« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

2009年4月29日 (水)

060514 マラガ2日目

今朝3時過ぎまで起きていた。日本へのメール、イタリア周遊の写真整理、下船中の航海日誌の書き込みなどをしていたからだ。二人とも730分に目覚めた。朝食は、ぎりぎりの遅組になった。急いで朝食をすませ、菅井夫妻との下船時間を910分とした。幸いナイスタイミングで、迎えのシャトルバスが来て、12分には発車した。コンクリートだけの何でもない岸壁である。昨夕に歩いたから判っている。15分はかかる。だから、シャトルバスの運行は、結構船客には喜ばれている。


Dscf3322 日曜日だから市場は閉まってい るかもしれないが、と前置きしながら、菅井夫妻がきゅうりを買いたいという。マラガ市民の台所といわれるアタラサナス中央市場へ直接行くことにした。昨日、場所は確かめてある。妻と菅井夫妻には、先に歩いて貰った。僕は、17年前に泊まったホテルを探したかったからだ。別の道を早足で歩いた。マニュエル・ガスティンという海岸通りの角のホテルは、既に別の会社に変わっていたようだ。

 

市場に向かった。やはり心配したように市場は、蛇腹の鉄格子で閉ざされて、人の居る気配もなかった。休みだった。朝が早すぎるから、街はまだ眠っている。グアダルメディナ川を渡って、人通りもない街を歩いた。川のこちらは、再開発地域となった新市街地だと聞いている。港周辺が歴史的な地域であることに比して、こちらの風景は、新建材を使った高層ビル公共建造物、アパート、ビジネスオフィスが建ち並んでいる。それまでの煉瓦や石造の建築物は、壊されて新しい街作りが進行しているのだ。


Pict2617 スペイン国内に多くの支店を持つデパート、エル・コルテ・イングレスに立ち寄ようかと近づいたが、閉まっている。正面ドアのシャッター前に、ガードマンの車が駐車してある。開店時間は10時とあるが、どうも妙である。どうやら間の悪いことに、本日は休業日らしい。菅井夫妻が楽しみにしていた子供用の衣服を買うことも、僕がカンペールを探すことも出来なくなった。

 


Pict2637

Pict2631

Dscf3360


残念だが、気を取り直して、あの循環観光バスに乗ることにした。そのバス停を観光地図で確かDscf3433めると、郵便局だった。大通りを挟んだ先だ。着時間が判らない。急いで渡った。 やがて、  真っ赤なバスが停まった。無天蓋の2階建てワンマンカーである。東京の丸の内でも走り始めた。

ケットはドライバーから直接買うのだ。124時間、乗り降り自由で、ガイドブックによれば、一人13ユーローだった。ところがドライバーは、15ユーローだという。値上っていた。レシートと赤いヘッドフォンを渡された。

我々は、2階に上がった。頭が抜けていて気持ちがいい。座席に設置された番号、8番にすれば、日本語の案内が聴ける仕組みだ。


Dscf3431 Dscf3430 3342 循環バスのコースは、港とは反対の方向へアンダルシア通りを走った。バスセンターに着いた。ここでドライバーの交代をするのだ。しばらく待つことになったので、降りてみた。何台ものバスが入れ替わりに入っては出ていく。長距離バスもあるようだ。大量の荷物を抱えて待つ家族がいた。眺めているうちに、あの喧噪なムンバイのバスセンターを思い出していた。売店を抜けて、歩くと、かなり大きなショッピングセンターがある。明かりがついている。此処は開店している。もし時間があれば、またこの巡回バスで戻って来てみようと、バスに戻った。

Pict2609

Dscf33432t Pict26322

マラガ駅を通過してグ アダルメディナ川を渡り、旧市街のアラメダ・プリンシパル通りに戻って来た。我々のシャトルバスの発着所となっているマリーナ広場を横切り、パセオ・デル・パルケを走り、波止場とパラレルに海に突き出る道を走った。リゾートマンションが建ち並ぶマラゲータビーチを回って、静かな街に入った。闘牛場は初めてかと3人に訊いた。頷く。それならば、と闘牛場前でバスを降りた

  


Dscf1738 街に貼ってあるマタドールのポスターを見かける度に注意してスーベニール・ショップも探している。有名なマタドールの出演するポスターに、観光客の自分の名前を擦り込んでくれるサービスがある。マラガには、ないのだろうか。

 

バス停の正面がゲートだ。開いている。入れそうだ。中に足を踏み入れると、頭の上から、「ウップステア!」という声が掛かった。観るなら上に上がれと老人が指を立てる。階段を上がりきると、円形の観覧席には一団の先客がいた。そういえば、観光バスが1台着いていた。合点がいった。この観光バスの出遅れた乗客と見なしていれてくれたのだろう。アメリカ人の観光客に4人のアジア人という取り合わせもあるかと、誤解されたままに我々はとぼけていた。やがて、歴戦の闘牛士たちのコスチュームなどが飾られたミニ博物館のような部屋に案内されたが、それがさすがに遠慮した。暴れ出した牛から逃げ込む時、よく、身体ごと柵の中に身体を放り入れるシーンがある。高さが2m弱の退避柵の幅は、思ったより狭く、しかも下はコンクリートだった。飛び込んだ拍子に打撲や骨折をしたりはしないのだろうか、菅井美子さんが心配していた。Pict2626 Pict2625k

