060516 ポルト
朝は時差の調整で1時間巻き戻した時間となっていた。起きたのは、7時15分。つまり、時差がなければ、朝食にはアウトだった。昨晩は、二人とも3時までパソコンを叩いて写真の整理をしていた。
朝食には、高嵜さん、東夫妻、仲野先生とのテーブルに案内された。なんだかんだとメールの話などをしているうちに、シャトルバス発車の時間になってしまった。急いだ。
「このポルトには、カンペールを売っている店はないようですね」内山さんが僕を見つけ歩み寄ってきて申し訳なさそうに、そう報告してくれた。この街で、靴探しは、諦めた。
<コース名:ぶらり散策 古都ポルト半日観光(午前)>これが、本日のオプショナル・ツアーのタイトル。
9時のスタートで、バスは2号車。日本人ガイドは清水さん、ローカルガイドはパウロさん、そしてドライバーはマルデマールさん。にっぽん丸の赤いポロシャツを着たツアースタッフは、ディラーをしている佐藤敦子さんとスポーツトレーナーの高橋けいこさんの二人。「夜の女と朝の女のコンビです」と、巧い自己紹介があった。乗客に受けた。拍手しながら笑いこけた。
ポルトはヨーロッパ大陸の最西端で、リスボンに次ぐ第2の都市。商工業の街である。人口は1000万人で、ほぼ東京都と同じだが、土地は92100㎢で、スペインの1/5。北から南までは560km、海岸線は850kmと、細長い国である。
市内に30万人、郊外には60万人で、都心部への通勤ドライバーによる朝のラッシュは何処の国も同じだ。街が世界遺産に認定されたために、街のあちこちで道路や世界遺産建築の保全工事が行われて、年中工事中になっているそうだ。ポルトガルのオフィスは10時始まりが多いので、このラッシュ時を港から中心街に向かう道は30分と少々時間がかかる。
ポルトは、正しくは冠詞が付いて「オ・ポルト(港の意味)」という。昔から交易、航海の出発点としていたことが解る。カレはローマ軍が駐留していた当時、リスボンとブラガ、またローマとブルガを結ぶ交易の中継地点として栄えた。
ローマ帝国が衰退した後は、ムーア人に50年間支配され、フランス・ブルゴーニュの貴族アンリ(エンリケ)伯爵が、教会勢力や十字軍などの支持を得て、レコンキスタ(国土回復運動)を起こした。ポルトゥカレ伯になったアンリ伯の息子、アフォンソ・エンリケスが、更にレコンキスタを進めて、1143年にカスティーナ王国から分離独立をした。ここに、ブルゴーニュ王朝が始まり、初代ポルトガル王になった。この時、北のポルトとドウロ川を挟んだ南の、ガイアという地が共に連合した。ガイアは、以前、カレと呼ばれていたことから、「カレの港」、「ポルトゥス・カレ」という呼称が、この国名、ポルトガルになったのである。
14世紀には、欧州に蔓延した黒死病を怖れた貴族や地主が、教会や修道院に土地財産を寄進したことから国王の税収が減少し、再びカスティーナ王国の軍が動き出した。この対抗策として、英国の弓兵の援護を受けることで、英国との同盟が強化されていった。ワイン製造輸出業者には、何代も住み着いた英国人が多くなっていくのは、こうした背景があったからである。
15世紀から16世紀にかけてポルトガルは、世界に君臨する海洋王国だった。その植民地だったブラジルやアフリカの一部では、現在でもポルトガル語が通用する。
1543年、日本の種子島に来たのは、ポルトガル人だった。それ以来、随分と日本語化された言葉が多いのは、よく知られているところだ。
