンを買ってドウロ川の堤に座ってワインを飲んでいたという。中島夫妻は、エッフェルの橋の先にあった小さな公園が予想外に眺めが良かったといい、シャトルバスよりも早くに出掛けた木島夫妻は、グレリゴス教会に誰よりも早くに登って、76mから市内を眺めることをまず目標にしたという。橋と川とクルーズ船とワインという組み合わせは、意外に自由な時間をそれぞれに創らせたのだ。

 

18時、菅井美子さんから、早速に、茹でた空豆が差し入れられた。美味かった。妻はイチゴをお返しにしたようだが、あれ、甘みはなかったわねえと美子さんから教えられた。即座に答えられなかった。そうか、イチゴは妻が一人で食べていた。

 

明日はデッキゴルフに参加しよう。バンテリンを肩に足にと塗りたくった。

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2009年5月 5日 (火)

06.05.09.シエナ~サンジミアーノ

 ホテルの朝は爽快だった。いつも、ヨーロッパの ホテルというと、不思議なことに、部屋にミルクっぽい香りがある。大理石の床なのか、それとも床材に染み込んだオイルの匂いだろうか、窓のパテの臭いだろうか。今日は、シエナからサンジミアーノを経て、フィレンツェがゴールだ。

 Dscf1308Dscf29821集合場所のロビーに阿刀田さんが現れた。まだ誰もいなかったので、妻がカメラを手にして言った。「高・高コンビで写真でも撮りませんか?」「なるほど、なるほど」と、先生は快く応じて下さった。

 エクセドラを出発したのは、8時10分。ホテルの前では、軍服姿が忙しなく動いている。パトカーが数台来たかと思えば、テレビ中継車まで停止した。オートバイに跨った制服組も続々と集まってきている。どうやら、高名な方が亡くなったようだ。セレモニーが始まる前に、バスはその場を離れた。

 

Dscf1311  走り出してすぐに、車窓に雨粒が斜めに筋を引く。空は、どんよりしてきた。

雨足が強くなった。風も強くなった。2箇所の観光地を傘をさして歩くのは敵わないなと思うほど、窓の外は荒れてきた。急に横殴りの雨に車内は先行きを案じて顔を見合わせる。

 長旅であるから、バスのスピードは、かなり出している。途中、トイレ休憩で立ち寄ったガス・ステーションでも、絵葉書を買う人以外は、そそくさとバスに戻って眼を閉じる。3時間ほど走ったころに、ようやく雨雲から抜け出した。

 

Pict2603 Pict2606 Pict2605  小さな村の一角にあるレストランに停まった。昼食だった。

客は我々だけが予約してあったのだろう。ツアースタッフが選んであったワインを口にしているうちに、食事が運ばれてきた。ワインは山積みにしてあるが、ウイスキーやリキュールの類いは、木箱のままディスプレイされてある。天井からは、洒落たデザインの豆球が吊り下げられてあった。夜は、案外いい雰囲気を創っているのだろう。料理よりも、パンがやたらに美味かった店だった。テーブルのあちこち、まだお互い、打ち解けるまでには至っていないが、フィレンツェまで2箇所の世界遺産を歩いているうちに、打ち解けてくるだろう。

 

 


Dscf1313 Dscf1317  車窓からの風景も 葡萄畑や糸杉並木、小高い丘陵地帯が続いた。これが、絵の具で名付けられているシエナ・カラーというものかと、この地方の土の色を眺めた。叔父が洋画家だったせいか、妻が饒舌になってきた。僕も、コンテを握ったり、イーゼルを立てて、油を少しやっていたのだが・・・。

 

 シエナ市内に入った。1314世紀、トスカーナ地方の金融業で豊かな財力を得た中世都市。街には、2本のバンキ通りがある。バンキとは、バンコ(銀行)の複数で、その通り、何店かの銀行が軒を並べていた。