 僕は、例の珍道中になる前、そもそも広告会社の国際会議に出張でマドリードに来たのだが、最後の夕方、闘牛場に繰り出そうという誘いに乗った。そこで、生まれて初めて、マタドールの技を見ることになった。闘牛は3月から10月まで開催される。丁度日本のプロ野球と同じようなシーズンだと考えればいい。日曜日の夕方、陽が西に傾くときだ。

観客席を太陽がふたつに明暗と切り分けた円形劇場で、繰り広げるマタドールと牛との真剣勝負。いや、「神聖な真実の一瞬」である。ソンブラ(日陰)席と、ソル(日向)席、その中間席の3種類が設定されている。マドリードで観た座席は、ソンブラの2階席辺りではなかったろうか。

Pict2627 3352 ここマラガでは、闘牛場の背後にマンションビルが建っている。自宅の窓から眺めていられるあのお宅は、ゲストが押しかけて大変なんだろうなと、妻に話しかけたら、彼女は、アレナの色がきれいだと連発して、シャッターを切っていた。

確かに、そうだ。アレナという砂場の色が美しかった。血を吸い込んでくれる役目を持ったこの砂は、ローマの剣闘士が猛獣と戦ったあのコロセウムに敷かれていたことで、円形のスペースを指すのだが、それを囲むように座席が設けられた大規模な室内ホールがそう呼称されるようになった。今では、舞台より下がった平地の特設席までをアリーナ席という。

尤も、闘牛場の砂は、更に特別なモノだと聞いたことがある。舞い上がり易いとマタドールの目に災いするということから、砂ホコリが立ちにくい性質のものを入れているのだと。確かめようにも我々のガイドはいない。米国人観光客のガイドに訊くわけにもいかない。そうそう、この闘牛というのは、カウボーイから始まったとも言われている。牛を誘導する際に群れから外れた牛や気の強い牛を棒で引っぱたいて、移動させたり懲らしめたりした。それがヒントになって生まれたんだよと、国際会議に出てきたアメリカ人が教えてくれた。初期の闘牛スタイルは、馬上から行ったとか言っていた。確かに、馬に乗っているピカドールは槍を刺して、牛を疲れさせる役だから、あながち間違いでもなさそうだ。

 

スペインの主要闘牛場は、マドリードの他にバルセロナ、セビリア、バレンシアなど7カ所だと書かれていたから、ここマラガの闘牛場は、セカンドクラスなのだろうか。

今日は、黄色い砂地に太陽の光が影を創るという時間ではなかったが、妻は闘牛場に足を踏み入れることが出来たことを喜んでくれた。ほっとした。

実は、今回のオプショナルツアーで、グラナダのアルハンブラ宮殿にも行きたかった妻を僕がキャンセルさせてしまったからだ。山の上で噴水という、アラヤシスの中庭は贅沢な仕掛けた中世の知恵は凄いと思うが、そこまでのだらだら道をぞろぞろ長い列をつくって登っていく、あの山道は疲れるだけだ。こういって止めさせたからだ。闘牛場に入れたのはラッキーだった。

 

次の循環バスを待つ。「闘牛の肉は食べられるの?」「いや、食べられないことはないが、聞いたところによると、硬いそうだ」

15分ほどで、赤バスが首を曲げて道に入ってきた。今度の下車駅は、ビブラルファロ城の頂上だ。住宅街を抜けて山を登りはじめたら、額に雨粒が当たり出した。2階席から1階席に下りる。

 Pict2639 Pict2635 Pict2645                                                                                  頂上からアルカバサのPict2646 Pict2640 ローマ劇場まで徒歩で下りるか、そのままバスでカテドラルまで乗って行ってしまうか、意見が割れた。停車時間の間、下りたり、乗ったりを繰り返していた。この時、ステップを少し踏み外した。足を軽く挫いてしまった。黙っておいた。歩いて下ろうと提案したのが僕だった。実は、トイレを探していたのだ。毎朝飲む腎不全の薬には、利尿剤の錠剤が含まれている。慌てて用を足して、砦の坂道を下ったのだが、今度は、昼食は一旦帰って船で食べたいという美子さんの希望。街中のレストランでもいいかと思っていたから、慌てた。ならば、1215分までに船に帰り着かねばならない。


ところが、シャトルバスの発着するカテドラルに辿り着いたが、バスが来ない。どうやら、午前中のバスの発車直後だったようで、埠頭を歩いて船に戻るはめになった。ラッキーの裏にアンラッキーが待っていた。この時ほど、船が遠くに感じたことはなかった。疲れた。


 

昼食を取った後、朝見たスーパーマーケットへ買い物に行くことになった。再び、4人で循環観光バスに乗りこんだ。バスセンターで下車して目指すマーケットに近づくと、人が多い。やはり、日常生活品の販売だから、休まないのだよと喜んだのは、束の間だった。なんと、地下のスーパーマーケットは休みだった。営業していると思いこんでいた明かりは、辛うじて開いていた1階のバール系のレストランで、人出が多いわけは、2階に続くシネスクリーンの列だった。万事休す。

