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2009年2月

2009年2月24日 (火)

060508 チベタベッキア~ローマ

Dscf12258時、チベタベッキアに入港する。なかなか憶えにくい名前だ。「冷たいベッキー」とでも言い換えて憶えるしかないか。船室の窓から覗いていても、工業地区にありがちなシンプルで固い感じの埠頭だ。チベタベッキアに入港したのは、ローマに出来るだけ近い位置に船を置きたいという結果だろうか。

ここから、ナポリ、青洞門、ポンペイへ南下していくツアーと、ローマだけでも、という有料(2000円)長距離シャトルバスグループと、中部へ北上しようとするツアーとに分かれるからだ。我々は34日のオーバーランドツアーを選択した。


「オーバーランド」とは、しばらく船と離れてホテル泊を重ねながらツアーをして、再び航行している船に追いつくという「内陸ツアープラン」である。金額は外泊外食に交通費、ガイド費が嵩むため、高額になる。先回クルーズ“外泊”の決め手は、セント・アンドリュース・ゴルフコースでプレイすることだった。そして今回は、フィレンツェという都市だった。

だが正直に言えば、迷ったのだ。フィレンツェ滞在の時間が不十分だったことと、ベネチアにまで足を伸ばせないコースプランではなかったことだ。


37年前、ヨーロッパ旅行に関して、言われていたことと言えば、ベネチアは地盤が海に沈下し始めている。早くに訪れた方がいいとか、ピサの斜塔は、傾きが予想外に早くなった。工事をする前に訪れた方がいいとか、モンサン・ミッシェルは、島を結ぶ橋を造ったことが海流を妨げ流砂が溜まってしまった。大工事が始まってはからでは風景が荒れるぞとか、フィレンツェのメジチ家の名画財宝は国外での展示はあり得ない。直に訪れる他観る機会はないのだとか、だった。

歴史的建造物だけに、これを否定する者は誰も周りにいなかった。さらに、地球温暖化によって、アラスカの氷河に接近する観光客船の規制が働き、船の頻度数が少なくなるぞとも言われる。

旅行会社が煽っているだけではないかとも受け取れていたが、全地球的に温暖化は歯止めがきかないだろうと、氷河観光だけは3年前に済ませたのだ。今回イタリアを北上するものの、ベネチアだけは素通りになる。つまりは、ベネチアに自分の足を下ろすことはこれでなくなった。


P10301423 こうして、「冷たいベッキー」から「もな子」まで、イタリア半島を北上縦断、左折しながらコートダジュールの口まで走るコースを選んだわけである。

参加者は14名。ツアースタッフは藤川悟君。ガイドはミラノから来た三重県津が実家のヌガさん。ドライバーは、ジョジュ。

 

チベタベッキアは、紀元後6世紀に築港した重要な港だという。古代ローマ時代から海の玄関だったのだ。慶長遣欧使節、支倉常長の銅像がある。仙台藩主伊達政宗の使節としてローマ法王に謁見のため,石巻市を出帆し,1615年に上陸したという歴史的な関係があるので、石巻市とは、姉妹都市になっていると聞いた。

ここからローマまで65km。「ボンジョルノ!」バスは9時に出発した。

アウトストラーダ12号線を走る。羊の放牧があっても、妻はカメラを出そうともしない。3年前は、自分の干支だというので、何が何でも撮っていたのに、今回は、平然と見送るだけだ。

京都から東都へと都が北上したように、ここイタリアも、トリノからフィレンツェ、そしてローマへと徐々に首都は南下していった。王制が終わり、ローマ共和国へと変わったのは1946年だった。フィリピン共和国とベトナム共和国が独立し、日本では吉田茂が自由党総裁になり、日本国憲法が公布された昭和21年だった。

 



Pict2584 我々はイタリアの爪先から、ローマを目指して北にひた走る。高速道路では、ここでも、日本のETCに似たテレパスポートなるものがある。ヌガさんによると、イタリアのテレパスを日本が手本にしたのだという。シンガポールでは、料金支払い検知システムは日本から導入したと教えられたが、ここでは、その日本に教えた先生格がいたことになる。

イタリアの運転状況は、以前は速度制限がなかったのだが、事故多発のため、時速130kに制限がかかり、大型バスは100k、トラックは80k。そして、全車に前照灯の点灯走行の励行を指示しているという。事故低減策は、ドイツの事例から導入したそうだ。しかし、ガソリン120140セント(つまり200円以上)になっていくらしく、こうなると、事故防止よりも節約だ、とばかりに点灯しない車が多くなったという。観光バスも全席シートベルト着用を義務づけ、違反はドライバーに課せられるというので、我々もベルトを締めることになった。確かに最近、観光バスの事故などが多いと知って、みな素直になっている。カチカチと音が連続した。

 


Dscf1235 Dscf12381 コロッセオに着いた。「でっかい建物」という意味の「コロッセウム」が元々の発音だが、時代を経て、変化したのだという。観光オンシーズンのため、バスの駐車場は離れた場所になった。少し下り坂を歩いて、道路を横切ると、異様な高さでコロッセオが迫ってきた。円周の半分が欠け落ちた4階建てのアーチ型の窓が聳えている。57mという高さは、15階建てのビルに相当する。観光客が丸い壁伝いに長い列を作っていた。しかし、我々は、予約してあったようで、行列とは別の口からさほど待たずに中に入ることが出来た。

Dscf1239 Dscf1249 円形のスタジアムの下部にある野獣と奴隷の檻と、その通路が見える。37年前には無かった地下と地上を区切る木製の床が新しく造られていた。その床部分が、砂埃をあげながら野獣と戦った土のステージだったのだ。ロイヤルボックスは南側にあった。このグランドは、その昔、帆船を浮かべたという歴史画がある。あの石積みのアーチ橋で有名な「アピア水道」から引き込んだ水を満たし、模擬海戦をさせた時期があったようだ。その後は、誰もが知る剣闘士の登場する舞台となった。罪人は地下の檻に入れられ、滑車を使ったエレベーターで観客の前に現れ、グラデュエイター、剣闘士は跳ね橋から颯爽と登場した。249年のローマ建国1000周年記念イベントでは、30頭の象やライオン

30、豹30、虎10、キリン10、縞馬10頭など、かなりの野生動物が国外で捕獲されて、剣闘士を相手に殺されたという記録があるそうだ。

スポーツ施設やホールで「アリーナ」という1階の平場は、この闘技場から生まれた言葉であった。フロアが血で滑らないように敷き詰めた砂のことをラテン語で「アレーナ」と言った。後に、闘技場そのものを「アレーナ」と呼ぶようになったのだ。座席は45000、立ち見席で5000もあったと推定されている。1層目の各アーチには番号がついていて、自分の切符の番号と照らし合わせて上がっていく仕組みになっていたことも、市民は無料で招待されていたというから驚かされる。

 

この5万人収容の巨大空間を造った当時の「コンクリート」という建築技術が、今日までの時代を耐えている。同じ建造物を、鉄筋なしで現代に再現させようとしたら、かなり難しいことだと、高名な建築家が言ったそうだ。

 

Dscf1252 Dscf1236 ひと回りして出ると、時代衣装を身にまとった男たちが、観光客と記念写真をとらないかと寄ってきた。相手によって値段が変わるそうだ。ガイドが交渉役になりますからと注意があった。望遠レンズで撮ってやろうと試みたが、彼らは客引きに忙しく、盛んに観光客の間を動き回るので、巧くシャッターが切れなかった。


目と鼻の先に、パリの凱旋門のモデルにもなったコンスタンティヌスの戦勝記念の凱旋門がある。20mにもなる高さだが、コロッセオの前では萎縮しているように見える。、

 

コロッセオを出た後、昼食のため、バスはバチカン宮殿の外周を大きく巻いて走った。レストランは、街から外れた寂しいところにポツンとあった。大型バスが1度に何台も駐車できるレストランだからと説明しきり。なるほど、団体客様ようなのか、内装も大雑把。中は我々日本人客以外、誰もいなかった。


Dscf1279 昼食の席は阿刀田さんとご一緒になった。日本ペンクラブが文化庁と共にシンポジュームを開いた時の話を聴いた。

韓国、中国、台湾、日本で、漢字の国同士の文化融合を考える会議だった。互いに同じ漢字を使ってきた国だといえども、現在は、難しい状況になるのだという。理由は、漢字の源になった中国が略語形の文字を使い出し、一方、台湾では一番画数の多い古い漢字を好んで使い、こちらこそ中国の本流を守っていると主張し出すし、韓国では、知識人の男性文字だった漢字が今になって再認識し始めている。それに比して、日本では、読み書きも文字も乱れてきて怪しくなっている。歴史的な情報を共有しうる隣国同士ではあるが、互いになかなか歩み寄れなかったという。まあ、英語というのも、学校で教えてもらった文法などは、生きていないことが多く、否定形と否定形を重ねるのと、肯定になるというのは嘘で、使われている場合を聞いていると、なんとか否定したいがために感情で強調しているから、重ねているに過ぎないことが解る。生きた言葉とはそうしたモノですよ、とおっしゃる。

日本語を勉強していた外国人との会話で面白いのがありますよ、と先生は続ける。私の本を読んでくれたかと聞いたら、「ホン、ノ、スコシ、ヨンダ」という。何冊かは読んだという意味なのか、1冊の半分までは読んだと言っているのか、定かではなかった。冗句みたいだ。

奥様の慶子さんは、日本語教師もされている。「鯉は桃食う」というから、鯉という魚は、藻を食っているではないというと、恋は盲目の意味だったりして、「イカガ、デスカ?」という挨拶言葉には「ゲンキ、デス!」と教えられた外国人が、湘南海岸の店の呼び込みに「イカガ、デスカ?」と何軒も問われて、「ゲンキ、デス!」、「ゲンキ、デス!」と声を出しながら歩いたという話。お二人の話を食事をしながら耳にしていると、口のモノを危うく吹き出しそうになった。

 

考えてみれば、世界に通じる言語が「英」語になったといっても、そこには、純粋なキングズ・イングリッシュではなく、主流はアメリカン・イングリッシュであり、他にオーストラリアン・イングリッシュや、ハワイアン・イングリッシュという「英」語もある。キリスト教の伝播が宗派を細分化したように、だ。米語にも、ブッシュ・イングリッシュという言葉さえあるそうだ。名古屋弁米語とでも言おうか。我が国の小学校も、3年後には小学校から英語教育がスタートするそうだ。議論し尽くされないままにスタートしていく。しかも、担任教師が英語を教えることになるという。英語を教えることを念頭に入れていなかった教師に戸惑いが起きることだろうし、先生に英語を教える先生が必要となる。なぜなら、ネイティブ・スピーカーでもない教師から教えられた英語が果たして役立つのだろうか。また、再び、日本の英語教育の悪循環を懸念する。

耳で聞くことの重要性を軽視し、ねじれた早計な教育論がまかり通る。英語嫌いになる子供をむやみに増やすことになれば、これから長い中高の教育に影響が出てしまわないか。小学校の英語塾通いが増えれば、教育の根本が幼い時期から複線化する。粗悪な英語塾に営利をむさぼらせていかなければいいが。最近、シニアのホームスティとか、国内の外人宅への合宿が成果を出して人気だとTVが取り上げて見せた。答えはひとつ。ネイティブ・スピーカーとの時間を長くすることが、最短の学習法なのだ。英語を全く話せなかった僕の教え子だって、サンフランシスコに住んで自炊生活していたが、肉屋での買い物で鍛えられたという。何の肉だ?部位は何処だ?何に使うのだ?何グラムか?厚さは?を繰り返しているうちに、言い回しを覚えたという。半年もしたときに、テレビの音声に笑えるようになったというではないか。そういえば、台北に1年交換研究生で住んだ長男も、北京語と福建(台湾)語が不自由なく話せるようになっていた。果たして、文化省が、全国的にネイティブ・スピーカーを配置させる意欲はあるか。答えは、否だ。

 


レストランの位置は、バチカン宮殿の裏側だった。これからバスで表面に向かうことになった。

Dscf1258 Dscf1230 バチカン宮殿の正面、カソリック教徒との和解を表す「和解の道」を通りすぎた。城壁に造られた水道、聖なる水を旅行者が口に含んでいる。日本人が、神社の前で参拝する前に、手や口を濯ぐ仕草にも思えるから、不思議なものだ。実際は単なる喉を潤すだけために過ぎないのかも知れないのだが。


バスから降りて、いよいよチケット売場に並ぶ。入場する全員に、まずX線で手荷物検査が行われるようだ。ミケランジェロの画が切られた事件以降こうなったのだという。


Dscf1264 カソリックの総本山。世界遺産。世界最小の独立国。広さは、TDLくらいだと思えばいい。サン・ピエトロ寺院中央の広場一面には、何千脚という椅子が並べられていた。この広場を埋めた時の数は、30万人とも40万人とも言われている。楕円形の巨大な広場である。法王からの挨拶が近々行われる準備のようだ。先に見たコロッセオの欠けた大理石の部分は、このバチカン宮殿の大理石建材として削り取られたのだとも聞く。


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サン・ピエトロ寺院の正面入口を入ると、右手にミケランジェロの傑作と言われる「ピエタの像」がある。十字架から下ろされた我が子、イエスを抱くマリアである。バチカン宮殿の右手奥にシスティーナがある。その法王選出のコンクラーベの結果を知らせるDscf1262 白煙が昇る建物だ。システィーナの内部の宗教画は、今回は目にすることは出来なかったが、実は、実寸サイズに再現されたミケランジェロの大壁画「最後の審判」は、見慣れた画と元来こうあったのではなかったかと復元されたモノとの2枚を四国の大塚美術館で観ている。

マルタで観たカラヴァッジョも、ここローマでデビューしたのだが、奇行の数々で殺人犯となりローマを去った。大聖堂の内装を任され、騎士団の一員になった。エルグレコもまた、このローマからスペインのトレドに去っていった。いずれも、巧みな光の捉え方で筋肉を描き、写実的な宗教絵画で一時代を画した。

処刑前の赤い「聖衣剥奪」はグレコが、処刑後の傷ついた裸体「キリストの埋葬」はカラヴァッジョが描いた。この二人はよく比べられる16世紀の画家である。

 

Dscf1277 Dscf1259 サン・ピエトロ、つまり、ここは、ペテロの墓の上に建てられた大聖堂である。ペテロの像がいつも鍵を手にしているのは、キリストから授けられたという「天国の鍵」である。

 

10年を要したこの楕円形の柱列回廊に沿って、長い列が続く。みな辛抱強く立ち並ぶ。140もの聖人像が頭上から我々を見下ろしている。この柱列回廊は、広場に来る信者達を迎えて、左右から楕円形の腕で抱き込んでいるように、デザインレイアウトされているのだと言われると、なるほどそうかと納得できる。

Dscf1274 バチカンの衛兵はスイス人だと聞かされた。忠誠心の高いスイス人傭兵は、歴史的にも500年以上に亘っているそうで、当のスイス人も山間の地から都会的なローマに来ることで、イタリア語、英語、またセキュリティの専門家としてのスキルを得られると応募する若者が多いのだそうだ。あの遠目からも鮮やかな色彩のコスチュームは、ミケランジェロのデザインだという。アテネの衛兵といい、バチカンの衛兵も、記念写真に自分を納めようと、アメリカオバタリアンたちは、キャッキャと喜んでいる姿は微笑ましいものだ。

 

 

フェリーニの「甘い生活」やヘップバーンの「ローマの休日」で世界に知られるところとなったトレビの泉は、休憩する人、記念写真を撮る人で、ごった返していた。カメラに向ってポーズをとっている観光客の前に、そんなこともお構いなしの人が立ちはだかって、はしゃいでしまう。要領の悪い観光客は、いつまで経ってもシャッターチャンスを得られない。若い人たちなら、冷たい視線の交差がバチバチあるが、年老いた夫婦ともなると、諦めて肩をすくめ、去っていく。タイミングをどう掴むかだ。平野カメラマンに予め頼んでおいて、我々二人もすかさず空いた場所に立った。Dscf1299 ポーズは、やはり、右手で左 の肩越しにコインを投げることだった。1個目は再訪が叶い、2個目を投げれば別の願いが叶うと言うから、「腎透析は避けたい!」と、心の中で叫んだ。2回3回続ける人をよく見ると、コインは手にはないのだ。フリだけで撮っている。投げ込まれたコインは、どれほどになるのだろうか、ガイドさんは、教えてはくれなかった。


Dscf1297Dscf1302絵葉書にあるようなトレビの泉の全体を写角に入れようとしても、大抵は画面からはみ出る。ワイドでも、だ。画像をゆがめないで撮れるのは、背中の土産物屋の奥からだよと、先に訪れたとき教えられていた。その土産店だが、既にベネトンの店に変わっていた。

 

Pict2579 ホテルは、五つ星のエクセドラ。共和国広場の真正面。ネオクラッシック建築だという。部屋割りでルームキーを受け取ってシャワーを浴びたら、もう部屋から出るのも億劫なほどに疲れた初日だった。が、まだ夕食がある。着替えてロビーに集まった。そこには、ルイ・ヴィトンの旅行用トランクが飾られてあった。客船で洋行する際、この中に衣装を入れたサイズだ。この中に、小物を入れるカバンとして、後のハンドバッグが生まれたと聞いている。記念に妻を入れて撮る。



再び、19時半には、バスで、カンツォーネが聴けるレストランに向かった。

Pict2587 Pict2590 Pict2597 2階の正面にテーブルが取れた。吹き抜けの天井に4人の歌声が突き当たる。寸劇も交えたショーに、1階のアメリカ人観光客達が、素っ頓狂な嬌声を立てて、笑う。床屋の主人と客とのやりとりだが、残念ながら、こちらは想像するだけで精一杯。ステージが終わってアメリカ人たちがステージに群がるが、出演者達も大喜びでハグし合う。あの脳天気なはしゃぎようが旅を更に楽しくさせているのだ。どうも、言葉の問題があって、日本人はあれほどに、自分をリセットできていないな。開放感は充分満喫しているのだが・・・。


Pict2602 一日中バスに揺れ、歩いたりで、どっと疲れがでたのだろう、ホテルへの帰路のバスの中は、ツアースタッフの藤川君以外は、静かなものだった。

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