060513 マラガ入港
アンダルシア沖を航行しているのが、八点鐘の時だった。
「にっぽん丸は本日、地中海の西の端、ジブラルタル海峡近くのマラガに入港します。
マラガの港外までは83海里(154海里)で、シェラネバダ山麓にある港町アルメリアの南西沖20海里(37km)を西に向けて航行中です。13:時には港外に到着し、14:時少し前にマラガ港に接岸します。
昨晩の21時56分、緯度38度05分上で、本船は西半球に入りました。
船内テレビ画面では、経度を表す数字に0が6つ並びました。この後も、フランスのルーアン、イギリスのグリニッジに向かう時と二度、本初子午線を通過します。経度0度00分000秒上にいる体験ができるかもしれません。
船のスピードを表すノット(KNOT)の意味は、「結ぶ」あるいは「結び目」という意味です。帆船時代、結び目をつけたロープの先に重りの板をつけて船尾から流し、砂時計を使って14秒あるいは28秒間に送り出されたロープの結び目の数で、船のスピードを測っていたことが由来です」
気温は18.5℃というから、肌寒い。朝食を終えると、いつものように、後部デッキにメンバーは集まっていた。今日は、全員が顔を揃えていた。パックは12個要る。いつのまにか、甲板スタッフがパックに11番,12番の数字を刷り込んでくれていた。我々は、さりげない、このサービスに心から感謝していた。船はいくらか、横揺れをさせながら、ゲームを面白くしていった。
僕は、後攻赤組で、松田キャプテンの下、山縣、菅井、中島、それにスタッフの黒川君と6名。先攻白組は、高橋、ミセス松田、工藤、菅谷、高嵜という面子。
12人のオールメンバーであることと10時から講演があることを考え、3番ホールを外して、尚かつ、ゲームセットを10時とし、権利玉の多い組を勝ちとすることにした。9時きっかりのスタート。高嵜さんが打順を入れ替えてきたので、こちらも入れ替えて、僕が中島さんより前に打つことにした。途中、パソコン教室の受付時間が重なったのでと、高橋さんが抜けた。
僕は、最初のホールまでに2回「出戻り」を繰り返したことが、後半、チームを遅らせて敗因となった。
今朝は「ホールインワイン」「台無し」の他に、新しい言葉が生まれた。「出戻り」「里帰り」である。「出戻り」は、ゲートボール審判員の中島さんの創作だ。
10時からは、組み替えで再スタート。先攻白組は、高嵜、工藤、菅井、山縣というメンバーが我々のチーム。相手は、ミセス松田、横田、菅谷、菅井、中島。
菅谷さんが、ドボン効果を狙う余り、4ホールをクリアしないままに5ホール側に遠征してきて、フレームアウトされた。この自滅が祟って、大幅に遅れてくれた。しかも、松田キャプテンがミセス松田の専属援護に走り回ってくれている隙に、我々は萩原、高嵜が連続ホールアウトで勝った。敵は、攻撃と守備で力を二分割してしまったが、我々はコツコツと前進することに終始した結果だ。
個人戦績13勝5敗3引き分け。通算20勝8敗7引き分け。
シャワーで汗を流していたので昼食は遅れてテーブルに着く。レストランは人影もまばらだった。着岸入港して、下船はしばらく後になる。
15時、シャトルバスでマリーナ広場まで送ってもらう。2台の大型バスがピストン輸送してくれる。接岸した波止場からで出口まで歩けば15分はかかる。マルタ港で高台のバレッタ市まで運び上げてくれたサービスと同じだ。見た目には近いのだが、無味乾燥な波止場だと、余計に長く感じる。足の不自由な方がおられる船客には、助かるサービスであり、重なる疲労をいくらかでも軽減してくれることでは、我々60代の身にも有り難いことである。
マラガが今回、スペイン最初の寄港地なので、カンペールショップはないかと三木エージェンシーの若い男性に尋ねる。