Pict2664 Dscf3328 舗道にある大きなワインボトルが目に入った。「今夜は、飲むぞ~!!」ワインボトルを叩いた。よく見ると、それはワインボトルの回収容器だった。なんだか、微笑ましい街のデザインに少し救われた。

 

バスセンターから、波止場方向への循環バスに乗った。マリーナ広場で降りたが、既に、歩く足は引きずっている。4人とも、言葉少なく、ここから船まで歩きたくない気分だった。タイミング良くシャトルバスが来てくれた。有り難かった。万歩計は、14555歩を示していた。タラップを歩いている時、グラナダ帰りのツアーバスが2台着いたところだった。

 

何はともあれ、疲れを取りたいと展望風呂に急いだ。夕食前ということもあって、数人しかいなかった。聴くとなしに聞いてしまったのだが、アルハンブラ宮殿ツアーは、日中35℃までになったという。あの道をとろとろと行列して歩いたのでは、さぞかし、お疲れだったろう。食事が不味かったと互いに言い合っていた。パエリアかブイヤベースだろう、あそこでは、選べるほどにレストランはなかったと記憶する。妻を行かせなくてラッキーだったと言えるか…。


 

夕食は、偶然にもアルハンブラ帰りの木島夫妻、それと岡本展一夫妻が同じテーブルになった。とろとろだらだら坂道の話から山歩き、トレッキングの話になった。木島さんは、山仲間と結構歩いているのだという。来年はニュージーランドの山を歩こうと思うという話から、ツェルマットの話に流れた。かつて、我々は、ツェルマットの村からケーブルとゴンドラを乗り継いでモンブランへ上がったことがある。妻も話しに加われた。

インターラーケンやらグルノーブルになると、僕のスキー仲間との話になったが、岡本夫妻は、南アルプスなど山歩きをされている実に健脚のお二人だと知った。今の自分の足の弱さが情けなかった。今夜は、バンテリンをかなり擦り込んで休まないと、真夜中に足がつるに違いない。

 

ベッドで、本を読む。逢坂剛の「幻のマドリード通信」をマラガ寄港から読み始めた。スペイン内戦時代をベースにしたポリティカルミステリーの短編である。かつて我が社の広報室にいたスペイン教祖・仲ちゃんが逢坂剛である。それを航路に因んで読んでいる。「ジブラルの罠」から「カディスへの密使」へとだ。

そのジブラルタル海峡へは真夜中に接近する。真夜中に足が攣ったら、起きてヘラクレスの柱が見られるかも知れない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年4月25日 (土)

060513 マラガ入港

アンダルシア沖を航行しているのが、八点鐘の時だった。


「にっぽん丸は本日、地中海の西の端、ジブラルタル海峡近くのマラガに入港します。
マラガの港外までは83海里(154海里)で、シェラネバダ山麓にある港町アルメリアの南西沖20海里(37km)を西に向けて航行中です。13:時には港外に到着し、14:時少し前にマラガ港に接岸します。
 昨晩の2156分、緯度3805分上で、本船は西半球に入りました。
船内テレビ画面では、経度を表す数字に06つ並びました。この後も、フランスのルーアン、イギリスのグリニッジに向かう時と二度、本初子午線を通過します。経度000000秒上にいる体験ができるかもしれません。
 船のスピードを表すノット(KNOT)の意味は、「結ぶ」あるいは「結び目」という意味です。帆船時代、結び目をつけたロープの先に重りの板をつけて船尾から流し、砂時計を使って14秒あるいは28秒間に送り出されたロープの結び目の数で、船のスピードを測っていたことが由来です」

Dscf3289 Dscf3293 Dscf3288

気温は185℃というから、肌寒い。朝食を終えると、いつものように、後部デッキにメンバーは集まっていた。今日は、全員が顔を揃えていた。パックは12個要る。いつのまにか、甲板スタッフがパックに11番,12番の数字を刷り込んでくれていた。我々は、さりげない、このサービスに心から感謝していた。船はいくらか、横揺れをさせながら、ゲームを面白くしていった。

僕は、後攻赤組で、松田キャプテンの下、山縣、菅井、中島、それにスタッフの黒川君と6名。先攻白組は、高橋、ミセス松田、工藤、菅谷、高嵜という面子。

12人のオールメンバーであることと10時から講演があることを考え、3番ホールを外して、尚かつ、ゲームセットを10時とし、権利玉の多い組を勝ちとすることにした。9時きっかりのスタート。高嵜さんが打順を入れ替えてきたので、こちらも入れ替えて、僕が中島さんより前に打つことにした。途中、パソコン教室の受付時間が重なったのでと、高橋さんが抜けた。

僕は、最初のホールまでに2回「出戻り」を繰り返したことが、後半、チームを遅らせて敗因となった。

今朝は「ホールインワイン」「台無し」の他に、新しい言葉が生まれた。「出戻り」「里帰り」である。「出戻り」は、ゲートボール審判員の中島さんの創作だ。

 

