06.05.10. フィレンツェ~ピサ~リビエラ
朝早くに、屋上テラスに上がる。ヴェッキオ橋から北西に7ブロックほど離れていることが地図から読み取れたから、もしやと思ったのだ。案の定、ドゥオモの赤い球形が霞んで見える。屋外プールのあるホテルは、フィレンツェでは唯一此処だけだと聞かされたが、屋上からの眺めもいい。7時モーニングコール。7時半、1階のレストランで朝食の席で船客に教えたら、何人かは慌ててエレベーターに走った。8時、バゲージをドア外に出す。8時半ロビーに集合。このタイムスケジュールは、変わりない。
今朝は徒歩観光だと思っていたら、タクシーに乗り合いでヴェッキオ橋の袂に行って欲しいという。ウフィツイ美術館入場の時間が迫っているに違いない。アルマーニ、グッチ、トラサルディ、フェラガモの通りは歩けないままに、ヴェッキオ橋に着いた。200円で乗れる小型バスが走り回っていた。
13世紀初頭まで、ベネチア、ジェノバと並び、海運国家として繁栄を極めたフィレンツェ。東西に流れるアルノ川に南北の道を造るには、橋が要る。沼地の続く両岸で台地が近い場所に橋が架けられた。洪水などで何度も架け替えられたのに、ポンテ・ヴェッキオ(古い橋)という名前になっている。まあ、最古の橋、だと解釈しておこう。パリの最古の橋が、ポン・ヌフ(新しい橋)と呼ばれているのとは対照的だ。
川沿いには3,4階の建物が積み木細工のように並んでいて、空が抜けている。川面に映る景色を、シングル・スカル艇が静かに切り裂いていく。
我々には、橋を渡る時間もなさそうなので、カメラに撮るだけで終わった。橋の上に回廊ができたのは、川向こうのピッティ宮殿とベッキオ宮殿を結ぶためだったが、メディチ家の人物が暴漢に襲われないためでもあったようだ。建築家パザリに造らせた。この当時は、橋上の店は肉屋が並んだ。しかし、肉の臭いが回廊に漂うのを嫌って撤去させ、今のような金細工職人や宝飾店に許可を与えたのが、今の貴金属店街になったのだそうだ。
古代、最初に住みついたのは、エトルリア人。ローマ人は、彼らのことをエトルスキと呼び、住んでいる地域をエトルスカと称した。それがトスカナ…「トスカーナ地方」となったのだ。
ガイドのヌガさんが手招きをした。長い行列を尻目に我々は、別のドアから入ることになった。親指と人差し指で作るコの字の形をした細長い建物である。それまで各所に分散していた行政・司法関係省庁を一箇所に集束させようと、メディチ家の君主、コジモ一世が統制力を強めるために造った総合庁舎だった。だから、ウフィツイはオフィスの複数形という意味。最上階に美術品を展示し始めて今日に至る。

「時間を有効に使いまし
ょう」と、ヌガさんがリクエストを募った。どなたかが日本から持ってきたガイドブックを読み上げた。笑い声が起きた。「では、駆け足ですが、此処までこられて観ておいてよかったと思われるように、ご案内しましょう」と、背中を向けた。
「受胎告知」、「アダムとイブ」、「ヴィーナスの誕生」、「春(プリマベーラ)」などなど、ついに本物を眼にしたかという想いで、ホー、ハーと溜息が連続する。頭の中は、美術の教科書をめくっているようだ。エルミタージュ美術館とは違い、カメラ撮影は禁止なので、人の足は止まらないのがいい。
外に出る。ベッキオ宮殿側に歩く。 右手手前に、「海神ネットゥーノの噴水」、中に「ダビデ像」、そして奥に「コジモ一世騎馬像」が、左角を回ると、市民集会の場であったロッジア・ディ・ランツィ(列柱廊)には、メディチ家が彫刻の展示場にしてしまった。特に、ブロンズ像で筋肉を表現した「ペルセウス像」は、一瞬の眼力で人を石に変えるという魔女メンドーサの首を手にした、有名な傑作である。

フィレンツェは、古都・織物産業の京都と、織物ファッション産業では、岐阜も共に姉妹都市になっている。フィレンツェは、13世紀ころから織物産業で経済力をつけた商人達が金融業を興し、銀行家となっていった。しかしながら、キリスト教の教義では、謙遜と倹約を重んじさせていた。高利貸しは最も罪深い職業だとされていたため、贖罪の意味を込め、宗教施設の改築や寄付をすることで、芸術家達を育てるパトロンになった。キリスト教に奉仕するという名目が立って、誰に反感も買わないで権勢を保持できたというわけだ。
もし、彼らが依頼することがなければ、ミケランジェロもボッティチェリもラファエロも、多くの作品を残しはできなかったし、ガリレオも研究できなかっ
たのではないか。ダ・ヴィンチがモナリザを50歳はじめの頃に描き上げたのは、ここフィレンツエだ。
街の至る所で眼にするメディチ家の紋章は、百合の花に丸薬が6個、真ん中に1個。丸薬と決めつけるのも強引かもしれないが、医師というmedicoの複数がmedici、つまりメディチであるからには、先々代の家業は医薬関係ではなかったかという説に信憑性がありそうだ。

シニョーリア広場からは、あのドゥオモのクーポラ(大円蓋)が、でんと腰を据えて見下ろしている。日本人には、江國香織・辻仁成、原作の映画「冷静と情熱のあいだ」で竹野内豊とケリー・チャンの約束の場所として思い出される大聖堂である。
15世紀に出来たという高さ107mのドゥオモ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母大聖堂)。ジョットの鐘楼からクーポラを撮りたければ、414段。クーポラのテラスに出たければ、464段登る時間が要る。上部に上がれば、オレンジとベージュの家並みから、遥かトスカーナ地方の景色が一望出来るというのだが、修復建築中だった。今回はお預けとなった。今日は、昼食後に、まだピサの斜塔へも走るのだ。
ドゥオモを見上げる位置に置かれている建築家のブルネレスキ像のように、ただ見上げるだけにした。急ぎ足で、サン・ジョバンニ礼拝堂に向かった。ブロンズの大きな扉の説明が始まっていた。ミケランジェロが絶賛したという「天国の門」だ。太陽の光を浴びて黄金色に輝く、レリーフの旧約聖書物語だ。
さて、昼食のレストランへ向かいますと、ツアースタッフの藤川君が手を上げて歩き出した。何処にあるのだろうと、後について歩く。
この辺りは、道が碁盤の目のように、整然としている。シーザーが退役軍人に土地を与えて移民市を造らせたのだそうだ。彼らが花の女神「フローラの町」という意味で名付けた、フロレンティアが、フィレンツェの原形になったという。市の紋章が百合の花なのだ。僕も10年間ミッションスクールで学んできたので、百合の花が三位一体を表すということは解る。
サンタ・マリア・ノッベラ広場を抜け、駅を横切り、人通りの少ない道をなにも案内がないままに歩くのは疲れる。空腹感もあり、文句も出る。年配のご夫婦でなくとも、足が重い、遅れる。15分ほど歩かされた。右の小路にあるレストランにやっと辿り着いた。位置的にはホテルの裏側に近いか。
料理は取りたてて特別なモノではなかった。今回のオーバーランドツアーの食事は、どうやら、日本人の口に合うボリュームを配慮し過ぎで、いわゆるコース料理とは言えず、中抜きの品数であった。寄港地の異国で食べる楽しみは、その国の香辛料やソース、また西欧人の分量を知ることでもある。尤も、僕の減塩調理については、藤川君に毎食気遣って貰っていたことは感謝である。
ところで、ナイフ、フォークもこのフェレンツェで生まれたのだ。12世紀ころ、ベネチアの上流階級でもパスタを手で食べていたのだろうか、干し草を掬う農具からヒントを得て、フォークを作ったという話がある。メディチ家の姫が、フランス国王への嫁入り道具として持ち込んでから、ヨーロッパに広まったという話。ポルトガルの姫が英国に嫁ぐことで紅茶が伝わったことにも似ていて、伝来の歴史は面白い。
フィレンツェを離れる前に、ミケランジェロ広場の丘から展望しようとなった。フィレンツェの旅番組では必ず此処からの映像が流れる。見どころを凝縮したスーベニールボックスのようだ。僕は400ミリ相当のズームレンズで捉えられるが…。せっかくの景観を前にしても、フレームの邪魔になるのが、売店にぶら下がるカラフルなシャツである。サッカーチームのシャツやチームフラッグが、景観を汚す。観光ギフトも時代には逆らえないのだろうか。しっとりした京都嵐山の渡月橋で、クレープ屋のワゴンが動かないでいるようなものかな・・・・観光客相手の商売とはいえ、場違いである。
ピサでも同じ風景があった。ただ、露天が並んでいるのは、ドゥオモや斜塔の視覚に入らない脇道だ。ピサはフィレンツェから90km西にあり、アルノ川の河口からも10kmの距離だ。ジェノバやヴェネチアと伍して海軍力を誇った。その力は、マジョルカ島やイビザ島まで勢力を伸ばしていた時代もあった。

アーチを潜ると、遠くにお馴染みの斜塔が見える。右側が露天、左側には芝生が広がり、礼拝堂、納骨堂、ドゥオモ、鐘楼という順序で建ち並んでいる。
正直、建物もステンドグラスもフラスコ画には見慣れてしまい、関心は、鐘楼(斜塔)以外なし。
その鐘楼だが、アルノ川の運んできた土砂の上に建てたため、地盤が軟弱で、2層目を建築時に傾き始めたらしい。それ以降は傾きを補正しながらの工事で、なんと完成までに180年も掛かったという。しかし、その傾きのお陰で、ガリレオの実験が世界を変えたのだから、判らないものだ。
「失敗は成功の母や」誰かが言った。「そう、いつも子供の心を持ち続けることやね、いっつも、なんで?なんで?って、疑うこと!」と誰かが返した。どっと笑い声が青空に吸い取られていった。
8層の白い大理石塔は、一時地盤沈下騒ぎもあったが、不倒工事をしたので大丈夫という観光当局のお墨付きが出たことを新聞で読んだことがある。現在の傾き5°30′だそうだ。カメラを向けると妙なことに、塔を正対で撮ろうとしてしまう。横に垂直なものを写し込まないと、何でもない塔になりかねない。階段を上ることが禁止されているので、ガリレオの気分にもなれない。斜塔の下に集まっている観光客を入れることになると、8層まで写せない。
そこで、芝生の上でも、道端でも、観光客が一様にピサを押して支える役をする。これは、丁度、運河を通過するときに、架橋直下で両手を上げて、持ち上げるギミックと同じだ。この芝生では、みんなが倒れてくるピサの斜塔を立て直そうと声まで出して懸命に力を入れている。
スヌーピーも、汗かいて支えているTシャツが面白い。型抜きの斜塔の土産物は、子供だましレベル。アイディアのある斜塔土産は見当たらなかった。
16時、ピサを走り出しても、田園風景の中に、斜塔は背伸びして見送ってくれているようだった。かなり先まで、塔の頭は見えていた。バスは一路、リグーリア海の海岸線をサントリーのCMソング「冬のリビエラ」に向けて走る。
明後日は、ジェノバ、サンレモ、モナコという、中世の歴史都市から目映い光のきらめくリゾート地が待っている。
18時半、リビエラに着いたらしい。コンクリート打ちの波止場があるが、想像していたリゾート地ではなかった。鳥羽辺りの観光地にでも寄ったような気分だ。バスは、山側の曲がりくねった道を上がっていった。今度は、温泉場のような道である。急に開けたと思ったら、今夜のグランドホテル・ブリストルのアプローチだった。
ルームキーを手渡され、部屋に入る。テラスは広く大きい。眼下にプール。湾の対岸に、メガシップが沖留めしている。山の端に夕陽が落ち始めている。白い客船が赤く染まっているように見える。リビエラの夕景だ。
夕食は、テーブルでワインボトルを別に取って、長旅に乾杯して、始まった。ここで3泊目。歩いている間に自己紹介をしあうこともあり、名前で呼び合う仲になっていた。
オードブルはスモークハムと薄切り肉のチコリ添え、パスタ入りのビーンズスープか、スモークサーモンのマカロニ。魚のソテーか、仔牛のヒレ肉、香草添え。デザートはクリームカラメルのカスタードプリン。コーヒーかティ。以上。
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