「二日間の間でカンペールを買いに出たいのだが、ショップを知りませんか?」「カンペールは何処でもあると思いますが、デパートがいいでしょう。タクシーならここから5ユーロですね。但し、港から乗ろうとしますと、船客だとして高くぼられますから、街で拾ってください」
「解りました。今からピカソ美術館に行くのでデパートへの時間がないかも。今日明日のどちらかで行きます、有り難う」
菅井夫妻も一緒に下船して同行したいという。ピカソの生家までの道なら思い出せるからと、僕が歩いて案内することにした。
日本でもよく知られている「マラゲ~~~ニア」というあの唄は、「マラガの娘」という意味である。街は、ジャカランダの花が咲き乱れていた。妻の好きな樹である。彼女の足が止まると、きまってそれは花を撮っている時だ。
1989年、49歳、外資系広告会社のCDだった頃、マドリードでワールド・コンファレンスに出席した。同行出張した中島営業と休暇を取って南下した。グラナダ駅からマラガ駅へ着いて泊まったホテルは大通りの角にあり、確か、目の前が海だった。ピカソの生家は歩いていけた。カテドラルの裏の方で、あの小さなオベリスクのある公園の前にあった。アルカバサとかローマ劇場跡などというのは、全く憶えもないが、船からもらった地図にはそれらが記されてある。当時は、カテドラルを左に歩いたのだろう。

しばらく、たらたらと歩く。見覚えのある小公園に出た。このメルセ公園の先、角にある「ピカソの生家」は、見違えるほどに改築されていた。その昔は、プレートが無ければ、見過ごすほどに質素なままだったと思う。入場料は取っていない。財団が管理しているらしい。当時の彼のパレットや机が遺されている。1階、2階と観て外に出た。
相変わらず公園には、ピカソの描いた鳩たちが多くいた。ここの鳩は、ピカソのシンボルになった。観光客の見つめる眼差しが違う。
次に行くのは、ピカソ美術館だ、と妻が眼で催促する。近くの右角で絵葉書を買った記憶を辿った。グラナダという狭い路地を入った。あった。先の右側に絵葉書スタンドが見えた。ここでピカソの鳩の絵皿を買うかどうか迷ったのだ。だが、左にあるピカソ美術館は、僕が訪れた当時にはなかった。美術館と言うよりも官邸のようだ。それもそのはず。16世紀の宮殿で、文化財に指定されている旧「ブエナビスタ伯爵邸を改修して、2003年に完成したということが判った。
入口では随分と待たされた。団体客の予約客で詰まっているのだろうか、人数制限をしているのだろう、そう思ったが違っていた。手荷物検査とその預け入れでの混雑だった。預け入れの反対側がチケット売り場になっていた。今は丁度、特別展が開催されていた。階層で展示物を区分けしてあるらしい。
チケットを買う段になると、売場の係員が、「常設フロアーを観るのか?特別フロアーも観るのか?それによって料金が違うが」と訊いてきた。全部を観ることにした。
チケットを渡しながら係員が、「日本人客に説明するために、3種類の言葉を教えてくれないか」と言う。「joh-setsu
dake?」、「toku-betsu dake?」、「subete-miruka?」という言葉をゆっくり何度も繰り返して、係官の耳でスペルを書き取らせた。なるほど、薄暗いチケット売場には、日本語のパンフレットもあった。
チケットをもぎられ、中庭に入る。アルハンブラを模した造りに思えた。噴水が無いだけだ。
内装は白一色に明るい。絵画、デッサン、彫刻、陶器など200点余りの作品が展示されていて、全て、ピカソの義理の娘と孫からの提供だそうだ。
マラガで生まれ、13歳で父親の画材道具を与えられたピカソは、他の画家に比べて環境に恵まれていたと言える。そして生涯に愛したと言われている7人の女性たちが、この美術館のなかで作品となって登場している。尤も、キュビズムと言われる画風の中では、美人かどうかは判断しかねるが、女性に会う度に画風も変化していった。正式に結婚したのは、ローマで恋に落ちたロシア・バレエ団のダンサー・オルガだった。オルガを描いた時は、ヌードでもなく、キュビズム手法の変形もなく、当たり前にきれいな写実的な画風となった。「肘掛け椅子に座るオルガ」。どうやら、誇り高い名家出身の彼女は、それを嫌ったのだと言われている。
1階で目にした若い頃のピカソのクロッキーやデッサンは、その柔らかさ、緻密さに驚かされた。ポストカードを何点か買った。そのきれいなラインが一転して、キュビズム画風に変わっていくのだが、ゴッホの激しさにはない、写実的な絵画に飽き足りないものを探し続けてブレイクした彼がいた。目に見える形を上や横、右や左と縦横に視点を変え、分解し直して、面や線を描く、何とも奇異な画風に変わっていった。
印象派のセザンヌがこれまでのパース画法を崩して、多視点で描くようになったことに、ピカソは影響されたと言われる。「セザンヌの林檎」は、写真のように自分の目に見えているだけの構図に囚われず、左右上下からの視点から描いてある。
2階には、あの有名な、戦争の悲惨さを訴える気持ちが溢れている「ゲルニカ」が観られた。ナチスドイツに爆撃されたゲルニカ市民の阿鼻叫喚を描いた作品である。今年は、ニューヨークからスペインに返還されて丁度25周年だそうだ。いつもは、プラド美術館にあるのに、生誕125年の特別展だから、運良くマラガで観ることができたのだ。
地下の特別展では、フランソワーズと一緒の写真や、それぞれの作品を仕上げた時のアトリエ風景を撮り続けたカメラマンの貴重な写真展もあった。
手にしたパンフレットを見直した時だ。あっと驚いた。66歳以上は半額とあったではないか。チケット売場には、それを表示した文字もプレートもなかった。シニアの観光客が多いはずなのに、そうした気遣いが為されていなかったのは、残念である。
「Is there a discount for senior?」とか「Can I take a senior reduction?」なんて、臆面もなく訊くに限る。
歩き疲れたので腰を休めようと、1階の中庭のカフェで座ることにした。広くはない庭だが、開放感がなによりだった。緑もあって落ち着けた。珈琲を頼んだ。
一息ついた時、菅井美子さんがローマ行き鉄道の珍道中顛末を話し出した。
米谷夫妻と一緒に、チベタベッキアで、まず支倉常長の銅像を見た後で、鉄道でローマまで行ってみようということになったという。「リターン・・・」という言葉を「往復切符」だと理解できた。駅員からチケットを受け取り、意気揚々と列車に乗りこんだ。しばらくして、検札に来た。車掌にチケットを見せた。ところが、車掌は顔をしかめて、何度も何度も同じ言葉を繰り返して文句を言う。ところが、こちらはチンプンカンプン。
彼は、長い間、チケットを指さしてガミガミ。そのうち業を煮やしたのか、チケットを持ってスタスタと立ち去ってしまった。訳もわからず慌てた。荘輔さんが後を追い、チケットを取り戻そうとした。すると、車掌は黙って睨み付けたと思ったら、チケットを床に叩き落としたという。
その剣幕に、思案した。どうやら、菅井さんたちは、スペシャルシートに座ってしまったらしかった。代金が不足であるとことが、やっとのことで判った。身振り手振りで、追加料金を支払うことを伝え、やっと一件落着したという。ローマ駅で降りたのだが、出口がなんとも寂しい駅だったという。なにかおかしい、変だぞと思い、駅の周囲をしばらく歩いたら、やっと表玄関の前に来た。気が動転していたのか、駅裏に出てしまっていたのだという。テルミナ駅らしい光景が目に入って安堵した。
今度は、帰りの乗車ホームを確かめておこうと歩いたが、教えられた番号ホームがなかなか見つからなかった。また冷や汗をかくことになった。用心のため、チベタベッキアまでの停車駅名をすべてメモ書きしたという。そしてなんと、ローマの街を散策することもせずに、確認したそのホームから発車する列車にそのまま乗って帰ることにしたのだ。
ところが、今度は途中で電車が止まってしまった。車内アナウンスを聴いた乗客たちがパラパラと降りはじめたのだそうだ。2度目のアナウンスで、さらに残りの乗客たちが降りたのだが、アナウンスの意味が解らず、4人とも顔を見合わせて躊躇した。そして、さあ、降りようと決めて立ち上がった途端に、ドアは閉まってしまったそうだ。ドアを叩いたら、ホームの乗客が知らせたのだろうか、再びドアが開いた。慌てて降りた。
日本でもよくあることだが、車両故障のために別の電車に乗り換えることを告げていたのだそうだ。往路には特別席、復路には故障という、2度もドタバタした末にやっと帰船できたのよ、という。静かな中庭の中で笑い声をあげてしまった。
僕も、このスペインの列車の旅で似たような経験をした。この珍道中は、拙著『思いきって世界一周』(2005年刊・あいでぃあらいふ社・絶版)142ページに書いた。マドリードからグラナダ空港に飛んだが、離陸がディレーしたので、グラナダが閉鎖してしまい、マラガ空港に着陸してしまい、深夜にグラナダまでの送迎バスが出た時のアタフタしたことだ。他人のことを笑えないよと、美術館を出て歩きながら、その話をした。
昔、こんなこともあった。「スペインで、パブロといえば、世界平和のシンボル、鳩が頭に浮かぶね」と言った。友人は、大きく頷いた。話が進むにつれて、噛み合わなくなった。
僕は、パブロ・ピカソだった。「子供と鳩」の絵であり、「平和の鳩」や「未来の鳩」だった。友人の頭の中には「鳥の歌」があった。室内楽専用ホールのカザルス・ホールを主婦の友社が建てた頃だったと思う。チェロ奏者のパブロ・カザロスに因んで命名された。
同じ名前、パブロであり、国連平和メダルを受けたときの、「国連デー記念コンサート」のことだった。有名な話だが、パブロ・カルロスは「自分の故郷では、鳥の鳴き声がピース、ピースと言って鳴くのです。このカタロニ地方(スペイン)の民謡、『鳥の歌』を弾かせてもらいたい」と言った。あのメルセ公園の鳩の鳴き声は、パブロ・ピカソの耳には何が聞聞こえたのだろうかという話で終えたものだ。
そのカザロスはフランコ独裁政権下で、反対闘争をしたために祖国に帰れなかった一人である。実は、そのフランコ政権末期ともいえる1970年に、僕たち夫婦はマドリードを訪れていた。デモ隊を望遠レンズで撮った僕は、憲兵のような大男二人に両腕を掴まれた。記者と間違えられたようで、フィルムを抜け!と怒鳴られたことがある。観光客であることを証明したいとして、ホテル名を書いたことがある。
随分とゆっくりしてしまった。夕食時間が迫ってきた。出掛けに訊いたアタラサナス中央市場(新しくない茄子と憶えるか)と、百貨店のエル・コルテ・イングレスの位置を確かめておいて、明日に備えることにした。
帰りにスーパーマーケットに寄った。菅井夫妻は、きゅうりと枝豆を探していた。が、無かった。ギネスのロング缶を買った。酒のつまみにする材料だったのだ。
マリーナ広場に戻ったが、既にシャトルバスのラストタイムは過ぎていた。埠頭の突端に停泊している船まで歩く。15分も要した。シャトルバスの有り難さが判ったといいながら、タラップを上がった。
夕食を食べ終えた時、真先町子さんにバッタリ会った。3年ぶりである。ローマから乗ってきたのよと言われたが、全く知らなかったのだ。妻は懐かしさもあり、しばらく話し込んでいた。彼女は、僕の仕事仲間の奥さんである。いや、にっぽん丸では、妻の好きなアクセサリー教室の講師なのである。これから帰国まで一緒だという。航海日には、妻は生徒になる。
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