10時からは、組み替えで再スタート。先攻白組は、高嵜、工藤、菅井、山縣というメンバーが我々のチーム。相手は、ミセス松田、横田、菅谷、菅井、中島。

菅谷さんが、ドボン効果を狙う余り、4ホールをクリアしないままに5ホール側に遠征してきて、フレームアウトされた。この自滅が祟って、大幅に遅れてくれた。しかも、松田キャプテンがミセス松田の専属援護に走り回ってくれている隙に、我々は萩原、高嵜が連続ホールアウトで勝った。敵は、攻撃と守備で力を二分割してしまったが、我々はコツコツと前進することに終始した結果だ。

個人戦績1353引き分け。通算2087引き分け。

Dscf1725 

 

シャワーで汗を流していたので昼食は遅れてテーブルに着く。レストランは人影もまばらだった。着岸入港して、下船はしばらく後になる。

 

15時、シャトルバスでマリーナ広場まで送ってもらう。2台の大型バスがピストン輸送してくれる。接岸した波止場からで出口まで歩けば15分はかかる。マルタ港で高台のバレッタ市まで運び上げてくれたサービスと同じだ。見た目には近いのだが、無味乾燥な波止場だと、余計に長く感じる。足の不自由な方がおられる船客には、助かるサービスであり、重なる疲労をいくらかでも軽減してくれることでは、我々60代の身にも有り難いことである。

 

マラガが今回、スペイン最初の寄港地なので、カンペールショップはないかと三木エージェンシーの若い男性に尋ねる。

「二日間の間でカンペールを買いに出たいのだが、ショップを知りませんか?」「カンペールは何処でもあると思いますが、デパートがいいでしょう。タクシーならここから5ユーロですね。但し、港から乗ろうとしますと、船客だとして高くぼられますから、街で拾ってください」

「解りました。今からピカソ美術館に行くのでデパートへの時間がないかも。今日明日のどちらかで行きます、有り難う」

 

Pict2618 Pict2662 菅井夫妻も一緒に下船して同行したいという。ピカソの生家までの道なら思い出せるからと、僕が歩いて案内することにした。

日本でもよく知られている「マラゲ~~~ニア」というあの唄は、「マラガの娘」という意味である。街は、ジャカランダの花が咲き乱れていた。妻の好きな樹である。彼女の足が止まると、きまってそれは花を撮っている時だ。

 

1989年、49歳、外資系広告会社のCDだった頃、マドリードでワールド・コンファレンスに出席した。同行出張した中島営業と休暇を取って南下した。グラナダ駅からマラガ駅へ着いて泊まったホテルは大通りの角にあり、確か、目の前が海だった。ピカソの生家は歩いていけた。カテドラルの裏の方で、あの小さなオベリスクのある公園の前にあった。アルカバサとかローマ劇場跡などというのは、全く憶えもないが、船からもらった地図にはそれらが記されてある。当時は、カテドラルを左に歩いたのだろう。


Dscf3306tDscf3308 しばらく、たらたらと歩く。見覚えのある小公園に出た。このメルセ公園の先、角にある「ピカソの生家」は、見違えるほどに改築されていた。その昔は、プレートが無ければ、見過ごすほどに質素なままだったと思う。入場料は取っていない。財団が管理しているらしい。当時の彼のパレットや机が遺されている。1階、2階と観て外に出た。

 

相変わらず公園には、ピカソの描いた鳩たちが多くいた。ここの鳩は、ピカソのシンボルになった。観光客の見つめる眼差しが違う。



Dscf1733 Dscf1735 次に行くのは、ピカソ美術館だ、と妻が眼で催促する。近くの右角で絵葉書を買った記憶を辿った。グラナダという狭い路地を入った。あった。先の右側に絵葉書スタンドが見えた。ここでピカソの鳩の絵皿を買うかどうか迷ったのだ。だが、左にあるピカソ美術館は、僕が訪れた当時にはなかった。美術館と言うよりも官邸のようだ。それもそのはず。16世紀の宮殿で、文化財に指定されている旧「ブエナビスタ伯爵邸を改修して、2003年に完成したということが判った。

 

入口では随分と待たされた。団体客の予約客で詰まっているのだろうか、人数制限をしているのだろう、そう思ったが違っていた。手荷物検査とその預け入れでの混雑だった。預け入れの反対側がチケット売り場になっていた。今は丁度、特別展が開催されていた。階層で展示物を区分けしてあるらしい。

チケットを買う段になると、売場の係員が、「常設フロアーを観るのか?特別フロアーも観るのか?それによって料金が違うが」と訊いてきた。全部を観ることにした。

チケットを渡しながら係員が、「日本人客に説明するために、3種類の言葉を教えてくれないか」と言う。「joh-setsu dake?」、「toku-betsu dake?」、「subete-miruka?」という言葉をゆっくり何度も繰り返して、係官の耳でスペルを書き取らせた。なるほど、薄暗いチケット売場には、日本語のパンフレットもあった。

 