 旧市街へは車が乗り入れ禁止となっているので、バスを降りて歩く。街道筋の、城壁に囲まれた村という雰囲気。数百年前から変わることのない世界遺産の街である。狭い通りには観光客相手の店が軒を連ねていた。Dscf1374_2 トレドのような陶器の皿が派手な色彩で焼かれて、店先に飾られてある。空路で来たのではないから、こうした陶器類にも興味が出てくる。船旅の良さで土産物への関心が変わってくるのだ。船室の中に入れば、例えそれが椅子であろうと、大きなテラコッタのガーデニングポットであろうと持ち帰れるのだから。尤も、バス旅行中であるから、自ずと重さとサイズには制限がある。

 

Dscf1341Dscf1353Dscf1347 目の前の景色が広がった。スープ・ディッシュのような、緩やかなスロープがついた扇型の広場に出た。カンポ広場である。いやいや簡易保険ではない。郵政とは無関係である。観光客の多くが、石を敷き詰めた、その広場で日光浴をしている。ピクニックランチの風景は家族連れ。恋人同士は膝枕。シエナのセントラルパークは、芝生ではなかった。カンポとは、野原という意味である。だから、尾根と尾根が重なって出来た自然の、なだらかなスリバチ状の場所を活かしたのだという。

 分度器のように、中心から何本もの放射線が描かれている。敷設工事のために出来た作業の痕跡かも知れないと思っていたら、間違いだった。ガイドから教えられたその筋は、市民代表の9人制の合議体で統治されていた当時を意味し、石の帯で9分割されているのだという。丁度、扇の要になる位置に市庁舎を建てたというのは、昨日のサン・ペトロ広場の設計に引き続き、なかなか象徴的な都市デザインだと感心させられる。上空から撮影された映像は、よくCMで使われるイタリアらしい風景でもある。

 

 

Dscf1351  シエナは、中世に時代から、教会も政治も軍事もコントラーダ(地区)単位に行ってきた。その17ある共同体同士が、熱く戦い合う日がある。7月2日と8月16日だ。まあ言うならば、町内対抗戦である。「毛虫」地区、「貝殻」地区、「牝狼」地区などなど町のシンボルが描かれた旗を乱舞する。広場に土砂が運び込まれ、17世紀から続くバリオという競馬コースになる。コントラーダの名誉を賭けて裸馬に跨った代表騎手が3周走り回る。そして、優勝旗を勝ち取る。昔は実戦の訓練の意味も持っていたようだ。ここが7万人以上の観衆で埋め尽くされ、興奮のるつぼと化す。テレビでも紹介されて有名な祭りである。 それよりもダイアン・レーンの映画「トスカーナの休日」で、このカンポ広場の祭りを見たことだろう。土地の娘と結婚しようとするポーランド人の青年が懸命に旗振りを猛練習して、祭りに参加したシーンだ。コントラーダの旗の柄までは覚えていないが、この競技の旗手には、「世界ウルルン滞在記」でも日本のタレントが参加した。

 

 

Dscf1321tvP1090043Dscf1344   Dscf1325 Dscf1334 広場から出て、縞々の鐘楼とドゥオモ(大聖堂)に歩く。この縞々は、シエナ独特の建築様式らしく、2種類の大理石を組み合わせてある。シエナ建築のアイデンティティとして眺めると、非常に印象的なデザインを思いついたものだと感心する。市庁舎の壁面に取り付けられた紋章も、確か白と黒の二色であった。大聖堂の中に入ると、白と黒の横縞の列柱が見事なハーモニーで迫って来る。モダンささえを感じる。縞と縞の間隔に差がある理由をガイドに質問した。シエナが隆盛を極めてくると、その権勢を誇るため、既存の聖堂を取り壊して建て替える工事が始まったが、完成までに100年以上掛かったことで、その時代差が出ているとのことだった。 


Dscf1326 Dscf1323  色大理石で描いた床の象眼細工は、シエナのシンボルを中心に、ローマ、ペルージャと周辺都市が描かれている。なぜか、ローマは象だった。シエナのシンボルは、街の至るところに見られる牝狼である。雌狼に育てられた双子のロムルスがレムスを殺してローマを建国した。一方、殺されたレムスの子供、セニウスとアスキウスがローマから北の地に逃げ延びて造ったのがシエナだった。その時、神から与えられた馬が白馬と黒馬だったという伝説。カンポ広場の泉は、獅子ではなく雌狼の口から流れていた。

 

Dscf1339  大聖堂の横、鐘楼に回ると、ロケセットのような未完成のファサードが立っている。更に大きな聖堂を建てようと工事が始まった矢先に、ペストと飢饉がシエナを襲い、財政難も加わって、正面のファサードだけのままになったものだが、皮肉なことに面白がって記念写真に収まる観光客が多い。

急ぎ足だったが、旅はまだ続く。バスは、シエナを背に、サンジアミーノに向った。

 

 

 

Dscf1314  サンジアミーノも城壁に囲まれた中世都市だが、シエナほどの広さはなさそうだ。

「塔の街」と言われるだけあって、平屋の町にのっぽマンションが建つ東北の町な景色が遠望できる。

 






Dscf1375 Dscf1358 Dscf1380  サンジョヴァンニの門をくぐると、シエナと同様、通りは商店が軒を連ねた先に、ベッチというアーチという城門をくぐると、広場があるのだ。建物に囲まれて出来た空間といったほうがいいほどの広さである。


 



Dscf1370 Dscf1364八角形の井戸があった中央に、人々が吸い寄せられるように桶を手にして集まる様が目に浮かぶ。丘の上にできた町であるから、夏季には、水が不足する。いざ、敵に包囲された時のために、何カ所かに天水を溜める地下貯水槽を設けたのだ。その中でも、最大の貯水槽があった場所だから、ここをチステルナ(貯水槽)広場と名付けられている。その左隣りがドウオモ広場で、 そこにはペンシル塔が建っている。金融、手工業などで財を得た裕福な市民たちが、各自の資産力を誇示するために、塔の高さを競ったという。勿論、抗争の際の物見台の役も果たしただけに、全盛時は72塔が林立していたが、今では14塔が残っている。

 カメラに納めたものの、「美しい塔」という丘陵地に建つ風景として捉えることが出来ない。そこで、画廊に入ることにした。

 

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夕景のシルエットを描いた絵や写真が、やはりこのサンジアミーノには相応しい。サイズの大きいものはやはり値が張る。迷っていると、背中に阿刀田夫人の声がした。サイズは違うが、同じ風景を買うことになった。我々のバス仲間が買った絵を見たいとおっしゃる。袋から出すと、「私も買いたい」と、店に駆け込んでいった。同じ絵が3枚売れたのだ。



Dscf1376  バスへの戻り道、ソフトクリームに目がない僕が、ジェラードを口にした。美味かった。

17時半が過ぎた。サンジアミーノは、これから徐々に徐々に、絵に描いたような美しい塔の街に変わっていくのだ。

 

 これから我々は、シエナ、サンジアミーノを制圧したメディチ家の本拠に向かって走る。


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Dscf1383_2  今晩の宿は、そのメディチ家の名前を冠したホテル、グランドホテル・ヴィラ・メディチであった。アルノ川を渡ると、右手。サンタマリア・ノベラ駅とアルノ川に挟まれた位置にあった。ヴェッキオ橋までは1kmの距離だという。



18世紀の宮殿を改造したという五星ホテル。100室余りのサイズだが、時代物の装飾は風格を感じる。大理石のバスルーム、シルク系の布壁、什器類はアンティックそのもの。落ち着ける。夕食は1階のレストランで取る。話によると、1泊4,5万クラスらしい。

明日もかなり歩くことになるだろう。絵葉書でも書こうと思っていたが、体は早く横になりたがった。


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060515 ジブラルタル海峡


今朝は身体が重く感じる。点けっぱなしにしているテレビの航跡ナビを見ると、ジブラルタル海峡の通過を船客にみせるためだろうか、周囲が明るくなるまで、時間調整のために何度も航路が行きつ戻りつつ、していた様子が見て取れる。

3年前は、ヘラクレスの柱を巧く撮れなかったので、このまま起きて狙いたいとは思うが、なんとも身体が重い。身体を横にして眠る。

 

八点鍾今朝、620分から730分にかけてジブラルタル海峡を通過し、地中海から大西洋に乗り込んできました。

現在位置は、ジブラルタル海峡の真ん中にあるタリファ島から西側へ14海里(26km)を航行しています。海峡通航を明るいうちにお見せしたかったのですが、あいにく日の出が7:時11分と遅く、雲も重くたれ下がっており、両岸をよく見ることができませんでした。

マラガを出港後、朝6時まで3時間半ほど、時間調整をしたのですが、ポルト入港時間に間に合わせるには、これが限界であったことをご了解願います。

 

スペインのカディス湾の東に、トラファルガー岬があります。1805年のトラファルガー沖海戦は、イギリス艦隊とフランス・スペインの連合艦隊が戦い、ネルソン提督率いるイギリス艦隊が勝利を収め、ナポレオンのイギリス本土侵攻計画を打ち砕きました。

 

ジブラルタルは、スペインからイギリス、オランダ連合軍に奪回されたイギリスの領地です。

このため、ジブラルタル港は英国軍の軍港となっています。モロッコ側のセウタという港町は、飛び地としてスペイン領となっています。

 

大西洋(Atlantic)の意味は、神話で「巨大」を意味するアトラスから取ったという説と、新大陸発見の夢をはせた大航海時代の「西の楽園」を意味するという説があります。

 

ポルト港が8時入港の為、ヨーロッパ大陸の西端、ロカ岬は、深夜の通過となってしまいます事もご了承ください。

 

やはり、時間調整していたのだ。それはいいのだが、僕の体は、疲れが抜け切らない上に、室内の冷房にやられたようだ。喉が痛いし、下肢は今にも攣りそうだ。朝食に出掛ける気にはなれなかった。ドント・ディスターブの札をドアーキーにぶら下げた。

 

Img_0324 妻は、美容院に予約が入れてあったので、9時には出掛けた。僕は、デッキゴルフを休んだ。35戦連続出場が絶たれた。ニューヨークでは、あの松井も骨折したことだし、航海はまだまだ先が長い。1日くらいは、体を休めておこう。

 

9時過ぎにはトラファルガー岬を通過した。10時に、6階のラウンジ「海」で、スープ&ブレッドのサービスを受ける。美味しいと思ったスープはやはり、塩味を効かせてあったので、今後は避けたほうがいいなと思った。スコーンが出ていた。コーヒーよりも、オレンジジュースの朝にした。ヨーグルトまでは、さすがに出てなかった。ヨーグルトにいつも振りかけて服用している日本冬虫夏草は、このため飲み忘れてしまった。

 

1階の診療所へ降りた。1ヶ月毎に、田村ドクターにBUNの数値を検査してもらっているのだが、今月は少し遅れた。序でに、喉も診てもらう。

 

オーバーランド・ツアーの食事が続いたにも拘わらず、BUNは前回と同値で、上がっていなかった。毎食、メニューを気にしてくれた藤川さんのお陰としておきたい。足のむくみはある。カリウムの数値が少し上がっていた。血糖値は下がり、体重も、歩いた分下がっている。喉には抗菌剤入りのSP明治トローチと、うがい液が出された。

 

P1000077 調べ物がしたいので、5階のライブラリーに入った。いつものように、一番手前の席に座ると、東さんがパソコンを使って、撮った写真の色調調整中だった。そうそう、東さんが日本に向けて書いているMOPASのHPプログも、本日からプリントされて船内に公開となった。この日記に書いていたことが、実現したことは喜ばしい。

 

1230分、遅れての昼食となった。体調の悪いときは、ひっそりと窓際で二人っきりがいい。平野さんも心得た方で、そういう場所を案内してくださった。先回は大西洋に出た途端、揺れも荒々しくなったのだが、本日は、ぬったりとした穏やかな波で、揺れを感じない。

ご飯ものは食べたくなかったが、幸いにして今日は、冷や麦だった。冷や麦を頼んだ。顔を見てダブルで持ってきてくれた。ひんやり、するりと喉には有り難い。食べ終わってから、部屋に戻ってまた休む。眠っていた耳に、突然、天井からアナウンスが響いた。

 

P10001782 「イルカの大群が、船の左右に見えます!………いま、360°船の周囲は、イルカだらけです!」

 

悔しいが、起きあがれない。案外そうしたものなのだ。こういう時に限って、現れるのだ…。耳で聴くだけの情報。カディス湾より北部の沿岸になるのだろうか。あれほど、イルカ、イルカと走り回っていた妻も起きない。やはり、疲れているのだろう。

 

考えれば、デッキゴルフばかりではない。先回は、トルコを出てから、エーゲ海を抜けてナポリまで、ずっと航海日だったのだが、今回は、その間の寄港地にアテネはある、マルタがある、そしてオーバーランド・ツアーのイタリア縦断を入れた。そして、昨日の二日間歩き回ったマラガだ。あれから3年も経っている。体力は落ちる。そう考えると、年長者のリピーターにあの元気さがあることに尊敬の念さえ抱く。この歳までの彼らと比べれば、僕とは体の鍛え方が違うのだろう。航海の1ヶ月を越えて、ようやく自分にブレーキをかけることになった。身体は正直なものだ。夕食まで休んだ。

 

 

内山さんに、ロンドンまでの寄港地に、カンペールショップが何カ所あるか、その所在地情報を頼んでみた。ネットで探せば簡単に探し出せるのだが、と言い添えた。

 

夕食のテーブルは、山縣夫妻の席に案内された。アルハンブラ・ツアー組だった。後から座られたご夫妻も、同じだった。ブイヤベースが昼食だったが、期待していたものの、不味くてがっかりしたと両夫妻とも大きく頷く。

 

あの長い道のりはどうでしたかと水を向けると、左のご夫婦は、ガイドの歩くペースが速すぎて疲れたという。「僕は、写真を撮りながら歩いていたので、ツアーグループを見失ってしまいましたよ」山縣さんはいう。奥様の言葉を借りれば、「置いてきぼりになったのよ」と。にっぽん丸グループの後ろ姿を見失い、分かれ道の左右を反対に歩いたために、迷子になったのだそうだ。婦人警官を掴まえたり、土産物屋に入ったりして、身振り手振りで道を尋ねたという。バスは見当たらなかった。

食事の時間のはずなので、近くの食堂のウエイトレスにバスの絵を描いて時計を書いたそうだ。どうやらそれが功を奏した。にっぽん丸のスタッフにどう繋がっていったのか、わからないが、連絡が付いてスタッフが飛んできてくれたそうだ。

僕が妻をリスボンで数分間置き去りにしてバスを発車させてしまったことから考えれば、傷は浅い、浅い。笑いあえるほどの想い出創りみたいなものです、そうですね、で笑って終わった。

山縣さんがいうには、ツアーガイドが、そのとき自由時間後の集合時刻を伝えなかったそうだ。だから、これから先の予約してあったツアーバスはすべてキャンセルしたそうだ。


「マルべーリアの海岸へ行った方がよかったかな」と山縣さん。「あちらのコスタ・デル・ソールには、ヌーディスト村が夏になるとあるそうだよ」と、昔の珍道中で行けなかった体験を話すと、奥さんが、「ある人は、マラゲタ・ビーチで、トップレスの姿を見てきたと喜んでいましたわよ」と笑う。O型の明るい奥さんだ。「ところで、今朝のデッキゴルフでは、僕、2度目のホールワインをしましたよ、萩原さん」という。休んでいたので、目撃できなかった。山縣さんはとても嬉しい顔をした。いよいよ、彼もデッキゴルフに嵌ってきた。誘ってよかった。氷河を背にしてもプレイしましょう……。

 

廊下で遠藤さんから、思いがけずアルハンブラの絵葉書を何枚もお土産に頂いてしまった。イタリア旅行をご一緒した折り、モナコでフィルムが切れた遠藤さんに、せっかくだからと記念写真を妻が撮って差し上げた。そのお礼だという。アルハンブラ欠乏症の妻には、なによりのお土産になった。人に暖かくすると、暖かいものが回ってくる。そうなるものだと教えられた。

 

妻は、ひさしぶりに会った町子さんと立ち話をして帰ってきた。

 

今夜は、一龍齋貞心さんの講談「忠臣2度目の清書き」の席がある。東京公演の時、二人で日本橋亭に出向いて聴いた演題だ。パスしても、貞心さん許してくれるよね。今夜は身体を休ませる日です。

 

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