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2008年8月

2008年8月29日 (金)

060504. ピレウス港からアテネ

 昨日歩きすぎたのか、歳なのか、足が張っている。今朝は少しのんびりしたいな、とピレウスの街をぶらついて、アテネには昼からシャトルバスで出ることにした。

 

 朝食の時、菅井夫妻もそうするという。ご一緒しようと、9時に1階のギャングウエイで待ち合わせる。義妹のかつ代が、昨年飛鳥で来たときの情報がメールに入ってきた。「カステラ丘の上のカフェからは、アクロポリスのパルテノン神殿が眺められてお勧めだ」とのこと。さて、そのカステラ丘を探すが、観光マップにはなかった。

 

 久慈目ファーストパーサーが目に入った。尋ねてみた。彼は、地元のガイドに手にした無線で問い合わせてくれた。約2km先だという。タクシーなら、5ユーロー以上は払わないでくださいとまで教えてくれた。菅井夫妻の意向も訊く必要がある。礼を言って下船した。

 半袖では寒いと感じた。イミグレの先には、タクシードライバー達が立ち並んで、盛んに声をかける。車は、駐車順に並んで待ってはいない。互いが勝手に客引きをするやりかたらしい。ギリシャのタクシーは、個人タクシーが多いと聞くが、韓国のように、手を挙げた客が同じ方向に向かうのなら乗せてしまうらしいので、ほんとはタクシーを使いたくはなかった。取りあえず、断りながら街に向かう。

 歩いていると、また、ドライバーが道をふせぐ。「地下鉄の駅は、歩くと遠いよ。タクシーでならすぐだ。あの曲がった先にあるんだよ。遠いよ」どうやら、そういう意味だ。

我々は、地下鉄には乗らない。まずは、市場に行くことになった。今年の菅井美子さんは、どうやら寄港地の市場というのが、テーマになっているようだ。妻もそれに賛同している。イコンを説明される宗教的な歴史建造物を眺める観光コースよりは、確かに人間的で、今を生きているというその国の生活感を知るのは、楽しい。広告屋の好奇心と観察眼がそうさせる。

 

 夕食時に、隣席の方が、市場のイチゴがとても美味しく安くかったと言えば、もう一人の方は、アテネに朝から出掛けたが店が開いてなかったと教えてくれた。そのお勧めに従ってまず市場だと決めたのだ。

 市場は、右手の大聖堂を過ぎた、その裏だから判りやすいという。左手の桟橋には、エーゲ海の島々に渡る大型フェリーがぎっしり停泊している。港の岸壁沿いに歩くと、すぐにその大聖堂はあった。白い建物に青い丸天井。ミコノスでもお馴染みの大聖堂だ。なんだ、こんな近くなのだと知り、大聖堂側の右へ交差点を渡った。船から渡された地図の「市場」は、それとは反対に左折するとある。構わず、だらだら坂を登る。

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 歩きながら見回すが、どうも変である。市場というものが、デリバリーに不便な坂の上にあることもなかろう。こうして、やや疑問を持ちながら歩く。やはり、港に向かう道へ方角を取って下る。早足の僕が先を歩いて見当をつけようとする。しかし、なかなかそれらしいものが見つからない。つまり、煩雑で不規則な車の駐車風景とか、荷崩れして落ちた野菜の葉とか、それをついばむ鳥とかである。後方で、妻たちが町の人に訊いている。彼女たちは相変わらず、こちらに向かってくる。方角はあっているようだ。

 大きな交差点に来た。もう一度通行人に訊こうと呼び止めると、英語が返ってきた。現在地を尋ねると、相手は、目的地はどこかという。「マーケット!」。通じない、駄目だ。さて困った。ギリシャ語で、市場はマルシェではないし、マルクでもない。思わず、誰もが「イチバ!」。笑ってしまった。ギリシャ人の紳士は、戸惑った。魚やフルーツを売る場所だが、と訊く。イチバのあるらしい場所を地図で指し示したら、彼はどうやら察してくれた。もっと坂の下の、港の横を歩けと教えてくれた。幸い我々の地図は、通りの名を現地名で書いてあったので、彼も理解できたのだ。そうなんだ、「イチバ」も現地の呼称を書いてくれていれば、通じやすかったのだ。日本文字の「市場」では、誰も判らない。ツアースタッフの皆さん、今後は、現地語でも、記入願いますよ。

 

 Dscf1054_2坂を下りていく途中で、一堂「お~~~~!!」と声を上げた。なんと、別の大聖堂が、路地の突き当たりに見えるではないか。狭い路地を歩くと、そこには、外装が茶色の煉瓦で建つ、もうひとつの大聖堂があった。鳩が何羽も飛び降りてきて、敷石の間の餌をついばむ。物乞いをするジプシーの姿がある。 前の広場は、待ち合わせの場所にもなっているようだ。これが、目印のアギア・トリアダ教会だと判った。早とちりと言おうか、紛らわしくも、同じ道筋に聖堂が二つあるとは…。

 

 気をとり直して、通りを歩く。ところが、これまた商店は連なるのだが、金物屋が多い。おかしい。やはり、市場らしい風景が見えてこない。先ほどの理屈に沿って、雨が降ったら水の流れる方向、つまりは、低く港に近づく方向へ左折した。今度は、日用雑貨品の店が集まっている。徐々にアメ横の雰囲気になってはきたが、フルーツなどの生ものは売られていない。道端で、パンを買った。ロードスでも売っていた輪のパンだった。「クルーリ」というのだそうだ。クイズにでも出てきそうな、冗談めかした名前である。

 歩き疲れたので、ここらでコーヒーでも飲むか、そろそろ戻ろうかと、1本先の道をさらに左折してみた。途端に、売り子のがなり立てる声が聞こえるではないか。角は農機具屋だ。その前には、ジプシーが僅かなニンニクを売っている。声はまだ奥から聞こえてきている。なんと、農機具屋の横から先に、青果屋が軒を並べているではないか。

 早足でその先を覗くと、魚屋、そのまた角を右折すると肉屋が続いていた。牛、豚の他にも多種な肉がぶら下がっている。観光客にとって、市場は通りからは判らなかったあずだ。大きなオーニングがその市場を覆い隠していたからだ。

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 ギリシャでは、朝食よりも昼食を重んじるという。食材を買うのは男の仕事だと聞いたことがある、そのせいか、買い物客に男性が多かった。僕が歩いていても、和感はなかったのだ。

Dscf1035Dscf1036_2  魚屋は、アメ横の鮪売りと同じ。道行く人に、腹の底から声を出しては、呼び込みを続けている。違うのは、右手にくるくると紙を三角に巻き、その中に客の顔を見ながら、鷲摘みで気分良く魚を放り込んでいく。手が止まると、ラッパ状の上の部分を折り返し、客の胸にどんと渡す。量り売りなどしていない。これが実にリズミカルなアクションで、思わず見とれてしまった。

Dscf1033 Dscf1025 Dscf1030 青果屋で大きなイチゴとサクランボを買った。妻と美子さんは、安すぎると喜んでいた。用意した荘輔さんのディバックに入れてもらった。

 

マーケットは見つけた。今度は、トイレを探したいと歩き出したが、ホテルらしきビルは見あたらない。ならばと、もう一度、カフェショップを探すことにした。アギア・トリアダ教会前のビルなら、有るだろうと勘で入る。地下の空間にそれらしきテーブルがあった。トイレのあることを確認して座る。

 アイスコーヒーが美味しいと聞いていたのでオーダーするが、なかなか伝わらない。ボーイは、「ネス・カフェか」と聞き返してくる。ネス・カフェではないだろと、妻が出向いて、もう一度オーダーし直した。双子らしい男二人がなにやら相談しあい、やがて大きなタンブラーに入ったコーヒーを持ってきた。実に、不味いアイスコーヒーだった。まあもう一度、どこかで飲み直そうと諦めた。ショットグラスに、小さな紙の請求書が丸まっていた。面白がってカメラに納める。

カステラ丘のカフェに行く時間もなくなった。船に戻る途中、二つの大聖堂を通過した。紛らわしかったこの二つの大聖堂に我々は、名前を付けた。「ニーセノオ」大聖堂、「ホントノール」大聖堂。

 

 船内で昼食を取ってから、13時発、シンタグマ・スクエア行きのシャトルバスに乗り込む。帰りシャトルバスは15時。2時間は歩ける。

 シンタグマ・スクエアの公園では花市が開かれていた。この日は、カンペール・ショップに最初に行く予定だから後にしようと地図のメモを片手に歩き出した。警察官が街角に集結していた。デモ隊が繰り出していたのだ。地元の若者が集まるというエルム通りのマクドナルド前は、各国からの観光客で溢れていた。Dscf1056そのマクドナルドの裏手に、お目当てのカンペール・ショップがあるはずだと、勇んで回り込んだが、地図上の場所にはなかった。 エルム通りをさらに2ブロック先に移転していた。

 ようやくにして見つけた店はさほど大きくはなかった。男モノは2階だと教えられた。ディスプレイが日本とは違う。

 

 カンペールのシューズは、そもそも、西武文理大時代の自分のゼミ生に教えられたブランドだった。革が柔らかくて、とても履きやすい。疲れない。彼女に教えられたそれを、2003年のクルーズでは、本場のマヨルカ島で探したのだが、女性モノが多かった。

 このアテネの店では、買ってもいいかというデザインの靴を手にしたが、44サイズだった。42を出してくれと店員に頼んだところ、此処には44しかないと、にべもなく言われた。

1階に降りて妻のサイズも、探したがなかった。ところが、美子さんが気に入ったサンダルシューズは、彼女の足にぴったりで、結局、カンペールは美子さんお買い上げとなった。デッキゴルフのプレイに履くのだと喜んでいた。荘輔さんは、口をへの字にしていた。

 

公園の花市場は、アムステルダムやバンコックの花市を見ているので、妻は思った以上に関心を示さなかった。そして、国会議事堂下の無名戦士の碑前で衛兵の交代シーンを見るため、地下道をくぐった。ここには、ピレウス港から乗り換え1回で来ることが出来るという地下鉄駅がある。いや、地下鉄という言い方は正しくない。沿線は地上を走っていた、と名古屋の高木さんに聞かされていた。このシンタグマ広場は、交通の要所であるよりも、政治、経済の中心である。広場の正面にあるのは国会議事堂。その前には、「無名戦士の墓」がある。観光客が写真を撮るために集まるお目当ての衛兵たちは、無名戦士の記念碑とその裏にある大統領邸を守っている。

Dscf1069  1.87m 以上という長身で屈強な兵士にしては、ユーモラスなプリーツスカートをつけた制服である。トルコ支配からの独立戦争に先頭に立って活躍したレジスタンスの衣装がこれだったという。スカートのプリーツは、400本あるのだ。1453年から1821年までの400年のトルコ支配を忘れないようにという意味がある。兵舎で自分たちの手でアイロンをかけているらしい。

Dscf1078  ギリシャ語でスカートを「フスタ」というらしく、衛兵の衣装は「フスタネーラ」(Foustanella)と呼ばれている。重そうな靴は、「チャルヒ」。歩くとカチカチ音がするのは、泥道でも滑らないように、かかとの底に打ってある何十個もの鋲の音である。3Kgの重さがあるその革張りの木底靴を、スローモーションで膝を上げる。頭の黒の房の付いた赤い帽子は、トルコ帽を模したもので、そのデザインは、靴にも黒い房が付いている。菅井夫妻と4人でしばらくは、衛兵の写真を撮った。

 

Dscf1059  ギリシャコーヒーを飲んでおきたいと妻が言いだし、目の前のアテネ・プラザホテルに入った。ギリシャコーヒーを頼んだ。甘さはスイートか、ダブルスイートか、ミデアムスイートか、ノーシュガーか、と訊いている。美子さんがミディアムと言ったので、4人がセイムとなった。

メニューを眺めていると、ここにも「ネス・カフェ」という文字があった。「ネス・カフェ」のレギュラーを使っているということなのだ。午前中のコーヒーショップのことがようやく納得できた。日本では、どうだろうか、「マックスウエル」や「ネス・カフェ」がそのまま、メニューに書かれるだろうか。海老名のインターチェンジには、「ネス・カフェ・ショップ」はあるが。

 ところが、ギリシャ珈琲は、なかなか出てこない。帰りの15時発のシャトルバスには間に合わなくなった。今晩、菅井夫妻は米谷夫妻の結婚記念日に招かれている。化粧と着替えの時間が要るのだ。最終の16時に乗ることし、そのコーヒーを待った。

 

 ギリシャコーヒーが来た。柄杓のようなカップから濃いコーヒーを4人のコーヒーカップに流し込んでくれる。妻は立ち上がって写真を撮る。水と粉を火にかけて泡立たせるという濃いコーヒーだとは聞いていたが、これほどに手間が掛かるとは判らなかった。ここのホテルコーヒーは、なかなか美味かった。体験して良かった。満足した。

 

 1545分、噴水前に日本人の姿が目に付きだした。ツアースタッフの誘導で、シャトルバスの停車予定位置まで向かう。駐車できない場所柄、素早く乗り込んで、バスは走り出した。歩行計は13442歩だった。

 

 夕食は本間夫妻とご一緒してもらった。ミセス本間も、一度夕食を一緒にと思ってくださっていたという。宝塚のご自宅へ、妻と仲間の三人で出版したエッセイの本をお送りしておいた。その本から、妻の仲間の一人が米沢出身だと言うことを知って、ミセス本間も米沢にいたことがあるという話になった。ご主人は、僕の実家がある名古屋港に勤務していたことで、2003年から親しくさせてもらている。

 

 食後は急いで船室に戻った。することがあった。船が陸地から離れる前に、つまりは、携帯のヴォーダフォンが通じている間に、急いで日本とのメールを送受信することだった。船に届いた中林さんからの写真へのお礼も、次男の嫁、真紀子からのメール返信も、だ。この機会を逃すと、11日のモナコ港まで安い料金でメール送信できない。幸いにも、ピレウス港からの通信状況は安定していた。すぐに終わった。

 

 船内アナウンスで、スニオン岬のポセイドン神殿が見られると案内があった。スニオン岬ツアーをしてきた人も、海からの光景を撮りたいと船首に集まった。体が吹き飛ばされそうに猛烈な向かい風だった。

0605041098_2  遥か先、60mの断崖に立つ高さ6mの円柱が見えるが、カメラは300mmでも届かない距離である。しかも、この風では、手ぶれ防止でなければ撮れないであろう。コンパクトのデジカメを手に、髪を吹き上げられて懸命に撮っておられたご婦人は、神殿がどんな姿に見えたのだろうか。それを諦めた人たちは、カメラの方角を沈みはじめた大きな夕陽の方に向けた。0605041102

 

 カステラの丘とは、いったい何処だったのか。あらためて、調べてみた。市場に歩くのとは真反対、アテネ方向にあるゼア湾の先だった。レストランは、「アルゴ」、「エルグレコ」、「クラナイ」、「ブイヤベサ」とあるが、カフェの名前は記載されていなかった。帰国したら、義妹にもう一度話を聞くことにしよう。

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2008年8月 9日 (土)

2006.0503. ピレウス入港

 昨夜早く寝たせいで、12時に目が覚めた。眠り直したものの4時、6時と目が覚めた。変な夢を見た。茶色の革靴を取りに、僕は日本に戻っていたのだ。

 日本を離れてほぼ一カ月が過ぎようとしている。体の変調を来しているのだろう。ウエストも出てきたようだし、両足が張ってきた。

 

 Dscf0874船はピレウスの港に入り始めていた。しかしデッキに上がって入港風景を撮りに行くほど、元気はない。朝食は815分までに入るようにと、船内新聞に書いてがあった。今日は、終日観光のツアーバスに乗る。食事を済ませてから、デッキに出て見ると、船の鼻先に街があった。アテネを守る軍港としての役目を果たしてきたピレウス。

 グレイト・ハーバーのピアーナンバー3に着岸している。Dscf0875 港には客船が20隻以上。エーゲ海クルーズの拠点港らしく、何隻もの高速艇がどんどん出て行く。地中海で一番大きな港はマルセーユ、2番目がジェノバ。そして3番目がここ、ピレウス。

 2000926日、フェリーがパロス島の門とも言われる岩に衝突して沈没するという、ギリシャでは海運史上最悪のフェリー事故が起きたのは、ここからの観光フェリーだった。

 

 ギャングウエイーを降りて、9時発のツアーバスに乗る。妻が、一言。「ベンツで、バスもきれい」

 神々が生まれた地であり、哲学、演劇、彫刻、政治、古代オリンピックなどなど、世界に多大な影響を与えた国、ギリシャの入口に降りる。

 

 今回のツアースタッフは、ひさしぶりに、森田由香さん。ガイドは、ジョディアさん。アテネのアクロポリスまでの距離は40分ほどだ。

 

 アテネの終日観光を申し込んだのには理由がある。一言で言えば、妻のために旧婚旅行のやり直しをしたいからである。

 結婚の翌年、24日間の欧州・北欧旅行に出た。1ヶ月近くも会社に休暇を申し入れるには、それまでに積もり積もった欲求不満を解消するためだった。

 勤め先のクリエィティブ部門では、社内賞を規定回数獲ったら、会社が海外旅行資金を出してくれるという報奨制度があった。それが、あと1回獲ればというチャンスに、会社側はこの制度を中断してしまった。新たに「ディレクター研修」と称する海外旅行制度に切り替わった。当時、ディレクターの身分でもあったので、選考基準では一番近い資格があると期待していたが、別の新任ディレクターにチャンスを振られた。かなりの悔しさを露わにしたのだろう。妻が自費で行こうと言ってくれた。会社が1ヶ月近い休みを許すはずもない。結婚直後に、髭を伸ばしたことで会社に睨まれてもいた。

 当時は、全社員で髭を伸ばしていたのは、大阪支社のK先輩と自分の二人だった。K先輩は、関西では名の知れたデキシージャズのプレイヤーであったせいか、その容姿を黙認されていたが、僕の場合は、上司から即刻剃れと命令された。妻の病気回復を祈願して髭を切らないでいたのだが、上司には理由を言わずに拒否し続けた。会社から睨まれていたに違いないのだ。そのK先輩は、東京帰任した途端に剃ってしまった。こにため、全社員で髭を生やしているただ一人は、僕になっていた。後年、我が社の後輩たちが髭公認となっているのは、僕の拒否によるところ大である。

 それはさておき、1ヶ月の休暇申請を坂爪ルーム長に打診したところ、やはり首を傾げられた。数ヶ月、職務規程の間隙を探して策を練った。人事部門の担当に非公式で当たってみると、やはり前例はなかった。

 「将を射んとすれば、まず、馬を射よ」を実践した。当時、主たる業務は大正製薬であった。さらに新製品の口中清涼剤「PIO(ピオ」」を市場導入した直後であった。オーラル市場は国内では未知の市場であった。そこで、先行するヨーロッパ市場での競合商品をドラッグストアで買い漁る、その販売状況をレポートしてくるからと、広告主にぶつけてみた。

 広告主から、非公式ではあるが、内諾を得た。当時としては、贅沢な「22ヵ国を巡るJALパックの旅」を予約した。それまでの二人の貯金をすべて吐き出した。背水の陣である。

 結局、半年粘って会社を説得して実現した旅だった。実は、旅を実現したものの、妻は妊娠していたのを隠していた。南回りで、ベイルートからギリシャに入った。妻は、つわりでオリーブ料理も口に出来ず、アテネの中を全く見る気分ではなかったという。それを今回、やり直しにきたのである。36年ぶりに目にするアテネである。

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 バスは、サロニコス湾を走り、オリンピックのサッカー・スタジアムらしきところを右手に見ながら、一路プラカ地区に向かう。 マーマレードにするというネランジの実をつけた並木を見ながら、アカキアという日本で言うところのアカシアの並木道路を走り、アクロポリスの丘に到着した。

 大型バスが駐車場に隙間なく停まっている。下車して丘まで歩くのだが、昔の記憶と違う。ごろごろぼこぼこした岩の道を上った当時と違い、今では板状に切り出した大理石を敷き詰め、なだらかな階段が出来ていた。妻がぽつり。「オリンピックがあると、どこでもきれいになるものよ」。Dscf0889 階段になったので歩きやすいが、大理石になった分、滑りやすくもなった。足の少し不自由な船客の方も杖にしっかり体重をかけて、ゆっくりと上がる。赤いシャツのツアースタッフも、年配の船客たちをこまめにサポートする。そして、もう一人のツアースタッフが最後尾から歩く。我々にはバス3台分の参加者がいる。

 

Dscf0931 Dscf0899  アクロポリスへの入場券(12ユーロー)を手渡される。ギリシャやイタリアは、いつの時代に訪れても修理工事をしているように思える。修正された絵葉書でなければ、石造だけの写真は撮れない。それほどに、人工的な足場や機械的なクレーンが記念写真に入ってしまうのだ。

 

Dscf0903 Dscf0907  白い大理石で築かれたパルテノン神殿が重量のある天井を支えられたのは、46本の柱が天空で結ばれているという絶妙のバランス構造で設計されていたことだとガイドは教えてくれた。内部の中央には、巨大なアテナの黄金象牙像が安置されていたという。10年間の年月を費やしたこのパルテノン神殿も、神話や歴史を描いた彫刻は現在では模作であるとも。地震という自然災害でではなく、戦争という人間の手で崩されたのだ、とジョディアさんは語気を強めた。

Dscf0904 Dscf0901  エレクティオン神殿の6体のカリアテッド(女性柱)は、向かって左の2番目だけが本物で、他は模作。梁の彫刻やカリアテッドに関しては、大英博物館に収められていてアテネには戻ってこないのです、と、これまた声を大きくした。

 東さんが、パルテノン神殿前で全員集合写真を撮りたいものだといっておられたが、撮れたのだろうか。3グループが、それぞれの時間差で自由時間になっているので、集合写真は難しかったかもしれない。


 Dscf0891Dscf0916Dscf0918  156mのパルテノン神殿の足下には、右に野村満作が演じたことのあるヘロド・アディコス音楽堂(325000人収容)、左にギリシャ最古の劇場、ディオニソス劇場(17000人収容)を眺めることが出来た。正面には、フィロパポスの丘が見えている。遠くには、ゼウス神殿の柱が見える。110本の内15本が残っているという。

 

 パルテノン神殿のそばにあるアクロポリス博物館に入った。発掘品が展示されていた。欠片から全体図柄を割り出すという研究者を尊敬してしまう。それにしても、衣服のドレープまでよく彫り込んであるものだ。布の重さを感じる。この辺りの石灰岩は、柔らかく、彫刻にすることが容易だったとはいえ、観察眼の鋭さには驚く。

 

0947  次にアテネ・オリンピック競技場(パナティナイコ・スタジアム)で降りた。1896年、第1回近代オリンピックが開催されたところだ。馬蹄形になっている大理石の観客席は5万人を収容できるそうだ。古代オリンピックの競技場は、時折テレビなどで見かけるが、愛知県稲沢市と姉妹都市を結んでいるオリンピア市にある。全裸で競技したため、巫女以外の女性は立ち入り禁止だったそうだ。

 

 2004年のアテネ大会のマラソン競技は、マラソンの起源となったマラトン~アテネ間で行われ、このパナティナイコ・スタジアムがゴールとなった。108年ぶりに発祥の地に帰ることを記念して、オリンピック聖火も、2ヶ月かけて、5大陸33都市を経てアテネの聖火台に点火されたのだ。史上初の世界一周聖火リレーだった。
女子マラソンでは、野口みずきがゴールのテープを切って、優勝した。

0951 Dscf0945  フェンスから垣間見る限り、会場を説明する文字が撮れない。アテネという文字は、スタジアムのグランドに書かれているというが、観光客がカメラに納めるための足場はない。3年前のヘルシンキでも同じことだった。記念写真を撮るために設計されているわけではないのだが、オリンピックマークとスタジアムが同じ画角に入らないのが癪である。仕方なく、へんぽんと翻る五輪旗だけ別に撮っておいた。反対側の歩道から撮れば、五輪旗は入るが、ワイドレンズは持ち合わせてはいない。その歩道には、コダックが提供したらしいモノクロのオリンピック開催風景が大きく引き伸ばされて、観光案内板となっている。

 

 大統領官邸前と無名戦士の碑の前では、フスタネーラという民族衣装の衛兵が足を高く上げる交代式をバスの中から撮ることができた。細かいプリーツの白いスカートにボンボンの付いた靴がユーモラスに見えるが、ギリシャ革命の戦士が来ていた伝統的な兵服だという。

 

Dscf0973 Dscf0973_2  バスは、オモニア・スクエアで下車した。昼食を食べるために、一軒のタベルナに入った。店名は、ギリシャ文字で読めなかった。間口は狭かったが、奥行きのある店だった。老舗らしく、映画スターやサッカープレイヤーと一緒の店主の写真が所狭しと飾ってある。店主はリアルマドリッドのファンらしい。

Dscf0972Dscf0980  我々ツアー客のテーブルは、一番奥まったところに用意されてあった。ご一緒したのは、松岡夫妻とパソコン教室の菊池さん達だった。デキャンターできたワインを互いに注ぎあいながら、パンをちぎった。

 出されたギリシャ料理は、タラコとジャガイモの「タラモ・サラダ」、キュウリのみじん切りをヨーグルトであえた「ザジキ」。串焼きの「カバブー」は、サーモンのあぶり焼きだった。炭火であぶり焼きしたこの味は、美味しかった。調理は、オリーブオイルと塩とレモンで味付けされているので、その塩を余り摂らないように気をつけてよ、と妻に注意されながら味わった。

 

 食後の見学コースは、アテネ大学の隣りにある国立考古学博物館だった。館内は思った以上に広かった。時間の都合で、ガイドは要点だけ説明して歩く。最初が、「黄金のマスク」。

0983  アルゴス地方ミケーネ宮殿内部で発見された。埋葬時に死者の顔を覆うためと考えられる金製マスクが発見された。デスマスクだ。精巧な打出加工で作られているというが、金箔を木彫りの像で型どりして作られたものらしい。

 ただ発掘者であるドイツ人実業家、後に考古学者と呼ばれることになるシュリーマンが、ギリシア連合軍総大将の「アガ メムノンの仮面」と唱えたが、現在では、そのトロイ戦争時代より、300年以上も古い時代の製作品と断定されている。

0984  このマスクの他に、金製キリックス型カップが公開されていた。最古のワインカップだとガイドから教えられた。紀元前14世紀の作品と考えられ、底部から側面にかけてタコやイルカなど、海のモチーフを打出加工してあるとか、1頭のライオンが疾走(空を飛ぶ)する様が打出加工で表現されているとか言われているが、確かめる術はなかった。いずれにせよ、地位の高い者が使用していた可能性が高い。赤焼き式陶器と黒焼き式陶器に、当時の儀式、及び生活様式が見て取れる。

 

 

0992 Dscf0991  少年のブロンズ像はアルテミシオン岬の沖の難破船から発見された。そしてそれより前に運び出された馬に、跨らせて「馬の乗る少年」が元の形に戻ったそうだ。その前足を上げた馬の躍動感と見事なバランスは、何処かで観た。そうだ、2003年に寄港したニューオーリンズのフレンチ・クオーターにある馬に跨ったジャクソン将軍の象である。二本足だけで立たせた世界で最初の馬上像と言われたアレである。ジャクソン将軍よ、貴男はこの少年の甦りか。

 

0988 0989  同じくアルテミシオンからのポセイドン立像、アンティキセラの青年像、ビーナス像、その他、数々の墓碑やブロンズが、いにしえの時代にあったことの証しとして、神々しいほどに目の前にあった。


09930994 特に、アンティキセラの青年の眼球に埋め込まれたオニキスは、今にも話かけられそうな目力を放っていた。
 駆け足の館内だったために、有名な「ボクシングをする少年」の壁画を撮り損なった。

 

Dscf0985 0996 それにしてもこのギリシャの古代遺物が、なんと多く外国へ持ち去られたことか。16世紀頃、エルサレムやコンスタンチノーブルへ向かう途中に多くの巡礼者や商人や外国使節団がギリシャを訪れるようになり、17世紀になると、学者や貴族にとって、地位の印となる美術品のコレクションが高まり、英国では外交官となった伯爵らが仲買人を雇ってまで古美術を漁ったという。フランスの宣教師やイエズス会の神父たちによる見聞録がギリシャ文化に関心を高めたようだ。18世紀に入ると、ヨーロッパにギリシャ・ブームが起きたという。英国、フランスなどの国による大々的な略奪が起きたのが18世紀後半となる。大英博物館や、ナポレオン美術館と称されていたルーブル美術館などが出来、ミロのビーナスはフランスに持ち去られた。こうした英仏の対抗心から、アクロポリス全域での略奪が、半ば公に行われたらしい。そんな状況下で、エレクティオンの女性立像は外されていった。ギリシャは為す術もなかったという。この大英博物館へは、28日に訪れる予定である。

 

 バスに乗り込んだ。初日のアテネが終わった。歩いたのは、8104歩だった。
一路、港に向かって走り出した。

 窓外を観ていると、道をやたらにスマート(SMART)が走っている。遺跡の多いこの国では、駐車場が造れないので路上駐車は駐車違反ではないそうだが、このサイズだと確かに路上駐車はしやすい。隣の国、イタリアの小型車よりドイツ車というところは意外だった。

 

 港に戻った。街では何も買い物をしていない。税関を抜けた先の免税品店で、ウゾを買った。ブランディにアニスを漬け込んだギリシャの酒で、度数が高いので、水割りにする。水を加えると白濁するのが不思議だとして、面白がる酒飲みの顔が浮かんだ。彼のために土産として買っておくことにした。

 

 521824分、伊豆で震度4の地震があったことをNHKTVで知ったが、今度は、日本時間の午前027分頃に、トンガ北部の海中で震度78の地震が発生したという。

 アクロポリスでのガイド、ジョディアさんの語気を強めた説明に一点間違いがあった。パルテノン神殿は、確かに、1687年9月にオスマントルコ軍の弾薬庫として使われたために、ヴェネチア軍の砲撃を受け、屋根を吹き飛ばされ、壊滅的打撃を受けた。しかし、関係書によると、1884年には地震による被害も受けているという記載があるのだ。いづれにせよ、何年経っても修復工事の続く写真しか撮れないのは、ガウディのサクラダファミリアの観光写真と同じだ。こちらのほうは、完成までに未だ250年は要するという途方もない未来形である。

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