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2008年10月

2008年10月25日 (土)

060506 マルタ島

 630分に目覚める。但し、部屋の壁時計は、6時を指している。今日も30分を遅らせるのだ。忘れずに、壁に吊り下げたデジタルカメラを2台、日付を変更しておく。

テレビの航路ナビを見やる。船はマルタ島を前にして、行きつ戻りつ、航跡がクローバーを描いていた。にやりと思わせてくれる、二宮悟志・二等航海士が時折見せる入港時間調節のちょっとした趣向だ。彼の悪戯っぽい小技は、いつも楽しませてくれる。

 

 左側にアフリカ大陸、右にイタリア本土とシチリア島。その間の「地中海のへそ」として重要な位置にあるマルタ島。730分、そのマルタ島は金色に輝いていた。P1080138

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港に近づくにつれて、太陽は島の背に上がり、やがて島全体がシルエットになった。迫ってくる要塞の城壁が、一層堅固に見えた。「岩の軍艦」と言われるのもなるほどと頷く。マルタ共和国のマルタ島は、淡路島の半分以下の広さ。城壁に囲まれたこのマルタ島一帯は、世界遺産である。

 

Dscf1191 Dscf1195 Dscf1110  8時、ヴァレッタ港のピントワーフ・クルーズライナー・ターミナルに着岸した。先に接岸していた客船は、「インシグニア」、3万トンだった。優美さに欠けるが、我々の船の少し兄貴分となるサイズだ。入獄審査は預けてあるパスポートで、一括審査される。上陸許可が下りたら、船内放送で知らせられる。

 

 朝食はギリギリの8時半で、東さんのテーブルに座らせてもらった。今回の東ご夫妻はご苦労が増えている。前回、僕も毎日日本へ航海日誌を衛星送信していたが、今回は、記録として撃ち込んでいるだけで済んでいるから、原稿書きに時間を追われることもない。それに比べて、東さんは、乗船中、3日から5日の間隔で写真と航海日記を日本の留守家族の方々が読むMOPASのページにネット送信している。極力、乗船客の方々を被写体として組み入れておられる。東さんは、すべてのツアーコースに随行するわけにはいかない。しかも、今回の航海記では、読者からのメールにも返信していることを、日本から真紀子がメールで教えてくれた。

 どうやら、身内に呼びかけている書き込みの家族の方は、船客もその文章を読んでいるものと誤解しているようだ。船上の我々は、どう発信され、どう返されているのか知るよしもない。東さんにとっては、航海記への反応があることの励みより、それにひとつひとつ応えるご苦労が増えたのではなかろうかと、傍で心配する。

 

 今日、東さんご夫妻は、北の方にある、日本海軍兵を葬った墓地を訪れるという。第一次世界大戦のさなか、英国艦隊がドイツのUボートに海上封鎖された。英国艦隊を援護するために、遠路を顧みず、日本海軍は駆逐艦8隻で出動したのだ。Uボートとの戦闘で殉死した海軍兵59名の勇士を讃える忠霊碑が、このマルタ島にあるという。1973年に外人墓地の中央に6mの純白の大理石で建てられたという。東さんにとっては、今回の寄港地で一番の思い入れの場だから、どうしても観てきたいとカメラを握りしめながら話してくれた。

マルタ島は、にっぽん丸初寄港地のため、マルタ観光局長による歓迎レセプションが行われる。撮影のために東さんは食事もゆっくりできない。船客より先に下船していった。

 船内での両替単位は、本日は2500円と5000円となっていた。レイトは、1マルタリラが360円。さして使うこともないだろうと、2500円分の7リラを持って下船した。菅井美子、荘輔夫妻と4人で出かける。マルタでの自由行動は、ガイドブックで一夜漬けした知識の妻に従うことにした。パスポートは持たずに、写真付身分証明症を持って下船する。

 

Dscf1111Dscf1106   民族衣装を着た女性がタラップを降りる先で、船客に紅白のカーネーションを手配りしてくれている。そういえば、マルタの国旗も、紅地に白十字だ。せっかくのカーネーションだが、このまま手にして、町中を歩くわけにも行かないからと、我々の他にも、慌てて船室に持ち帰る人が多かった。マルタ観光局によるレセプションだ。

