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2008年5月

2008年5月28日 (水)

060501。地中海ロドス島

 朝7時、八点鍾より1時間も前に、キャプテンのアナウンスがあった。ロードス島の南リンドスという都市から突き出た半島の断崖に建っていたアクロポリスの神殿を見せようと、その方角に船を向けているという。アクロは高いところ、ポリスは都市。都市の高いところという意味。しかし、煙るような空の中ではアクロポリスがよく見えなかった。最高が21℃、最低が15℃という予報だ。東京より少し下の経度だが、日陰は寒いかも知れない気温だった。

 

Dscf0633 Dscf0638 Dscf0639  10時にアクロモリオ岸壁に着岸した。砦がそのまま残った風景は、威厳を持って見えた。手前は港一帯に張り巡らされた城壁。旧市街と呼ばれる。右手にホテル群が連なり、モスクの先に水族館とビーチが見える。「地中海で一番、風景のきれいな島ですよ」スカイデッキで高嵜さんが呟いた。エーゲ海の島に降りたこともない僕は、そうなんだと期待をふくらませた。

 

 初めての島だから自由行動をするよりも、ガイド付きのツアーバスに乗ることにした。バスは4台が連なって出た。僕らの添乗員は伊藤守夫さん。現地ガイドはアリディさん。彼女は、東京の高校に3年間留学していたと言うが、早口で尚かつ正確な日本語。しかも難しい漢字の単語がすらすらと出るのには驚かされる。

 今日は51日、メーデーの日だ。このため残念ながら、多くの観光施設はその内部に入ることが出来なかった。観光シーズンの4月から10月までで1年間の生活費を稼ぐというほど観光に依存していて、その反対に、11月から3月まではゴーストタウンと化するらしい。間の悪い日に寄港したものだ。

 

Dscf0654  まずは、コマーシャルハーバーを回って、エヴァンゲリスモス教会前でバスを降りる。セント・ニコラス要塞までの間の突堤に二頭の鹿の像が建っている。そこがフォトスポットだからと下車させられる。このマンドラキ・ハーバーからは、リンドス岬他の観光地に向けた船が出ているそうだ。

 そのあとバスは、パパニコラウ通りを走りビーチに出たが、そのまま、旧市街のスミス山へと登った。1140分、アクロポリスに着く。眼下に赤いファンネルが見える。寄港地では、停泊中のにっぽん丸の煙突はどこでもよく見極められる。飛鳥の二引きのマークに比べれば、シンプルで目立ちやすい。

Dscf0678 Dscf0679  観光の名所、アクロポリスに降りて歩くのは、目の前にぽつんと立つ円柱だけだ。地震で崩れたアポロ神殿は、ドリス式円柱が残っているだけだ。その麓に、劇場と古代競技場が復元されていたのをバスの車窓から眺めただけで、バスは城壁に沿って旧市街に入る。

 旧市街の中には現在、5000人が住んでいるという。そのほとんどが、ホテルや土産物屋、レストラン関係者らしい。3年前寄港したマヨルカ島のスペイン村のような雰囲気だ。Dscf0686狭い要塞の路地にアメ横並の土産店がひしめく。道端でパンを売っていた。 Dscf0692 ロープのように細いロールを円形に曲げて焼いたパンが何枚も重なっていた。ドイツでパン屋の看板になる幸せの印、ブレッツエル型とは違っていた。タクシーはメルセデスだった。

 

 巡礼者のためにエルサレムに開いた聖ヨハネ病院が、その後、宗教と軍事と病院という団体組織となる聖ヨハネ騎士団を結成し、十字軍の遠征に伴って、徐々に軍事色を強くしていった。イスラム軍にエルサレムで破れてからは、このロードス島で要塞都市を築いたというのが、今の旧市街地の姿である。聖ヨハネ騎士団の病院は、いまでは考古学博物館となっている。この聖ヨハネ騎士団は、現代でも、ローマに拠点を置いていて全世界で医療活動を続けている。

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 聖ヨハネ騎士団の病院の角から始まる「騎士団通り」という石造りの高い建物に左右を挟まれたイポトン通りを歩いてみた。確かにそのままロケ撮影が出来るほどに、足下の舗装は、きれいに並べた丸石が埋められており、Dscf0694 両側は、高いゴシック建築が続く。中世の空気が漂う。甲冑の騎士が歩いていても、馬がいなないていても不思議ではない。七カ国の言葉が行き交っていたと言うが、世界各地から駐屯した十字軍の騎士の館には、それぞれの騎士団を表した紋章が壁にはめ込まれてあった。

Dscf0714  騎士団通りの先にアーチ型の大門がある。左側の鉄格子の向こうは、「グランドマスターの宮殿」と呼ばれ、歴代の騎士団長が住む宮殿だった。あのムッソリーニも住んでいたらしい。メーデーの日でなければ中に入れたのではないか。その館の向かいに建つのが、スレイマン・モスク。聖ヨハネ騎士団を粉砕したという戦勝記念で建てられたオスマントルコのモスクだという。スレイマンとは、トルコの将軍の名だ。

 聖ヨハネ騎士団通りのゆるやかな坂道を上り詰めると、騎士団長の宮殿があり、それと対峙するように戦勝国のモスクが建てられたという、歴史を物語る道であった。あちこちには、当時の石の砲弾が無造作に置かれてあった。城壁に囲まれたこの中世の町並みが「世界遺産」に登録されている。

 

Dscf0724 Dscf0716  ソクラテス通りにあるシーフードレストランの「アレクシス」で昼食を取る。一緒のテーブルになったのは、四日市の松岡夫妻と知多の嘉田さんだった。僕と同じ東海地方の出身者同士だ。初めての海外旅行が初めての船旅で、初めての世界一周と出たとおっしゃる。そして、それが僕の本を読んだことからだったと聞かされて感激してしまった。

 パンに塩味の効いた山羊のヘタチーズとグリーンサラダ。メインはカジキマグロのソテイだった。サービスされたワインはデキャンターに入れてくれた量が多すぎ、いい気になって飲み過ぎて、かなり酔いが回った人も出た。

 

 食後は自由時間になった。街の中で、にっぽん丸の船客と出くわした。フリーで歩き回っている人たちだった。

 妻は、マグネットの飾りものを探して歩いた。面白いことに、坂の上の奥にある土産物屋よりも、中心地の広場に下がってくるほど、値段が高くなっていた。地の利の悪い場所で早くに買う気があるかないかで大きく違って来る。坂を下ってしまっては、元の店に戻る気もしない多くの観光客は、まんまと坂の下のたまり場で買わされるはめになる。なるほどと妙に納得した。しかし、僕らは、スレイマン・モスクの辺りに戻ったのだ。