チケットをもぎられ、中庭に入る。アルハンブラを模した造りに思えた。噴水が無いだけだ。

内装は白一色に明るい。絵画、デッサン、彫刻、陶器など200点余りの作品が展示されていて、全て、ピカソの義理の娘と孫からの提供だそうだ。

マラガで生まれ、13歳で父親の画材道具を与えられたピカソは、他の画家に比べて環境に恵まれていたと言える。そして生涯に愛したと言われている7人の女性たちが、この美術館のなかで作品となって登場している。尤も、キュビズムと言われる画風の中では、美人かどうかは判断しかねるが、女性に会う度に画風も変化していった。正式に結婚したのは、ローマで恋に落ちたロシア・バレエ団のダンサー・オルガだった。オルガを描いた時は、ヌードでもなく、キュビズム手法の変形もなく、当たり前にきれいな写実的な画風となった。「肘掛け椅子に座るオルガ」。どうやら、誇り高い名家出身の彼女は、それを嫌ったのだと言われている。

1階で目にした若い頃のピカソのクロッキーやデッサンは、その柔らかさ、緻密さに驚かされた。ポストカードを何点か買った。そのきれいなラインが一転して、キュビズム画風に変わっていくのだが、ゴッホの激しさにはない、写実的な絵画に飽き足りないものを探し続けてブレイクした彼がいた。目に見える形を上や横、右や左と縦横に視点を変え、分解し直して、面や線を描く、何とも奇異な画風に変わっていった。

印象派のセザンヌがこれまでのパース画法を崩して、多視点で描くようになったことに、ピカソは影響されたと言われる。「セザンヌの林檎」は、写真のように自分の目に見えているだけの構図に囚われず、左右上下からの視点から描いてある。

 

2階には、あの有名な、戦争の悲惨さを訴える気持ちが溢れている「ゲルニカ」が観られた。ナチスドイツに爆撃されたゲルニカ市民の阿鼻叫喚を描いた作品である。今年は、ニューヨークからスペインに返還されて丁度25周年だそうだ。いつもは、プラド美術館にあるのに、生誕125年の特別展だから、運良くマラガで観ることができたのだ。

地下の特別展では、フランソワーズと一緒の写真や、それぞれの作品を仕上げた時のアトリエ風景を撮り続けたカメラマンの貴重な写真展もあった。

 

手にしたパンフレットを見直した時だ。あっと驚いた。66歳以上は半額とあったではないか。チケット売場には、それを表示した文字もプレートもなかった。シニアの観光客が多いはずなのに、そうした気遣いが為されていなかったのは、残念である。

Is there a discount for senior?」とか「Can I take a senior reduction?」なんて、臆面もなく訊くに限る。

 

歩き疲れたので腰を休めようと、1階の中庭のカフェで座ることにした。広くはない庭だが、開放感がなによりだった。緑もあって落ち着けた。珈琲を頼んだ。

一息ついた時、菅井美子さんがローマ行き鉄道の珍道中顛末を話し出した。


米谷夫妻と一緒に、チベタベッキアで、まず支倉常長の銅像を見た後で、鉄道でローマまで行ってみようということになったという。「リターン・・・」という言葉を「往復切符」だと理解できた。駅員からチケットを受け取り、意気揚々と列車に乗りこんだ。しばらくして、検札に来た。車掌にチケットを見せた。ところが、車掌は顔をしかめて、何度も何度も同じ言葉を繰り返して文句を言う。ところが、こちらはチンプンカンプン。

彼は、長い間、チケットを指さしてガミガミ。そのうち業を煮やしたのか、チケットを持ってスタスタと立ち去ってしまった。訳もわからず慌てた。荘輔さんが後を追い、チケットを取り戻そうとした。すると、車掌は黙って睨み付けたと思ったら、チケットを床に叩き落としたという。

その剣幕に、思案した。どうやら、菅井さんたちは、スペシャルシートに座ってしまったらしかった。代金が不足であるとことが、やっとのことで判った。身振り手振りで、追加料金を支払うことを伝え、やっと一件落着したという。ローマ駅で降りたのだが、出口がなんとも寂しい駅だったという。なにかおかしい、変だぞと思い、駅の周囲をしばらく歩いたら、やっと表玄関の前に来た。気が動転していたのか、駅裏に出てしまっていたのだという。テルミナ駅らしい光景が目に入って安堵した。

今度は、帰りの乗車ホームを確かめておこうと歩いたが、教えられた番号ホームがなかなか見つからなかった。また冷や汗をかくことになった。用心のため、チベタベッキアまでの停車駅名をすべてメモ書きしたという。そしてなんと、ローマの街を散策することもせずに、確認したそのホームから発車する列車にそのまま乗って帰ることにしたのだ。

ところが、今度は途中で電車が止まってしまった。車内アナウンスを聴いた乗客たちがパラパラと降りはじめたのだそうだ。2度目のアナウンスで、さらに残りの乗客たちが降りたのだが、アナウンスの意味が解らず、4人とも顔を見合わせて躊躇した。そして、さあ、降りようと決めて立ち上がった途端に、ドアは閉まってしまったそうだ。ドアを叩いたら、ホームの乗客が知らせたのだろうか、再びドアが開いた。慌てて降りた。

