2013年1月11日 (金)

「クルーズ日誌」が引っ越しました

萩原高のWEBサイトリニューアルにともない、「クルーズ日誌」が引っ越しています。現在は、以下のサイトで更新していますので、よろしくお願いします。

「クルーズ日誌」最新版(萩原高WEBサイト「萩原高の眼」内)

|

2010年12月24日 (金)

060601 大西洋3日目

昨日より、また1時間戻した。毎日、なんだか得をしているようだが、洋上だから、さほど実感がない。見渡す限り、海原と空だけの世界である。朝寝坊をさせてもらって、調速後の一日は、いつものようにデッキゴルフから始まる。

 

7時、目が覚めて足が攣った。スプレーのバンテリンを吹き付ける。洗顔する。PCに向かって身構える。八点鐘が鳴る。キャプテンのアナウンスを聴きながら、指先は八点鍾症のアナウンスメントを打ち込む。

 

現在、カナダの東端ニューファンドランドの東沖、1060海里(1963km)を航行しています。

今朝は前後左右に船体が動揺しており、この航海が始まって以来、一番揺れています。お客様が船酔いをしているのではないかと心配しております。

ティルベリーの桟橋は、第2次世界大戦後まもなく作られた古い木造の浮き桟橋です。水先案内人から聞いた話では、たくさんの移民がその桟橋から船に乗り、にっぽん丸と同じようにテムズ川を下り、イギリス海峡を通って海外に出て行ったそうです。

移民先は主にオーストラリアだったそうですが、北米や南米に移民した人達もいたと思います。今の本船同様、荒波を超えて、新天地を求めて船出をしたのでしょう。

 

本日一日中、荒波が続くものと予想されます。午後には低気圧から延びる前線が通過してゆく見込みで、西の風向きに変われば、うねりがおさまり波も静かになってゆきます。その後は、西からの高気圧が本船を守ってくれるでしょう。

今日は工夫をして船酔いを克服してください。自分がこのにっぽん丸を揺らしているんだ、というイメージトレーニングが大事です。うつむく姿勢は良くありません。船酔いで苦しんでいる方は、即効性の注射がありますので船医にご相談ください。

 

停滞していた低気圧にぶつかり、上下左右に揺れてきたが、深夜ほどではないという。波の高さは3m。やがて、南下すれば高気圧が、波に当たる風を打ち消してくれるはずであるから、今しばらくの辛抱だそうだ。酔い止めの薬を早く飲むことを勧めるが、しかし、こうしたうねりにも抵抗力をつけておいて欲しいと、揺れに対しての気構えを願っていた。遊技場のティカップに背中を預けているような、前後左右の揺れが心地よいと思えるように慣れてきたのは、不思議である。妻はそうもいかず、早くに錠剤を服用した。ミセス高橋には、苦いけれど噛んだほうが効きが早いらしいと教えられたらしい。

 

朝食後の後部デッキには、果たして何人が来るか。

心配することもなく、12人も集まった。この揺れにも慣れたのか、ゲームの波瀾万丈を期待するのか、やる気満々。僕は半袖にゴルフ用のウンドーブレイカーを着けただけで寒くはなかった。昨夜、盆踊りの輪の中に西出さんも山縣さんも見つからなかったはずだ。マッサージ室で板倉君に肩を治して貰っていたという。山縣さんは、カジノにいたという。

 

先攻白組の布陣は、高嵜、西出、中島、高橋、萩原。赤組は、山縣、菅井、松田夫妻、菅谷。スタートから僕は難なく4ホールへ動けた。ロングホールとなる5番は、今日の波では難所となる。左舷船尾のプロムナードから、吹き込んでくる強風にはスティックが震え、先が定まらず、誰もが、二度三度のミスを繰り返えすのだ。いつの間にか、ここを「マゼラン海峡」というようになった。更に、波のうねりが大きくなると、ベテランでもターゲットを外す。すり抜けてしまう。その上、甲板は、波のしぶきが散ることで複雑に塩のざらつきが判断できない。湿ったままか、乾燥して塩の結晶が出来上がってくるか、時間差で刻々と変化してくるから、コントロールが難しい。上手さも時の運というところが、メンバーには判っているから、思いがけない失敗に皆はしゃぐのだ。計算が出来ない海域が時々ある。

前方の舳先を見ると、水平線が上下に踊っている。しかし、不思議に誰も酔う者はいない。こういう日は、ウオーキングする人も居ないので、ギャラリーはゼロである。ある者は柱にしがみつき、ある人はスティックを杖代わりにバランスを取っている。むしろ、同じ階のドルフィンホールで踊っている自分の奥さんのステップを気にする者がいるくらいだ。ホール上がりが3人:2人で、我々の白が勝った。

 

10時からの2戦目は、ダンシング高橋がユメレン横田と入れ替わった。

先攻白組は、菅井、菅谷、ミセス松田、工藤、松田。赤組は、西出、中島、山縣、萩原、高嵜。奇数のため、赤組は、12番のパックを交互に打つ。

ますます、揺れは大きくなってきた。両足でバランスを取ろうにも、船が上下左右に、ピッチング、ローリングするため、いよいよ、パックのラインが複雑になっていく。運である。波瀾万丈の結果、白のミセス松田がホールアウトして、赤は、5番ホールを通過した権利玉が僕独りしかいなかった。10のまま時間切れ。権利玉の多い白の勝ちとなった。本日の戦績は11敗。

リーグ戦の組分けが決まった。3組で4人編成。A萩原、B松田、C高嵜のチームで戦うことになった。菅谷、中島、工藤、菅井、松田夫人、西出各氏のくじと、高橋、横田、山縣各氏のくじで、組分けをした。

 

昼食を1230分頃に取る。今日は、好物の名古屋きしめんが出てきたので、ダブルでお願いした。

 

1330分のドルフィンホールは、宮崎先生の講座。今日は、「海からの世界史・ヴァイキングからイギリス」。

ロシアを創ったのは、バルト海の最深部に住むスエーデン系のヴァイキングだ。森林と毛皮の国は、雪解け水が緩やかに流れる川の国でもある。その川は、北へバルト海、南下して黒海、カスピ海にまで流れ着く大河である。ヴァイキングは、川から陸地、陸地から川へと大河を往来して交易を重ねた。船を陸揚げしては進む水路、「連水陸路」は、底の浅いヴァイキングの船にとっては好都合だったのだ。北欧の海とカスピ海、黒海へのヴァイキングのビジネス・ルートは、「川の道」として、流域のモスクワ、ノブゴロド、キエフの都市を結んでいった。ロシアで集めた大量の毛皮が、イスラムの世界の銀と交換された。やがてロシアが建国されていった。

バルト海に流れ込むトラーベ川とヴァーケニッツ川が合流する中州の島を中心に不凍港リューベックが造られ、商人組合が成長した。

 

ハンザ同盟の兆しは、そうしたヴァイキングとドイツのケルン商人との抗争から生まれた。「ハンザ」とは、仲間という意味で、最盛期には同盟諸都市に商館が設けられ、ドーバー海峡から大西洋岸のブルターニュ、ポルトガルの塩田に至る航路が拓かれた。

リューベックでは、復活祭の40日前から肉食を禁止される習慣がある。このため、夏のにしん漁は、塩漬け保存のための塩を交易にする。ところがニシンは不漁になり、28都市が参加のハンザ同盟は、オランダの流し網による漁法で、その主導権を奪われることになる。後に漁船が造船技術を発達させ、海運業を発展させ、オランダは、イギリス、スペイン、ポルトガルを合わせても凌ぐ船を保有するに至った。

東インド会社の勢力は、東南アジアまで拡大した。砂糖を西インド諸島で生産するためにアフリカ西海岸から奴隷船という労働力を金で動かした時代は、やがて、イギリスの毛織物が季節差のある国との交易に適さないことを認識し、インドから綿花を運び、リバプールに鉄道が敷かれ、綿糸を紡ぐことになる。やがて、炭鉱の蒸気機関をワットが改良し、水車を回す動力を船に載せる。蒸気船である。自然に左右されず、人間の意志でモノを創ることが出来るようになった産業革命の時代、テムズ川は世界の船を入港させることに腐心した。

船舶保険が必要になり、波止場の喫茶店3000軒がビジネスの場になり、その中心的喫茶店「ロイド」が後の「ロイド保険機構」となり、やがて預託するための銀行が生まれた。

概容をまとめればこういう話だった。最後に、「アントワープ、リューベック、コペンハーゲン、テムズ川と、海の世界史通りに航行してきた皆さんは、今回大変勉強になったことでしょう」と宮崎先生は講義を終えた。

最終回は、世界一周にまつわる地球規模のオーシャン時代を話してくれるという。解りやすい世界史に、僕は船内の売店で、「海からの世界史」(角川選書383。¥1600)を買った。

 

15時頃から、波はいよいよ大西洋らしくなってきた。今にも船底を叩きそうな荒れ模様だ。部屋に吊してある妻の創ったミニブイが、左右に揺れている。窓はしぶきで水平線が見えなくなってきた。操舵室のビデオカメラ映像を見る限りでは、未だ舳先に波を被ってはいない。前に進んでいても、向かい波に押し返されているように感じる。展望風呂は、本日閉じますとアナウンスがあった。

 

18時になって、前方の鉛色の空に白い割れ目が出始めた。うねりもいくらか、治まってきたようだ。西出さんから、今晩の愛知県人親睦会に、アルコールを出してもいいだろうかと電話で相談された。乾杯に、アペリティフとして一杯だけなら誰も問題にしないでしょうと答えた。

 

06060100021830分、愛知県人会の親睦会をダイニングルーム「瑞穂」で平マネージャーにテーブルセッティングしていただいた。センター手前サイドになった。大須の伊集院さん、鳴海の早川さん、清洲の早川さん、岡崎明大寺の太田さん、呼続の高木さん、小牧の長谷川さん、大府の西出さん、そして日比野の水野さんと、総勢15名。

鳴海の早川さんの息子さんは、腎臓移植の慶応系外科医だったが、転勤して地元の藤田衛生保険病院に戻ってきたそうだ。そういった親しい先生が僕の近くに欲しかったが、残念と伝えた。

当日の夕食会には、工藤さんと若山さんを囲んだ誕生会?のテーブルがあった。我々は遠慮気味に小声で話し合っていた。だが、そうはいかん人がおったのだ。寄港地で自転車を乗り回している水野さんだ。名古屋弁での地声が大きい上に、アルコールが効いた。場を盛り上げる役は抜群だが、誕生会以上に盛り上がってしまった。

展望風呂のオープンを告げるアナウンスがあった。波が治まったのだろうが、デザートになっても若山さんの席には、ハッピー・バーズディを歌ってくれるフォー・ドルフィンズのバンドは現れなかった。お祝いの音の無いテーブルはお気の毒だった。最後は全員の記念写真を平野正道さんに撮ってもらった。

 

エントランスに出て、西出さんとソファーに座った。デッキゴルフの経験者でもあるT夫妻が通りかかった。西出さんが席を勧めた。

T氏が座るなり、ダンス教室について話し始めた。

「私は、外国船にも何度か乗ってきた。ダンス教室は有料やったが、教えて貰った。此処のダンスはタダやけど、堅苦しいわぁ。どの指をどう伸ばせとか、反らせとか、いうてダンスのステップの楽しさを教えてくれへん。あんな小難しいやり方、どこで通用するんかいな。疲れるようなダンスは、しとうないな、船の中で楽しみたいのに、間違ごうてへんか。私たちは、家内と気楽に、いくつかの種類を増やしたいだけやねん。けど、いまんまんまなら、そないな気が沸いてきぃ~へん。だいたい、日本人しか乗っていない客船で、ボールルームが教室のように踊っているのは、滑稽でっせ。競技とか、コンテストする気で船乗りに来たんと違いますが、な。ははは」

僕と同じ気持ちの人がいたので、ついつい頷いて聴いてしまった。サイレント・マジョリティは案外多いのではないか。パナマを通過したら、デッキゴルフに参加してくださいとお願いして立ち上がった。2040分になっていた。

 

2015分からの一龍齋貞心さんの講談を聞き逃してしまった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月15日 (水)

060531 大西洋2日目

昨日より、さらに1時間遅らしの時差である。2時、4時、6時に規則的に目覚める。昨夜同様、利尿剤を飲んだ。2時間サイクルだ。なんとなくトイレに起きることが毒素を流れ出させているようで、安心感に繋がっている。現実は、腎機能が弱っているから、薬で輩出しているにすぎないのだ。実は、下肢のむくみがひどくなっている。血行不良なのか、かゆみが出てきた。ロンドンパブで気分良くビールを飲み過ぎたせいだろうか。寄港地で、塩分の強い物は、ブルージュでの昼食以外、口にしていない。

 

Img_10927時、インド洋並みの静かな波である。操舵室の天気図の読みが最適な判断をしているということだろうと、独りで拍手する。空は青く、ふんわりと白い雲が浮かんでいる、穏やかな朝だ。ナビの画面は、相変わらず、真西に一直線を描いている。航跡までが、インド洋から紅海に向かう進路に似ている。

 

八点鐘が鳴った。

今日も、無事に朝8時を迎えることができました。にっぽん丸は、大西洋に乗り出してきました。アイルランドの南西側240海里(444.5km)を、西に向かって快調に航行しています。

昨日の朝、思った程スピードが出なかった為、プロペラの回転を利用した発電システムを解除し、負荷を少なくして航走スピードを上げています。その代わりにディーゼル発電機を使用しています。

水平線上に積雲がありますが、良いお天気です。昨日、大西洋に出たところで、波が高くなりましたが、予想していたよりも今朝の海象は良好です。しかし、お天気は下り坂で、このまま真っすぐ、北緯50度付近を西に向かうと、その先には北東方向に向かう995hPaの低気圧と、そこから延びる前線が控えており、明日から明後日にかけて南風が強まり、波が高くなることが予想されます。それを避ける為に、にっぽん丸は、進路を南に向けています。

弓なりに北極と南極に近い航路をとることで、距離は近くなります。これを大圏(GREAT CIRCLE)航路といいます。その航路をとると、140海里(259km)距離が短縮でき、7時間の余裕が生まれます。が、今回は荒天を避ける為に、南に進路をとっています。

尚、1912414日に沈んだタイタニック号の沈没地点付近の通過予定時間は、6315:00です。

 

18から19ノットで快調に航走中である。キャプテンのアナウンスによれば、真横から南下し始めるとのこと。現在は天候に恵まれているが、明日以降には、波が高くなる怖れありということだ。この昼辺りの距離が5.400海里、全コース30.800海里の折り返し点となるそうだ。

 

デッキに出てみる。寒くはない。風も気持ちがいい。後部甲板に集まったデッキゴルファーの服装も秋冬、まちまちだった。

 

なぜか、今朝も時間ぎりぎりにダンシング高橋が遠慮気味に顔を出した。

先攻白組の布陣は、山縣、高嵜、西出、工藤、高橋、萩原。赤組は、菅井、松田夫妻、中島、菅谷、ゴン。

今朝は、スタートから、敵のロングシューター松田が、一気呵成に1,2,45番ホールを成功させて権利球に成り上がる。お見事。

ロングシューター松田が快調で暴れ回ると堪ったものではない。我々は次々にコーナーに弾き出されて、場外に憤死の山?ボロ負けだったが、辛うじて時間切れで終わった。ホール上がりしたのは、赤3個、白2個で、赤組の勝ち。

10時からのプレイやーには、ゲームの途中参加や離脱する人には、ゲームを遠慮してもらいたいという意見が出た。対戦メンバーの組み合わせにバランスが崩れてしまうことに不満があったからだ。チームプレイの面白さを満喫したいからという意見が圧倒的だった。朝9時からプレイは、船内イベントプログラムだが、2回戦目はその限りではないからだ。盆踊りの練習で途中離脱することが判っている高橋、中島、横田3氏は、外れた。

 

先攻白組は、菅井、ミセス松田、工藤、萩原、高嵜。赤組は、菅谷、西出、ゴン、山縣、松田。

今度は、どういう風の吹き回しか知らないが、前回のロングシューター松田のように、僕が、一気に4ホールから5ホールまで行き着けた。後は、時間まで友軍をサポートするためにゴール回りで阻止の役を果たすこととなった。とはいえ、無駄な2度のミスで、敵にも5ホール通過を許した。我々白組は4人がホールアウトし、ナイスチョット松田が独りで、権利玉となった松田・菅谷・西出・山縣と、ヒール役に徹したゴンチャンを迎え撃ち、ホールアウトした。見事というほかない。20分の時間を余して完全勝利。本日の戦績を11敗とした。

 

この同じ時間、船内のドルフィンホールでは、盆踊りの練習が行われており、それが終わると2階のエントランスホールで、恒例「竜王祭」の出演者募集が行われる。今年の船には、2003年組の竜王、宦官、大西洋、赤鬼役が、それに2004年組オセアニア組の太平洋役が乗船している。ダブルキャストになってもいいくらいに揃っている。どういう配役になるか、石橋さんは楽しみより、悩むほうか。

 

遂に、3階のインフォメーションデスクの壁に、「東ギャラリー」が再開された!

ルーアンのセーヌ河口遡行から、キール運河、コペンハーゲンまでの写真が飾られた。この間、期間が空いたので、フォトセレクションには苦労されたでしょうが、問題がどう氷解したのかは、ともかく、再開おめでとう、有り難う、です。

「コペンの衛兵交代」。昼食も取らずに?あの子供の登場をじっと待ち続けたのでしょうか。子供が衛兵をちらっと見る、瞬間の悪戯っぽい表情が、実にほほえましい。僕だったら、シャッターを押さずに見てしまっていたかも。

スペースの関係で、セレクションから外れてしまったフォトも見たいものだが、それは、帰国寸前のフェアウエル・パーティまでお預けなのでしょうか。

 

デッキランチ日和である。波は地中海よりも穏やかで、不気味なほどに快適である。長袖のポロシャツ1枚で寒くもなかった。

昼食は、高橋夫妻の隣のテーブルに座った。妻とミセス高橋は、ブイ制作で一緒のようで、本日が仕上げの最終回のはずだ。そのまた隣のご夫妻には、デッキゴルフについて質問された。デッキゴルフへの関心は嬉しい限りだ。ウオーキングする人や同じ階のダンス教室の人たちの目にしか留まっていなかったと思っていたのだ。理解者の中から1人でも愛好者が増えることは願うところだ。勧誘を含め、質問に応えた。

 

P1000077 寄港地ニューヨークの情報を読みたいと、インフォメーションと図書館に行くが、数冊あるガイドブックは既に消えていた。コピーを取っているならと待つが、駄目だった。心ない人が、勝手に自室へ持ち出してしまっているのだろう。

 

夕食前に、第2回目のデッキゴルフ打ち上げ懇親会があった。

場所は、7階のリドデッキ、プールサイドだ。大きな声で話しても笑い声が響いても他の船客に迷惑もかけないし、気兼ねなく楽しめるという理由で、その場所を選んだ。高橋先生のフィットネス教室が終了する時間が1515分を待って、全員集合と決めてある。

キール運河がワイン賞金の区切りになった。船が大西洋に乗り出したのだから、これが大きなリセット期だという意見に従った。これまでに貯まったワイン賞金をビールやソフトドリンクに替え、つまみも売店で買ってきた。会費は不要だ。手早く6テーブルをセットして、懇親会を始める。

Dscf2543dg Dscf2538dg Dscf2541dg 同好会長格の高嵜さんの司会で始まった。

 

此処で以下のことが協定された。

1,9時から10時までは船内教室である。船客は誰でも参加出来る。時間内は、クルーズスタッフ、黒川さんの指示に従う。

2,教室時間内では、ホールインワインの規定は該当させない。

3,時間内では、使用ホールの制限も、参加人数の制限にも従う。

4,10時以降は、有志による同好会と考えてよく、我々の規定で進行する。

5,時間を円滑に進行させるため、打順前に、自分番号のパック前に立つこと。

6,握手を以て、スタートとし、握手で終える。

7,次回の打ち上げ会は、パナマ運河通過、太平洋航行時とする。

8,太平洋戦は、4人1組のリーグ戦で優勝チームを決定する。

9,世話役は、高嵜さんに継続お願いする。

 

Dscf254506_dg Dscf2553dg_up 東さんには、この親睦会に来てくださいとお誘いしてある。遅れてリドデッキにご夫妻で現れた。全員で歓迎して、席に座って貰った。

「自分が乗ったので、平均年齢を下げたのだ」と、山縣さんが平成元年生まれを言い張って笑わせる。「松田、高嵜、東の三人は、同年生であります」と、高嵜さんが発表する。「大正12年生まれだよ」と吐露した菅谷さんは、仲間内で最高齢の83歳だった。「キラーコンドルは最年長の鳥なのだ」誰かが戯けて怒鳴った。どっと笑い声が上がった。「デッキゴルフ歴の最年長は、彦根のスイスイマダム、工藤さ~ん!!」。ハイテンションになったところで、カメラマンの東さんが、「乾杯を写真に撮りましょう」となった。

 

乾杯の紙コップを高々と上げる。東ギャラリーに登場はしないが、にっぽん丸のウエブサイトには載るかもしれない。女性たちから、顔は写さないでよね!とは誰も言わなかった。

新しい仲間、仙台の高橋、名古屋の西出、姫路の山縣、福岡の横田、4氏から、自己紹介を含めたひとこと発言があって、夕食までの限られた時間だったが、充実した顔で満ちた。

 

次回の懇親会は、太平洋へ出た時と決まった。東さんご夫妻は、この異様な連帯感をどう受け止めただろうか。04年度のオセアニアでの風説があるだけに、ここに、綿入れを着込んだ本間親分と、タキシードのカマーバンドでウエストを締めた塚田ギャング、それに革ジャン・ジーパンの一匹狼の小林という03年組の怖いお兄さんたちが同席していたら、このデッキゴルフ同好会をどう喜んでくれただろうか。帰国後の南太平洋クルーズは、稲光が轟くほどに、盛り上がるだろう。既に高嵜さんは乗船予約済みだと聞いた。

 

ロビーで高橋夫妻、菅井夫妻と一緒になったので、夕食は6人テーブルを平さんにお願いした。ビル建築の設計をやってきた高橋さんとの話題は、建築家・安藤忠雄の話になった。高校の時、建築デザイン方面に興味があったからだ。一時期心臓を悪くしたという高橋さんは、カテーテルの話で荘輔さんとも話が通じた。

食事には関西の十割蕎麦が出てきた。僕のそばつゆは塩分控えめになっていると話すと、ミセス高橋が「創味」というそばつゆが美味いですよとのこと。なんと、高橋さんは、蕎麦打ちをする人だった。仲間と蕎麦畑を持って、収穫から臼曳きまでしているという本格派だった。実に羨ましい話だ。

熱海に道具を持ち込んで僕も時々下手の横好きをしている。卒論合宿で家に学生を泊まらせた時は、参った。食べる量と速さに打ち手の自分が追いつかなかった。焦って菊練りが上手くいかない玉は、蕎麦がきになってしまった。へとへとに疲れ切った蕎麦の話でも盛り上がった。

 

いい酔いだった。ふぐのひれ酒をお代わりした。珍しく、ご飯を断った。

盛岡で食べる「かぜ(ウニ焼き)」の美味さや、贅沢な「(台に載せたままの)下駄ウニ」があったらなあと話した。仙台の河北新報裏のライオンズマンション1階にある「みのむし」のお通しは、東京の者には、実に贅沢なものになる。

デッキゴルフには、駆け引きがあって面白いとなった。メンバーの一人一人の性格で、攻撃の仕方が違うのが判るという。確かに、03年時には、本田親分の口三味線攻撃に多くがやられた。僕が苦手な局面はこういう敵玉に囲まれた時だとまで、酒の勢いで吐露してしまった。ひれ酒は効いた。話に夢中で、デザートを口にしたのは、僕が最後だった。

ニューヨークでは荘輔さんが、ナイヤガラのオプショナルツアーに出掛ける。このため、美子さんは、我々と一緒に自由行動することになった。

 

盆踊りがドルフィンホールで催されている時間だった。行ってみると、リピーターの参加が少ない。初めて組は、案内されたように浴衣と下駄を用意し、夫婦揃いの浴衣姿が多い。二人で嬉々として踊っている。先回ビギナーだった我々もそうだったのだなあと思った。そうらん節、炭坑節、東京音頭などを前日に予習してから踊った。盆踊りは、僕自身、小学生の時から大好きだった。家の前の広場が、草野球場になるときもあれば、木下サーカスのテントが張られるときもあったが、夏になれば、櫓が組まれる盆踊り会場だった。

ドルフィンホールが、踊りの他、祭り気分の盛り上がりに欠けている。見慣れた、いつもダンスフロアーで櫓太鼓が叩かれているだけだからだろう。味気ない。地方の公民館で僅かな人数で踊りの練習をしている風景に似ている。窓や柱にそれらしい飾り付けがあるわけでもない。デッキランチの時の提灯くらいぶら下げたらどうか。

 

踊りの輪に、西出さんは見つからなかった。ネプチューンバーに出掛ける約束は、さほど強いものでもなかった。今夜は止めておこうと、部屋に戻った。

 

船は、大西洋に出て、いくらか揺れてきたが、まだゆっくりとした波動の揺りかごレベルだ。船底をドンと叩かれるようなピッチングもない。操舵室の航路取りが巧いのか、天候に恵まれているのか。有り難い。  

| | コメント (0) | トラックバック (1)

060530 大西洋1日目


 

2時、4時、6時と目覚めてしまった。これも、昨夜、服用する利尿剤を増やしたせいだろう。2時間サイクルだ。身体の老廃物を濾過するシステムが判ったような気がする。

八点鐘が鳴った。昨日よりも時差で1時間遅れての9時。朝寝坊ができたというわけ。

 

本日から大西洋を一週間連続で航海してゆきます。昨日、50年以上前から使用されていたティルベリーの客船ターミナルを出港し、テムズ川を下ってイギリス海峡に入りました。2230分頃、テムズ川の水先 案内人が降りた後は、ドーバー海峡、サザンプトン、軍港ポーツマスの沖を通過し、現在はシェルブールの西北西55海里(102km)を航行しています。本 日の15時頃には、大西洋へ乗り出してゆきます。
 Pict2708 にっぽん丸はイギリスのグリニッジに初めて入港しました。
停泊場所のすぐ近くには海軍大学、旧王立天文台もあり、航海術発祥の地、そして船乗り発祥の地であることを強く感じました。また、日本の商船の習慣はイギリス海軍を見習ってきたこともあり、この地に立てたことをありがたく思いました。
 航空機は、船の呼び名を習っています。キャビン、キャプテン、スチュワーデスなどがそうです。
 日本出港から今朝8時までの航行距離が14,951海里(27,689km)、正午までが1524分、海里(27,824km)です。今航海の予定総航行距離が30,800海里(57,042km)ですから、航行距離上の折り返し地点も近くなってきました。明日の昼までには折り返しとなります。
 大西洋の航海中は、天気の様子を見ながら穏やかな航海となるように進路を決めてゆきます。1週間の航海日を利用して、ヨーロッパ旅行の疲れを癒してください。

 

キャプテンのアナウンスによれば、深夜に全速力の22ノットで走り出していたが、明け方からは向かい波のため、18ノットに落ちているという。北の風13m。波の高さは北から15m。英国本土の壁が無くなるころには、次第に船も揺れてくるだろうとのこと。気温125℃、109℃。緯度が高いところには、未だ低気圧の前線が停滞しているので、ニューヨークまでの大西洋上は、毎日の天候を見比べながら、東西南北の進路を判断していくとのこと。やはり、揺れるということへの軽い予告を出している。ロンドン二日間の疲れを癒してくださいというアナウンスだったが、果たして癒せるものかな?

NHKTVも映らなくなっている。中日の成績も、ジーコ監督のワールドカップの戦況も解らない。

 

朝食の席で、或る方と話していて、やはり同じ意見が出てきた。ヨーロッパ辺りから、食事の評判が悪い。オプショナルツアーでの食事のことだろうと受け取ってきたが、どうやら、それだけの話ではなかった。美食のにっぽん丸というが、それほどでもないメニューになってきた。家庭料理になってきてしまった。フルコースというスタイルを貫き通すがために、品数に変化が乏しくなったのなら、品数を抑えてでも、丁寧な料理に戻してもらいたいものであるという意見だった。家庭料理という意味は、出される料理が、数日前の素材の焼き直し、余り物の活用に思えてきたという。それが、主婦感覚で見えてきてしまったという。文字通り、台所の苦しい状況が読めるのだということ、それが、「家庭料理」になったという意味だと解った。別のある方などは、自室で食べるために、食材をロンドンで大量に購入してきたと言う。

 

Img_2260 空に碧さが戻り、海に青みが増した。これならきっと、デッキゴルフは快適だろうと急いで4階に上がる。

9時スタートで10人揃っていたのだが、折角だからと遅れたダンシング高橋、フランク山縣両氏も加わった。先攻白組の布陣は、高嵜、中島、菅谷、黒川、山縣、菅井。赤組は、松田夫妻、高橋、工藤、西出、萩原となった。少し、揺れてきた。

ロング・キング松田、マダム工藤に空振りが目立ち、マダラ萩原は、その名の通り、当たり外れがマダラで、白組のキラーコンドル菅谷、ノイジーサンダル菅井に巧く動き回られ、我々赤組は、初戦を苦戦の末に敗北。

2回戦は、偶数にはならないがゴンチャン参加。ダンシング高橋、マダム工藤が抜けたので組み替えをした。白組にゴンチャンが入って、松田夫人、中島、菅谷、高嵜。赤組に山縣、菅井、西出、萩原、松田となった。

ゴンチャンには、二人分の2パックを使って練習量不足を補ってもらおうと考えたのが甘かった。船が揺れているにも拘わらず、ナイスショットをしたときの打球が強くなっていたゴンチャンに、赤のパックは、場外にかなり弾き出された。これが大きな番狂わせとなった。ギターフレットを抑える握力は、スティックを操作するのに都合がいいのかと冷やかすが、本人には理解できていない。両手を上げて吠えるだけ。

ヒール役に徹したゴンチャンのショットが功を奏して、赤組が連敗、これで僕も今日は連敗となった。ゴンチャン侮れないと、負け組は、盛んに首を振る。

2回目の打ち上げ会を、17時からプールサイドですることになった。

 

11時になって、船の揺れは治まった。だが、かつてその昔、ピュリタンたちが新大陸を目指した時代の船体を考えれば、大西洋の荒波はジェットコースター並みだったのだ。まだまだ、大揺れが待ち構えているだろう。

 

昼食を終えた時、本間さんから田中夫妻のご紹介を受ける。田中さんは、拙作(『思いきって世界一周クルーズ』)を「海」(季刊の商船三井客船ドルフィンクラブ会員誌)で知って、書店から取り寄せ読んだ方だった。嬉しいことに、それで今回乗船したのだと言われた。

その田中さんが、何か相談があるという。ガイドが連れて行ったロンドンの或るショッピングストアで、クレジットカードの取り扱いに不審な点があったのだが、と切り出された。

レジの店員が、カードを何度もスライドした後で、機械の故障かも知れないので、と奥にカードを持って入ってしまったという。そして、暗証番号を教えてくれませんかと要求したという。ややあって、通りましたといってカードを返してくれたという。

店員が客の見えないところでカード操作し、なおかつ、番号を訊いた。あからさまに実に危険な行為をした店に腹が立った。かつて僕がメキシコで体験した時と同じ、VISAカードだった。すぐにも、停止したいが、本に同様の経験をされた萩原さんに、意見を求めたいとのこと。

有無を言わず、即、停止をお勧めした。しかも、可及的速やかに住友VISAに電話することを言い添えた。シニアの日本人観光客を狙った犯行である。

6階の通信室から電話をするか、メインエントランス横の電話ボックスからカードで掛けられるが、と言ってしまってから、口を押さえた。そのカードの残金が消えてしまっているかも知れないのだからと、6階に急いで貰った。繋がる先は、日本ではない。豪州で待ち受けるVISAの日本人担当者に、である。

 

1315分からはドルフィンホールでは、宮崎先生の3回目の講義「オーシャン時代の始まり」が始まった。

大航海時代のコロンブスの焦りとバスコダガマの成功。スペインとポルトガルの布教を基盤にした勢力図の拡大で、東航路と西航路が黒潮に乗る日本という国との接点を探り始める時代を説いてくれた。日本が意外にもキーとなった時代だったことを知った。

こうした船内講義スタイルは、今でこそ、飛鳥、ぱしび(ぱしふぃっくびーなすの略)でも当たり前に企画され、リタイア夫婦が毎回神妙に座ってテイクノートしているのだが、そもそもは、オランダ船籍のラインダム(12527総トン)が1925年に実施していた。ニューヨークを出航して33ヵ国47港を7ヶ月かけて回るクルーズでのことだった。「世界クルーズ大学」と言われ、航海中に受講した教科が履修単位に認定されるシステムだったようだ。富裕層の“成人大学“と言えるものなのか、以後10年間に7回開催されていたという。この頃、米国からの移民受け入れ制限が始まり、定期船客の減少対策にと、世界一周クルーズ運航が始まった。

これから我々が616日に通過予定のパナマ運河の開通が西回り世界一周クルーズの幕開けになっていくのだ。今日の講義は、あのパナマ運河開通のお陰だった。

 

 

P1000136 夕方から、1階のシアターでは観たい映画が連続した。

16時からは、「ルシタニア号、最後の航海」(ナショナル・ジオグラフィック制作)。Uボートの魚雷1発の被弾で、タイタニック号よりも早い、僅か18分で沈没させられた豪華客船を、タイタニック号の撮影にも成功した海洋学者が、その謎を解き明かそうとする潜水するドキュメント。

17時からは「大西洋の女王・QM」。就航を祝う多くの見送り風景から、船内の説明、NYへの入港歓迎風景を収めた同じくドキュメント。船上で楽しむシャッフルボードの他、船内にはスカッシュルームさえあることを知った。

 

今夜は、フォーマルナイトである。

妻は、2回目の和服を着るため、独りで着付けている。僕は、タキシードにも慣れ、早く身支度することが出来た。2003年の初乗船した時とは違い、晴れがましさも失せて、正直言えば、面倒な日になっている。ドルフィンホールへ通じる狭い廊下に行列するのが、なんともやりきれない。僅か、3時間ほどの時間に、女性たちは、船内の美容院を何日も前から予約する。人によっては、寄港地でアクセサリーを探し歩く。非日常体験とはいえ、自分自信も身についていないのが、滑稽に思える時がある。

ダイニングの入口で平野マネージャーがカメラを下さいと、笑って近づいてきてくれた。二人で撮ってもらった。キャプテンが入ってもう1枚。

センターテーブルでは、出航早々にデッキゴルフに顔を出してくださった赤嶺夫妻と同席になった。もうお一方は、大島紬のネールカラーを着た佐藤夫妻だった。佐藤さんは、あのドーバーに急いでいた飛鳥Ⅱとの交信をされていたので、飛鳥情報も興味ある話だった。佐藤さんは、ドイツに売却された旧飛鳥「アマデア」帰航クルーズにも、飛鳥Ⅱのオセアニアクルーズも、にっぽん丸の南洋クルーズにも、既にリザーブされていた。介護付き高級マンションや質の高い老人ホームに入るよりも、クルーズで過ごす老後の方が、至極健康的で交友関係も素晴らしいと聞いたことがある。それを実践できる富裕層が羨ましい限りである。「根岸の里の侘び住まい」とは、冗談にも口に出せなかった。

妻が少し疲れ気味である。和服の窮屈さを解放させて、横になるように言った。大西洋の荒波で揺れる前に休ませておきたい。

ドルフィンホールでも、瑞穂のダイニングルームでも、気になって田中夫妻の姿を探していたが、普段と違った華やかに着飾った中では、男は、ダークスーツ一色で見失っていた。

田中さんには、エントランスホールで会えた。隅のソファーに座りながら、事の次第を聞くことが出来た。4000円ほどの電話代で、日本のVISAサービスと話が出来た。カード停止と同時に新カード発行手続きも進行中だと言う。他人事ながら安堵した。

 

ガイドが連れて行ってくれたからとしても、店員や臨時の雇用者にまで信用を与えるものではない。味をしめたら、日本人のシニア観光客が今も同じ手口で狙われているわけにはいかない。観光バスの発車時間が迫っていた時に、狙われたという話もよくあるそうだ。

 

 

2030分からのメインショーは磯村芳子のゴスペル。2145分からは、一龍齋貞心さんの講談がある。「亀甲縞売出し」は、歌舞伎役者を起用した新製品セールスプロモーション、お馴染みの一席である。どちらにも出ないで、DVDを船室で観ることにした。

DVDは貞心さんから借りた「異母兄弟」だ。東宝出身スタッフによる「独立プロ」製作で、家城巳代治監督の映画。田中絹代、三国連太郎、中村賀津雄、南原伸二、高千穂ひづるという蒼々たる配役だ。ところが、貞心さんの当時の役者名が判らないまま観ることになった。

面影からして、もしかしたら、田中絹代の子供をいじめる本妻の子供役が、彼なのだろうか。三国連太郎の次男役だ。聞かずに借りてしまったのは、うかつだった。

貞心さんが船に持参したのに訳があった。彼の映画デビュー作だと聞かされている。シアターで上映してくれれば当時の話も付け加えようかという趣向だったようだが、船側は、戦争映画は船客の中にお嫌いな方がいらっしゃるという理由で断られたとのこと。おかしなことがあることだ。この映画は、歪められた陸軍大尉の夫に忍従した妻と子供の姿を描きながら、軍国主義の終焉を描いてみせたもの。また、映画そのものは、選択されるべき、娯楽のひとつに過ぎない。嫌いな方は観なければ済むという自由度をもつ。

さらに言えば、今回も実施されるだろう、キッツ島での日本海軍兵への戦没慰霊祭をキャプテン以下の三役が行うのはどう考えたらいいのだろうか。「ルシタニア号、最後の航海」も、死者の顔写真あり、戦争の悲劇であり、また今まさに我々と同じ大西洋を越えようとするときに撃沈された当時世界最大の豪華客船である。

飛鳥なら、これをどう考えるだろうか。映画というものは、戦争そのものの描き方ではなく、そのモチーフを通して、なにを訴えているかが重要な点である。ここにも、にっぽん丸クルーズディレクションの判断基準の曖昧、不明確さが出てきてしまった。今年は、なぜか、サービスの軸がずれてはいないだろうか。エンターテイナーの質も含めて、満室のにっぽん丸が、どういうファンを創ろうとしているのか、見えなくなってきている。

 

見終わって立ち上がったら、右足ふくらはぎが攣った。長い間同じ姿勢だったせいだろうか、体力が落ちてきたのか、クエン酸系の水分が不足しているのかだ。いつものように、大腿部の付け根にドライヤーの熱風を当てて、硬直化した筋肉を解した。

 

2445分、イギリス海峡から大西洋へ20ノットで航走している。ナビ画面には、イギリスのランズエンド岬(カンガルーの尻尾のような位置)下を真西に一直線の航跡が読める。

 

明日の夕方は、デッキゴルフ2回目の親睦会を、リドデッキプールサイドテーブルで行う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月15日 (月)

060529 ロンドン2日目

 2006_05290600244時には目覚めた。これも、昨夜早く眠ったせいだろう。

臨時通船が出るという船内アナウンスがあった。朝7時発の通船は、窓から見ている限りでは数人が乗るだけで、出て行った。眼を凝らすと、対岸間際に砂地が見える。ここまでの水位、干潮だったのだ。テムズ川は海水川であるから、当然といえば当然だ。水鳥が集まってきていた。

本日の通船運行時間は、750分の後は930分までない。どうにも、今回の運行時間の計画が腑に落ちない。たとえば、7時に出た船客は、カテイサーク駅まで歩き、キャナリー・ワーフ駅で乗り換えて、さらに地下鉄ジュビリー線に乗らねばならない。グリニッジ・ピアには、流しのタクシーは来ない。捕まえられないから、事前に呼ばなければない。7時に下船した船客は、迎えの人が来ていたのだろうか。

2006_0529060020 2006_0529060019 朝食後の930分発の通船で着岸しても、三越(ピカデリー・サーカス)行のシャトルバスは1035分まで無い。1時間をグリニッジの町で、待ちぼうけだ。既にカンペールショップの開店時間は過ぎている。ピカデリー・サーカスに到着しても、もたもたしていれば、すぐにも昼食時間となる。この1時間40分の差は大きいはずだ。

 

そう思っていたところ、これまた、予定外の臨時通船だという。誰かが同じことを思い、インフォメーション・デスクに具申したようだ。急いで、朝食を済ませたが、女性陣は思いがけずの臨時便に大慌ての身支度で大変だった。

 

845分へ急ぐ通船に、待ったがかけられた。我々、自由行動組よりも、オプショナルツアー組の乗船が優先された。乗り遅れを防ぐために、これまでは、ツアー組はシアターに一旦集合させ参加者数を確認した上で出掛けることが多かった。今日はそれもなく、直接集まっているので、狭い下船口は混み合った。

100人は乗れると聞いている通船だ。ツアー組が100人もいないのなら、自由行動組から順次、ギャングウエイを渡らせて、この混雑を解消すればいいのにと、客の中から愚痴が聞こえる。

 

 

ピアに降りても問題が起きた。ツアー組のバスは手配されていたが、自由組には都心への足の保証はなかった。そのまま置き去りにされた。950分まで待つのだ。

「臨時通船はツアー出発のお客様用ですが、対岸まで乗船を希望される方は、どうそご利用ください」とでも、アナウンスしてほしかった。

 

2006_0529060005 なんのことはない。急がせられて、時間を持てあます結果となった。ならばと、菅井夫妻とグリニッジ・パークをぶらつく。子午線の場所までは時間がない。川岸に丸いドームがある。テムズ川の地下道入口である。時間潰しに、対岸へ抜けて、往復してくると言う人、コイン・トイレボックスを試す人など他愛ないことで時間を費やしたそうだ。通りの店は、未だ開いていなかった。前日にグリニッジ天文台に上がった人たちは、ぼやくことしきり。配慮不足で、船客の不満が溜まり始めていた。

2006_0529060022 2006_0529060029 2006_0529060025

1時間が経った。シャトルバスが着いたが、乗車できない。ざわめきが起きた。

950分のシャトルバスに乗り合わせる船客が来ないというのだ。後発の通船が定時に着岸していない。干潮の浅瀬に阻まれて立ち往生していることが原因だそうだ。なんてことだ。水先案内人や通船のクルーと情報交換していないのか、苛立つ気持ちが高まって、ひそひそ声でクレーム」が囁かれていた。明らかに船側の失態である。

 

Dscf4257t 一龍齋貞心さんと写真を撮った。シャトルバスは、1時間以上の足止めを余儀なくさせられた我々のために、見切り発車した。苦虫を噛みつぶした表情の重い空気で、バスは走っていた。しばらくして、後部座席にいた貞心さんが突然、発声した。

「みなさま~、バスが、ここを左折しましたら~、カメラのご準備を~!」

「かのロンドン・ブリッジが~、橋の上から、しっかり、撮れま~す!」

「昨日、ちゃっかりと撮れた方は、ご遠慮願いま~~す」(大爆笑)

「帰りは、この橋を渡りませ~ん」

2006_0529060152 どっと笑いが弾けた。彼のサービス精神は、それまで、くすぶっていた乗客の気持ちをほぐした。さすが、プロ。場の空気を笑いで自分に向かわせる。一気に和やかにさせた。

 

三越に着いた。今日は国民祭日だ。菅井夫妻も判ってくれている。早足になった。菅井夫妻にとっては、初めての道になるのだが、同調してくれた。

ピカデリー・サーカスを右折して、昨日のように、コンヴェントリー・ストーリーから、レイスタースクエアを抜け、コヴェント・ガーデンのカンペール店に入る。にこやかに店員が待ってくれていた。42サイズは用意されてあった。足を入れる。大丈夫。支払いを済ませて、大英博物館の方角に歩き出した。コヴェント・ガーデン駅から45ポンドの1日券を買うことも考えたが、そのまま歩くことにした。タクシーに乗るほどの距離ではないからだ。

 

小洒落た通りのニール・ストリートに入る。小さな小道の中にあるブティック通りだ。原宿の感覚。我々の女性たちは、興味も持たない。少々歳を取りすぎている。

乾いた路面に点々とシミが増える。雨が、ぱらつきだした。早めの昼食にしましょうか、と荘輔さんに問うと、大英博物館へ先に入ってしまおうや、と返ってきた。それに同意する。そのまま、オックスフォード・ストリートに出るまで歩く。それを越えれば、大英博物館だ。

 

大英博物館の前は、雨宿りをするでもなく、多くの人たちが雨に濡れながら、階段に座って待ち合わせていた。

2006_0529060067_2 2006_0529060069
 

威圧感のある館内のドアを開ける。大理石に囲まれたエントランスホールは、天窓から降りてくる太陽の光で、白く明るい。表の佇まいとは違い、現代的な空気が迎え入れてくれた。予想外だった。そして、入場料は無料。

2006_0529060093_2 但し、今日有るための、今後有るための費用として、寄付という形での心遣いを出来ればどうぞお願いいたします、という姿勢。最小のそれが、3ポンド。あちこちの会場に、樹脂製の洒落たドネーション・ボックスが備えられてある。我々もそれに賛同して、入れた。

 

菅井夫妻と退出時間を決めて、分かれた。

ミケランジェロのドローイング特別展が開催されていた。フィレンツェで観てきた記憶があるうちに、とは思ったが時間があればとした。

まずは、エジプト室から見て回ることにした。

2006_05290600812006_0529060087 次にギリシャ室。ローマ時代の遺跡から持ち帰った物だ。最近は、出土国への返還を求める声も多いが、世界人類のために保管維持している?貴重な品々を見歩いた。それが本物であるということに興奮する。驚いたのは、これほどの品々に、なんと、カメラ撮影も許可されていた。

 

親が子供に指さしてなにやら教えている。子供の目が一番印象的だった。世界史の教科書でお目にかかったものが、多くあった。年号と歴代の王や将軍の名前をやたらに暗記させる世界史や日本史の試験は、僕の最も嫌いな科目になっていった。

ピラミッド建設が、過酷な使役ではなく家族共々ニンニクやタマネギを供されての農閑期の労働対策だったということや、バイキングがなぜ南下したのか。ロシアを創り、ノルマンディにも住みついたということや、あのシンドバットが実は中国と関係していたということとか、ナポレオンが缶詰を創らせた背景とか、地球を人間たちが欲につられて、帆を張り、海を走り回ったから、いまの文化が創られたのだ、などという歴史の面白さを教えてくれる教師は、いなかった。

2006_05290600852006_0529060088 教科書のページをなぞるだけで、世界を観ていたような口になる。商売として歴史を学生よりも先に頭に叩き込んだ教師が、十字軍の遠征をハリウッドの映画のように正義ぶって言う。ムーア人が地中海という内海をどう利用していたのか、イスラム教がなぜ東南アジアに根付いたのか、ポルトガル人が偶然に種子島にきたことや、コロンブスが勘違いで行き着いた島のこと、米国大陸は発見していないことや、ペリーが浦賀に来た本来の目的などを、歴史の「外」論として、教師が話さない。

興味のあるところから解きほぐす教え方をしないで、試験の科目として暗記させる歴史にしてしまった。歴史の教え方は、算数より幾何であるべきで、「なぜ?」という疑問や興味が、紐解かれていくプロセスが面白い。

歴史を教える教師が宮崎先生のレベルなら、世界を観る眼は変わってくる。年号や王の名前を記憶させるのが、歴史の勉強ではないでしょうと、宮崎先生に訊いてみたが、私の興味も教え方もその通りですよ、と同意してくださった。

3年前のワールドクルーズで彼の講義を聴いてからというもの、寄港地を見るのがどんどん面白くなっていったのだ。アラウン・ザ・ワールドの費用を払って、宮崎教授の話が聞けた。歴史嫌いだった僕には、有り難いやら、情けないやら。

いま、小学校からの英語教育が問題になっている。英会話が満足に出来ない担任教師が英語を教えるといって、怯えている。高校の英語教師が修学旅行先で外国人に通じなくて、失笑をかったでは済まされない。形ばかりの杜撰な英語教育で、英語嫌いが増えるとしたら、ぞっとする。日本語できちんと語れないと、喋れても理解されない、留学生の言葉は、重い。となると、僕も日本史を学び直す必要がありそうだ。

 

大英博物館で日本画は、アッパーの92辺りに行かないと見られない。念のため、係員に訊いてみた。今は残念ながらクローズしているが、セレクションされた貴重な物なら、数点が特別展示室にありますよと教えられた。まだ、他に、「ミケランジェロ展」も見たい。回れるか、時間が気になる。

2006_05290600992006_0529060096  昼食を館内で食べようとレストランに上がった。メニューを見ると品が良すぎる。顔を見合わせて、カフェテリアスタイルの1階にしようと、階下を見ると、満席だった。立ち食いする気なら、どこか他にしてもいいねと言う。

 

2006_05290600972006_0529060098青空になり、光も強くなっていた。昼食は外の店で食べようとなった。途中にあったサブウエイで簡単に食べて戻ろうかと提案したら、サブウエイは何だと訊かれた。新潟には未だサブウエイは出店されていないという。日本でも100店舗以上になったのだが、サントリー側の出店計画が遅れているのだろう。博物館から歩いて数分の、その店のドアを開けた。狭い。テーブル席が3卓しかなかった。空いていたのは、1卓だった。この店は、持ち帰り客が多いのだろう。

 

ホワイト、セサミ、ウィート、ハニーオーツの4種類からパンを選び、サイズを指定して、あとは、オニオン、レタス、トマト、ピーマン、ピクルス、オリーブの6種の好み野菜を指示して、量の増減も自由、ただし、サンドイッチによってお勧めのドレッシングが決まっている場合があるが、ドレッシングやマヨネーズ、チリトマトソースなど好みの調味料を、やはり指さしてこれで自分好みのサンドイッチが出来上がる。日本人には、パンの長さはハーフで充分だ。飲み物を足しても、45ポンドほどである。

 

4人が、思い思いのサンドイッチを頬張っていると、西出夫妻ともう一組の夫妻が通りかかった。店内にいる我々を見つけた。博物館の位置を確認したいと入ってきた。昼食も未だだと言うから、我々の席と入れ替わった。名古屋でのサブウエイは栄ビルの地階にあるのだが、余り知られていない。やはり西出さんも知らなかったようだ。

日本では、「イギリス」で思い浮かべるのは「フィッシュ・アンド・チップス」だが、アンドというように、魚とポテトチップスのことで、余り美味いものではない。ましてや、小魚ではなく、タラの類だから、魚が苦手の僕は、好んでは食べない。ツアーでは、これを食べることを楽しみにしている人が居た。

 

戻った博物館で、「ミケランジェロ展」のチケットを買おうとしたが、少し前にソルドアウトしたと言われた。前売りを買うかと、窓口の係に尋ねられたが、今夕にロンドンを発つと告げると、それは残念だと肩をすぼめて、ウインクしてくれた。午前中に見ておくべきだった。順序を間違えた。

2006_05290601102006_0529060111残念だがと、日本物も展示されているセレクションコーナーとスーベニールショップに立ち寄った。



これで、もう此処へ来る機会はない。威風堂々とした博物館を振り返った。カイロの考古博物館でも、こんな気持ちだったことを思い出した。

2006_05290102_2

2006_0529060137



気持ちを切り替えて、地下鉄の駅に向かう。トッテンハム・コート駅からオックス・フォード駅まで3ポンド。地下鉄に乗る。日本と同じで、コインを入れて、自動改札に通す。下船したときには、45ポンドの1日券を買う予定でいたが、今の3人の状態を見ると、オールド・オックス・フォードからピカデリーまでは、歩き通せる元気があるだろうと考えたので、1回券にした。

3連休の最後だというのに、地下鉄の車内は混んではいなかった。狭い車内で天井まで円くなっているのを美子さんが指さした。なにか思い当たる?と訊いてみた。

色を塗った「チューブ管」が地下を潜り回っているので、ロンドンの地下鉄は、チューブと言われたのだと説明しておいた。英国では、文字通り、アンダーグランド。フランスでは、メトロ。米国では、先ほど入った店と同じサブウエイ。地下鉄通勤者相手に販路を作ったので、店名を「サブウエイ」としたが、名古屋は1店舗だけで、東京での展開は路面店だ。

2006_0529060114 2006_0529060115 37年前、ロンドンを訪れた時、木製のエスカレーターだったことを妻が話しだした。僕は、「右側に寄れ!」と、英国人に注意されたことが印象的だった。

「ロンドン」というのは、「ロンデヌス」(ケルト語で、勇敢な者という部族名)が支配していたテムズ川流域の地という意味をこめて、ローマ帝国の占領軍が「ロンデニウム」と呼んだことに由来する。

 

 

2006_0529060118 2006_0529060122 2006_0529060112 オックス・フォード駅で地上に出た途端、凄い人波に押された。祭日の銀座四丁目よりも人が溢れていた。ここから、リージェント・ストリートを歩く。「リバティー」の側に「スワロスキー」店が見えた。カミサン達は、目的の者があるらしく、さっさと店内に吸い込まれていった。男共は、所作なく外で待つ。眉を寄せて出てきた。思うものが無かったようだ。クリスタルカットされたビーズ屋も探すが見つからなかった。

 

2006_0529060119 2006_0529060037 カーナビー・ストリートへ入る。昔なら、入りたい店だったのだろうが、今はその気がない。それほどに歳を取ったのだと自覚した。

T字路を右折して、リージェントの「ザラ」から横断して「タルボット」へ。

2006_0529060124 2006_0529060123 低い位置に小さなプレートが止めてあった。車椅子の客に対する「タルボット」の心遣いが見えた。店の入口は、1段階段があった。それをパチリと撮ってから、オールド・ボンド・ストリートへ入る。

2006_0529060129 いかにもという威厳のある古い建物、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツを通り抜けると、「カンペール」の店は近いはずだった。バーリントン・アーケードは、シャッターが下りていた。ブランド好き人間には、あのドーヴィルの街と同じくらい、短時間にブランドショップを梯子できるエリアだ。クレジット・カードには、危険なエリアなのである。

 

右の「ラルフローレン」は兎も角、左が「フェラガモ」、正面が「ミキモト」、「テイファニー」、「DKNY」。右が「カルティエ」、「シャネル」、左折すると、「モンブラン」、「ダンヒル」、「プラダ」、「ダクス」と続く。ここら辺は、女性と歩くと、男には危険なエリアである。「カンペール」のあるロイヤルアーケードの左は、「ロレックス」、「グッチ」、「デ・ビアス」に「バカラ」の店が軒を連ねている。ハイエンドなワイングラスなどで富裕層に知られる「バカラ」は、丸の内の国際ビルに、世界で初めての直営バー「Bbar」を開店させた。バカラのシャンデリアの下、バカラのグラスでサーブされる。酒の肴もバカラのプレートだ。世界で初めてのバーだというのが、果たして日本人には知られていることかどうかである。

 2006_05290601352006_052901332006_0529060132

 

 

昨日の日曜日、閉店で断念した「カンペール」の店に着いた。

菅井美子さんは、アテネの店で「カンペール」ブランドを気に入ってくれた。彼女は、踵を上手く包んでくれる革のサンダルを買った。この店でも、足が気持ちよくフィットする靴を見つけたようだ。荘輔さんは、我関せずと店の外で待ている。

2006_0529060134 美子さんはいそいそと買いたい靴を手にレジに向かった。ところが、暗証番号が違うと言われ、戸惑った。それは荘輔さんのカードだった。自分のカードは持ち忘れていたのだ。バツが悪そうに、店の外で待つ夫を手招いた。荘輔さんは、サインのために呼び込まれた。口を結んで渋い顔を作った。

ギネスビール缶をしこたま買い込む約束で、美子さんが荘輔さんのご機嫌取りをする。滑稽な光景だが、美子さんは真顔だ。そもそも、僕が「カンペール」ブランドを教えてしまったのだからと、口を挟む。

「未だ、ロンドンパブに入っていないなぁ、そう言えば・・・、これから、探して入ろう」と、空気を変えた。レジの店員は、この会話を解っているような笑顔で、レシートを差し出した。丁度、「フォートナム&メイソン」の仕掛け時計が15時を鳴らした。

 

パブを気にしながら、ピカデリー・サーカスに向かって帰る。そうなると、これまで見えていたパブが隠れたように、通りに見つからないではないか。ならば、いっそ、ピカデリー・サーカスの近くにしたほうが、バスに乗りやすいと考えた。

 

2006_0529060142 2006_0529060141「ガイズ&ドールズ」を上演している劇場の前だった。店は創業1860年代に出来た「デボンシェア・アームズ」という老舗だった。シアターのポスターが、壁一面に貼られてあった。終演すると、演劇論でワイガヤとなる店なのだろう。

 

「バス・ペール」をオーダーした。だが、ここに置いてないと言われてしまった。菅井夫妻は、当然「ギネス」だった。飲むほどに、荘輔さんの機嫌は和らいだようだった。客のいない2階では、いつものように冗談ばかりで、大声を出していた。

だが、ゆっくりもしていられなかった。三越前の集合時間は16時。船は、グリニッジを離れているのだ。回遊していて、我々はティルベリー港で乗船となっていた。グリニッジ・ピアよりも更に1時間かかるということは、シャトルバスに乗り遅れると、大変なことになるのだ。手に入る地図を片端から見てみる。テムズ川を南下した場所だろうがこれに河口の入口ではないか。ティルベリー港という場所への距離も解らない。もし、不測の事態があった場合、シャトルバスに乗り遅れた最悪の場合、我々には鉄道などの交通手段も教えられていない。これは、ツアー企画会社も船側も、船客に対して情報不足であると言わざるをえない。パブにも入ったことだしとして、三越前へ向かった。

観光をし終えた?船客も集まっていた。

「飛鳥の乗船客が三越にいたわよ、でも、お高くとまっていて、同じ日本人なのに、話しかけても言葉を交わさないの、知らない素振りってふうで・・・」

「あら、私も、飛鳥に併走していたわよって、話しかけても、そうでしたっけって顔」「私は、聞けたわよ、トラブルがあったんだって、情けない原因だったから、話したくないって、笑って誤魔化されちゃった」

「あら、それって、水漏れでしょ?」

「ええ、そうなの?」

「あら、私の聞いたのは、海水の塩分濃度の計算間違いだったって」

「????海水が漏れた?何処に?」

「日本船にするために、新しく増築したからなあ・・・」

「世界一周クルーズのデビューでしょ、今回は」

「張り合ってるのよ、華々しく出航した大型飛鳥だから・・・」

「知ってる人乗ってるから、留守家族にメールして確認してみよっと」

 

あの飛鳥への海上での呼びかけに応えなかった理由は、こういうことだったのかも知れない。ティルベリー港へ長い道のりのバスの中は、市内観光の話ばかりではなかった。

 

随分と長距離を走ってティルベリー港に着いた。殺風景な寂れた倉庫街というか、朽ちた波止場だった。肝心のにっぽん丸は、未だ着岸していなかった。

やがて、グリニッジ・ピアからのシャトルバスの船客も到着した。ティルベリーの古いがらんとした待合室に待たされた。待つ身には時間は長く感じられる。船客に不満の声がでてきた。

「何処にいるのか解らないなあ」、

「拉致されてきた日本人みたいね」、

「こんなにずれるのなら、三越前の集合時間を遅らせて欲しかったわ」。

なんら、情報が知らされないままに、がらんとした天井の高いウエアハウスのような処に座らされて、皆、苛立ち始めた。

こうしたときに、気をつけなければならないのは、不満が他の話題に飛び火していくことだ。顧客満足度を高める努力をしていないと、バッド・スピーカーが増殖するというのが、我々の世界では周知のことだ。

「にっぽん丸では、朝から菓子パンなのかと、がっかりしたのよ」

「やはり、クロワッサンや食パンの焼きたてが出されてこそ、贅沢な朝食よね」、

「飛鳥はね、フォアグラもよく出るし、ベジタリアンの食事もあるんですよ」。

こうなると、にっぽん丸のリピーターは、黙ってしまった。

「ハロッズで結構、お買い物しちゃった」

「ロンドン・タワーに行ってきたの」

「ロンドン・アイから、市内を見渡したわ」

 

2006_0529060041 2006_0529060121 そういえば、テムズ河畔をそぞろ歩きするなんて、映画のようなシーンは、時間が取れなかった。時間があれば、ソーホー地域もちょっと踏み込んできたかった。ニューヨークのソーホーへは行ける時間を作ろう。名古屋の「ソーホー・ジャパン」に、SOHOの文字が入ったカープレートを土産にしたい。

 

2006_0529060156 2006_0529060155 ぶらついていると、パンフレットがあった。いま居る場所が、グラベスエンド駅の対岸だと判ったのだが、今となっては何も意味はなさなかった。東京の晴海埠頭から、太平洋の外海まで南下した気分だった。地図の位置では、イギリス郊外の千葉県勝浦の辺りか。途中に風車小屋があったので、思わず撮ったことを思い出した。

 

4,50分が経った頃になって、ざわめいた。ようやく、にっぽん丸が着岸したらしい。我が家へ久しぶりに帰るような、妙な安堵感が各人の顔に浮かぶ。

 

乗船してキャビンに戻ると、メッセージがあった。2階のインフォメーションで、住友クレジットサービスからの封書を受け取る。

 

休む間もなく、慌てて夕食に向かう。先に入った妻は高嵜さんご夫妻と一緒のテーブルにさせてもらっていた。ウインザー宮殿に足を伸ばした高嵜さんは、イートン校にも行きたかったのだと残念がっていた。コペンではクロンボー城まで足を延ばすなど、実に精力的な行動である。ニューヨークでは、どこまで遠出をするのだろうか、話が聞けるのを楽しみにしたい。

 

高嵜さんに拠れば、今回の停泊地点、浅いテムズ河口に無理して満潮時を狙って入ったのは、我々に「カテイサーク号」を見せたかったのだろうという。だから、干潮時の出港は出来ないとして、水深の深いティルベリーへ移動したと説明してくれた。有名なサザンプトンは、更に大型の客船になるのだろうとのこと。高嵜さんは、商船大学一期生。それにしても、わざわざ浅瀬に入り込んでくれた意味を、船客に説明しないままでは、サービスを素直に受け取れないのだ。なぜならば、帰船しても、未だに不満の声は治まらないのであるからだ。

 

ニューヨークのサムに急いでメールを入れる。停泊中にヴォーダフォンを通してメール送信することで、今回は相当に通信費が節約できているはずだ。長男に感謝。

 

9時にネプチューンバーで高嵜さんと飲む。チーフバーテンダーを務める森田さんとKラインの話になった。どうやら、森田さんの父親もその会社のOBらしい。飯野海運がナイヤガラの脇に運河を造ったと教えられ、話はタイビルマにまで飛んだ。なぜか、落合信彦について二人から訊かれ、彼から聞かされたオルブライト大学での話をする。

 

11時になった。お開きとした。チェックして出るが、廊下をまっすぐに歩けない。酔っているのではない。船が揺れだしたのだ。

明日からは大西洋、1週間の航路。天候が荒れないことを願うばかりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年11月11日 (木)

060528 ロンドン1日目


 

4時に目覚め、6時に目覚めた。八点鐘が鳴った。

気温は106℃。波は1m弱。

リストウオッチとデジカメを手に、時差の調整をする。30分遅らせた。

 

朝食をとっていると、松田さんが全身でブロックサインを送っている。両手で箒を持って掃いているように、傍目には見えるのだろうが、我々には、「…着岸するのは昼やから、デッキゴルフやるでえ」という招集のサインと読める。

 

レストランの中に居る仲間に向かって、各自が、その掃き掃除のブロックサインを送りながら、船尾に集合。

昨日は14番パックまで創ってプレイしたが、やはり、10パックまでが限度だと反省。ゴルファーが増えても、今後は、10パックになったら、9時前でも打ち切ろうと示し合わせた。愉しくやるための約束だとした。遅れてきたら、10時頃の2回戦で入れ替えプレイしてもらおうと言うことで合意した。

 

先攻白組は、山縣、菅井、菅谷、高嵜、萩原。後攻赤組は、西出、中島、工藤、ミセス松田、松田。結果は、権利玉の数で白組は負けた。

 

Pict2708 テムズ河口に入ってきた。海中に朽ち果てた建物の残骸がそのままにしてあったが、何かは不明。聞くところによると、取り壊す費用も出せないらしく、いまは海図上、浅瀬の目印になっているという。

 

2回戦は、先攻白組が、西出、菅谷、ミセス松田、中島、高嵜に対して、赤組は山縣、菅井、工藤、萩原、松田。赤組が全員ゴールして、今度は勝てた。終了した時間は1115分だった。そのまま、昼食時までの僅かな時間を居残り特訓すると言いだしたのは、ミセス松田とフランク山縣、グリーンキャッチャー西出だった。

 

昼食は、新宿の住まいだという若い藤永夫妻。お二人とは初めてのテーブルとなった。デッキゴルフはトライしたものの、ダンス講習会に時間を取られてしまったという。木島夫妻とはダンス仲間でもあるらしい。

 

Pict2706 Pict2709 Pict2712 船はテムズ川の河口、グリニッジに投錨した。本初子午線の真下に位置しているのだ。まだ銀行担当者が船に乗り込んできていないという。ボンドへの両替サービスには、どうやら時間がかかるようだ。本日は、バンク・ホリディと重なって3連休である。いくら替えるかが思案のしどころ。ぶらぶら歩いて夕食は街ですることになるかどうかだ。

ほどなくして、妻が1万円分をポンドに替えてきた。3000円で138ポンド。レイトは21733円だった。

 

2006_0529060012 2006_0529060013 Pict2711 浮き桟橋に通船が横付けになって下船が開始された。100人は乗れるという通船は、通常は遊覧船として運行されているのだろう、カウンターバーもあるテーブル席の多い船だった。川の真ん中から、目と鼻の先にあるグリニッジ・ピアに着いた。あの「カティ・サーク号」が保存係留されている。紅茶を競って英国に運び込んだ快速帆船だ。船の模型を造る東さんにとっては、垂涎の場所だろう。

奥の小高い丘には、グリニッジ天文台があり、子午線を跨いでくるぞという船客が、天文台へ向かって歩き出した。僕は、何が何でも早くに街中にある目的の靴屋に着きたい。

 

Pict2728 Pict2730 ロンドンの中心街に向かうシャトルバスは1530分に出た。グリニッジは中心街から南東に位置する。テムズ川に沿って走る。辺りは、名古屋の中川運河沿いか、東雲辺りを走っている感じで、華やかさはない。途中に、ジャマイカ・ロードという標識があった。移民者たちのエリアではなかろうか、住民の多くは黒人たちだった。

 

2006_0529060036 Pict2727 徐々に、街の中に入ってきた。ロンドン・ブリッジを横目に見ながらしばらくして、橋を渡った。テムズ川の川岸に係留した観光船が目に入ってきた。ウエストミンスター寺院へと続く風景だ。都市に川があるとなぜか、落ち着く。関西の友人が、東京には川の風景がないという。川を埋め立てて高速道路が街の中に走っているのは、東京だけだが、昼間でもトラックが街の中を走っているのは、オリンピックで急ごしらえした道路建設の失敗だと。たしかに、江戸時代、日本の起点となった日本橋は高速道路の下に隠されてしまった。歴史がオリンピック工事の下敷きになった。

 

2006_05290600402006_0529060042 対岸に大きな観覧車が見えてきた。正式名は「B.A.ロンドン・アイ」である。ミレニアムの年に記念で造られ、ブリティッシュ・エアウエイズがスポンサーになっているからだ。空調の効いたカプセルには、25人まで乗れる。今回は、乗る時間もなかろう。つまりは、もう乗る機会もないロンドン・アイを遠くから眺めた。

2006_0529060148 2006_0529060032 川縁から右折して橋を渡り、トラファルガー広場を経て、ピカデリー・サーカス裏のロンドン三越前に着いた。ここまで要した時間は45分だった。

日曜日なのに閉店時間を1時間延長して、三越側は、にっぽん丸船客を待ち受けてくれたようだ。ローマ店にはあったのだからと、急いで店内を探したが、フェラガモ以外見当たらず、カンペール・ブランドは一足も置いてなかった。トイレを利用しただけで、街に出る。

 

ピカデリー・サーカス駅から東に、コンヴェントリー・ストリートを歩く。

2006_0529060059 Pict2724 2006_0529060052 黒塗りのロンドンタクシーも、時代には勝てないと見えて、カラフルに塗り分けられて、全身広告カーとなっている。テレフォンボックスも、四辺をアドボードで固めている。いずれは、日本もこうしたメディアを活用し始めるだろうなと重い、パチリ。

2006_0529060051 2006_0529060054 レスタースクエア駅前のシアターでは、映画スターの挨拶でもあるのだろうか、仮設の横長スクリーンに予告編を写し出し、TV局の報道カメラが放列を敷いていた。そうか、リメイクした「ポセイドン」だったのだ。もみくちゃになりながら、その人垣を抜けだし、さらに、ロング・エーカーに入った。地図の目印にしていたムジ(無印良品)やティンバー・ランドがあったので、それより1本南下してフォローラル・ストリートへ。

角から2軒目に目的のカンペール・ショップはあった。オールド・ボンドストリート店は休日クローズだったが、ここは開いていた。しかし、閉店時間ぎりぎりだった。それでも、ついに、3年がかりで直営店に辿り着いたのだ。

060529 2006_0529 ところが探し当てた店は、拍子抜けするほどに間口も狭く小振りだった。中央の細長いテーブルの上に、定番から最新デザインまで、メンズとレディズが2列、自社制作のデザインシューズの片方だけをずらりと並べてあるだけだ。そして、奥まったレジの背後のラックにシューズのボックスが入れてあるだけ。文字もパンフレットも無い。たったそれだけ。店内は実にシンプル。

 

探していた「Pelotas (173114006)」はあった。アテネにそれはなく、ポルトではサイズがなく、ローマの三越では、価格が高いからと買い控えてしまったシューズだ。2003年次のクルーズでは、寄港地で買えなかったダークブラウンのそれは、結局、日本の上野アメ横で見つけて買った。今回、履いている。当然だが、二足目はスポーティなライトブラウンに決めていた。

ところが、ここで再び暗礁に乗り上げた。サイズ42は、残念ながら売れたばかりだと言われた。しばらく何処かへ問い合わせていたが、にこやかな顔でこう言った。

2006_0529060061 2006_0529060062 「明朝、来てくれるなら大丈夫だ」。明日は、大英博物館やら、ほかに自由行動のコースが頭にある。やむをえない。この場所を目的地のスタートにしよう。「1030分の開店時間には必ず来るから頼む」と店を出る。まずは安堵した。

時間がある。周辺をぶらついてから、コヴェルト・ガーデンへ足を向けた。若者たちが押し寄せている館内は、様々な雑貨が売られていて、アメ横みたいだ。

Pict2717 Pict2720 買いたい物があるとすれば、ロンドンを描いた絵を探してみることだった。あちこちを回っているうちに、独特のペン画があった。遠近法を破ったパースペクティブなロンドン風景で、彩色はヤマガタに似た作風だった。自宅には、昔、ニューヨークの近代美術館前の路上で画学生から買ったペン画がある。WTCが描かれている。それと対にするロンドン記念にと、1枚買った。16ポンドだった。

2006_0529060057 帰り道に別の店で、また目にとまった画があった。サッカー選手ばかりを描いてあった。サッカーに熱いイギリスである。もうすぐワールドサッカーの開幕だ。動きや表情がデホルメされて見事に描き切れている。その絵は、1000ミリの望遠レンズで捉えた動的なサッカー選手の写真からおそらくトレースした後に、油絵のタッチで描いた独特の画風だった。ロナウ・ジーニョとロナウドの2枚。10ポンドだった。

 

ソースのきつい食事は駄目なので、野菜主体に「サブウエイ」のサンドウイッチを食べてもいいのだが、間に合うことなら、三越前からシャトルバスで帰り、減塩の船内食を食べたほうがいいに決まっている。来た道を帰り急ぐ。

1715分のシャトルバスは、一足違いで出てしまっていた。ところが運良く、もう1台のシャトルバスが向こうから姿を見せたではないか。三越入口に設けられた「にっぽん丸サービス」係、つまりミキ・エージェンシーの社員に打診したところ、このバスに乗ってくださいとのこと。

乗っていいというが、半信半疑だった。妻と二人、たった乗客2名様で、大型バスをハイヤーしたことになる。次の2115分まで、何処で時間を潰すのかはノーアイディアだったので、有り難く乗せて頂いた。ドライバーは、無線マイクに怒鳴っていた。客が多いと聞いたのに、どうして、二人のためにグリニッジまで走るのだと、営業所にぼやいていた。我々のために済まないねと声をかけると、彼は、あなた方の問題ではない、心配しないでくれと笑って答えた。帰りのルートは、見慣れない道だった。ところが、信号もスムースで、近道を走ったせいか、スピードを出したわけでもなく、実に短時間でカティ・サーク号の横に到着した。おかげで、グリニッジ桟橋から1715分の通船で帰船できることができた。

 

Pict2714 目の前にある歴史的帆船、カティ・サーク号。僕の好みのスコッチだ。八角形のボトルに入った21年モルトの琥珀色の液体。バーボンならば、斜め格子切り子のボトル、「I・W・ハーパー」と、蝋で封印した「メーカーズ・マーク」。

ウイスキーはともかく、このカティ・サーク号、紅茶の新茶をいち早く届けようとしたティ・クリッパー。日本で言えば、八十八夜、5月の2日の新茶を待つロンドンの商人へ競って運んだものだ。木造帆船の細い船体で、中国福建省からロンドンまで99日間で走破したというのが、当時の驚異的快速。カティ・サーク号の最高速は15ノット、飛鳥2が最高23ノット。にっぽん丸は最速で21ノット、巡航速度は18ノット。

2006_0529060017我々は、この日数で、アラウン・ザ・ワールドをしている。東さんが、撮っておきなさいよと言ってくれた舳先のシンボルこそ、カティ・サーク号の魔女。

スコットランドの民話にあるナニーという魔女の「短い下着」が、カティ・サークという船名の意味である。下着である。色っぽい名前なのだ。後に、このカティ・サーク号は、オーストラリアを往復するウール・クリッパーになっていく。

 

夕食で案内されていった先は、山縣夫妻のテーブルだった。今日の山縣夫妻は、グリニッジ周辺を撮り歩いていたという。「家庭を割く」なんてことは微塵もない、仲のよいご夫婦である。奥様は、被写体になる場所を絶えず探していらっしゃる。シャッターを心ゆくまで切り終わる間、じっと黙って待ってあげている。おしどり夫婦である。趣味のカメラ機材を詰めたバッグは、相当に重い。だが、それを背負うことで、腰痛に効くのだという。背骨が後に引っ張られるからだとTVの健康番組でみたことを思い出させた。

彼が手にするカメラは、デジタルカメラではないのだ。ネガタイプのフィルムで、かっちりと撮りあげている。寄港地で毎日100枚以上獲っている僕らでも既に2000枚近い。だから、ネガタイプのフィルムマガジンを弾丸のように込めてシュートしている。ネガフィルムを探して買うなどは時間の無駄だとバッグには、その弾丸が詰まっている。家族でスライド上映するのが楽しみだというが、現像も整理も大変そうだ。写真キチガイと言われたコンクール荒らしの亡き父を思い出す。

 

山縣さんは、訥々とした語り口で真面目そのものだが、いたずらっぽい目をしたときは要注意だ。関西人らしく、ユーモアのある話術で、爆笑させられ、周囲を驚かすからだ。姫路に帰ったら、優しいおじいちゃんなんだろうな。

栄養士の免許をもつ奥様の千津子さんからは、腎不全による食事療法を聞くことで、参考になる話が多い。夕食の時間は、あっという間に過ぎた。

 

慌ただしかった昼下がりのロンドン市内は、靴屋の往復だけだった。しかも、明日、出直しというおまけが付いた。

菅井さん夫妻も一緒に歩きたいというからには、時間の無駄は避けたい。就眠前に、明日のコースを確認して置こう。靴屋と大英博物館と念のためにオールドオックスフォードにある二軒目のカンペールショップ、出来れば、スワロフスキー(SWAROVSKI)のジュエリー店とハロッズの店内歩き、それに何処かのパブでエールビア。すべてを回るには、大英博物館でどれだけ時間を費やすかに依る。

いつものように、自分の手で簡略化した行動地図を作ってから眠った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 1日 (月)

060527 ザ・サウンド

八点鐘が鳴った。

ルウェーとデンマークの間にあるスガゲラック海峡のデンマーク寄り、ユトランド半島の北西端の沖6海里(11km)を南西にむかって航行中です。明朝8時頃からテムズ川を上る為の航行管制に合わせて、スピードを調整しています。

昨晩から今朝にかけて、この航海のヨーロッパ・シリーズでは一番緯度が高い海域を通過しました。ちょうどベーリング海の緯度に相当します。この航海を通じて一番緯度が高くなるのはこれから先のアラスカです。

今年のヨーロッパの春は、低気圧とそれに伴う寒冷前線や温暖前線が頻繁に通り過ぎ、例年よりも天気が変わりやすく寒いと港湾関係者が言っていました。緯度が60度近くになると、経度の幅が狭まり、極地に近くなればなるほどお天気も移り変わりが激しくなります。
現在の天気図を見ると、イギリスの北西に低気圧があり、スコットランドからフランスまで温暖前線と西の方向に寒冷前線が延びています。これをくぐり抜けな いと高気圧の下に入れないでしょう。ただし、これから天気が大きく崩れる心配はなさそうです。

極地に近く、目まぐるしく変わる天候なので、お天気を約束できないのが残念です。

デンマークの西海岸の景色をしばらくご覧いただいた後、イギリスに向かいます。北海の航海をお楽しみください。

 

すこし北に昇ったスカゲラク海峡を航行中であると、キャプテンのアナウンスは続く。黒海へ抜けるためには、デンマークの親指のような先をぐるりと回らなければならない。今航海、ヨーロッパでは一番高い、北緯58分に上がった。これは、アジア側で言えば、ベーリング海に近い高さである。地球儀を頭に入れてくださいという。経度が高くなればなるほど狭い範囲なので、天候の変化が速い。従って天気の保証がなかなかし辛いのです、と。速度は17ノット。明朝テムズ川に入るパイロットを乗せる関係から、速度を落としているのだそうだ。

綿雲が全天を覆い、曇り。西の風11m。右前から1mの波が来ている。気温は9℃。

 

朝食でひさしぶりに東さんが一緒の席に着いた。昨日は、衛兵交代を撮ったはずである。「東ギャラリーは、どうなったんですか?早く見せてくださいよ」

一番訊きたい質問を投げた。かなり多くの人から僕に質問されていて困っていた。モルジブ出港から3階のインフォメーション・デスクの壁は額が外されている。四つ切りのポジ写真がプッツリ消えている。船客から渇望されているのだ。東さんのご苦労はお察しするに余りある。同じ寄港地を歩きながら、東さんは、ウエブサイト用の航海日誌に配信する写真と、帰国直前のフィナーレの夜に船内で投写するハイライト写真を写し取っておかねばならない。

ところが、同じ観光スポットで、自分の撮った写真と比べてどう違うのか、妙な期待感さえあって、待ち望んでいる。そうした船客の眼に対抗もしなければならない。同じロケーションで課題を与えられた先生と生徒のような、楽しみな戦いをしているのだ。しかも、最近は船客の手にするカメラも、高品質なデジカメである。シャッターチャンスとコンポジションさえ巧く捉えれば、プロ顔負けのショットが得られるから、やりにくい。だからこそ、被写体のためなら対岸までタクシーで回り込む。限られた時間内に、プロならではのカメラスポットを探し続ける。重い機材を一緒に同伴されている冨美子さんのご苦労もある。

デジカメの影響で、従来の色調補正のダークルーム作業も自分の船室でパソコン処理する時間が加わった。寄港地の間隔が短くなれば、航海日が少なくなる。いわば、メッセージの編集に、相当な時間を費やす。体力も要る、目も疲れる。睡眠時間さえ削られると苦笑する。

「僕らは、常に70点を保っていなければならないのですよ」

最後に口にされた東さんの言葉だ。打者で言えば、ホームランバッターではなく、チャンスに強い3割バッターということか。「下手な鉄砲、数打ちゃあ当たる」式で、200人近い船客が、一斉に同じ方向にカメラを向けている。シャッター音だけを数えるなら、報道カメラ並みのシャッター回数だ。だから、難しい球が飛んで来ても、どう受けて、どう刺すかの美的センスを自分に課す。どういうメッセージを込めるかだ。あの東ギャラリーは、プロカメラマン・東康生のアイディンティティでもある。だからこそ、再開を強く望む声は大きいのだ。

 

 

朝食を済ませて船尾の甲板に急ぐ。デッキゴルファーは勢揃いしていた。先攻白組は、高嵜、山縣、工藤、萩原、黒川。赤組は、松田夫妻、西出、菅井、菅谷の面々。幸いにも白組が勝った。

2回戦には、高橋、横田、ゴンちゃんが遅れて加わり、総勢14人となった。インストラクターの黒川君が1314番パックを急造することになった。ここまで参加人数が多くなると、打順の待ち時間が長い。ゲームもリズム感が無くなり、緩慢になりがちだ。

11時半頃だったろうか、そんな空気を破るかのように、デッキに備え付けられた小さなスピーカーから、アナウンスが流れた。

 「左舷、水平線上に、飛鳥が、航走中!!」

Dscf2345Dscf2357 Dscf2355

パンフレットでは見ているものの、自分の目で見る飛鳥Ⅱは、初めてだ。偶々、飛鳥Ⅱを撮ろうとして妻が後部デッキに来た。

「そのカメラでは無理だ!僕のカメラを持ってきてくれ!300mmだから!」

いつもなら、カメラを袈裟懸けにしてプレイしているのだが、その日は、山縣さんと松田さんだけしかカメラを持っていなかった。慌てて妻は船室に走った。プレイをしていても、飛鳥の船足が気になっていた。

Dscf2341 Dscf2353 カメラが来た。まだ、右舷側に捕捉できる距離だった。人数の多い分、幸いにも、打順の間隔がある。撮りながらプレイをする。時々、みんなの眼もパックから飛鳥に移る。こうなると、時間内では終わりそうもない。案の定、時間切れでドローとなった。

 

まだ間に合う。6階の操舵室では、どうしているのだろうと、駆け上がってみる。

Img_1093 P1000172 Dscf2364 操舵室にいた船客に訊いてみた。挨拶の汽笛を鳴らすが、飛鳥Ⅱは応えないのだという。しかも、無線連絡で挨拶を試みたが、先方は、船長が会議中だそうだ。

にっぽん丸側から飛鳥との距離を縮めてみた。側面から1200mまで接近した。備え付けの10倍以上の双眼鏡を手にする。ファンネル近くに船客が6,7人出てきている。船尾のプールサイド最上段デッキに白服姿がやはり、78人立っている。

2回目の汽笛を鳴らす。遅れてかすかに汽笛が返ってきた。操舵室にいた船客たちが、おお~と声を漏らす。時折、霧に包まれて飛鳥が霞む。霧がドラマチックなシーンを演出しているようだった。飛鳥は195ノットで飛ばしている。我々の入港するテムズ川には当然ながら、浅くて入れないだろう。サンクトペテルブルグから出航しているらしく、今の予定では、ドーバーに入港するらしい。我々は昼過ぎに着岸すればいいのだが、飛鳥は朝には入港していなければならないのだと誰かがいう。だから、相当に速度を上げているのだそうだ。

Dscf2352 何処かで船体にトラブルがあったというニュースも飛び込んできた。いまは、船客同士のネット交信は無理でも、日本の留守家族を経由して事情が出来るのだから、更に詳しく判ってくるだろう。

 

しばらくして、飛鳥との距離を離した。むしろ我々は、テムズ川のパイロットの乗船時間に合わせて、速度を緩やかにしていくのだ。船内が異様に盛り上がったこの間の併走劇、30分だった。

 

 

さて、ロンドン入国後のタイムスケジュールを組み立ててみる。夕食帰船するまでの時間内に、オールド・ボンドストリートを往復出来るかどうかである。

テムズ川の浮き桟橋に接岸する。やや時間があって迎えの通船でグリニッチの陸地に降りる。シャトルバスが素早く発車するとして、ピカデリーの三越に着いたとして、そこからオールド・ボンドストリートのカンペール・ショップにタクシーを走らせたとしても、果たして閉店時間前に辿り着けるか。否だろう。

それなら、明日の大英博物館ツアーはキャンセルしておこう。カンペール・ショップも、大英博物館も、なんとか自分でコースを時間配分してみよう。ツアーをキャンセルすることにした。部屋に戻りながら、果たして1店舗しかないのだろうかと疑ってみた。ロンドンにカンペール・ショップが何店あるか、スタッフに調べて貰った。コンヴェント・ガーデンにもあることが判った。ピカデリーから歩ける距離だ。

 

昼食で菅井夫妻とロンドンの自由行動について話した。1日目、菅井夫妻は、野菜市場を探すという。我々は、コンヴェント・ガーデンのカンペール・ショップまで歩くと告げた。閉店時間ぎりぎりに飛び込むつもりだ。過日の「ローマ三越店」よりは直営店だから品数は間違いなく多いはずだが、三越の18000円台よりは廉価であることを願いたいものだ。

 

1330分からの宮崎世界史がドルフィンホールで始まった。

本日の講義は「シンドバッド時代から鄭和の大航海まで」。イスラムがアジアの海も征して、広州から東南アジアにまで大きな影響力を持ったことを説いた。特に、NHK特番で取り上げた中国の鄭和船団に関しては、「1491年」が、フィクションであると喝破して宮崎論を貫いたという話が面白かった。

 

今夕は、にっぽん丸特有のオレンジナイトである。2003年次の時は、確か、バミューダに向かう6月の大西洋上だった。大揺れの翌日で、話題は船酔い話ばかりだった。

オレンジとは、商船三井客船のファンネルの色を指すのだが、その由来を船内新聞「スター&ボード」が教えてくれていた。

そもそも「大阪商船三井船舶」とは、大阪商船と三井船舶が合併したからである。銀行名が、太陽神戸だったり、三井住友になったり、三菱東京とか、元の会社名を残すスタイルは欧米的だが、「大阪商船三井船舶」という社名は、「船」が左右に二つもある社名で、2003年次の船内から日本へ発信していた航海日誌では、「三井商船」と記述して、広報担当の川崎さんに修正を指摘されていた。

大阪商船は、大阪の「大」の白色、三井船舶は、三井の「三本線」の白色。このマークで世界の海を走ってきたわけで、ロゴマーク、コーポレートカラーでは意見百出ではなかったか。

僕がCIを担当したなら、どうだろう。「三」本線の中央に、現代的な筆文字で、「人」と描かせる。「空」と「海」と「水平線」のラインに「人」が重なり、“世界人と交流できる平和な海”をアピールしたかも。

 

『大阪商船三井船舶はトップ企業であり、トップにはマークは必要なし』という考え方を加福龍郎専務が主張した、と商船三井の100年史に記述があるそうだ。その理由が奮っている。英国の郵便切手には国名が印刷されていないという事例を挙げて、ノーマークを押し通したようだ。それは、一例に過ぎず、世界に冠たる企業群となるには、いかなる企業といえども、ロゴマークはアイディンティティとして必要である。郵政省はどうあろうが、ユニオンジャックがそれの証左である。結局はノーマークとなったが、ここからが面白い。コーポレートカラーを重視したことだ。

889 大阪商船・坪井五郎専務と三井船舶・鈴木久之助常務が考えあぐねて、決めたのが目の前に置いてあった煙草の「光」のパッケージカラーだったという。それがオレンジだった。理屈をつければ、海原に光輝く日の出であり、水平線に沈む夕陽だと言える。もしもテーブルに置かれていたのが、平和のシンボル、鳩の「ピース」だったら、ファンネルの色は、オーシャンブルーになっていたのだろうか。

いずれにせよ、結果オーライである。白い船体に燃えるオレンジのファンネル。かなりの遠距離からでも、まさに日の丸の配色である。

そのオレンジカラーを各自が衣装に配して夕食に臨むのが、オレンジデーに課せられている。そうしてにっぽん丸の乗船していることを喜び合おうという趣旨らしい。

630分、2階のエントランスでレストランの入口に列ぶ船客の衣装を眺めていると、オレンジのドレス、シャツなどなど、上手く採り入れていることに感心する。

 

西出夫妻と出遭ったので、4人テーブルを頼んだ。丁度、いい機会だからと、愛知県系親睦会の打ち合わせをする。大西洋に出ると揺れるので、それだけは避けようということで、61日のカジュアルデーに決めた。西出さんと一緒だと、名古屋弁に戻るのを妻は笑っている。白ワイン3杯、赤ワイン1杯。いい気持ちになった。

 

1830分、ドルフィンホールのメインショーは、狂言「縄綯い(なわない)」。博打に負けた主人から、太郎冠者を人質に差し出し、使役に供することを貸し元と約束したことによる、問答の喜劇。茂山千五郎、茂山茂、佐々木千吉の茂山狂言会の皆さんは、ロンドンで下船して日本に帰国するという。別れを惜しまれる感謝の拍手だったように思えた。

 

明日のために、ロンドンマップを見て、自分なりに簡略化した地図と所用時間、目的地への所要時間と周辺のランドマークを記入して、歩きやすい簡略化した地図を作った。文庫本でも読もうとしたが、睡魔が襲ってきた。25時、ダウン。

 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2010年10月31日 (日)

060526 コペンハーゲン

Dscf2258 Dscf2227
 

早朝にランジェリニー・ワーフに着岸した。

昨日に続いて、本日も下船する。寄港地の日は、慌ただしい。だとしても、贅沢な悩みである。815分には朝食を終えてくださいという日である。眠い目をこすって、洗顔し着替えを急ぐ。

朝食のテーブルには、一度ご一緒した方が先に着席していた。お名前は知らないご夫妻だ。

「ツアーに出ていますが、休む暇もなく出歩くので、今、此処が何処だったか、時々区別がつかなくなりかけていますよ」とお笑いになる。

「我々でも、話の中で取り違えが多くなってきましたよ」と返す。

「申し遅れました、萩原と申します」「久保でございます」

名乗った途端に、垣根が外れた。

「デジカメのお陰で、日付と時間から、どこの写真だったかは整理がつきますから、便利になりましたね」と話すと、

「そのデジカメですが、ずっと日本時間ですの。修正の仕方が解りませんので、そのまま」と奥様が、照れくさそうに言う。

「カメラがあれば、修正いたしますが」

「いま、此処にあります」

「私で判れば、直してみましょうか」

ダイニングの柱時計を見やりながら、今の日時に修正する。

「また、ロンドンから時間が変わりましたら、私たちを見つけてください」と妻。

やはり、人とのコミュニケーションで、悩んでいることが消えることもある。今回の船客は、なかなかうち解けない、いや、名乗らないから憶えようともしない、憶えないから表面的な挨拶しかしない。この繰り返しが続いている。昔は違ったね。

ネプチューンバーで飲んでいた人に言われていたが、まさにそうした空気がなんとなく、ぎこちなさを生んでいる。年度によって、客層が変わってくるのだろう。

 

久保夫妻と会話しながらも、8時には食事を終えていた。デッキに出て体感温度を測る。10℃ほどか。寒い。タートルネックに風防ベスト、それにオスロセーターを着込む。これは、氷河航行でデッキゴルフをした時のレベルである。妻はやはり、ダブリンで買ったアランセーターを着た。寒い海に漁師が着込むため、雨が降ってもよしと聞いたからだ。

 

コペンハーゲンは36年ぶりで来たのだ。前回、チボリ公園は閉まっていて入れなかった。鉄格子を両手で握って中を窺った記憶がある。なんとしても、今回は入ってみたい。中にあるはずの「ミニチュア・ワールド」を見たい。台湾では精巧な「小人の国」という公園を観てきた。早い話が、ガリバーの世界だ。日本にも生まれた「東武ワールド・スクエア」の元祖である。

入園料はクローネでしか買えないという。ユーロが使えないのだ。クローネに両替しないと入れないのだ。これでは、46年前と同じ悔いが残る。ツアーデスクで入園料を訊いてみると、一人2000円ほどだという。船内での両替サービスで、1万円分を450クローネに替えた。

 

シャトルバスは予定通り、9時に発車した。現地のガイドが乗っている。いつものシャトルバスなら、コペンハーゲンの街についてアナウンスをしてくれるのだが、それがない。一緒に出掛ける菅井美子さんが、それを指摘する。僕は40年前の記憶を引き戻そうとするが出てこない。豆電球が点いたままの園内と、その回りにある市庁舎、そして路面電車くらいがぼんやりとするだけだ。どの辺りに泊まったのかさえ判らない。妻はチボリの正面だったというが、違うとも言えない。

妻の買い物は、「ロイヤル・コペンハーゲン」。菅井夫妻は、孫へのレゴと決まっていた。

僕は例によって、キャップ。洒落たシンプルなデザインのキャップがあれば買う。今日頭に被ったのは、タイで泊まったホテル・ソフィテル・セントレ・ホアヒンのキャップにした。ホテル・ソフィテルは、コペンハーゲンにもあるし、ホアヒンが北欧人の避寒地として人気だからである。

Dscf2250 Dscf2296 Dscf2301 目抜き通りに建つビルには、所狭しと企業ロゴが貼り付けられてある。事務所がその階にあるというのではなく、明らかに、ビルの壁面がアドボード化されている。建築中の工事現場は、これまた格好のアドボードにされている。日本も見習う必要がありそうだ。

 

アンデルセン像がある市庁舎前広場からストロイエという銀座通りを歩く。このストロイエ、世界で最初に歩行者天国を実施したことで有名になった。初めてと言えば、サッカーの試合応援に、国旗を顔にペインティングしたのもデンマーク人が最初だったという。ここを夕方歩いたことを思い出した。あの当時は、雪で凍結しないように電熱が敷設されていると言われ驚いた。そしてなかなか暗くならなかった。4月中旬だった。

 

Dscf2230 Dscf2232 街には、ニューヨークも香港もあった。「ロイヤル・コペンハーゲン」のロゴが右手に見えた。オープンは10時だ。そのまま、ぶらつこうと先に進む。まだ何処も閉まっている。がらんとした街に日本人だけが歩いている。ガンメル広場を抜け、聖霊教会を過ぎて、右前方に2店舗目のロゴが見えた。妻が目的とする「ロイヤル・コペンハーゲン」だ。王室の援助で創立された陶磁器メーカーだ。ここの2階、日本でいえば3階に、一級品の特価がある。工場直送のアウトレットである。ガラス食器の「バカラ」同様、毎年ひとつずつ買いそろえる人もいるらしい。

日本に入ってこない、気に入ったデザインがあれば、儲けものと思いたいというほどに注目のフロアである。隣はジョージ・ジェンセンの店だった。当然ここも10時である。ホイブロ広場の角のカフェで開店まで待つことにする。

Dscf2237 Dscf2239 これから始まる「ロイヤル・コペンハーゲン」のドラマ開幕前のウエイティング・バーにいる気分。店の中から眺めていて解ったことだが、「ロイヤル・コペンハーゲン」の建物だけが、左右の建物と異なっている。外観は色褪せ、剥げ落ちたままである。頑なに手を入れないで歴史的な時を刻ませている。プライドのオーラーを感じる。ますます、妻たちは心待ち顔で、陶磁器の大きなコーヒーグラスを手にしている。このコーヒー125クローネ分。

Dscf2238 ホイブロ広場にも、徐々に日本人以外の観光客が増えてきた。道路に顔が現れる。地下鉄の口ではない。公衆トイレなのだ。奇妙な風景を眺めていると、10時になった。目的のショップに人が入っていくのが見える。我々4人も腰を上げた。

「ロイヤル・コペンハーゲン」のグランド、0階を見回してから2階に上がる。絵付けされた器は、結構な値段が付いている。ブルー・フルーテッド模様の皿一枚を完成させるのには、絵筆を1197回動かすそうで、熟練絵師でも30分はかかるという。一筆でも間違えれば、初めからやり直しだ。

何も絵付けされていない「白い黄金」と言われる陶磁器を手にとっては、価格を見て換算する。ほうという声。これは、なにも日本人だからではない。他の外人観光客からも漏れているのだ。互いに目があって微笑む。

妻は真剣に選んでいる。菅井夫妻と僕は、あちらこちらをぶらぶら。彼女の最大の目的は此処だったのだから、仕方がない。リスボンのジェロニモ修道院前でジプシーが創ったテーブルクロスを買い損ねて以来、40年間悔やまれてきたのだ。女性の執念とは恐ろしいものだ。しかし、おかしなことに、自分たちの家への物は買わず、息子の嫁たちや人へのプレゼントに終始した。また、10数年、悔やまれるか。そう思ったので、お買いくださいと言ってたろうと姿を探したときは、もう支払いを済ませて店の外に出ていた。

ホイブロ広場で東夫妻に、ばったり出会う。これからアマリエンボー宮殿の12時の衛兵交代を撮るのだという。帰船せず、昼食はコペンの街でと決めておられるのだろう。

 

Dscf2243 Dscf2244 聖霊教会脇に焼き栗屋のような大きな鍋を煎っている露店が出ていた。覗き込むと砂糖に絡めて焼かれているのは、アーモンドだという。

タイ人かと訊かれる。キャップにある文字を指さしている。ホアヒンの解る人物が意外なところにいた。日本人だというと、僕も行ったことがあると、急に人なつっこそうになる。ホアヒンは、バンコックから100km南下した処にある避暑地である。国王のご用邸があり、治安は悪くない。北欧の観光客が多く来るリゾート地である。移住するつもりでリタイアー・ビレッジを下見に妻と訪れた。写真を撮らせてもらったので一袋買った。25クローネだった。コーヒー一杯分だった。

Dscf2245 Dscf2256 子供を乗せた自転車の形態は、日本でも採り入れたらいいと思うものがあった。不安定なハンドル前に重心をかけるよりも、サイドカーを直列にしたようなデザインなら、子供も伸び伸びとするだろうに、と思わせた。気になったので、意識してカメラを向けた。

 

ストレイエの出口に近いところに、目指していた「BR」という大きなトイショップがあった。心勇んで入る。菅井夫妻の目的であるレゴ売場を探す。探しているサイズのレゴ・チップが売れてしまっているのか、取り扱っていないのか、見あたらない。とりあえず店員に商品カタログをもらった。他のデパートで探してみよう、と、我々はその店を出た。

 

今日の僕は、まずいことに腎不全の薬をワンセット服用してしまった。外出の日には、その中から利尿剤を外すのだが、それをしなかったため、しばしば、尿意を催す。寄港地でのトイレは迷わず「M」に飛び込む。これは、2003年の時に、オスロで経験した。ホテルを探そうにも、そう簡単に見つかるものでもない。時間の無駄。そこへいくと、各国何処にも目につくのは、「M」のマーク。マクドナルドに入って、ひとまずはコーヒータイムにしてもらった。

それからの行動だが、待てよ、と。チボリ公園に高価な陶磁器を持ったまま、チボリ公園に入って、人に当たったりしたら・・・、いや忘れでもしたら、一大事だ。気になるので、一旦シャトルバスで帰船することにした。幸いなことに、臨時バスが増発されていたので、待たずに乗れた。こうした臨機応変のシャトルダイヤのサービスは、実に助かる。

 

ツアーのある日の寄港地では、手短に済ませられるようにと、船内食はバイキングになっている。写真をPCに取り込んでから、再びシャトルバスに乗り込む。

 

午後からの目的は、デパートでのレゴ探しと36年お預けだったチボリ公園だ。デパートは、王立劇場の前の「マガジン」を目指した。ストロイエへ入る反対側が入口だ。

目の前を浜畑さんが歩いていた。両手にいっぱい、「マガジン」のショッピングバッグを手にして帰ってきた。生花を仕入れてきたのだという。生花を選ぶのも飾るのも、浜畑さんが考える。生ものであるだけに、蔭ながら大変だと思った。

 

シャトルバスの発着所は、チボリ公園横だ。下車すると、アンデルセン通りの市庁舎をやり過ごし、チボリ公園とカールスベア美術館を挟んだティアテンス通りの角を左折して、ストーム通りを遊覧船の船着き場方向へ歩く。

Dscf2255 Dscf2265 Dscf2264 昔の船溜まりの場だった、このニューハウン通りで蚤の市が開かれていた。ドーハルセン美術館の対岸である。種々雑多な、ガラクタ市に思えた。眺めるだけで通り過ぎようとした時、1969の数字が目に入った。その数字は、我々の結婚した年である。

Dscf2266 文字の描かれた絵皿は、ローゼンタール製で、月面着陸の絵が焼かれてあった。価格を訊いた。なんと、25クローネというではないか。すかさず買った。コーヒーやアーモンドと同じ値段だった。神様は36年ぶりに訪れた国で、粋な出会いをさせてくれたものだ。

 

午後も、思いがけず、割れ物を手に歩くことになってしまった。目指す目的地は、聖ニコライ教会の裏手だと頭に入れてある。菅井夫妻のために「マガジン・デパート」へ急いだ。ブレマホルム通りに出た。「マガジン」に入ろうとして左手を見ると、なんと、更に大きい「BR」があった。何はともあれ、我々は当然のように、飛び込んでレゴ売場を探す。Dscf2273 幸い、美子さんの求めているサイズのレゴ・チップがあった。美子さん、破顔で、レゴの形の大きなギフト・ボックスを買った。その中に、お目当てのサイズのチップがかなりの量、詰め込まれてあるのだそうだ。

その間に、僕は、「マガジン」に入る。エスカレーターで5階のトイレに上がる。男女が互い違いに長い行列をなしている。なるほど、NY並みになってきたかと、感心しながら並ぶ。つまり、男女混用なのだと思ったからだ。ところが、女性陣が振り返りながら男性になにやら言っている。列んだ先頭の男性は困っている。デンマーク語もドイツ語も聞き取れないでいる。どうやら、僕と同じ観光客らしい。と、男は、頭をかきながら女性陣に礼を言って、消えた。次も。次も。なんということだ。女性のトイレに列んだことになっていたのだ。やはり、男性用は別にあった。用を足してエスカレーターで降りる時、

なるほど、「マガジン」という名前のデパートなんだと思わせるものがあった。壁面の広告は、雑誌スタイルでページをめくるように、各階を見せていた。開業するときから、決めていたな、このスタイルを、と、ちょっといい気分で外に出た。

 

菅井夫妻の買い物も終わったので、帰るという。シャトルバスの最終は、1630分だ。分かれてチボリ公園に急ぐ。カールスベア美術館側のチボリ公園口に向かった。

Dscf2285 園内に、今もあのガリバーワールドはあるのか、確認できなかった。外にはパンフレットもなかった。入場料は75クローネとある。あっ、と口に出た。ユーロでもクレジットでも支払いがOKなのだ。入園料のために、わざわざクローネに両替をしたのは、何だったのだ。


Dscf2288 Dscf2286 チケットを受け取って、ガチャンコと身体でバーを回す。入園した者に手渡されたパンフレットを開いて見る。また、あっ、という声を出した。「ガリバーがない!」消えていたのだ。既に、取り壊されていた。失敗だ。

妻は、せっかくだからと、チューリップなど咲き乱れる花壇を撮りまくった。絵葉書に、もしかしてその昔の面影くらいはないのかと売店で探してみたが、見当たらなかった。

此処に来たかった自分が恥ずかしくなった。確かめもしないで、来てしまった自分に腹が立った。

 

Dscf2294 反対側の出口に向かうと、この時間、まだまだ入園を待つ観光客で行列が出来ていた。どうやら、こちらが正門だった。その中に、見慣れた顔があった。にっぽん丸のオプショナル・ツアー組が列んでいた。3度目の、あっ、である。シャトルバスに戻ると、4度目のあっ、もあった。一足先に帰ったはずの菅井夫妻と同じバスになった。

 

帰港したが埠頭辺りの港町商店街を少し歩く。シドニーのロックにも似た石造りの中に商店街で出来ていた。残ったクローネを使い切ろうと、アイスクリームを食べ、絵葉書を買った。ユーロが使えることが判ったので、僕はシンプルなデザインのキャップを捜した。

 

Dscf2261 Dscf2303 Dscf2329 埠頭には、にっぽん丸の後ろに、11階層に3本マストの豪華客船が接岸していた。コスタリカ・アトランチカというジェノバ船籍の10万トンクラスだ。屋上のプールサイドには、船外に飛び出しそうなウオータースライダーまで見える。

にっぽん丸のデッキを見上げると、菅井夫妻がデッキゴルフに興じていた。夫唱婦随ではなく、婦唱夫随となっているようだ。美子さんは、ショートパンツをポートサイドで、サンダルをローマで、帽子はポルトで、手袋をコペンハーゲンで、デッキゴルフのために買ったのだ。今回誘い込んだ中では、一番意気込んでいるデッキゴルファーだ。そういえば、西出さんも密かに昨日の夜、自主トレをしていたらしい。

 

Dscf2333 コスタリカ・アトランチカが出航し始めたので、18時、展望風呂に入った。追いかけるように、にっぽん丸も離岸した。4階ではボンダンスがはじまったようだ。埠頭にいる多くの人たちが手を振りだした。

夕食は、コペン自由行動の旅・反省会と称して、菅井夫妻との4人席となった。それぞれが好きなアルコールをオーダーした。熱燗、赤、白ワイン、ビール。

美子さんが何かをすると、荘輔さんが諫めることがしばしばある。今夜は、何を以て「美子る(ヨシコルという動詞)」というのか、面白おかしく定義づけの説明をした。同級生同士の夫婦だから、忌憚なく話せるのだろう、実に仲がいいのだ。

 

船内にアナウンスメントが流れる。「パイロットの話ですと、例年以上にまだ長い冬だそうです。通年から5℃低い10℃です。まもなく、左舷側にハムレットの舞台にもなったクロンボー城が見られます。1925分、エーレ海峡の狭い処に差し掛かります。右舷側はスエーデンのヘルシングボリという街が見えて参ります。ここは、2海路の右側通行で2隻分の狭さです。これからカテガット海峡を通りますが、しばらくは、コスタ・アトランティカ号と併走していきます」

 

夕食後はひさしぶりに「ビンゴの日」となった。2003年よりも商品群の価格帯が落ちてしまった分、司会役の蘇君は意識してか、益々冴えている。役者志望だっただけのことはあるか。2回目はビンゴ成立だったが権利を放棄して、3回目のボーナスを期した。しかし、読み上げられた数字の2回目で、簡単に討ち死にした。この乗船優待賞金を手にするのが、毎回、裕福なリピーターになるのも、不思議なことだ。今年もついていない。カジノ同様だ。

 

ラウンジ「海」で3回目の講談席を聴きに出る。一龍齋貞心さんならではの、カルチャー講談と称する薀蓄話。続いて「倉橋伝助」。勘当された旗本が、名前を変えて下総の髪結い、老夫婦に支えられ浅野家に仕えるまでの勘当物語ならぬ、感動物語。彼の講談は、聞き応えがあると船客からも評判で、ラウンジは、座る定位置が決まりつつある。蘊蓄で笑わせて、講談で泣かせる一龍齋貞心さんの芸。あと何回か。

 

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2010年10月21日 (木)

060525 リューベック

Dscf2101 明け方に錨を上げて、河口を遡った。きれいな港町、トラヴェミュンデに入った。リューベックへは遠いのだが、それだけに落ち着いた保養地だ。

ツアーバスの出る日だから、朝食は、815分までに入らなければならない。

テーブルに着いてみると、辺りはちらほら。食している人がまばらだ。これだけ早めに済ませたということは、オプショナルツアーやオーバーランドツアーの参加人数が多いということだろう。オーバーランド組は、ベルリンからプラハを経て、ロンドンへ渡ってしまう45日、贅沢な316800円也。その間、我々は、コペンハーゲンを回る。

2階ロビーでは、パスポートの返却がなされている。9時発のシャトルバスには、まだ充分な時間がある。

下船した空は、雨雲だった。妻が、ギャングウエイにある貸し出し傘を2本持ってきた。シャトルバスは、田園風景を見せながら、アウトバーンに乗った。約20分で古都リューベックに着いた。帰りのシャトルバスに、もし乗り遅れたら、埠頭までは鉄道しか足がない距離だった。

 

シャトルバスの中で、藤川君が、本日は、宗教的な祭日であり、土産物屋を含め、多くの店舗が閉じていることを予め了承しておいてくださいと予告。今回のツアーコースは、土日祭日が少し多すぎないかと、誰かが皆の不満をぼそっと代弁した。

街に入ると、尖塔が何本も目に入り始めた。リューベック・セントラル駅を右に見ながら、シャトルバスは観光バスの駐車場に入った。船側から事前に示されたシャトルバス停車位置は違っていた。ラディソンサスホテルからは、橋一つ離れていた。案内図を宛にして戻ってくると、迷う者が出るだろう。さすがの藤川君でも、それについて注意はしなかった。

 

Dscf2104 Dscf2105 「バルト海の女王」と呼ばれた古都は、南北2km、東西1km、周囲を運河と川に囲まれた中之島で、世界遺産に登録されている。現在ドイツで最も観光客を集めている州だそうだ。


Dscf2107 下車して、街のシンボルであるホルステン門に向かった。が、あいにくと、全面的な改修工事の真最中で、工事天幕には、その無粋な工事をみせないようにと、ホルステン門の原寸サイズの写真シートが降ろされていて、景観を保っていた。ここがそれであるという観光客への申し訳の処置と受けとめた。我が国でも、こうした策が観光客へものせめての姿勢だろう。2つの塔を左右に載せた市城門で、建築中から弱い地盤にめり込んで傾きだしていたのだという。ドイツ版ピサの斜塔になりかねなかった建物なのだ。改修中であっても致し方ない。街のシンボルが傾いたままでいいはずがないというドイツ気質がいいではないか。

門から緩やかな坂のホルステン通りを歩き、すぐ右手のペトリ教会に入ってみる。藤川君の話では、無料だが、献金をしていただければ申し分ないとのことだったので、献金箱に入れて、教会の階段を上ろうとしたら、女性の手が制するではないか。きちんとした料金所があり、入場料をというわけだ。あの献金箱は、自分の手の下せない管轄外のもので、ここに払って欲しいと言う。但し、先に入った日本人の団体と同じグループならば、団体扱いをしますが、と。

本来なら個人で3ユーロだが、2ユーロでいい。それも献金してくれたのだからと4人で6ユーロだけしか受け取らなかった。こちらも恐縮してしまい、お礼を述べた。妙なスタートになったものだ。

手にしたガイドブックでは、エレベーターに乗るなら有料だが、階段を歩くなら無料と記されていた。ガイドブックも改訂しておいた方がいい。

Dscf2112 Dscf2113 Dscf2114 我々はエレベーターで上がった。最上階は、360度視界が開けていて、川に浮かんだ観光用のクルーズボートや、これから行くマルクト広場で市場が開かれる模様や、赤い屋根の街、その中に高く聳える尖塔が眼下にあった。

 

教会を出てから道を横断して、そのマルクト広場に入った。祭日のせいか、マルクトは、まさにマーケットを開く準備で大童だった。帰りにもう一度寄ってみようということで、マリエン教会の世界最大級のパイプオルガンを見ようとしたが、今日は宗教的な祭日であるため、礼拝が行われていたため、遠慮した。外にあるデヴィル像と並んで写真を撮り、その裏手に向かった。

Dscf2128_2 Dscf2132 Dscf2127_2 裏のメンク通りという筋が、昔ハンザ商人たちの館だったというが、静かな煉瓦作りの建物が軒を連ねているだけだった。ペトリ教会からヤコブ教会までのブライテ通りは、普段なら一番人通りが多いのだろうが、今日は、ひっそりとしていて、我々、日本人と他の観光客だけが所作なく歩いている。

Dscf2143 Dscf2139 Dscf2145 再びマルクト広場に戻ってみた。広場に出店の店員達は、それぞれ、伝統的な衣装に着替えていて、祭りの日らしくなっていた。ロートシュポンという赤ワインのワインショップは修道僧の衣服で、パン屋も毛皮屋もお香屋も弓屋もスープ屋も、フイゴを吹いて金属装飾細工をする職人も、中世の衣装である。直径230cmの木材を素材に木彫りされた鷲や梟などをディスプレイしている男は、木こりの格好だ。ロビンフッドがぶらりと森から遊びに来るような中世の世界観を創って、客を楽しませようというわけだ。

名物のマルチパンという砂糖菓子がある。1407年飢餓になった当時、市政府がパン職人に、倉庫に残っているアーモンドを粉にしてパンを創らせたのがその元だが、土産用に袋に入っているのは、豚や熊や兎の形をしていた。可愛くて食べられないといって、買うのをやめたのは美子さん。Dscf2138_3 その代わりというのは、妙だが、出店のソーセージが、炭火焼きでいい匂いを振りまいていた。妻は、そのソーセージを美子さんと買っていた。日本では考えられない、6,7本分のボリュームが1本なのだ。僕は、好物のソフトクリームが買えないかと探し回ったが、残念ながら、中世の世界では、売っていなかった。

 

Dscf2155 Dscf2151 Dscf2153 1130分のシャトルバス発車時刻が迫っていた。カフェでお茶することもやめて、駐車場に急いだ。一龍齋貞心さんも町子先生も慌てた。これに乗り遅れると、船内での昼食がとれない。やはり、みな同じ気持ちのようで、満席となって出発した。

うとうとして眼が醒めた。バスは、もうトラヴェミュンデの港に近づいていた。「こっちの街のほうが、きれいだね」「人が多く出ていて、お店も開いてるじゃあないの」

おやおや、停泊した港は、バルト海を望むドイツ有数の保養地なのだということをご存じないようだ。今日は休みだからこそ、人手が多いのは当然で、その日のために、レストランもお土産店もかき入れ時なのだ。

「キール運河を出て、バルト海のリゾート地、トラヴェミュンデに寄港します。そして、世界遺産の古都リューベックを楽しみます」

せっかくの寄港地である。なぜ、商船三井客船側は、ガイドブックに、こう書かなかったのか。

 

午前中の自由行動は6802歩だった。ギャングウエイの下で、水野さんが自転車を畳んでいた。ここからリューベックまで走ったという。バスで20分、電車でも20分。この距離を2回迷って、1時間半で着いたという。体力を賭けた観光を続けている。

レストラン瑞穂で、昼食をとって1330分には、再びイミグレを通って下船した。

 

Dscf2167 Dscf2177 Dscf2169 ここは、リューベックから20分、北の最終駅。ヨットハーバーであり、海岸線のプロムナード沿いに観光クルーズ船も多い、先回のニューオーリンズのような雰囲気。古い灯台もあれば、高層ビルのホテルもランドマークになっている。その先は、白砂一面に、ビーチに色とりどりのレンタル・ビーチベンチが広がっている。対岸には、パッサート号という4本マストの帆船が係留されていた。土産物屋には、古い灯台の置物や、パッサート号の文字が入ったキャップも売られていた。

地元の観光客やヨットマン達が、そっくり返って見上げる姿眼の先にある、日章旗をつけた8階建てのビルのようなにっぽん丸が、誇らしげに思えた。

 

意外にも菅井荘輔さんが、「デッキゴルフやってみたい」と言い出した。

「女もすなるデッキゴルフなるもの、男も一度は、せずばなるまい、て」照れながら言ってくれた。

Dscf2220 Dscf2219 今回、僕がデッキゴルフに誘って、美子さんのその夢中さ加減を呆れたように眺めていた荘輔さんが、してみたい、ならば、すぐにも、気が変わらぬうちに、と夕暮れのデッキに連れ出す。妻も誘って、4人で8個のパックを使う。徐々に面白くなってくれたようで、最後の1手違いで、僕らが勝ったものの、実に愉快な時を過ごした。これからも時間があったら、誰もいない、この夕暮れにやろうとなった。

 

大風呂に浸かった後、菅井夫妻の部屋でアペリティフを飲む。そのまま、ダイニングルームへ。

今晩は、船内イベントは無しの日、ノーアクティブティデーだ。ゆっくりとパソコンに日記が打てる。

 

食後に3階のフォトコーナーを通ると人垣が出来ていた。今日のハンブルグ・ツアー組も、つい先ほどの出港ダンスに興じていた姿も、プリントが掲示されていた。速くなった!

…それにしても、東ギャラリーは、なかなか再開されない。どうしたのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 5日 (火)

060524 キール運河

オランダを越え、ドイツのヘルゴランド湾から645分、錨を上げる。

8時前だが、キャプテンからアナウンスメントが入った。

「昨日の変化のめまぐるしかった天候、また揺れの苦しみは、今日の日のためにありました。明日で、ちょうど、クルーズの半分が過ぎます。キール運河が折り返しだと考えていただいても結構です。8時の時点で、現在まで13,678海里。クルーズ最終の距離、30,800海里からすれば、44%しか走ってのですが、これは、地中海での停泊が長かったせいです

朝9時過ぎにキール運河入り口のロックに入り、ここで水位を調整して門が開き、先へ進みます。海面の高さ差は、エルベ川 1.69メートル、バルト海 1.7メートル。

キール運河は、北海(Holtenau)とバルト海(brunsbuttel)を結び、全長約99キロです。
1895
年に開通し、通峡するのに平均78時間を要します。通峡可能な最大船舶は、長さ235メートル、幅32.5メートル、喫水9.5メートル、Air Draft42メートルとなっております」。

 

Dscf2060 Dscf2061 845分には、最初の水門に入るという。丁度、朝食の最中になるか。エルベ川を遡る。気温は11℃、海水温13℃。昨日までは雨だったようだが、幸い今朝の天気は晴れである。ついている。

沿岸が牧歌的な風景に変わってきた。羊が緑の草の上に白い点々を創っている。その先に、大型の風力発電塔が何基も連なっている。南西の風10m、波の高さは20cm。

脇を一艘のヨットが併走している。キール運河を一緒に抜けるのだろうか。

妻が、思わず、セールを操るヨットマンの格好を見て、「寒そう」という。雪の上にいるスキーヤーに寒そうと言うようなものだ。

一カ月後になるが、毎年6月下旬の「キールウイーク」という時期に、世界のヨットマンが参集するヨットレースがある。その試走かも知れないのだ。

 

いよいよ、また、草原の中を航走するおとぎ話のような光景が始まる。北海とバルト海を結び、ユトランド半島を横切る全長987km、巾102mの人口運河である。ドイツ海軍の潜水艦Uボートの基地があったことで知られるように、北欧への玄関口である。スエズ運河やパナマ運河がウン千万円の通行料を支払うのに比べ、ここは、無料だと聞いた。運河にかかる橋は7本。高さは40mに規定。これは大型船舶の航行を可能にするために設けた高さであるが、5万トンクラスになった飛鳥Ⅱは、残念ながら、ここを通行できない。現在は年間45万隻も通過している。将来は、運河通過の自動化が計画されていて、船舶の位置と速度を示す装置が整備され、投下標識の遠隔制御など、より簡単な管理が可能になると言うことだ。

 

昨夜は遅くまで渡辺登志さんと飲んだのでそのまま就寝してしまった。酔い覚めのモーニング・シャワーとなった。

朝食を終えた時、浜畑さんが近寄ってきてこう言ってくれた。

「萩原さんの今日の昼食は、特別に作ってありますから、ピンクのチップを見せて受け取ってくださいね」

4階のデッキに出てみると、ロングシューター・キングの松田さんが既に居た。スイスイマダム工藤が、不満顔。「誰も出てきーへん」業を煮やして「呼んでこぉ」とインフォメーションに走る。次々に工藤コールがかかる。しかし、部屋にいないとなると、広い船内はなかなか探せないから諦めることになる。偶数の顔が揃った。ノイジー・サンダル菅井とフランク・ヤサイ山縣が来た。

誘っていた西出さんが顔を出した。パックの打ち方を近くにいたスイスイマダムに訊いている。マダムは、西出さんを褒めながら、「やりまひょ、やりぃな」と仲間に誘う。二人に言われて、彼もついにデビューとなる。マダムの主人と西出さんは麻雀仲間で、僕とはイタリア旅行の仲間で、名古屋人会のメンバー。

スタッフの黒川君と6人で見切り発車したら、ユメレン・ファイター横田がカメラをぶら下げて現れた。すかさず、パックの番号を与える。いきなり打つ順番になった。苦笑いしながらカメラを襷掛けにして、打ち始めた。1時間の勝負。

西出さんのデビューは、マダムに散々フレームアウトされ、黒星スタートとなった。

2071 キラー・コンドル菅谷が現れた。ボケ・デーヴィル高嵜がスティックを手にした。スタッフの黒田君に代わり、蘇君が参加することになった。

2回戦。じゃんけんの組み合わせがイレギュラーになり、白先攻組は、松田、高嵜、萩原、山縣、西出。赤後攻組は、工藤、菅谷、菅井、ミセス松田、蘇となる。

 

戦況は、赤の固まり対白の固まりという陣地争いの形相。

途中から雨になった。雹が降ってきた。甲板をころころと白い金平糖が転がっていく。パックが床面に張り付いて動きが鈍い。それでも、プレイをやめようという者が誰一人いない。苦戦しても笑いで誤魔化す。

山縣、西出の二人にゴールしてもらい、松田、高嵜と三人で攻防戦。時間切れをしないよう、急ピッチで二人もゴール。白組は、賭に出た。僕独りが残った。

コンドル菅谷のミスショットを誘い、僕にホームを狙う飛び石ができた。まんまと敵失を利用して僕が上がる。制限時間5分前に全員ゴールという完全勝利。これで僕自身、本日2連勝となった。

 

Dscf2072 川岸は、相変わらず牧草地帯だが、ときおり、フェリー乗り場の近くに住む方々が手を振ってくれる。この圏内のネッターが発信したインターネットで日本の客船が通過する時間を知らされたのだろう、川岸の老夫婦が日章旗を持ち出して、大きく振ってくれていた。なぜ日章旗を自宅に持っていたのだろうか。飛鳥やにっぽん丸が通る度に振ってくれているとしても、年に1度か2年置きだ。余程の親日家なのだろう。

Dscf2074 Dscf2075 予想外の場所で、日章旗を目にすると、胸が熱くなる。懸命に振ってくれている老人の顔を見ていると、なんだか昔から知っていたような気分にも鳴る。ありきたりの手の振り方では申し訳なくなってくる。船の上から、多くの船客が満面の笑みを投げかけた。デッキゴルフのゲームに入ってくれた蘇君が、大声を張り上げた。

「ダンケ、シェーーーン!!」僕らも「ダンケ、シェーーーン!!」声が届くと、川岸の人たちも両手を挙げて応えてくれる。誰かが、「バーム、クウヘ~~ン!!」「ヒルメーシ、クウッタア!!」。川岸には届かないで欲しかったが、8階の甲板では、どっと笑いが湧いた。

しばらくすると、反対の岸では、少年たちが、自転車のペダルを力いっぱい漕ぎながら併走してくれている。窓からは、大きな布を振ってくれている奥さん。犬に引っ張られるようにして走ってくるトレーナー姿の小父さん。

スエーデンの旗をつけたエンジン航走のヨットも、デッキに立った青年がヘルメットを大きく振って抜き去っていく。キール運河は、川幅が狭い分、親しみがグンと湧く。人と人とが確実に通じ合っている静かな交流だ。菜の花畑のイエローも楽しみだが、こうした川岸との交流は、2003年の時にも感動させられた。

 

1145分、船内では、カジノプレイ券を増やすチャンスゲームが行われていた。自分の100$券を元に、簡単なゲームをする。上手くいけば、倍増、三倍増となる。昨夜のカジノで妻が30分足らずの内に、すっからかんになってしまっていた。マダム工藤から200$寸貸で、ゲームに参加する。運良く10400$を手にした。

 

昼食は、2階の瑞穂に神楽弁当を受け取りに行った。ゆっくりと景色を楽しませる航路では、神楽弁当が支給される。船内の何処へ陣取ってもいいのだ。飛鳥の運河通過には、巧くすり抜けられますようにという意味で、鰻弁当が出るという。こうした時に、飛鳥組とぱしふぃっく組が、にっぽん丸組にその違いを教えてくれるのだ。3船制覇しようという船客はまだしも、満室で乗船できなかったという飛鳥組やぱしふぃっく組は、贔屓の船を自慢するため、にっぽん丸ファンは目を背ける光景が起きるのだ。時折、3船の旗色があぶり出される。船内に巨人阪神中日が呉越同舟しているようなものだ。

リドデッキの左舷にテーブルを取った。僕の弁当は、これまで同様、シェフの手を煩わせている。妻の炊き込みご飯は醤油味を効かせてあって茶色。僕のは、白飯で作り分けてくれている。有り難い。ここまでしてくれているのだから、下船時の外食こそ注意していなくてはと自戒させられる。

 

昼食を終えたリドテラスでは、海水が抜かれたプール脇で甲板員がタイルを修理している。廊下では、天井の蛍光灯がチェックされている。穏やかな波のない、こうした観光水域になると、船内のスタッフは、持ち場、持ち場の船内の修理作業を黙々と行っている。絨毯の掃除、階段のステップゴムの張り替え、電球の取り替え、プールの清掃、船窓の清掃などなど、水道・電気・左官工事屋さんが一斉に乗り込んできたかと思えるほどに、繋ぎ服が動き出す。考えて見れば、三ヶ月間、貸し切りのホテルが海を移動しているのだと、あらためて実感する。

 

Dscf2085 3番目の橋を過ぎた辺りから、菜の花畑が広がってくるのだが、菜の花は一部分だけだった。周辺の多くは刈り取られていて、前回のような黄色一面の海は、期待できなかった。考えてみれば、3年前は515日だった。

今回のキール運河通行は1週間も遅い日程だ。それもそのはずだ。地中海での寄港地が多かったことに加え、大西洋岸から内陸の川を遡る航路が組み込まれて、その潮待ちに半日を費やすという贅沢なプランだった。すべてを季節に合わせようとするわけにはいかない。天気も思わしくなかったのだから、ここは、我慢すべき処になった。菜の花畑の件は、同船した現地のパイロットに訊くまでもなく、案外、船側は既に判っていたに違いない。辺り一面のイエローを敷き詰めたような景色を見ていたキール運河経験の船客同士は、今年のクルーズ客は気の毒だわねと言い合っていた。たしかに、菜の花畑は、あるにはあったが、川岸からは遠く、しかも、岸に沿って植えられた樹木に視界を遮られて、カメラには収められにくい距離だった。

Dscf2092 060526_07 東さんは、フライングデッキの先のレーダーのある塔に登りはじめた。なにが何でも見つけて撮ってやるという意気込みだ。確か、足を痛めていたはずだ。随行カメラマンという仕事も大変だ。命綱を腰につけていた。留守家族の読むネットでの航海日誌で貴重なイエローの景色を目にすることだろう。(写真は、東さんから掲載許可を得ました)

 

Dscf2058 ゆっくりと回っている白い風力発電機の林が現れた。ドイツには、1000箇所もあり、電力の19%が風力発電で賄われて、世界一だそうだ。また、この菜種油は、バイオ燃料として使われている。原子力発電ではない国策を試行している。

 

Dscf2100 レンズブルグ鉄橋橋に差し掛かった。「君が代」の曲がレストランから流れてきた。先回同様、日の丸は今年も掲揚されなかった。15時を過ぎたところで、急に陽が落ちた。景色の濃淡が薄くなってしまった。

デビュー戦を飾れなかった西出さんを後部甲板に誘った。デッキゴルフの練習を始めた。パックを真っ直ぐ打ち出すフォームと力加減を知りたがっていた。コースの中にある柱を狙って、ターゲットにヒットする練習をする。さすがにゴルフが上手いだけあって、呑み込みが早い。すぐにも、手強いライバルになりそうだ。

 

17時頃、7つの橋を抜け、ロックに入った頃、天気が崩れ始めた。また雨が降ってきた。ロックでは、20分ほど待機して出航した。途中キール湾にある、第二次世界大戦時のドイツのUボート造船所跡を船は迂回しながら見せて、8時間後にバルト海へ抜け出た。

 

船客は、おおかたが船室に戻りかけた。夕食前に大風呂に行っておくことにする。脱衣室での挨拶も、最近は静かなもので、淡々と黙々とそれぞれが手を動かしている。ツアーでの歩き疲れか、それとも人となりが見えてきたせいか、目礼が多い。

展望風呂というのは、日本船しかないのだが、湯船に浸かって外を眺めるのも一興だ。ロック内で待機しているので、反対側水路を通る貨物船の船橋から、望遠鏡をこちらに向けている船員が居た。我々側はどうってことないが、彼が首の向きを別の方に向けた。女性風呂の方角だ。首を前に乗り出した感じだ。隣の船員に何かを伝えている。その船もゆっくりと遠ざかった。

 

夕食が始まった。この時期になると、始まったという感じかただ。男女ともに、衣服に気遣うのにも肩に力が入らなくなってきたせいか、陸の上での素が見えてくる。普段はきっとああなんだなあ、と親しみを憶える人も出てきた。

 

席について、後ろを振り向きと、名古屋の高木さんご夫妻が並んでいた。

「ご一緒しませんか」高木敏恵さんから声をかけられた。喜んで、とセンターテーブルに移動した。そこへ西出さんが近寄ってきた。「名古屋系親睦会」を開こうと言ったら、西出さんが乗ってくれて、連絡簿作成のために、客室番号を尋ね歩いてくれていることが判った。

ロンドンを出航した日の夕食に“しよまいか”ということになった。レストランの平マネージャーに530日、16名席を「奥座敷(ダイニング瑞穂の左右は、奥まったスペースをそう呼んでいる)」に作って貰えないかと打診した。

今回のクルーズは、奥座敷を好む客が多くて、毎夕、自分たちの定席を持っているので排除できないとのこと。本来は、レストランの入口で、案内するというスタイルを採っているのに、定席を持つのはおかしいと差し込みたかったが、我慢した。センターテーブルのサイドとなった。どういう空気の親睦会になるか、楽しみである。

にっぽん丸船内で、県人会の集まりをしようと提案したのは、我々が初めてとなった。

 

夕食後のメインショーは、「京都茂山千五郎家 狂言鑑賞会」。初めての狂言である。なかなか出掛けてみる機会も少ないので、ドルフィンホールへ出掛けた。

茂山千五郎家とは、井伊直弼のお抱えの狂言師であるという。「豆腐のような狂言師」というのが家訓だそうで、誰からも愛され、飽きの来ない味わいがなければならないという意味が込められている。

600年続いている日本古来の笑いだが、金屏風以外大道具もないこの舞台では、観客に多くの想像をしていただきたいと、「つもりの芸」であることを説明された。さらには、「室町時代の吉本新喜劇だと、お考えくださいませ」、狂言師、茂山茂さんの挨拶に観客席は、空気が和らいだ。

「舟船(ふねふな)」、「仏師」の2題。言葉も判りやすかったし、所作も解りやすかった。茂山さん達の演目の選び方に感謝だった。クルーズの楽しみは、こうして滅多に接しられないカルチャーを見聞できることである。思いがけないヨーロッパの洋上で、鱧が楽しめたり、カイロの夜に、講談が聴けたりと。それいて、日本を離れていると忘れがちな、「子供の日」を鯉幟で思い出させてくれる。

 

高木さんに僕の本を進呈する約束をしていた。426号室のドアをノックした。西出さんには、明日まで待って貰う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«060523 北海