 買い終えて、ヒポクラテス広場のネプチューンという店で、バニラのソフトクリームを口にした。実に美味かった。

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もう二度と来ることはない、このロードス島の記念にと、帽子を探したのだが、観光地でありながら何故か、キャップはスポーツカーメーカーやレーシングチームのロゴばかり、Tシャツに至ってはサッカーチーム一色だった。ようやく、一軒のTシャツ屋で、ロードスをデザインしたものを見つけることが出来た。

Dscf0733 Dscf0680城外に出ると、海綿屋が盛んに観光客に声を張り上げていた。 海綿は3年前、キーウエストでの土産に買って帰ったが、余り喜ばれなかった。今回は眺めるだけにした。バスの戻って歩行計を見ると、旧市街を歩き回った距離は、7984歩だった。

 

Dscf0646 この島の正式名は「ロードス島」ではなく、「ロドス島」だった。昨日の「ポート・サイド」も「ポート・サイード」が正しいようだ。18時に出港した。

 アナウンスが流れた。プロムナードデッキに出る。リンドス岬に立つアクロポリスを通過した。他のツアーでこの岬まで行った人たちがいる。断崖に立つ円柱が、スニオン岬と同じ風景に見える。朝は見逃したが、こうして海から眺められるのも、クルーズの良さだ。林立する石柱が夕陽を受けて荘厳に見えた。但し、300mmレンズのカメラでは、まだまだアクロポリスを引き寄せられなかった。450mmくらいが欲しい。光量が少ないので、手ブレが起きる。残念。

 

 夕食は、オーバーランドツアーで出掛けた横田さんの奥さんと、明日からヨーロッパ美術史の講義が始まる井上靖夫先生がご一緒だった。

 

 福田がアラブ首長国連邦を訪問に出発するという永田町と、ブッシュが横田夫妻ら拉致被害者家族に大統領執務室で会うというワシントン。日の丸を船尾に旗めかせてスエズを抜けた我々。ニュースを見ていると、海の上の我々には、なんとも言えない複雑な気持ちが入り交じる。

 

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2008年5月21日 (水)

060430.地中海キプロス沖

 12時に目が覚めた。まだ真夜中だ。それほどに早く寝てしまったと言うことだ。バタン・グーだった。街を歩き回ったからだ。2度目に起きたのが420分。三度目が630分。小用に起きた時、船が揺れていた。TVのナビ画面では、船は、キプロス島へ一直線で向かっている。波はそれほど高くはない、白波も立っていない。が、ゆっくりとローリングしている。

 部屋の中に吊してある洗濯物のシャツで判る。おおきな揺りかごの中という程度の揺れだ。140分頃には、かなり揺れ始めていたと妻が目覚めた。沿岸から抜け出る時だったとしたら、寝入り鼻から揺れ始めていたことになる。体は、そろそろ疲れてきたと感じるのは、臀部や大腿側部が張っているからだ。

 

 日本は、GWに入った。地中海の港では、飛来してきた多くの日本人観光客に出くわすことだろう。太陽は、薄曇りの中で鈍い光になって広がっている。

 

八点鍾にっぽん丸は、紅海からスエズ運河を抜けて、地中海に入ってきました。昨日は、砂嵐の中のポートサイド停泊でした。本日一日かけて船体を洗い流します。現在は、キプロス島の南65海里(120km)を北上しています。 北緯3330分は、日本では潮の岬と同じくらいです。

アフリカ大陸、アジア大陸、ヨーロッパ大陸に囲まれている地中海は、スエズ運河で紅海に通じており、北はダーダネルス海峡とボスポラス海峡から黒海につながっています。西は、ジブラルタル海峡で大西洋につながっています。日本海の3倍の大きさがある地中海は、「7つの海」には数えません。インド洋 に比べると空の色が白く感じます。その白さが海に反映して、「白い海」を連想させます。

本日の航行予定は、これからキプロス島のリマソールに近づき、13時頃から夕方まで、南西側の海岸を右側に見て航行し、その後、ロードス島に向かいます。

明朝ロードス島のリンドースという町の近くにある岬の沖合いへ、7時から730分頃に到着します。そこで、絶壁の上にそびえ立つアクロポリスをご覧いただく予定です。朝早いので、どうぞお忘れなく。
肌寒い風が吹いていますが、地中海に入って初めての終日航海をお楽しみください。

 八点鐘が鳴った時には、白波が立ち始めた。風は毎秒11m、北から西に吹いて、波の高さは15mになった。気温も205℃。海水温度は20℃を切って、187℃まで下がってきた。潮岬と同じ位置になったという。いよいよ地中海の中だ。

 大航海時代になってからの「七つの海」とは、南太平洋、北太平洋、南大西洋、北大西洋、インド洋に北極海、南極海を言う。しかし、15世紀までのヨーロッパ人が認識した海は、地中海、アドリア海、カスピ海、紅海、ペルシャ湾にインド洋だった、と宮崎正勝先生は「ウラ読み世界史」に書いている。

 

100_2797  寒くなったせいで、デッキゴルフの場所から日除けの天幕が外されていた。パックがよく滑る。滑りすぎるくらいだ。その上、船はゆっくりとだが、揺れている。今日のゲームは、案外波瀾万丈になりそうな予感がする。

 

 白先攻組は、山縣さん、工藤さん、萩原、松田さん。対する赤は松田サエ子さん、菅井美子さん、菅谷さん、高嵜さん。

1番ホールを菅井さん、菅谷さんがノーミスで通過。今朝の菅谷さん、手強いぞと思わせた。1,2、3を抜けて4番ホールで混戦となった。その間、高嵜さんがノーマークでマイペース。知らぬ間に4から5番を目指して追い込んでくる。権利玉に変わる5番ホールで、工藤さん、松田サエ子さん、松田さんのそれぞれがミスを重ねて弾き出される。そしてついに山縣さんが狙われてドボンされた。


 すかさず、山縣さん「地中海に入ったっっっっっっっっっぁ!」と叫ぶ。僕が助けに打ったものに、自分が中に残ってしまった。それを工藤さんが助けてくれて、再び工藤さんがドボン、それを山縣さんが助けたが、なんと山縣さんがドボン。我々は完全にド壺にはまってしまった。

 繰り返しの失点は、敵を大いに楽をさせてしまった。敵は、菅井美子さんがゴール。あわや、ワンゲーム、2回目のホールインワンと思わせるシュートをした松田サエ子さんが続けてゴール。我が白組は、山縣さんがゴールした後、苦戦が続いた。菅谷さんに僕は徹底的にマークされた。

 最終面はキラー・コンドル菅谷さん、オートボケ・デビル高嵜さん対ロング・キング松田さんと僕の22になったが敗れた。これで92敗。通算165敗2引き分け。

 

 ゲームオーバーしたのがぎりぎりの1040分。1045分からの阿刀田高さんの講演に辛うじて間に合った。ドルフィン・ホールの5階から聴いた。

 

 「地中海の古代史と文化」と題して、エジプトとギリシャ、最後にローマ時代を端的に説いた。以下はその要約。


・・・<計り知ることに出来ないスケールの文明、雄大で神秘的なエジプトと、地球が丸いことや自転していること、あるいは分子原子を知り、演劇を培った理知的なギリシャが、今の欧米文明の根底を成したほどの文明を持ったことは、明白です。


 ホメロスという吟遊詩人は、トロイ戦争をテーマに、10年間を「イリアス」、戦後の10年間を「オデュセイア」に書き表した。フィクションだと思われていたトロイの戦争はその後1800年代に生まれたハインリッヒ・シュリーマンというドイツの商人は、私財を投じて、そのトロイの歴史的痕跡を探し出そうとしました。日本で言えば、「鬼ヶ島」を探し出そうという壮大な意欲を持った人と言えます。商人から船会社を興し、発掘資金を投資して、ついにエーゲ海北部のヒガ半島にそれを発見したのです。そのことで、彼は考古学者になりました。

 トロイの木馬に潜んでいた僅か50人の兵士から、逆転劇が始まったそのギリシャは、アテネを中心に、哲学、芸術、科学、特に今の残すギリシャ古典劇を創りました。栄華を極めたギリシャの没落後にマケドニア王国が生まれたのですが、父親のフィリポスにアリストテレスを家庭教師とするほか、英才教育を受けたアレキサンダーが20歳で王位に就いた後は、インダス川のほとりまで遠征して広大な領土を誇りました。しかし、王位13年後に、王位継承を巡って40年が推移し、3カ国に分裂しました。エジプトのアレキサンドリアの国王には、学友で副将だったプトレマイオスが王朝を長く築きました。その末裔が、かのクレオパトラ女王で、正確にはエジプト人ではなくギリシャ系である彼女は、ローマ帝国のジュリアス・シーザーが攻め降りてくるのを恐れ、色仕掛けで籠絡しようと、あの絨毯にくるまった自らの贈り物事件を考えたのです。ざっとした古代史ですが、これから向かうギリシャは、理知的で原理原則を考えた哲学を生み、ローマはその哲学を人間生活にいかに使うかという実用の時代に入ります。政治を司り、ローマ法を制定し、科学は土木工学へ、人は兵を整え軍隊と成し、いざという時に備える統治を考えました。>・・・


 短編小説の巧い作家は、難しいと言われる30分の講演も見事に時間通りに終わった。そして朗読家である奥様による自作の朗読が続いた。元国会図書館員だった彼が、初の図書館が生まれたというアレキサンドリアを ベースにして書いた小説「あやかしの声」。アレキサンドリアに出張して夫が体感した夢と、大学の図書館に勤める妻の幻聴が交叉する、軽いホラー小説である。

 

 最後に、阿刀田さんはこう付け加えた。「夏草や、強者どもが夢の跡」。松尾芭蕉は、荒れ野の中に義経を見たのです。知識があれば、皆様方もそうした歴史的な姿を見ることが出来るのですと、締めくくった。船客への示唆、実に巧い。

 

 しばらく横になった後、夕食に臨んだ。案内されたのは、阿刀田高夫妻の座るセンターテーブルだった。妻が阿刀田ファンだと言うことを知ってくれていた川野チーフパーサーの采配のお陰だ。同じ席に東夫妻も座った。シャンパンの乾杯で始まった。毎日新聞出身の東さんが、朝日新聞出身のフォトグラファー栗原氏との交流の話が口火となった。妻は、阿刀田さんの隣りに座らされて、女子大生と教授のような関係に頬を染めていた。いやそれは、モエ・シャンドンのシャンパンのせいだったのか、とにかく彼について盛んに質問していた。僕は、阿刀田さんと懇意だという野村道子さんの隣で、ダンス教室のニューカマーの話とか、二丁目(2階の船客)独身長屋の話とか、ポート・サイードでメイクを変えて若者に接近してみた話などなど、道子さんらしい話の聞き役に回っていた。


 東さんが毎日新聞の「男坂女坂」連載の話をし始めたとき、妻が毎回それを読んでいたので、誘い水をかけてくれたのかと有り難く思ったりしたが、妻の反応は早くはなかった。舞い上がっている女子大生を見ているようで、実に痛快だった。奥様は微笑んでいるだけだった。


 僕はといえば、「妻の会話の時間を邪魔しないように、「我々は、夫婦として相性がいいのでしょかねえ」と、投げかけたに過ぎなかった。東さんは、すぐに気づいてくれた。「我々も阿刀田さんと同じ名前の夫婦です。高と慶子は、高とけい子でして」とすると、驚きの声があがった。ペンクラブや文学界の話になったときも、逢坂剛が博報堂で2年後輩だった中浩正君だとか、池田弥三郎の息子がいま、広報室長になりましたよとかを言うに留めた。

 

P1000170  ミッドシップ・バーに場を変えて、飲み直すことになった。ここは左舷側にあって、ラウンジ「海」とカジノの間に位置する。

 東さんは、僕がいつもオーダーする「ブラド・マリー」だった。タバスコが横に置かれた。僕は、バーテンダー・森田純子オリジナルの「クレオパトラ」を頼んでみた。新しいカクテルを考えても、それを客が飲まなければ、意味がないと思ったからだ。甘く女性的なカカオフィーズだった。二杯目は「ピラミッド」と名付けたカクテルにした。今度は、トンがった感じの強い酒だった。ジンと言うよりウオッカか、アブサンに近い。いい気持ちにさせられた。川野チーフパーサーも座った。終始ビールだった。

 

 3階の「東ギャラリー」に話を振ってみた。まず、何もなかった「レセップス像」を東さんは、どう捉えるのかと思っていたが、コンクリートの残骸の円柱の左に、ぽつんと赤いファンネルを入れ込んだ。にっぽん丸の赤が凄い存在感を創った。あのアングルは何処から撮れたのだろうか。同じ場所に立ちながら、そのポジションに気づかなかった。東さんは、船客と同じ場所に居ても、足場が違う。プロの根性をいつも見せつけられる。


 スエズ運河での写真もそうだ。北方船団の7番目が本船だったが、それより前に航行するヒュンダイの貨物船と、そのさらに前方の船団を4隻が重なるまで、あのフライングデッキでじっとその瞬間を待っていたのだと判る。バッラ・バイパスで見る砂に埋もれた貨物船団という奇妙な風景では、謎解きのヒントとして、フレームの右下に水面を僅かに見せているのが憎いコンポジション。これだけ、多くの船客がレベルの高いデジカメで撮りまくっていれば、何気ないショットに素人が勝つことだってある。同じ被写体に向かいながら、それ以上の楽しみに毎回拍手させられるのは、さすが。きれいな絵を創ろうとしているのではなく、意味のある絵を切り取ろうとしている。東さんの写真が好きだ。そんなことを話した。

 秋元というカメラマンの名前が阿刀田さんから出た。もしかしたら、最近は文化人のポートレートを撮っている、博報堂同期だった秋元茂かもと思ったが、問い質さないままに終わった。

 

 芙美子さんの提案で、東さんがカメラを持たずに観光したことがあったそうだ。ところが、カメラなしではなかなか現地の人に近づけないという。デジタルになった今は、ポラロイド写真のように、写した表情を即座に見せてあげられる。紙焼きを手渡せないが、それでも喜んでくれる。カメラはコミュニケーションの重要な道具だということが身を以て感じていると。

 

 野村道子さんが、「スペードとハート」の話をし出した。トランプ・カードの話ではなかった。展望風呂での女性のお尻の話だった。若い女性はスペード型で、歳を重ねた女性は、やがて、ハート型になるのよという意味だった。なるほど表現が巧いと男は手を叩いたが、女性からは冷たい視線を受けた。阿刀田さんは「1:3:5」を話した。青の洞門を案内したボートマンから聞いたという。現地イタリア人には例えば、1ドルとすると、ヨーロピアンには3ドル、しかし、5ドルを要求しても払ってくれるのが日本人観光客だそうだ。だから、日本人観光客をいかに獲得するかで仲間同士で争いがあるのだそうだ。

 

ミッドシップ・バーで記念写真を撮り、お開きとなった。明日はロードス島だ。

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2008年5月 5日 (月)

060429 ポート・サイード

Dscf0624 Dscf0623 エジプトの北東部、地中海沿岸にあり、スエズ運河の北端にあたる。名前はサイード・パシャに由来する。2003年に寄港したアレキサンドリア港とは地中海に面して、左右反対側になる。

 

 今朝は、このポートサイード(PORT SAID)から、ルクソールへのオーバーランド・ツアーに出掛ける船客のために、朝食も630分から830分までと、スタート時間が早まった。カイロまで約200km、3時間をバスは走ることになる。Dscf0622 スフィンクスの前に「ケンタッキー・スフィンクス支店」があったようなことはなかろうが、かつてのルクソールの観光客襲撃事件に恐れを成して参加しないという船客もいた。飛行機嫌いになったカミサンは、ルクソールへのツアーに関心すら示さなかった。

 

 今日の我々は、菅井夫妻と街を自由行動する。「ポート&スターボード」(船内新聞)には、いつもの現地地図は折り込まれていなかった。2階のインフォメーションで地図を得る。「有り難う」の現地語、シュクランを「宿乱」と憶えることにした。

 

 

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2571  830分に、下船口で待ち合わせた。さすがに、土産物屋の男たちの出足は遅かった。昨夜の喧噪なフィラスティーン通りも寝静まっていて、広く思える。ポートサイード国立博物館は9時にしか開かない。菅井美子さんのリクエストは、スーク(市場)だ。まずは、港から一番離れた「スーク・トガーノ」に向かう。綿花や米などの重要な輸出港でもあり、スエズ運河を通る船への燃料供給地でもあし、非関税地域としても栄えているという。

 

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 フィラスティーン通りを西南に途中まで歩き、北へ6本上がり左折して、フィラスティーン通りと平行する長い通りを歩いてみる。ここらあたりもフリーゾーンと言われる外国品市場の「スーク」があるはずだが、と通りがかりの男性に訊いてみた。「その通り、此処がスーク・アフランギだ」と答えた。しかし、通りの風情は。日本の地方都市のどこにでもある商店街にしか見えない。銀行や映画館、レストランの間に、電気製品や衣料品店が並ぶ。ウインドーの中を覗くと、掃除機やテレビなどの家電製品が並べられてある。はたと気がついた。我々の思い違いだった。外国品市場とは、免税品ショッが集まっているのかと思いきや、どうやらプ観光客相手ではなく、現地の富裕層に向けた、贅沢な品物が並ぶ通りと言うことか。普通の商店街という受け止め方が間違っていた。我々日本人が見慣れすぎていたのだ。文化的なファッションストリートだと納得できた。まだ朝が早いので、そのほとんどは、閉じている。

 

 さらに西北に歩を進めた。噴水のあるロータリーに出た。「ラムセス通り」と書いてある。手にした地図には書かれていない。「シュハダー通り」を探しながら、山勘で歩いた先に、オベリスクが眼に入った。街のランドマークが見つかったのだ。再び、地元の若者に「スーク・トガーノ」を尋ねてみた。北上してきた距離感は間違っていなかったことを確認できた。


2550  「サァド・ザァグルール通り」の西南へ2筋と北の方角に3筋の区画が、地元の人々が集まる「スーク・トガーノ」だった。確かに、色とりどりの雑貨が店先に吊され、道路脇に雑多に置かれてある。まだ、店員たちの動きも緩慢である。「スーク」のイメージを、天幕が幾張りも連続してごった返すような映画のシーンを僕が勝手に描いていたに過ぎなかった。


 例えてみれば、スケールを落とした韓国の南大門や台北の夜店街。ウイークデーなら、この区域もいきなり活気溢れる声で満ちてくるのだろう。2553

美子さんは、記念に何か買って帰りたいと、店の中を物色して歩いた。眼に留まったのは、トレーナーパンツだった。ウオッシャブルだった。人なつこそうな青年が対応してくれた。パントマイムのようなやりとりで、なんとか安くして貰えた。「これ、私のデッキゴルフ用パンツ」美子さんは喜んで言ったが、荘輔さんは、あらぬ方向を見上げて無視していた。

 あちこちに、いいデザインのサックドレスがあった。エジプト人には美子さんのような大柄の人が多いのだろう。彼女のサイズなら似合いそうな服も多くあった。荘輔さんは腕組みして、店から離れて眺めていた。

気に入ったワンピース服が見つかった。妻が交渉に入ったが、いざ支払いの段になって、米ドルでの支払いは拒否された。地元の人との取引が多い「スーク」では、現地通貨のエジプシャン・パウンド以外では買えなかった。にやっと表情を変えた荘輔さんがスタスタと歩き出した。にこやかに応じてくれていた店員は、申し訳なさそうに手を振った。「シュクラン」を何度も口にして、店を出た。



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2566香辛料の店は、最も魅力的な店だった。ニッキ、ナツメグ、パプリカ、ブラックペパー、ローリエ、それにカカオやココナッツの粉末などが、所狭しと、樽に山盛りで売られていた。米ドルでは買えなかったのが、非常に残念だった。


2567_4 さとうきびは、束ねて店先に立てられてあった。搾りたての生ジュースを飲ませてくれる店の標識を兼ねているのだ。このディスプレイには驚かされた。もうひとつは、傑作な広告に笑ってしまった

女性のダイエット商品だ。実に解りやすかったからだ。


 

 

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昼食時間が近づいたので、帰船することにした。まずは、オベリスクまで歩き、それから海へ方角を合わせ、港に向かった。道ですれ違う若い女性たちが、口々に小さな声で、「ウエルカム、ウエルカム」と言っては通りすぎていった。とてもいい気持ちになれた。こちらも、「アッサラーム、アレイコム(こんにちは)」なんて、たどたどしい怪しい音を発した。それにしても、女性の眉の濃さといい、目のきれいさといい、思わず見すくめられてしまう。

 

 船旅の良さは、船に戻れば、たっぷり安心できる水が飲めて、さらに食べ慣れた食事が待っていることだ。午前中、歩いたのは3時間、歩数にして11069歩、332kmと歩行計は示していた。

 

 多くのツアーバスが出て行く寄港地での船内昼食は、バイキングと決まっている。在船客数が少ないことに因るものだが、街歩きをする我々には手短に済ませば、それだけ時間も活用できるから好都合である。エジプトに居ながら、海鮮丼と温麺が食べられたのだ。

 こうした日のレストランは、外出した情報交換の場所になる。東ご夫妻は、良質なエジプト綿のシャツと靴下を大量に買ってきたという。 高嵜夫妻は、目的の国立博物館が工事で休館だったので、フェリーで対岸に行ってみたが、店はすべて閉まっていて、半日が空振りに終わったとぼやいた。「スーク・アフランギ」が土曜日で閑散としていたことは、外国人にとって、返って歩きやすかったんだと思い直すことにした。

 

 「船で渡される地図ってさ、市販のガイドブックから無断コピーして、お茶濁しているんでないの。船員が気に入った港町って、売り物だったのなら、寄港地をプランした人が自分で歩いた情報を載せないとねえ。初めて歩く者に参考にならないわぁ」

「世界旅行をしている人でも、港から歩き出す人はそういない。予め地図を買っても、港からの地図って普通は無い。親切なガイドブックでも、有るのは空港からの案内だ(笑)」

「まだまだ、港から歩き始める観光地図はない(笑)」

「こりゃあ、もしかしたら、出版社に売り込めるぞ(笑)」

「出国する税関を最下点にして、それから歩き出す方向へ通り名なんかを書き入れてくれると、接岸時間が有効に、しかも歩きやすい親切なものになるのにねえ」

「地図を逆様にすると、通りの名前も読めないしね(笑)いい考えだよ」

「にっぽん丸の誰かが、実際に歩いてみたのだという信頼感も与えるしね」

「歩いて何分くらいとか、タクシーならいくらくらいかかとか、体温を感じたいね」

「今日の博物館だって、休館日ということをもっと早く教えるべきだね、だって目の前だよ、船の」

Dscf0617 「パンフレットでは休館日になっていなかった。誰でも行くわさ」

「工事のため入れない」

「工事なら、何日か期間が長いのだから、気配りすれば判りそうなもの」

「まあ、僕らの仕事なら、担当者ミスだね」

「スーク・トガーノは、観光地というより地元の生活者のマーケットと考えれば、米ドルが使えないというのは、僕らのミス」

 

「世界一周するほどの日本人なら、金持ちだと誤解され(笑)、狙われる可能性は大だからね。」

「リタイアーだと見込んでいるから、動作は緩慢だし、逃げ足遅いし(笑)」

「バスツアーの客は、最後のグループが狙われるという話だね、物売りにも」

「シャトルバスで降りても、御茶飲んで帰るだけ(笑)」

「中国人観光客が今はヨーロッパにかなり押し寄せているらしいから、間違えられてしまう(笑)」

「ゼンブデ、センエ~~ン!は、中国人には通じない(笑)」


 

 シャワーを浴びて少し昼寝をしてした。15時に船を出た。街は、砂漠からの砂が街を覆い、細かい粒子が立ちこめて、ベージュ色に霞んできた。鹿児島の桜島が噴火したように視界が悪くなった。国立博物館が休館だから、予定を変更して港の突先にあるレセップス像を見に行く。2572


 ところが、レセップスさんの姿がない。台座しか残っていないのだ。地図にも、確かに、レセップス像「跡」となっている。跡形もないというわけだ。この都市がレセップス像を修復しないのだろうか。スエズ開港の師を尊ぶ時代ではなくなったのだろうか。首を傾げたくなった。

 

 立ち止まっている我々4人に、観光馬車の御者が声を張り上げる。

「タカクナイ、タカクナイ、ヤバイヨ、ヤバイヨ、バザー、バザー、ドゾ、ドゾ」

どうやら、バザーに案内するから乗らないかという手振りである。銅像の前で「ドゾドゾ」はなんだかおかしかった。「やばいよ」は、誰が教えたのだろうかと笑ったが、考えてみれば、「ヤスイヨ、ヤスイヨ」の覚え違いのまま、彼は口にしているのだろう。それを聞いて日本人観光客は頬が緩むから、当人は通じていると勘違いしているのだろう。それにしても、何処のバザーだろう。朝行ってきたスークのことだろうか、訊く間もなく、御者は別の客を捜しに馬を走り出させた。

 

 2574 2576  レセップス像「跡」を北西に歩くと、マスギト・イッサラームという天に突き上げた大きなムスクに突き当たる。その脇を通ればビジネス街のようだが、左折する。貝の噴水の手前に「ティンバーランド」のショップがあった。東さんが買った店だ。

 ここで菅井夫妻は、ペアのポロシャツをご購入。妻は、二人の息子たちへエジプト・コットンのシャツを買った。日本は21時頃だろうからと、僕は長男に電話をした。パソコンメールは送信が途切れやすいが、受信は上手くいっていると伝えておいた。ボーダフォンの携帯電話を通信機としている今回のメール手段は、衛星通信を極力使わない節約策である。

 

 埠頭に戻った。午後からは、僅か1時間の散策だった。今夜出港だと判っているから、最後の売り込みに、イミグレまでまとわりつく売り子もいる。イミグレと本船との間に開いている露天商の男たちも形相が変わってきている。「ホンダサン、ヤマダサン、タカクナイヨ。タカクナイヨ!」とすがる。

その中の一人に、バラの切り花を手にした口数の少ない気弱な老人がいた。妻は彼から買ってしまった。

  

「自宅から切ってきたのかしら、やぶからしのようなものが巻き付いているの。木の枝もくっついているし。あのおじいちゃん、『自分のお小遣いは、自分で稼いできなさいね』とお嫁さんにでも、言われて出てきたように思えたのよ」部屋に生けながら、妻が独り言を言った。

 

 夕食は、東夫妻、川口夫妻、高嵜夫妻の座っているテーブルに案内され、気の置けない席となった。軽妙洒脱な高嵜さんの会話が笑いの渦を創り、今夜も大きく肩を揺らせている一角となった。随分と席が空いている今晩は、笑い声も賑わいの内になった。コーヒーを頼むのも忘れるほどだった。慌てて、デミタスコーヒーを頼んで、話は続いた。今夜は、メインショーがないのは当然として、カジノも開かれていない。開いているのは、ネプチューンバーだけだ。

 

 部屋に帰って、停泊中にメール送信を再度試みることにした。10回試したが、やはり、繋がってはくれなかった。ソーホージャパンへの原稿送信を今夜は諦める。次回メールが発信できる寄港地は、ギリシャになる。

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2008年5月 4日 (日)

060428 スエズ運河

0476up 早く眠ったせいか、朝方4時に目覚めた。今朝こそは朝風呂に行って体重を計ってみようと、645分に出掛けた。航行中は揺れもあり、体重計は適正な数字を教えてくれない。いまは、スエズ運河通行許可を得るために、入り口の沖で投錨している。2A錨地である。北行船団セカンドコンボイの7番船という順位で待っている。着岸しているかと思えるほどで、全く揺れを感じない。脱衣室に2人、湯船や洗い場に3人。意外に空いていた。果たして体重は増えているか。……8002kg。褒められる体重ではない。増えてはいない、現状維持だ。これ以上はオーバーしないことが肝要。なにしろ、3年前は78kgだったからだ。

BSTVは、三越常務が恐喝で逮捕されたとか、三井住友が1年間業務停止だとか、経済大国日本の劣化が次々に発覚する。横田夫妻の米国陳情団に大統領側近側までが、ブルーリボンを胸に付けてくれる。いま、日本の国会議員でブルーリボンを付けて自己主張できている閣僚は何人いるのか、情けない。それがたとえ、TVへのパーフォーマンスであっても、だ。ワシントンからのニュースを見せられるたびに、日本政府閣僚の評論家然とした無策ぶりを世界に広めることの恥ずかしさを思わせられる。

 

八点鍾にっぽん丸は、昨晩2215分、待機錨地に到着しました。そこで通航の順番待ちの登録を済ませ、水先案内人(パイロット)を乗せて、さらに運河入口に近い待機錨地に2330分到着し、錨を入れて現在に至っております。正式な錨地名は「スエズ2A」です。当初、運河コントロールセンターからは、今朝5時に水先案内人乗船との連絡が入っていましたが、08:45に変更されたとの通報を受けました。また、本船が入る船団も第1から第2船団に変更になりました。変更理由はわかりませんが、郷に入れば郷に従うしかありません。第2船団の第7番船との通知も入りました。本船の前に6隻の船が航行することになります。
 本船の左側にスエズの街と運河の入口が見えます。入口まで2海里(3.7km)です。右側には順番待ちをしている数々の船が見えます。まもなく水先案内人を乗船させて、いよいよ運河通航です。なお、運河通航に必要な現地の準備要員が乗船しました。念の為、お部屋の施錠を忘れずにお願いします。

 

本日は朝からワクワクしている。我々とツアースタッフとのデッキゴルフ交流会、いやいや、勝負を申し込まれた嬉しい日である。

Dscf0482 Dscf0483 食直後、後部デッキに向かうと、東さん夫妻が、三脚を立てて白いフェリーを狙っている。東さんは、帆船のミニチュアを制作するほどに、船に詳しい。投錨しているあの船体は由緒あるものだろうか。

 

定刻の9時になった。ツアースタッフは、キャプテン黒川君以下、武田君、早川君、田実君の4人に一人、我々側のユメレン・ファイター横田を入れて5人の赤組。対するこちらは、キラー・コンドル菅谷、スイスイ・マダム工藤、ジャッジジー中島、ノイジー・サンダル菅井にマダラ・サムソン萩原の白組で先攻となった。

Dscf0486 Dscf0489 菅井さん、中島さん、菅谷さんが12番ホールを効率よく少ない打数で通過するほどに、出だしはノーミスで快適に進んだ。しかも、赤組を1番ホール周辺で何度もフレームアウトさせたから、赤の進度をかなり遅らせられた。我々が1番ホールに近い3番ホールに進んできたところで、狭い上下線が渋滞するように混戦となった。衝突するそのコースで、田実さんがかなり警戒すべきシューターだと我々は認めた。この時点で、彼を徹底的にマークすることにした。45番を終えて白組全員が権利玉になった。ホームを目指した。

菅井美子さんが先にホールアウトで、まず先取点1点。赤が5番を終えてからは、しばらく攻防があったが、赤は誰もホールアウトする者ナシで、時間切れ。白組が初戦を勝ちとった。これで8勝1敗。僕自身の通算は154敗2引き分け。

入れ替わりの2回戦となった。船客側は、フランク・ユージロー山縣、ロング・キングとナイス・チョット松田のご夫妻、オートボケ・デビル高嵜の8人で戦うことになった。途中、ギタリストのゴンチャンをスタッフ側が加えたので、船客側も1人入れることになって、再び僕が加われと言われる。

Dscf0487 10人となった。白先攻組は船客側。ナイス・チョット松田も、ロング・キング松田、オートボケ・デビル高嵜も、なぜか出足に苦戦する。1番ホールを出る最後の役を担い、敵のアキレス腱であるゴンチャンの足を封じておく。敵はゴンチャンをカバーするために、前進できなくなる。これで、しばらくは、白の進路は安全となる。

初戦で魅せられた田実君のロングシュートを今回も警戒する。我々の関心は、田実君のパックがどのコーナーへ動くのかに眼を光らせた。こちら側も高嵜さんが狙われた。キティチャンのイラストされたポンドにドボンされた。後続の僕が、その高嵜さんを救出に向かう。弾き出して成功。一巡した後、互いに4番ホールを通過できた。

このころから、少し、ゲームのテンポが遅れる。スエズ運河へ向かう左右の景色を撮りだしたからだ。僕や山縣さんはカメラを、松田さんはビデオを袈裟懸けにして試合をしている。ナイス・チョット松田が先ずホールアウトで先取点を取った。5番で敵に捕まっているフラン ク・ユージロー山縣の救援に向かう。しばらく攻防あって、終盤は、山縣上がり、松田上がり、高嵜上がりで、我々白組が4点。赤組は武田君が上がりで、4対1。

野球で言えば、9回の裏で、黒川君、早川君、田実君を迎え撃つことになった。応援団は興奮し、僕は緊張の連続だった。ところが幸いに敵失でチャンスを掴み、ホールアウトできた。

こうして『スエズ運河通過記念』対戦は、船客組が連勝した。9勝1敗。通算164敗2引き分け。ナイス・チョット松田が、ゴールターゲットにストレートインしたので、ワインホール・ワ・インは(菅谷2+萩原1+松田1)x2=8本目となった。

  弁当の日なのに、ぎりぎりの時間までゲームをしていた。妻を待たせた。僕の弁当は、中身がいくらか変えてくれてある。減塩食である。塗りの長い器の上に、目印のテープが貼ってあった。その神楽弁当を7階のプールサイドに運ぶ。弁当の日は、船内の思い思いの処で変わりゆく景色を眺めながら食事をするのだ。上がってみると、なんと富田さん、宮本夫妻と我々の5人だけだった。意外にも、多くの人はそのまま食堂で食べていることがわかった。冷房が効いているというのが理由らしい。プールサイドは左右の景色を見比べられる場所だが、確かに少々蒸し暑い。

向かい風が強すぎて3年前は船足が鈍り、通過許可証を得る順番も予定よりずれてきて、グレートビター湖での待機時間が随分長かった。スエズで下船してカイロへ向かうオプショナルツアーはアレキサンダー港から再スタートしたほどだった。Dscf0521_2 今回は、運良く第二次北方船団の7船目と言うことらしく、円滑に通過している。「船団(コンボイ)」と言うように、10隻から15隻が一列に並んで航行するのだが、緊急時に追い越しをかけられないので、軍関係船を最優先最前列にして、その次は風に弱い船が前に組まれていくようだ。ひとたび砂嵐が吹くと、視界が遮られるからだそうだ。タンカーやコンテナー船は、強いカテゴリーに類すると思ったが風に弱いのだ。にっぽん丸の先には、デッキに満載したコンテナー船が大きな尻を向けている。一列航行をするのは、事故が起きたときの最悪の事態を避けるためだという。大型船の回頭半径が約500メートルを要するが、200メートル以上に及ぶ大型船が、狭い運河内でのエンジントラブルや舵故障で衝突したり横向きに座礁したりすれば、運河が封鎖されてしまう。運河通航中は自働操舵をやめ、手動操舵をすることが決められているという。

 

食後にシャワーを浴びたが、しばらくは景色に変化がないことを知ってしまっているので、眠りたくなった。デッキに貼り付いている初めての船客と違って、贅沢な時間の過ごし方をするわねと言っていたその妻も、身体を横にして本を読み始めた。昼寝をするのかも。

 

第二次中東戦争でシナイ半島へエジプト軍が越えたとする戦争記念碑が右岸に近づいた時は、寝ながら船内アナウンスを聞き流していた。 両岸に左右に開く鉄道が間近というアナウンスで体を起こし、フライングデッキに走るDscf0533Dscf05253年前は夕食時の通過だったので、撮影は出来なかったからだ。スエズ運河を横切る線路があるか、ないか?なんだかクイズのネタになりそうだ。世界最長640mの旋回橋エルフェルダン橋は、中東戦争を含め、4回も破壊されたのだそうだ。列車が走るのは、朝夕だけだそうだ。

 

Dscf0503 Dscf0550 コンボイは、7ノット(時速13km)で前後の間隔を1マイル(1.8km)に保ち、静々と航行している。景色にも変化が出てきた。運河の中央にY字型の州が見えてきた。水路が分かれている。バッラ・バイパスという。ここから先は、南方船団と北方船団がすれ違うための交差Dscf0557 点のようなもので、スエズ運河は一方通行であるから、我々の船団が通過し終わるまで南方船団は待つことになる。ホームで入れ替わる単線列車のようなもの。左岸奥の水路の岸壁にロープで固定している南方船団は、我々の船団が通過するのを朝から6時間も待っているのだそうだ。砂上に船が座礁しているかのような風景を撮ろうと、船客が左岸に走り寄っている。エルバラー水路で見られる奇妙な騙し絵の風景をカメラに収めたいからだ。地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、アジアとヨーロッパを結ぶ海の近道であるが、船だけではなく、鮪が地中海から紅海へ、紅海から地中海へと交流しているそうだ。

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Dscf0496_2 灌漑設備を整備して緑を目に出来る左岸と、全くモノトーンの右岸が続く。緑の多い左岸には、銃を持つ見張番所の兵ものんびりと我々の船を眺めては手を振る。それに比べ右岸の兵は表情がなかった3年前を思い出していたら、今年はどうやら様子が違う。右岸の兵士たちDscf0530_2 も、我々の船に声を出して手を振ってくれる。乾ききった砂の中に、湿った暖かさを感じてしまった。何台もの戦車が待機しているのに、今年は、ぴりぴりさせない、なんだかほっとする安らぎを貰った。左岸には新しい建物も増えていた。住居のテラスにビーチパラソルを見かけるし、妻が覗いている双眼鏡には、家族らしい姿を目にするという。スエズ運河沿岸にあった緊張感が幾分和らいだのなら喜ばしいのだが…。なにしろ、3年前は、イラン開戦の年だった。

 

荒涼とした砂山が続く右岸に、動くものが見えた。白い犬と黒い犬が追いかけ合っていた。予想外の可愛い生き物に、プロムナード・デッキの船客が指を指し、手を叩きながら喜んでいる。モノトーンの静止画像が動画になった。

 

Dscf0566Dscf0561 0564  徐々にムバラク・ピース・ブリッジが迫ってきた。3年前は、照明の点いたムバラク・ピース・ブリッジだったが、今回は、夕暮れ前だ。運河の水面から橋桁底部までは70m50万トンクラスのタンカーを通すだけではなく、あの巨大な石油リグを通過させられる高さに設計した という。

0563 0562 中央の橋桁に付けられたエジプトと日本の国旗がよく見えた。橋脚の下には「KAJIMA」の文字が打ち込まれていた。NHKのプロジェクトXを思い起こしているように、船客も自然に誇らしげな顔になっていた。

 

シナイ半島側に俄然、緑が多ってきたと思ったら、なるほど、目に前に街が現れてきた。軒並みにパラボナアンテナが立ち、多くの車が走りだした。エジプトの左岸と右岸が同じ景色になってきた。

ポートサイード入港の時間が遅れて20時になるそうだ。今夜ドルフィンホールで開かれるメインショーの現地芸能、ベリーダンスのショーが未定だという。まさに、インシャーラーの国に来たのだ。「マーレッシュー!(問題ない!問題ない!気にしない)」だと言おう。

 

夕食に案内されたのは、昨夜と同じ東夫妻が座るセンターテーブルだった。ご一緒した方は、今岡さんと宮本さん。東さんと今岡さんは、互いの父親が大日本帝国海軍兵だった。僅か500トンの駆逐艦で地中海まで航行した父親を偲びあっていた。

神戸から来られた宮本さんは、我々と同じ「ゆたか倶楽部」の会員だった。奥様が同伴されていない理由が奮っていた。

 

「家内は、いろいろな集まりがありますやろ。予定があるというたら、ほな自分だけで乗りますのや。ややこしい日程調整せなならんだら、船の申し込みチャンス逃しますやないの。飛鳥も、にっぽん丸かて、年に1回やて。来年まで待ちまへんのや、わし。来年どないなっとるんか、判りしまへん。

 最近、新聞の死亡記事見ますねん、年齢を。わしらの同級生も、ようけ居なくなっとるんです。いかりや長助も同じ歳や。わし、毎年、旅行に出掛ける時、もしも事故で遺体が見つからんことあったらと、髪の毛も爪も、ちゃんと箱に入れてあって、息子たちに教えたってるんです、それを遺骨代わりにせい、と。もう、墓も造ってしもたんです。通夜の時は「蛍の光」、告別式の時は「何何の曲」と決めとるンですわ。

 ちょっと前までは、お遍路さんした時の白装束を着せてくれ、言うとったんですが、いまはもう、タキシードや。お棺の中に、カマーバンドさせてもろて、蝶ネクタイでな。この船に持ってきたタキシードを、帰ったら、みんなが見えるとこに吊って飾っとくんや」

  最後の姿はタキシード着せてもらうんだというところで、我々は拍手をしていた。

 

「金なんて、なんぼ持っててもあかん。船に乗ってるのが、一番。家に居ると、証券会社の営業が来て、上手いこと言うて、変な株、掴まされる。そんなことで金消えるんなら、自分が好きなことに使うたらな、あかん。船に逃げるのが一番、安全や」

 実に明解、異論はない。みんな宮本論に巻き込まれて、喜んでいる。

「金と時間と健康と家庭が上手く行っていない人は、船には乗れませんよね」東さんがみんなの顔を覗き込みながら、笑った。

楽しい夕食になった。

 

Dscf0569 22時、ベリーダンスがドルフィンホールで始まった。見には行ったものの、美人でもない肉感的なダンサーが独り、曲に合わせて、ただただ動き回って時間を費やしているだけ。照明マンの工夫のしようもない有様。温泉宿のバーの隅で踊ってくれているようなダンサーに失望した。

早々にプロムナード・デッキに出た。見下ろした岸壁は、夜間照明に照らし出された港のマークが美しかった。Dscf0581Dscf0584埠頭の先は、すぐ街になっていた。 カーニバルが催されているように、カラフルなビニール風船の巨大人形が 何個も風に揺れている。出てみるかどうかを思案していたら、東さん夫妻の姿が見えた。いつの間にか、外出していたらしい。

 4階のデッキに駆け上がって来られて、夜店で買ってきたというマグネットの飾りを見せられた。妻がウハウハ喜んでいる。欲しがるものばかり。今から一緒に出て案内しましょうかと冨美子さんに言われて、妻は小躍りして下船していった。僕もパスポートを持って後を追った。洒落た建物のイミグレを出ると、我々を目当てにして開かれた夜店が、赤々とした裸電球を吊して並んでいた。

Dscf0582 Dscf0594呼び込みの激しい中をかき分けて、冨美子さんが目的の店で立ち止まった。店の親父に、「ヤクソクドオリ、トモダチ、ツレテキタワヨ、ヤスクシテネ」こう切り出した途端に、店主は俄然、商売気を出し過ぎて、別の品まで強引に売りつけてきた。妻たちは買う気が醒めたと、店を立ち去ろうとした。それを見ていた隣の店主は、すかさず、誘い込み、値段を負けてくれた。結局、妻はマグネットを7個も買った。

気分良くしてフェンスの外に出てみた。街の商店街には、予想以上に人通りが多かった。それも、子供連れ、家族連れが多い。女性の運転のベンツが走る。港町の活気ある商店街だった。アイスクリームを買いたい衝動に駆られたが、水の質が気懸かりで思い留まった。夏休みの縁日の夜店通りの雰囲気だった。

Dscf0599Dscf0601 きれいな娘さんが母親とソフトドリンクを飲んでいた。妻は、その親子のテーブルに走り込んでなにやら頼んでいる。僕にカメラを向けろと催促している。母親も手を振っている。 娘さんと一緒の記念写真を撮らせてもらえた妻は、満足した顔で戻ってきた。しばらく商店街を歩Dscf0605 いてみたが、明かりの消えた先は暗闇の世界だった。続きは、明日の朝にすることで、帰船した。

 

Dscf0602 長男、豪から携帯にメールが入っていた。体調は心配ないということだった。安心した。

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