日本でもよくあることだが、車両故障のために別の電車に乗り換えることを告げていたのだそうだ。往路には特別席、復路には故障という、2度もドタバタした末にやっと帰船できたのよ、という。静かな中庭の中で笑い声をあげてしまった。

 

僕も、このスペインの列車の旅で似たような経験をした。この珍道中は、拙著『思いきって世界一周』(2005年刊・あいでぃあらいふ社・絶版)142ページに書いた。マドリードからグラナダ空港に飛んだが、離陸がディレーしたので、グラナダが閉鎖してしまい、マラガ空港に着陸してしまい、深夜にグラナダまでの送迎バスが出た時のアタフタしたことだ。他人のことを笑えないよと、美術館を出て歩きながら、その話をした。

 

Pict2611 昔、こんなこともあった。「スペインで、パブロといえば、世界平和のシンボル、鳩が頭に浮かぶね」と言った。友人は、大きく頷いた。話が進むにつれて、噛み合わなくなった。

僕は、パブロ・ピカソだった。「子供と鳩」の絵であり、「平和の鳩」や「未来の鳩」だった。友人の頭の中には「鳥の歌」があった。室内楽専用ホールのカザルス・ホールを主婦の友社が建てた頃だったと思う。チェロ奏者のパブロ・カザロスに因んで命名された。

同じ名前、パブロであり、国連平和メダルを受けたときの、「国連デー記念コンサート」のことだった。有名な話だが、パブロ・カルロスは「自分の故郷では、鳥の鳴き声がピース、ピースと言って鳴くのです。このカタロニ地方(スペイン)の民謡、『鳥の歌』を弾かせてもらいたい」と言った。あのメルセ公園の鳩の鳴き声は、パブロ・ピカソの耳には何が聞聞こえたのだろうかという話で終えたものだ。

そのカザロスはフランコ独裁政権下で、反対闘争をしたために祖国に帰れなかった一人である。実は、そのフランコ政権末期ともいえる1970年に、僕たち夫婦はマドリードを訪れていた。デモ隊を望遠レンズで撮った僕は、憲兵のような大男二人に両腕を掴まれた。記者と間違えられたようで、フィルムを抜け!と怒鳴られたことがある。観光客であることを証明したいとして、ホテル名を書いたことがある。



随分とゆっくりしてしまった。夕食時間が迫ってきた。出掛けに訊いたアタラサナス中央市場(新しくない茄子と憶えるか)と、百貨店のエル・コルテ・イングレスの位置を確かめておいて、明日に備えることにした。

帰りにスーパーマーケットに寄った。菅井夫妻は、きゅうりと枝豆を探していた。が、無かった。ギネスのロング缶を買った。酒のつまみにする材料だったのだ。

 

Dscf1739 マリーナ広場に戻ったが、既にシャトルバスのラストタイムは過ぎていた。埠頭の突端に停泊している船まで歩く。15分も要した。シャトルバスの有り難さが判ったといいながら、タラップを上がった。

 

夕食を食べ終えた時、真先町子さんにバッタリ会った。3年ぶりである。ローマから乗ってきたのよと言われたが、全く知らなかったのだ。妻は懐かしさもあり、しばらく話し込んでいた。彼女は、僕の仕事仲間の奥さんである。いや、にっぽん丸では、妻の好きなアクセサリー教室の講師なのである。これから帰国まで一緒だという。航海日には、妻は生徒になる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年4月 1日 (水)

060512 .マジョルカ島沖

8時、スペイン領海のバレンシア湾に入った。そして、バレアレス諸島の沖を航海中である。今日は曇りだ。風はほとんど無い。気温も海水温度も同じ17。水平線は、まだ寝ぼけた手書きのライン状に見えている。イルカが見え始めたというアナウンスを久しぶりに耳にした。


Dscf3270 八点鍾『現在、バルセロナの南東90海里(167km)、バレアレス諸島・メノルカ島の沖22海里(41km)を航行中です。

 久しぶりに全天曇り空です。北アフリカのジブラルタル海峡付近から停滞前線が横たわっており、午後から夜にかけて本船の上空を通過するので、天気は下り坂です。しかし明日のマラガは、良い天気が期待できそうです。

 本日の航行予定は、バレンシア湾を南下して2003年世界一周クルーズで寄港したバレアレス諸島のマヨルカ島の北岸に10時から13時頃に接航します。その後、16時から1715分頃までイビサ島の北岸を航行します。

 今朝8時の経度が00344分ということで、経度数が少なくなってきました。今夜22時頃、本初子午線(prime meridian)である経度0000分上を通過し、東半球から西半球に入ります。

 本初子午線は、イギリスのグリニッジ天文台を通過する経度線で、地球における座標軸の東西の基点です。本初子午線から東西に180度。時間にすると、日付変更線まで12時間。すなわち1時間が15度となります。

現在、船内時間はスペインの夏時間に合わせているので、グリニッジ標準時からは2時間進んでいまして、日没時間が遅くなります。本日はマヨルカ島の風景と本初子午線通過体験をお楽しみください。』

 