Dscf1112 Dscf1114 Dscf1115 やがて、バンドの演奏が始まった。マルタ騎士団の甲冑装束と民族衣装を着たダンサーたちが伝統的な踊りで歓迎の気持ちを表してくれた。440年前、街を守り抜いたという聖ヨハネ騎士団の姿だ。

 

 埠頭には既にシャトルバスが待機している。坂の上に首都ヴァレッタの旧市街がある。ヨーロッパ屈指の天然港だけに、戦いの要石となった島だ。最高標高点は253m。砦の国である。旧市街へは、急な坂を歩かねばならない。マルタでのシャトルバスは、地元のタクシー業界へ配慮して9時と13時の2便しか出さない取り決めをしたという。有り難いことにシャトルバスでは5分で運んでくれた。

Dscf1203 Dscf1149 Dscf1200  トリトンの泉のロータリーには、バスターミナルがあった。黄色い風景が目に入った。ここは、有名な黄色のマルタバスの国だ。鉄道が廃れて、交通機関はバスだけになった島だ。マルタバスは現在500台。ドライバーが所有するマイバスだ。形もデコレーションも思い思いで異なる。

 坂が多く、道が狭いマルタでは、カロッチンというロバ馬車もタクシーなのである。トヨタのアベントスやメルセデス・ベンツがタクシーである。これらのタクシー、メーターが付いていないそうだ。東さんは、これに乗って外人墓地へ向かっているだろう。

 

 シティ・ゲートと言われる厚い大きな門の中が旧市街である。ヴァレッタ市とは、フランスの騎士団長、ジャン・パリソ・ドゥ・ラ・ヴァレッタの名前だ。

Dscf1128 Dscf1130 Dscf1129  シティ・ゲートをくぐった先に、自由広場があり、真っ先に眼についたのは、赤い円筒形の郵便ポストだった。そこから、真っ直ぐセント・エルモ砦に延びた通りが、リパブリック通り。にっぽん丸と「インシグニア」号の船客たちが通りを占めていた。

 16世紀に築かれたヴァレッタは、ルネッサンスの理想都市と讃えられた。堅固な守りと住みやすさ、そして美しさを持った街だった。きっちりと碁盤の目になった道路は、緻密な計算で計画設計された街であることを想わせる。Dscf1134 Dscf1207 脇道には、各国の騎士団の紋章旗が道幅いっぱいに吊されて、中世の街をそのまま見せてくれている。現在もマルタ島で騎士の称号を受けているのは、82人いるという。

 街の建物は、マルタストーンと呼ばれる飴色の石灰岩で建てられている。なんと、石灰岩は建物の地下から切り出したもので、その地下空間は、水槽や倉庫となり、隣家に通じる避難路にもなっていると聞かされて驚く。現代のマルタは、世界で初めて海水から生活用水を生み出した島でもある。

 

 マルタに来たからには、最初に、カラヴァジョの傑作「聖ヨハネの斬首」を見ようと決めていた。有名な聖ヨハネの教会堂へ足を向けた。が、時間が早過ぎた。開館時間は930分からだった。

 

Dscf1139 Dscf1144 Dscf1145  待つ時間が惜しいと、騎士団長の宮殿(ロドス島では、「グランドマスターの宮殿」といわれた)へ歩いたが、ここでもやはり、入口には未だ赤いロープが張られていた。

 戻って、教会堂のドアの前で並ぶ。ガイドブックに、教会はノースリーブ、短パンは駄目だと書いてある。用意のない人には男性も巻きスカートのようなものを身に付けさせられるそうだ。

 入館料は1リラ。他の観光客はどこへ流れたのだろうか、開館と同時に入ったのは我々の他には僅かに6名ほどだった。このヴァレッタのシンボル、聖ヨハネ教会は、キリスト教を信奉する世界中の貴族からの莫大な寄付で築かれた。思わず唸るほどの明るさで、高いドームの丸窓から陽の光が射し込んでいた。ドームの天井に18の絵物語で描かれ聖ヨハネの生涯も自然光ではっきり眺められる。圧倒される美しさに満ちていた。フラッシュ撮影禁止のマークがあるが、ノーフラッシュで充分撮れる。漏れ聞こえてきたガイドの言葉によれば、石灰岩に油絵の具で直接描いているそうだ。