Paoのパン、capaのカッパ、kopのコップ、それにボタン、タバコ、金平糖、カルタ、ばってら(バテラ船)、チャルメラ(チャラメラ)、シャボン、ピンキリ(ピント=ひよこ、キリ=キリスト)、おんぶする(オンブ=肩)、先斗町(ポント=先っぽ)、トタン、天ぷら(テレプラス。この日は、肉食が御法度のキリスト教徒は、野菜や魚をフライにしていた)だが、カステラに至っては、豪州のカンガルーと似た問答が語源となった。大名に献納するとき、木箱に入れた。家来が指さしてこれは何だと問うた先には城の焼き印があった。ムーア人を追い出した七つの城を紋章にした焼き印だった。キャッスル=カステラと答えたというのだ。誤解がそのまま、日本語化したのだ。ポルトガル人には、意味不明の代物となったのだそうだ。
未知の人との交流には、思い違い、勘違いがそのまま、その人の評価にされかねない。だからして、この船の中での船客同士の誤解も、互いに避けたいものである。
バスは、シャトルバスの発着所になっている市庁舎の坂を降りていった。アリアードス大通りの広いグリーンベルトを抜けて、グレリスコ教会には向かわず、左折してサン・ベント駅から坂を下り、カテドラルへ到着した。
カテドラルの正面を見上げると、鎧甲冑姿の銅像が立っている。イマラ・ペセラとかいう武将で、ムーア人をこのポルトから追い出した守護神のような人物だそうだ。聖堂の壁一面は、そのムーア人が残したアート・タイルの技術で描かれた青と白のアズレージョが、彼を引き立てている。
このカテドラルは祭壇が見事だと言われているが、内部に入る様子もない。「道路側」「道路側」とガイドが口にしたのは、眼下に流れる「ドウロ川」のことである。ここから、そのドウロ川の対岸にあるワインセラーの眺め、また、市中の眺めがいいのでカメラスポットとして停車したに過ぎなかった。
ドウロ川には5本の橋が架かっているそうだ。その中でもエッフェルの弟子が1886年に造ったというドン・ルイス橋が見える。エッフェル塔を横倒しにしたような橋だ。設計したエッフェルの弟子は、ベルギー人技師で、この橋の高さは68mもあるという。両岸の高低差のために2重構造で、上はポルトの中心と対岸の丘の上を、下はポルト貿易センターとヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアのワイン工場を結んでいる。バスはこれから、ワインの貯蔵庫が建ち並ぶ街、ガイア地区に入るのだ。
宮崎駿のアニメ「魔女の宅急便」でキキがホウキに乗って飛んできた街だよねと、誰かが話していた。
エッフェルと聞いて、思い出すことがある。リスボンで、エッフェルの造った、いかにも堅牢そうな大きなエレベーターに乗ったときのことだ。今日が僕の誕生日だと口にしたら、乗り合わせたアメリカ人観光客がハッピバースディ・ツーユーと全員で歌ってくれた。パリに向かう前日の4月2日だった。エッフェルと聞くと、嬉しいそれを思い出す。
ドウロ川を渡ると、ワインブランドの看板が一斉に目に入った。牛のマークのオズボーンとか、よく飲んでいたサンデマン、帆船マークのカレム、獅子のマークのティラーズ他、ワインラベルの屋外広告が山の斜面に沿って立ち並んでいる。川縁には、クラッシックな船がワイン樽をくくりつけて浮かんでいる。ワインブランドのロゴやシンボルマークが帆に描かれている。訊くと、ラベーロ船という。あたかも、川がショーウインドーのようだ。現在は宣伝用としてドウロ川に浮かんでいる。今は、年に1度、6月24日の聖ジョアン祭の日に、昔ながらの衣装を着た船頭らが、河口からこの場所までレースをするんだそうだ。
日本人が最初に口にしたのは他ならぬポルトガルのワインである。16世紀半ばポルトガルの宣教師によってもたらされた。安土桃山時代にフランシスコ・ザビエルがまず鹿児島で領主、島津貴久にチンタ酒を献上し、次は長門の地に伝導し、領主大内義隆に献上した。織田信長は滋養強壮によいと珍重していた。珍陀(チンダ)とは、ポルトガルの赤ワイン、ティントであった。
「ポートワイン」と言えるのは、上流域のドウロ山地で栽培された葡萄酒をパイプという樽に詰め、ラベーロ船で、このガイア地区に運び、酒庫で一定期間の熟成を経てポルト港から出荷されたものだけである。尤も、いまではラベーロ船ではなく、大半がトラック輸送をしているのだが…。
我々のツアーバスのコースには、サンデマンで試飲することが入っている。バスは、サンデマン本社の前で下車した。
理由が判った。雨季になると対岸のドウロ川は洪水になるそうだ。長年に亘るその洪水の水位を、玄関に掲示しているのだ。貯蔵庫の中にもそれがあった。伊勢湾台風に襲われた名古屋の実家も、その恐ろしさを忘れないようにしろと、父親が柱に傷を付けて、海水の高さを示していた。たとえ洪水に浸かっていようとも、1週間は持ちこたえられるように樽は造られているという。我々をガイドする社員は、ブランドマークのサンデマン・マントを羽織っている。
サンデマン・マントと呼ばれているこの黒マントは、コインブラ大学(ポルトからバスで1時間半の距離にある名門大学だそうだ)の学生が羽織る伝統的な黒マントであるが、実は、日本に伝わってきたポルトガル語に大いに関係する。これこそがcapa(カパ)、つまり、合羽である。
上野の合羽橋の合羽は、人の名前である。湿地帯だったあの地域は、ドロウ川同様に、頻繁の出水で住民が困っていたのを、私財を投げ打って堀割工事に当たったのが、合羽屋喜八という人物で、隅田川の河童たちが手伝いに上がってきた完成させたという謂われがある。その河童は、河童川太郎として、商店街に立像が立っているが、現実の合羽喜八は、合羽本通りの曹源寺に墓がある。僕の家から歩いて10分ほどのところだ。
江戸時代の日本では、男の道中着が「合羽」と言われ、近年「ケープ」といえば、女性の、和装洋装に羽織る短いマントの名称になっている。
薄暗い樽の保存庫を抜けると、明るくなった広間に通された。ここで、PR映画を観させられた。日本語版だった。1928年に創業されたサンデマン・ワイン。「サンデマンは、見事なアドマンだった」のだ。実は、英国人が買い取って創りあげたワインである。経営者が実行したのは、同業者に先駆けてロゴマークを制定したことだ。ラベル・マークをデザインしてボトルに貼り付けた。媒体を活用して、ブランド化を加速した。そのロゴ・マークは、ポルトガルの学生マントとスペインのカバレイロ帽子を組み合わせたもので、名前まで、「サンデマン・ドン」と名付けてキャラクタライズしていたのだ。かの、牛のマークやティオペペのおじさんマークは、その後に生まれたキャラクターなのだろうと想像できる。いまでは、山の斜面に誇らしげに立っている姿を、ボルサ宮前のエンリケ航海王子が指さしているようで面白い。
ポートは、いわゆる通常口にしているワインとは違う。シェリーやマディラといわれるアルコールの強いワインである。アルコール度数は20度。発酵中のワインにブランディを加えて、発酵を途中で抑えることによって葡萄が本来持つ果実の甘さを残しているのが特徴。白は冷やし、赤は常温でいいとされる。
3年前のティオペテの工場では、試飲できる種類は多く、つまりは買える種類も多かった。ここで試飲できるのは、当てがいぶちの量で出された2種だけ。アペリチフとビンテージの極端な2品種だった。尤も、ティオペペの時も、空き腹で試飲を重ねた人は酔ってしまった。そしてあのときは、工場直販でしか手に入らないという銘柄を、僕も随分と買ってしまい、バスまで両手に重い荷物を持って閉口したが、今回は、玄関前にバスが着くのでこの点は楽だ。
ビンテージは、コルクを開けたら、二日間しか持たないが、1994年もののビンテージなら、いくらか日持ちがいいと説明される。結局は、1994年ものを買う人を増やした。
こうしたガイアのポートワイン工場は、20カ所弱ある。いい気分で試飲のはしごをすると、強いワインだから、酔うこと間違いなしだ。開館時間は10時頃から夕方までで、正午から14時までは休み時間となる。尚、土日祭日は閉館のところが多い。
再び、ドウロ川を越えて、ボルサ宮に向かった。エンリケ航海王子が指さす銅像の前でバスが停まった。エンリケ航海王子は、外洋航海には2回の経験しか持っていなかったが、その後、彼は航海大学を創ったそうだ。
そう、このエンリケ王子は、ポルトガルの万国博覧会のシンボルとしてリスボンに建てられた「発見のモニュメント」で、バスコ・ダ・ガマやマゼランら探検家や科学者、ザビエルなど30名を率いて舳先に立つ王子である。
ボルサ宮の「ボルサ」は、株を意味する。焼失した修道院跡へ19世紀に建てられた証券取引所で、ポルト商工会本部である。ボルサ宮の特徴は、高い天井の明かり取りをガラスで設計した中央のドーム。1842年に、ポルトガルで初めて鉄を使った建築として残ったのだが、これが、後の鉄橋建築への先がけとなったのだという。証券取引所ありて、ドン・ルイス橋が架かった。
また、「アラブの間」は、ムーア人、つまりアラブ芸術の微細な模様で、アルハンブラ宮殿を模したものだった。極彩色のアラベスクが見ものだが、壁のタイルの一部には、「すべてはアーラの神のもの」という、アラビア文字が文様となっていた。3年の年月を費やしたこの柱の装飾には60kgの金が、すぐ横にあるサン・フランシスコ教会では、樫の木で彫刻された、二重三重の立体的な内部装飾に金は100kgが塗られた。そう聞かされて、眺めていた船客から、感嘆の声が出る。当時植民地だったブラジルから金が大量に手に入るようになり、このような贅沢な装飾が可能となったという。
左から2番目の礼拝堂にある、キリストの家系を木の幹と枝に示したのは、有名な「ジェッセの家系樹」だった。また船に横たわったマリア様、というのはサン・フランシスコ教会だけだとガイドの説明があった。
どんよりとした曇り空だった天気は、光が出てくると、夏になっていた。長袖を着ていたが、汗ばんできた。帰船して半袖に着替えた。
ここ、ポルトガルの気候は、5月から10月までが夏で、特に、6月から8月までには、40℃の日が続くことがあるそうだ。冬は12月からで雨季に入り、3月のある日を境に急に春めいて4月は日本で言うところの梅雨になるという。つまり、日本と同じ四季があるのだ。
しかし、今冬は、52年ぶりにリスボンに雪が降ったことが世界的なニュースになった。雪が降ったことよりも、そのことで、リスボン市民が大人も子供も雪投げに興じて、1時間業務がストップしたことが事件だったのだそうだ。
オプショナルツアーが多くある日の船での昼食は、ビュッフェ形式になる。船内に残っている人数が少ないことからのバランスである。冷やしうどんを見つけたのでがダブルにしてもらう。僕にとっては、食べてはいけない牛丼があった。たまらず、1/4の小盛りにしてもらう。醤油味を口にしたのは、何ヶ月ぶりだろうか。刺身でさえ醤油を使わず、山葵だけにしている。ゆっくりとミニ牛丼を味わった。埠頭では、新鮮な食材が運び込まれていた。
シャトルバスは13時から1便のみとされていたが、ツアーバスの帰船時間が遅れたこともあって、13時30分にも増発しますと、クルーズスタッフが教えてくれた。妻を急がせたこともあり、菅井美子さんは早く市中に入って、ゆっくり歩こうとステップに足をかけていた。
シャトルバスが走り出した。ツアースタッフがガイドをしてくれる。「アズレージョなら、是非、サン・ベント駅舎の壁を見てきてください」三木エージェンシーから派遣されているガイド役兼ツアースタッフの伊藤さんから薦められた。まずはそこへ向かうことにした。
下車したら両替をしたい、と菅井夫妻がいう。チベタベッキア以降、ヨーロッパでの船内両替は行いませんと通達があったので、ここらで不足分を変えておく必要があったのだ。探しながら歩くが両替所はなんなく見つかった。
自分たちだけで、替えてみるといい、二人は中に入った。レイトは149円だった。嬉しいことに高く戻っていた。
サン・ベント駅へは、下調べ済みの道で抜けて行こうと歩き出したが、美子さんが不安がった。一旦本通りに戻ってから駅を目指した。近道も間違ってはいなかった。頭に中に入れてきた地図は、大丈夫だと安心した。赤いポストがあった。街に対して急に親近感が湧く。
サン・ベント駅は、20世紀初頭に建てられたというポルトの表玄関である。事前にボルサ宮で絵葉書を買っておいたが、壁から吹き抜けの高い天井までのブルータイルの壁画、アズレージョをこの目で観ることができた。カメラにも収めた。史実に基づく歴史や生活をテーマにしたタイルの壁画だということだが、ガイド無しのため、詳しくは解らなかった。ここから更にリスボンへ向かう南に下ったアベイロ駅の駅舎には、もっと多くのアズレージョを見られるそうだ。鉄道列車での観光なら訪れることも出来るが、時間のない旅である我々には、記憶に留めるだけにするしかない。
駅構内は終着駅としての列車留めがあり、上野駅に戻ってきたような気分になった。
改札口のない欧米の駅は、往々にして日本人を戸惑わせる。ホームに出る口に、電磁チェックの機械が立っている。日付と時刻をチケットの磁気カードに記録させるようだ。僕が、グラナダからマラガまで乗ったときには、こうしたシステムは、まだないアナログの時代だった。乗客がそれにチケットをかざして通るのを見て、菅井夫妻は、ローマでの列車体験の戸惑いが解消されたようだ。
駅を出た右手には、少しだらだらとした登り坂がある。その先に、地元の人で賑わう商店街が見えているが、美子さんはどうやらこの坂は登りたくないらしい。それならば、と美子さんが行きたがっている青果市場へと、頭の中の地図を思い浮かべて、緩やかな道を選ぶ。しかし、市場の閉まる時間が気になった。マラガの二の舞になる。歩きながら妻には、この辺りの右側だがと、小声で言っておいた。5mも歩かないうちに、地下に色とりどりの花が目に入った。
生花市だ。覗き込むと、青果も並んでいた。階段を下りてみると、ここが、目的のボリャオン市場だった。なんと、足下に市場が現れるとは!地下だとは、地図に書いてはなかった。夏でも冬でも室温が安定していて、いい考えだ。
降りると、美子さんは、一目散にキュウリを求めて早足になった。妻には、イチゴがあったら買おうと言っておいた。イチゴは1kg2ユーロだった。美子さんからは空豆も見つけた、と声があった。美子さん、マラガでは買えなかった酒のツマミを見つけて嬉々としている。きゅうり1本、空豆、イチゴお買い上げ!!
頭の中の地図では、市場の裏側の通りが、確か、繁華街のサンタ・カタリーナ通りになるはずだが、念のため、野菜を売っている小母さんに訊いた。2本向こうだと教えられた。一足先に出て確認する。角にはアズレージョで彩られたアルマス教会があった。
さすがにサンタ・カタリーナ通りは観光客が溢れていた。この土地で、もしも「カンペール」があるとしたなら、ヴィア・カタリーナというショッピングアーケードかもしれないと、目星を付けておいた。意外に大きいビルだった。念のために入って探しておきたかった。僕以外は、靴に興味があるわけではない。念願のきゅうりや空豆も手に入れたことだからと、三人には階上のカフェで休憩してもらうことにした。
アーケードの掲示板から、フットウエアの店を3軒見つけ出し、その階数を憶える。エスカレーターで登り、素早くカンペールのロゴか、それらしい靴を探す。ロケハンの時、僅かな時間に買い物をしていた癖が出てきた。最後の1店舗に、ついに、それはあったのだ。
店内には、カンペールのロゴマークもなく、他のシューズと混じってひっそりとディスプレイされていた。ところが、探しているデザインではない。そのカンペールは、ブラウンの一枚皮。日本には未だ出ていない形だった。
サイズ42を出してもらう。プライスは123ユーロ。なんてこった!原産地のスペインでありながら、ローマの三越と同程度の価格とは。高い。…迷う。
……少し、気が急いているのが判る。クレジットカードを出す。ところが、この店、キャッシュ以外は駄目だという。「銀行で替えてから来てくださいな、待ってます」と、女店員はにこやかに笑顔で言うのだ。「オブリガード!」と一旦店を出て、みんなの待つ最上階のカフェテリアに上がった。経緯を話すと、美子さんが現金を貸すわよと言ってくれる。もう一度、冷製になる。
履きたいデザインとは違う。迷ったくらいなのだからと、此処では買わないことにした。エスカレーターで降りながら、全員で店を見て回った。ネックバックをカバーする帽子を美子さんが見つけた。女性用だった。彼女は迷うことなくそれを買った。これで、美子さんは、デッキゴルフのための帽子、短パン、シューズを外貨で揃えたことになった。
もう少しサンタ・カタリーナ通りを歩ける時間はあったが、バス停に早めに帰りたいという意見が強かった。左折すれば市庁舎の裏に出るだろうという勘で路地に入った。美子さんの不安そうな顔を横目で見ながら、ドンドン進んだ。やがて、視界が開けて市庁舎の脇に出た。美子さんが叫んだ。「あっらあ、あそこぉ、シャトルバスの乗り場ね、ね、そうでしょ!出たああ!はははぁ」笑った。
アリアードス大通りのシャトルバス発着所には、既ににっぽん丸の船客が集まっていたが、予定のバス発車時間からすれば、25分も前であった。
ブラジル王と呼ばれたドン・ペドロ4世の騎馬像のあるリベルダーデ広場から、以前はムニシピオ(市庁舎)広場と呼ばれたフンベルト・デルガード将軍広場までのアリアードス大通りは、銀行を中心としたビルに囲まれている。ぶらつこうにも、時間つぶしの場所はなかった。ただただ、バスを待つだけだった。
16時半、帰船して展望風呂に行く。中で、西出さんとバッタリ。一日中自由行動だったという。ドウロ川での50分間クルーズもしたし、ワインの試飲もしっかりしたし、自分たちの足で、ツアーバス分を安く体験してきましたよと語ってくれた。
山縣夫妻も、パンを買ってドウロ川の堤に座ってワインを飲んでいたという。中島夫妻は、エッフェルの橋の先にあった小さな公園が予想外に眺めが良かったといい、シャトルバスよりも早くに出掛けた木島夫妻は、グレリゴス教会に誰よりも早くに登って、76mから市内を眺めることをまず目標にしたという。橋と川とクルーズ船とワインという組み合わせは、意外に自由な時間をそれぞれに創らせたのだ。
18時、菅井美子さんから、早速に、茹でた空豆が差し入れられた。美味かった。妻はイチゴをお返しにしたようだが、あれ、甘みはなかったわねえと美子さんから教えられた。即座に答えられなかった。そうか、イチゴは妻が一人で食べていた。
明日はデッキゴルフに参加しよう。バンテリンを肩に足にと塗りたくった。
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