朝食は、これまでで一番遅い8時20分入りだった。急ぐ先に、見慣れた姿があった。一龍齋貞心さんだった。お久しぶり、と声を掛けて、挨拶。昨年の11月、日本橋亭で会って以来である。

今朝は、9時から阿刀田夫妻の講演「短編小説の楽しさ」と朗読があるため、デッキゴルフは昼からの自由参加、有志のみということになった。

以下は講演の概要。

そもそも、「小説」とは中国語だという。「大説」が政府高官の高説や宣言などとすれば、小さな説なるものは、如何でしょうかと謙って話すレベルだと、阿刀田さんは、まず謙遜しながら説明を始めた。地中海文化華やかなりし頃、「ロマンス語」というものがあったそうな。庶民が話していた言葉で、それがイタリア語になり、スペイン語になっていく。「大説」という神の言葉などは、ラテン語文字で書いたものだ。文字は男が書き、女性は語ったのだ。それだから「物語」こそは、庶民の出来ることだった。「ノベル」という言葉も、新しいもの、珍奇なものという意味が含まれているし、「フィクション」という言葉になれば、まさに作りもの、嘘が混じるということになる。「小説」とは、ことほどさように、いかがわしい、疑わしいけど、面白いモノ、想像力をかき立てるモノ、非現実の人生を楽しむものという受け止め方をしてもらっていいのです。

小説には、長編小説と短編小説がある。長編小説は、長い物語の中で嘘を突き通せない。そのうちにばれてきてしまう。従って、あっても不思議ではないこと、あったかも知れないことが主なモチーフになる。そして長編小説は、その時代の歴史であるとも言える。それに比すれば短編小説は、礼儀正しい、お邪魔しない、お手間を取らせない。読み終わっても、短い時間であるから、時間を盗まれた気がしない。自分は、人の会話すら短編のネタにしたことがある。しかし、どのような小説も映画も、大人の鑑賞に耐えるようなストーリー性が重要であると考える。阿刀田さんは、そう言いながら、「では、家内、阿刀田桂子の朗読で、「日魚と漏電」を聴いてください」と奥様を舞台に招いた。

 

「小説家は言葉を大切にします。日本人の言語力、文化力は世界に引けを取らない。英国はシェクスピア以降、誰を輩出したか。我が国は、紫式部、清少納言、世阿弥から森鴎外、ノーベル賞作家となった川端康成にしろ、大江健三郎にせよ、歌舞伎・能からシェクスピア劇まで翻案する演出家の蜷川。いつの時代を切っても、蒼々たる人材が現れる。是非とも、世界の旅の中で、日本をも見直す眼を持って、帰って来ていただきたいものです」朗読が終わった後、彼は力を込めて、こう締めた。

 

終えた1015分、プロムナードデッキを歩くと、マジョルカ島の北岸を通過していた。しかし、先回寄港した側は、地中海側で、バレンシア湾側は、険しい岩肌をさらけ出していて、僅かに一カ所漁師町らしい家並みが見えるだけだ。裏側は、カメラに納めるような姿をしていない。妻は、不調のプリンターに思いあまって、再び通信室の出口部長に相談に向かう。

昼食後の13時から、有志だけでデッキゴルフをやることになった。

欠席は、菅井、工藤、横田、高橋。参加者は、高嵜、松田、菅谷、萩原、中島、山縣の6名。昼からのせいか、皆のプレイする気分がゆったりしている。

そんなとき、イルカが一頭、群れから遅れて泳いでいた。はぐれたのか、焦っているなと、口々に言いながら、指先ながら囃し立てる。船と併走しているが、スピードが追いつかない。徐々に後退していった。「鯨も発見!」と、操舵室からのスピーカーが教える。しばし、ゲームを休憩することにした。船が傾いたからだ。鯨を追って大きく旋回したのだ。、一頭のマッコウ鯨は、旋回した航跡の輪の中に捉えたが、この鯨も弱っているようで、泳ぎがもたついている。船客もそれほど騒ぐこともなく、静かに見守っていた。静かな、穏やかな午後である。

 

ホールインワインが出た。菅谷さんが、最多の5回目を出した。これで、ワインボトルを奢る者は、菅谷5回、ミセス松田1回、萩原1回、工藤1回、高橋1回、横田1回と、10本が貯まった。僕自身は、12勝4敗3引き分け。通算1977引き分けとなった。

 

夕方、イビサ島の北岸を通過するときには、船客はフォーマルウエアや和服に時間を費やしている。今晩は、カクテルパーティを経てディナーに入る。いや、初めて乗船したときは、カクテルパーティと言うから、立ち席であちこち回りながら、日頃挨拶できなかった方や、ご紹介したい人を互いに会わせあったりするとかしながら、自由に会話を交わせるひとときかと期待していたものだが、どうやら、日本の豪華客船でのカクテルパーティというのは雰囲気を楽しむ形だけであって、ホールで催されるそれは、立食でグラス片手に人の輪を泳ぐというのではなく、数人の間を蝶々のように、自分の衣装を観てもらおうと歩くのでもない。ただ、晴着を着てのおすまし姿でどっかりと座る。そのいい席にも早く行かないと座れないと急ぐ人がいることになる。早くから廊下に列をなすのが、席の確保のためだと知ってからは、フォーマルデーも大袈裟なこととは考えなくなった。