Dscf1147 Dscf1150 Dscf1148  教会堂の床一面に張られた騎士の墓碑にまで自然光は差し込んでいた。ヨーロッパの富裕層の次男以下の子弟である彼らの墓碑は約380余枚。絵柄にドクロも天使も船団も三日月の旗も見られる。さながら、琥珀色のトランプカードのようである。一人一人異なり、多彩な色の大理石を埋め込んで描かれてあった。オスマン帝国の勢力を食い止める位置にあったマルタ島。ヨーロッパの盾として立ち向かった騎士団たちが足元に眠っているのだ。

 聖ヨハネ騎士団の紋章、マルタ十字には、8つの尖端がある。八ヵ国の言葉を意味する。

この教会堂には、派遣された騎士団の出身地別に、フランス、イギリス、ドイツ、ポルトガルなど8つの礼拝堂が創られている。

 

 奥に進むと、別屋は祈祷室だが、そこに、ルネサンスの巨匠、カラヴァジョの祭壇画が観られる。 「聖ヨハネの斬首」とDscf1152 「聖ヒエロニムス」の二枚だ。そこに入った観光客の誰しもが、ピタリと口を閉ざして凝視する。張り詰めた重い空気が漂う。

そもそも、このモチーフには、死を怖れずに信仰を貫いたヨハネに、騎士団達の想いが重なったことだろう。

 

 ガリラヤ湖一帯を治めていたヘロデ・アンティバス王が、異母兄の妻であった子持ちのヘロデアを無理やり自分の妻に迎えたが、ヨハネは「兄弟の妻と結婚するのは、姦淫の罪にあたる」と国王を諫めた。このことで捕われの身となった。

 王の誕生祝宴の日、ヘロデアの娘サロメが見事な踊りを披露して王を喜ばせた。「なんなりと、褒美を取らせるぞ」と言われたサロメは、母親のヘロデアに相談する。ヨハネを憎んでいた母親は、ヨハネの首を褒美として求めさせた。王は心を痛めたが、ヨハネを処刑し盆に載せて持って来させた、というもの。(マルコによる福音書6章)

 騎士団には「清貧」「貞潔」「従順」という厳しい掟があり、身も心も神のもとに捧げられたのだ。

 

 P1080162死刑執行人の首を押さえつける腕と背中の筋肉、それを強調するためのハイライト。ベラスケスを思わせる光と影の巧みな描写が、足を止めさせる。昔はこの祈祷室上方に窓があり、それを考えて描かれたと言う。

 カラヴァジョは、ローマで殺人を犯し、このマルタに友人の騎士を頼ってきたのだが、筆致の凄さ、薄暗い光の中でも目に焼き付くのが、赤い布とヨハネの血の色。本物を目の当たりで観ると、牢の格子窓から覗き見する2人の囚人の右上の構図が、ヨハネの表情を強調するには、非常に効いていることが解る。

 プレートの文字には、<戦時中に盗まれ、再びここに戻ってきた>という経緯も書かれていた。「戻ってきた」と言えば、カラヴァジョ自身も、数ヶ月後、再び殺人を犯して逮捕され、この自作の前で斬首刑を言い渡されたのも、数奇な運命を想わせる。

 

 外に出ると、陽の光が眩しかった。リパブリック通りの突き当たりまで歩こうと誰かが言い出した。まだロープが張られている騎士団長の宮殿を横目に、坂を歩く。乗用車の背中にまでDscf1159 ディスプレイされた八百屋さんのスタイルが目を惹いた。

セント・エルモ砦まで抜けた。守護の聖人エルモの礼拝堂のあった場所に、オスマントルコの侵攻を防御するために砦が建設されたから、その名前がついた。海星(ヒトデ)のような、鋭角な城壁である。函館に築かれた五稜郭と同じだ。オランダのブールタングが典型的だが、米国のペンタゴンも、その部類か。砦の中に入ろうとしたが入口は見つからなかった。

 

 カラヴァジョの他に、もう一つの関心は、映画のロケ地を歩くことだった。2月に観たポリティカル・サスペンス映画「ミュンヘン」のロケ地だった。1972年のミュンヘン五輪のイスラエル選手団人質事件を取り上げた映画だ。オリンピック選手全員を死亡させた「ブラック・セプテンバー」に報復して抹殺しようとする1人の「モサド」を描いたポリティカル・サスペンス映画だった。

Dscf1174  スピルバーグは、東欧のハンガリー以外、大半のロケ地をマルタに決めたのだそうだ。ヴァレッタの広場は、ローマのカフェとなった。他にも、パレスチナ難民キャンプやベイルートにもなる、などイスラエル、キプロス、レバノン、ギリシャ、イタリア、パレスチナ、スペインのオープンロケセットをこの島に造ったという。一度眼を閉じた。ゆっくりと開けてみると、確かにスペインにもイタリアにも見える石畳や石塀の路地がある。狭い路地の中で響く人声や高い窓に吊された色とりどりの洗濯物さえ、ナポリだ。そんな感じがする。それほどに、中世から第二次大戦まで、各国の支配下に置かれた影響があちこちに残っていて、複合的な文化を感じる。

 

 

Dscf1169  セント・エルモ砦から、海岸側を回って、ローワー・バラッカ庭園へ行きたいと妻が言いだした。バラッカというからには、バラがある庭園かと冗談を言い合ったが、真っ白なマーガレットが満開だった。次ぎはアッパー・バラッカ庭園にも行ってみようということになり、幾度となく行き止まりの道に当たり、階段を上がったり下がったり、アーチをくぐり抜けたりしながら、住民に庭園への道を確かめた。最後に階段を上がったところに見慣れた顔があった。カメラマンの平野君だった。オプショナルツアーの船客をカメラボックスに座って待ち構えていたのだ。

Dscf1167 Dscf1178  さらに歩を進めると、港を一望に見渡せる場所になった。そこは、イタリア騎士団の休息の場だったとか。その後の時代、この高台は敵の侵攻をくい止める格好の砦になった。一段低い場所では、並んだ黒い大砲の横で係官が大砲玉を手にして、観光客に説明していた。今でも、この大砲は一定の時間になると、時を告げる大音響を上げるそうだ。

 

 腕時計は12時が近くなっていた。まだ歩いていないマーチャント通りとマノエル劇場は、午後からの楽しみにしようと、シティ・ゲートを出た。シャトルバスの時間ではない。tロータリーを抜けると、眼下ににっぽん丸の赤いファンネルがある。Dscf1184 長い蛇腹のような坂道を降りて、桟橋に帰った。急いでいるのに、妻は、「インシグニア」の船員となにやら言葉を交わして遅れた。税関への入口が判りづらく、結局は妻に追いつかれてしまったので、怒ることもできなかった。

 

 船での昼食を終えて、4人は再び3時発のシャトルバスに乗った。午後からは、ヨーロッパで3番目に古いと言われるマヌエル劇場へ向かう。車内には、マルタバスで対岸の街まで往復してきたという高嵜夫妻がいた。

シティ・ゲートをくぐると、すぐ左折した。オールドベーカリー通りを歩き、その劇場を見つけた。Dscf1206_2 ゲートから俯瞰で見れば、丁度、午前の騎士団長の宮殿と左右対極の位置だった。さて、見学するにはどうしたものかと、ドアに手をかけると施錠されてある。その横には、「土曜日は午後12時でクローズ」とあった。歩くコースを誤った。午前中に来るべきだった、と案内役だったはずの妻が菅井夫妻に頭を下げる。4層に分かれたバルコニーシートの劇場は観ることなく終わった。

 騎士団長と教会堂の間にあったカフェテラスで「自棄コーヒー」を飲もうと、なった。椅子に座った途端、腰の疲れを覚えた。さて、と注文の段になって、手元の現金、リラが心細い。ユーロで支払えるかとウエイトレスに訊く。OKだという。そこで、安心して、コーヒーとジェラード、アイスコーヒーを頼んだ。

Dscf1137  カフェテラスに日本人は居るかと見渡す。居た、居た。カメラを手にした山縣夫妻と松田さんが、じっと何かを狙っている。手を振っても目に入らないらしい。どうやら、山縣さんは、かなりの料理を載せた盆に片手で軽快に運ぶウエイトレスを狙っているようだ。

カメラを眼に当てたまま、ウエイトレスの後について、山縣さんは店の中に入ってしまった。その後ろ姿を見守っている奥様。しばらくして出て来るまで、立ち上がれないでいた我々も変だった。

 今日、新しい言葉が生まれた。それは、『よしこ(美子)る』という動詞である。<菅井美子さんが、一旦判断したモノやコトは、その理由が例え希薄であったとしても、撤回せず、言い切ってしまう言動を指す>。「またぁ、そういうふうにヨシコルんだからぁ、あんたはもう・・・・ははは」と、口にする。夫である荘輔さんが、妻をやんわりと諫める時に、思わず口にしたのが始まりで、我々も、迷いが出た時の道筋を選択するときなどに使い出した。即決即断の決断力がつく点は買う。

 

 

 シティ・ゲート手前の店で、余ったマルタリラを絵葉書に替え、午前と同じ坂道を降りて船に戻った。

 

 

 二度の出歩きで疲れたようだった。夕寝をした。18時に目覚めたが、体が重い。夕食を外したいと思いながら、ダイニングに入った。エリーが奥座敷に案内してくれた。

今晩は和食だった。エリーがニコニコしている。ご飯をダブルで盛ってきた。麺類の時は、いつもダブル(二人前)で頼むのを知っているからだ。ご飯はお代わりしないのだが、アリガトウを言い添えた。

 

Dscf1162 ある人から、ルクソール・ツアーでの冒険談を聞かされた。早朝だった。観光馬車に乗ってみたそうだ。ほんの周辺を回ってもらうつもりだったのだが、御者は「地元のバザーに連れて行く」、「自分の知り合いの土産屋で停車して買わないか」と勧めるので、思い迷いながら同意してしまったという。バザーを見終えて、走るかと思いきや、「馬に餌を食べさせたい」といい休み、急かせるとチップを欲しがったという。

 ホテルカードを見せて戻らせたが、ホテルを間違えて降ろされた。朝の出発時間に間に合わないと、急いでホテルまで走って帰り着いたのだが、結局は予想以上に多くの時間を費やしてしまったという。

 印象に残る旅とはなったが、タクシーでも馬でも、時間の少ない時に身を委ねるのは危険だという警鐘の話だった。かつて商船三井客船は、「冒険心」をキャッチフレーズにしたことがありましたね、に苦笑い。

 

 残念ながら覗けなかった騎士団長の宮殿の入口は、横の門だったようだ。アッパー・バラッカ庭園の大砲は12時きっかりに撃たれたという。こんなことから、話は、ガイドブックの不備を口々に言いだした。

 乗船前に配布された寄港地ガイドが当てにならない。寄港地ガイドブックがツアー申し込みの一助だとするならば、下船前夜に船内新聞に挟み込まれてくる寄港地マップも記載情報が不足だ。市販のガイドブックからの孫引き作業に過ぎない制作レベルだという声も出たが、それにしては、既に決定している寄港曜日に沿った主要観光スポットの開館時間さえ、明記されていない。かつての日本海軍の忠霊碑さえも記載がなかった。

Dscf1157  更に言えば、この国でしか通用しないリラが、どれほどの経済感覚かの情報がない。例えば、コーヒーまたはビール、ジェラードなどを例に挙げて教えてくれていれば、下船前の慌ただしい時簡に両替する目安も立とうというものだ。旧市街から対岸の市街への距離が解らない。 タクシーなどは、交渉ごとだしても妥当な金額などを、現地で質問さえしてくれていないのだと見透かされている。市販のガイドブックは、その大半が空港や繁華街からの案内で、港からの記載は無いに等しい。

 寄港地を下調べした先行隊が足で歩いたMOPAS独自感がないと、かなり辛辣な意見が出た。

市販のガイドブックを読んでみると、マヌエル劇場は、113012301630と案内役付きで内部を観ることができたようだったし、セント・エルモ砦の内部にも入れることが判った。

確かに、寄港地ガイドブックには、「必ずしもすべてをご案内申し上げてはおりません」「各寄港地に精通しておりますベテランツアースタッフに」「質問、疑問など」「なんなりとお申し付けください」と断り書きがある。しかし、事前に質問が予測される項目は記載しておいた方が、多忙なツアースタッフを患わさないでいいはずだ。

 なぜなら、1冊しかない虎の子の市販ガイドブックは、困ったことに心ない船客が独占し、離岸してからライブラリーに戻ってくるのだから、読めないことが多いのだ。

 

 

 ひさしぶりに展望風呂に行った。停泊している時のほうが、体重計の針が揺れないからだ。体重は82kgと、2kgも増えてしまっていた。最近、エアロバイクもエアロウオークもしていない。これからは、寝る前にでも7階に上がってしたほうがいいなと反省。

 

 23時の最終帰船時間が過ぎた。出港は24時である。

Dscf1141Dscf1158Dscf1168 厳めしい要塞の島国だったが、ユーモラスなマルタもあり、思わず頬が緩む。漁師の船は、ルッツと呼ばれる舳先に両目が描かれているし、観光名物の黄色いバスは、ぺちゃんこ鼻の懐かしいボンネットバスだ。そう言えば、マルチーズを生んだ島なのに、一匹も遭わなかったように思う。犬より、猫が多いそうで、猫天国の島だと聞かされる。そういえば、路地には、 「ハリウッド」も「QEⅡ」というバーもあった。「QEⅡ」というのは、なんとなく解る。スエズ運河が開通したことで、船舶の寄港地として賑わったからか、それとも造船所があったからだろう。いずれにせよ、英国連邦国である。

 

 明日はまた、利尿剤を飲んで身体の水抜きをしておこう。明後日からは、34日のオーバーランドツアーに出掛ける。塩分ありの外食が続きそうな“危険“な数日間である。要注意だ。ノートパソコンを船室に置いていくので、撮った写真も取り込んで保存することができない。メディアの予備と充電済みの電池の予備も忘れてはならない。

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2008年10月 1日 (水)

060505.イタリアンナイト

 下肢のむくみがひどくなってきた。真夜中1時、4時、6時、8時とトイレ。頻尿と言われようと、体から水分が抜けるなら有り難いと思わなければ…。そのせいか、やはり、随分足が楽になった。妻はと言えば、明け方の3時まで写真メディアの整理をしていたという。オーバーランドツアーでフィレンツェに出掛けるため、しばらくは船から離れる。

これまで撮ってきた写真をバックアップして、メディアを空にするためだった。

 

 八点鍾の鐘が鳴った。2

にっぽん丸はエーゲ海を離れて、イオニア海に入りました。
ギリシャのペロポネソス半島南岸の南西沖50海里(93km)を西に向けて航行しています。
地中海は、晴れている時でも霞で白いベールがかかっているようです。地中海が「白い海」と言われている理由がわかるような気がします。ピレウスでは北風が強かったのですが、高気圧が東に移り、東風になりました。本日も追い波で船の動揺はありません。

 地中海のクルージングは、日本で言えば、ちょうど東北から北海道の緯度付近を旅しています。また、昼は日差しが強いのですが、夜は寒く、大陸性の気候で寒暖の差が10
を超えるような気候です。北大西洋は、まだ冬の様相を呈していて、大型の低気圧がバルト海や黒海方向へ東に進んでいます。また、マルタ島の西、 ちょうどチュニジアのチュニスの上にある低気圧が、東に進んでいます。明日のお天気に影響がないことを期待しましょう。

 地中海、エーゲ海の島々を見てくると、樹木が少なく、彫刻に適した石灰岩が多く見られます。それで彫刻が発達したわけですね。また、港の入口に要塞や砲台の名残があるのも特徴です。マルタ島のバレッタも同じです

 

 Dscf27349 朝食時に、仙台の高橋さんをデッキゴルフに誘ってみる。高橋さん参加を承諾してくれた。横田さんは、朝のラジオ体操で体をひねったそうで欠席。

  面子が揃ったところでジャンケン。白先攻組は、山縣、ミセス松田、中島、菅谷、松田というメンバー。赤組は、菅井、工藤、高嵜、萩原に新規加入の高橋で対抗する。


  スタート前、高橋さん5分ほど、スタッフの黒川インストラクターから指導を受けたので、1ホールから参加となった。「ルクソールぼけ」というヤジに耐えながら中島さんが、黙々と打っていく。山縣さんが少し不調。菅井さんは好調で、一人先行していく。しかし、3ホールで菅井、高橋が苦戦し、ようやく右舷側の4ホールで集結したときには、白組は全員が左舷側にある5ホールへ先行していた。結局、この差は追い越せず、我々赤は1手違いで負けた。

 未だ1030分だったので、組み替えで2回戦をしようとなった。白は萩原、菅谷、菅井、高橋。対して、赤が松田夫妻、高嵜、工藤、山縣。ジャンケンとはいえ、松田、高嵜というキャプテンクラスが赤組では苦戦は必至。余程早くに1ホール目を抜け出さないと、集中攻撃を受ける。

 白はHから1番へは順調に抜け出したが、2番へ向かう長い距離の間で、敵に阻まれ場外に叩き出される回数が多くなった。ここで防戦の白と攻め立てる赤とで形勢ががらりと変わってしまった。3から4へ先行する白。殊に、松田さんは4番ホールを陥れると5番ホールへ打ち込んだ。さすがロングキング松田。ニアピンに近いロングショットで権利玉になってしまった。それを見たデビル高嵜は自由奔放、楽しそうに白の邪魔をし始めた。ニックネームの名前通り、我々の菅谷さんをドボンとしてヒール役を演じた。助っ人として打ったに菅井さんが打ち出しに失敗してドボン(ポンドとして描かれたフレームに自玉を叩き入れられると味方が叩き出してくれるまでプレイできない)、その菅井さんを助けようと打った僕がまたまたドボンとなった。P1000307 味方のポジションは、左右に引き裂かれてしまった。今朝は、菅谷さんのロングショットが外れる、中島さんが停滞気味。

 それに比して、白の山縣さんは5番ホールをクリアして権利玉になり、ホームを狙うまでになっていた。そうこうしているうちに、ミセス松田、山縣、工藤の白組がホールアウトして、残る敵は松田、高嵜のキャプテンクラス、二人。

 我々にも喜ばしいことが起きた。初参加の高橋さんが見事「ホールイン・ワイン」上がり(1打で、ホールの中心枠に入る)をしたことだ。菅井美子さんもホールアウトできた。菅谷さんが5番ホールで本日二人目のホールインとなったが、権利玉になるまでが遅かった。白組は松田さんが上がって、高嵜対菅谷、萩原、中島の3:1となったのだが、タイムアウトの12時を超えていた。高嵜さんは時間通り、途中退出。勝負が着かなかったとして、松田さんが「ドローだね」として、終わった。10勝4敗1引き分け。通算177敗4引き分け。

これで、ワイン奢りのホールイン達成者は、菅谷4回、ミセス松田1回、萩原1回、工藤1回、高橋1回となった。

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Dscf2737 Dscf2739   急いでシャワーを浴びて、昼食は、一番奥の席でひっそりと食べる。エントランスホールの階段には、40匹ほどの鯉幟が飾られてあった。今日は、五月の節句だ。デザートには柏餅が出た。横浜を出航して丁度1ヶ月が過ぎようとしている。展望風呂も、今夜は、「菖蒲の湯」だそうだ。

 

 1415分からドルフィンホールでは出入国説明会が行われた。ツアーコンソルジュの内山さん、説明口調は丁寧ではあるが、これまでに与えられた以上の新しい情報が聞けない。ツアー申し込み時に書かれてある冊子文のままである。それに加えてホットな現地の情報や、追加情報でも加わるなら、船客の耳を傾けさせるのだが、それがなかった。

 途中から私語があちこちから湧いてきた。わざわざ時間を割いて説明会に出るからには、船客にはプラスαの期待感が強いのに、その失望感があったことは否めないという感じさせた。

 

 15時に床屋を予約してあった。癖毛が出て跳ねている。330日以来になる。日本に向けてメールを出す時間が迫っている。時差が6時間ある上に、向こうは連休になる。急がねば、相手の読むチャンスを逸する。そこで、シャンプーも顔ソリも止め、整髪に留めた。

 

 1730分、イタリアに於けるオーバーランドツアー「イタリア大周遊コース」の参加者へ、カジノコーナーで説明会があった。ツアー担当は、元気印の藤川君だった。相変わらず、淀みのない話しぶり。彼の背中から録音されたテープが流れているようだ。参加者の顔ぶれを見ると、阿刀田夫妻も途中までご一緒のようだ。島原の阿部夫妻も座っていた。参加者は意外に少なく、16名ほど。チャーターした長距離バスは、ゆったりとしていける。

 イタリアの「イタリア大周遊コース」というからにはと、期待していたのは、ヴェネチアまで足をのばすツアープランが欲しかったことだ。前々からフィレンツェへは訪れてみたかったので、予約してしまったのだが。

 

 それが終わると、すぐに食事時間となった。「子供の日」だが、今宵ダイニングルームの中は「イタリアンナイト」。Dscf2742

Dscf2748  レストランスタッフは、三色カラーの衣装で着飾って迎え入れてくれた。そして、ワインの飲み放題。その一方で、シェフによる鮪の握りがありの和洋混在の日となった。鮨は人気で、いつものように、長い行列が出来てしまう。そこに並んで待つのが、なんとも気恥ずかしい。列が途切れるまで、他のものを皿に載せる。バイキングスタイルのメニューには、僕の食べられるものはそれほどにない。だから、食べられるものは単品でも多くを取らせてもらう。鮨といえども、塩分制限のためには10貫までと、妻が睨んでいる。体も疲れてきているので、ワインもほどほどに切り上げて、日本茶にした。

 

 目の前の丸テーブルでは、なぜか、イタリアンナイトなのにテンガロンハットの男性が大声を出している。僕には心地よい、名古屋弁丸出しである。話している相手は、と見ると呼続の高木夫妻だった。席を立って、近づいた。

 

 「まあ、まるっきり、名古屋弁だらけで話しとるねえ。聞いとって、割り込みたくなったがね」とそのテンガロンハットに僕も名古屋弁で声をかけた。相手は、驚いた。ミセス高木が振り向いて「そんなに名古屋弁になっていました?」「めちゃんこ、名古屋」と僕。

 「この人も名古屋だがね、わたしんちの近くだったんだわ」とテンガロンハットに紹介するミセス高木。テンガロンハットに僕、「あんた、どこぉ?」「わし、アッタ(熱田)」「僕、ミナト、築地口」「わしも、船方」「ああ、今度、僕の母校に出来た大学がそっちに移転するわ」「ああ、名古屋学院大学だろう、3年後だで。あんた何年生まれ?わし、ナインティーンフォーティワン!」「1940年」「あちゃあ、1年先輩かぁ」「なんちゅう名前、名前知らんと呼べんがね」「清水、人呼んで、パピヨン!」「ははは、萩原です、よろしく」。

 清水さんは嬉しそうな表情になって、「あんたぁ、ええ、キャラしとるねえ」「いや、いや、あんたこそ」急に垣根が外れた気分で互いに握手。

 ミセス高木「この人、自転車持ち込んでて、寄港地で乗廻しとるんだわ」「ああ、シンガポールの税関で、折りたたみの自転車バッグ、かついでいたわ、競輪選手みたいに」「そう、それ、わし、わしだがね、ははは」。

 これで互いにうち解けた。もう忘れられないキャラの清水さん、独りで乗船している方だ。


 その隣のご主人が口を開いた。「萩原さんは、上野」と、横の女性に説明した。奥様である。「私の実家はね、寿2丁目。上野は何処ですか?」「上野警察署の斜め前です」「どっちにしても、私たちの今の住まいからも近いですね」「宜しく」「宜しく」。こうして、高木夫妻のテーブルから3人の人とお近づきになれた。妻が、バイキングの料理を取りに行っている間の交流だった。

 まだもう一人、鶴舞から来ている人が居ると、本間さんからも聞かされている。今回、乗船客との交流は、名古屋弁を耳で聞き込んでいくことにしよう。そうして、帰国までに「愛知県人会」とか、「名古屋人会」でも開こう。

 

 明日は、東さん、念願のマルタ島である。

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