Dscf63414Dscf3272 座ったら、運ばれてくる4種類のカクテルから好きなモノをチョイスして口にすればいい。船長の挨拶の前には、既に近くに座った方々と互いに飲み酌み交わしている。パーティと称しながらも、あらためて乾杯の発声もない。いつも、不思議でならないと思うのだが。正装を記念写真に収めるべく、カメラマンを目で追いかけて手招きする。カメラマンもこの時間は、ビジネスタイムとばかりに、急いでフラッシュを焚いてくれる。

10分ほどキャプテントークがあって、すぐにこれまたダイニングに移動。案内されたテーブルに座ったら、ちょこまかと動くのはみっともないとして、姿勢を正している。Dscf32783 座って立って座って終わり。これはパーティスタイルのセレモニーなのだ。東さんは、紙製のタキシードを寄港地で見つけ、フォーマルデーに出たとか出なかったとか、彼の著作の中で昔に読んだことがある。このフォーマルナイトの日本的趣向が何とかならないモノかと毎回思うのだがと、苦笑いする海外赴任の経験者がいたことも記しておきたい。

 


メインホールでのことだが、この頃、我々の中での話題のひとつも、序でに今夜は記しておきたい。「メインショーの途中で退席しないで欲しい」と注意が出はじめたことだ。

カメラのフラッシュ撮影を禁じるのは解る。エンタティナーの眼に光が射すから、芸に集中している彼らに礼を逸することだ。また、立ち上がっての撮影も、ズームの効かないデジタルカメラでは、両手を上げたりすることで、後ろの人への配慮を欠くことになる。

しかしながら、その芸が期待に反していれば、たとえメインショーでも退席するのは、それが観客の評価であるとすべきだという意見。プロであるなら、引き留められる魅力を持たせることだ。退席は、むしろ、エンターティナーへの無言の評価と受け取るべきではないか。我慢して聴くことを強要することではないのだ。帰国下船間際のアンケートという事後評価を待つまでもない。厳しくあるべきだと思う。むしろ船客へプレゼンテーションしているものだからである。それは、ショー企画者への今後の問題提起でもあるのだ。なぜなら、すべてのエンターティメント、カルチャースクール、レクチュアーは、旅行費用に含まれたものであるからだ。こんな意見さえあった。「(ロス・インディオス・)タクナウがいかに素晴らしいギタリストであってもね、MCも兼ねてるヴォーカルのタカコが、ステージで身内(自分の夫)を褒めちぎって進行するってのは、客の側が馬鹿にされているような気分になるわな」。

僕も言った。「船に乗る多くのエンターティナーが、持ち時間の中で、いちいち、持ってきたからCDを買ってくれと舞台から頼むのも、プロ意識不足だね」。もっと多くの曲を聴きたいと思う客には、その旨を書いたプレートでも、入口、出口に掲示しておけば済むことだ。それが、“プロ”としての矜持だろうと思うからだ。販促の序でに聴かされたのでは敵わない。

 

 ディナーに続いて、一龍齋貞心さんの席がラウンジ「海」で始まった。演題は正確には知らないが、「荻生祖来の豆腐屋」とでもいうものだった。芝・増上寺門前の豆腐屋・上総屋七兵衛が長屋暮らしの学者に奴豆腐を売る。しかし、貧しくて豆腐にかける醤油さえ買えないこの学者・荻生惣右衛門に、情け深い七兵衛がご飯の代わりに毎日おからを届けてやった。ところが風邪で行商に出掛けられなかった数日の間に、学者は姿を消えてしまった。数年後、類焼で焼け出され豆腐屋へ、建て替えのために大工が訪れた。金は済んでいるし、当座の生活費にと金まで置いていった。明けて新年、大工が連れてきたのが、あの「おから学者」。出世した荻生徂徠だった。豆腐の未払い4匁が40両に、おから代が一軒の店を寄付したという祖来の恩返しを話に仕立てたもの。芝増上寺御用・徂徠豆腐由来の一席。

今夜の一龍齋貞心の講釈を聴けば、プロの芸が判ろうというものだ。まくらまでの時間配分といい、声の張り、客を引きつける話術といい、さすが。観客に迎合しないで自らの芸に誇りを持っている。目頭を押さえたり、鼻をすすったりする人がいたほど感動的な語り口で、ひさしぶりに名人芸を聴かせてもらった。

 

 

2156分頃、航路ナビで見ると、北緯38度47分で、本初子午線00:00になった。いよいよ東半球から西半球に入った。船内時計は、スペインの夏時間を採用しているため、グリニッジからは2時間の差がある。この0000を何人もの船客が固唾を呑んでカメラに収めているはずだ。TV番組にシャンネルを回すと、NHKの映像が写りだしていた。明日は、マラガ。オプショナルツアー不参加。ブラブラ歩きのひさしぶり自由行動日。また野菜市場かな?

 

| | コメント (0) | トラックバック (3)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »