2009年7月 3日 (金)

060518 イギリス海峡


八点鍾が鳴った。キャプテンアナウンスが天井のスピーカーからから流れた。


にっぽん丸はビスケー湾を通過して、フランスのブルターニュ半島の角を回り込み、イギリス海峡に入ってきました。
 波がやや高いですが、思ったほど船体が動揺していないのは、追い波・追い風に助けられているからです。もし、逆方向に走っていたら大きく揺れていたでしょう。波が高い理由は、北大西洋にある低気圧が980hPaに発達して、アイルランドの方向に向かっているからです。それに伴って、南西方向からイギリ ス海峡に向かって強風が吹き込んでいます。スコットランド地方などイギリス北部のお天気は大荒れとなっていることでしょう。追い波だとはいえ、船が揺れることもあるのでご注意ください。

ただ、西側にある高気圧が東に進んでいますので、今後にっぽん丸が行くフランス、ベルギー、ドイツでは好天に恵まれることを期待しています。


  本日はノルマンディーのあるコタンタン半島を回り込んで、セーヌ湾に入り、ルアーブル沖に22時頃に到着、セーヌ川を上るために待機します。夜は錨を入れる音が響きますのでご了承ください。そして明朝、08時頃、水先案内人を乗せてセーヌ川を約80海里(148km)上り、ルーアンに向かいます。
 アントワープ、グリニッジでも川を上ってゆきます。ヨーロッパ経済の発達は、川を利用した水運に支えられてきたといっても過言ではないでしょう

 

今朝は気温14℃、海水温11℃と、さすがに北に上がってきた。3mの追い風で船足は快調だが、もし、この風向きが反対だったらドッタンバッタンだろうと、幸いなことに揺れのない航行を伝えたが、まだ今航海の船客には大きな揺れの免疫が出来ていないことが気がかりのようだ。たしかに、今回は大西洋に出たのに歩けないほどの揺れは来ていない。ただ、風向きがいつ変わるかで、揺れには心して欲しいということだった。

Dscf3566

 

朝食は830分ぎりぎりに入った。食べ終わりかけた頃に一龍齋貞心さんが僕のテーブルに座った。ご贔屓の方が大勢さん、声をおかけでしょうから、ネプチューンバーにお誘いするのはもう少し経ってからと思っていましたと言うと、私は飲めないのですと、意外な答えが返ってきた。ならば、食事をいつかと言い添えて席を立った、

急いでデッキゴルフの準備をしなければ、仲間を待たせてしまう。バンテリンを肩と腰に塗って、デッキゴルフに向かった。


白組でスタートしたが、誰が味方か判らないまま、順番に促されて玉を打ち出した。出出しのバタバタは昨日と同じだった。

追い風だから、後部デッキは寒い。プレイの途中で打ち終わるやいなや、慌てて着替えに帰る者、トイレに走る者が出る。風に煽られ、足元をふらつかせながらのデッキは、なかなか予断を許さない。静止している玉を微妙な角度で打ち分けようとするベテランには、この揺れが実に面白い。ビリヤードにもゴルフにもない、ハプニングが起きるからだ。ゲーム展開が戦術通りにはいかない。赤と白が右舷左舷で分かれるほど、差がついてしまった。赤の松田キャプテン組に、時間切れで負けた。痛みのあった喉は、診療室から貰ったうがい薬と抗菌トローチで効いたようだ。

2回戦も時間制限で開始。同じく白組になったが、1番ホールで敵に徹底的にマークされて何度も弾き出され、目玉(敵に2回連続してフレームアウトされた場合、3回目は攻撃されないという救済処置)を数回繰り返したが、動けないまま、長い時間足止めされた。大きく出遅れた。ベテラン工藤さん、高嵜さんもミスが出てしまう。更に僕のミスが続く。ミセス松田、山縣さんの二人をカバーする役も果たせない。完全に劣勢に立たされた。最後、敵は松田さんだけが残ったが、やはり、昨日のように、ホームゴールへのぴたりと入るナイスショットで、赤組は全員フィニッシュ。

休み明けから、僕のデッキゴルフは連敗が続いた。冷え切った体を展望風呂に飛び込んで温めたいが、未だ開いてはいない時間だ。


 

昼食は、初対面になる年配のご夫妻と一緒になった。後から東夫妻が同じテーブルに座った。東さんは、既にMOPASから委託されたカメラマンであることが知れ渡っている。当然だが、話題は「東康夫の航海日誌ブログ」となった。日本国内に発信したブログがライブラリーでプリント公開され始めたからだ。

「既に地中海の先のマラガを離れても、まだアジアのシンガポールまでしか読めないのは、どうしてなんですかねえ」と質問される。東さんは困っていた。


次には、「航海する楽しさを伝えてくださっているのに、先生が日本からの書き込みメールにいちいちお返事書くのも大変ですねえ、東先生との交換日記と勘違いされて(笑)」と同情されてしまった。確かに、この奥様の言われるのも尤もだ。日本の留守家族からの書き込みという新しい試みは、飛鳥には未だないのだ。ブログのメールに返信することまでが、カメラマン東さんの役目だとは思ってもいなかったことだろう。たとえ、彼が、元報道記者であろうと、ウエブマスターではない。

今回乗船を受諾した折りに、東さんは3年前とは違うモチーフを思案していた。そして、観光寄港地よりも、乗船客の喜怒哀楽を伝えようかなと僕は電話で聞かされていた。


これまで東さんのワールドクルーズやオセアニアクルーズ航海日誌では、彼の卓越した船舶知識や取材体験を以て、寄港地を含めた船の旅を教えられてきたが、実際には、3階の東ギャラリーの写真に特定の船客の顔が被写体として写ってくると、それに対して喜ぶ人、すねる人、嫉妬する人、媚びる人が出ていたらしい。このために、東さんは、群像やシルエットで撮るという東さんらしい気遣いがあった。それを今回は、楽しい、嬉しい、笑い合う、驚き合う船客の表情をモチーフにしてもいいのかなと、話してくれていた。

 

ところが、どうやら思わぬことで東さんの頭を悩ませたようだ。ウエブにアップさせる写真の枚数がこれまでのようには使えない、原稿の文字数も限られたらしい。

「写真が小さくて枚数が少ないので、前ほど船の様子がわからないと娘たちから携帯メールがありましたわ」と、同じテーブルになったご婦人の言葉は、口を結んだ東さんを頷かせた。

枚数が少なければ、船客の顔出しにも限りがある。乗船前に狙っていた、船客の喜怒哀楽を伝えたいという狙いは、寄港地でのディスティネーションも載せるとなると、ますます余裕がない。航海日記は、まだ体験者の少ないクルーズの楽しさを、留守家族だけではなく、潜在乗船意欲層に伝えたいという意図を持たせているものだと考えたい。

そうなのに、現実は、留守家族やMOPASファンから寄せられたメール交換にも、毎回東さんが応えるという予期しない作業が増えてしまったようだ。


QⅡの乗船体験もあるし、ヨットで太平洋横断クルーズもされたので、クルーズに関する知識は余人を持って代え難い方だが、写真を撮って原稿を書くほかに、船客の家族に責任あるコメントを書くという作業は、余計な心労を増やしているのではないかと思い始めた。それよりも、ご年配の奥様とのやりとりを聴いていると、船旅の様子を心おきなく伝える環境を以前のように創ってあげてほしいものだ。そう思った。

 

話はそれで終わらなかった。さらに、驚くことに、なぜか、ドルフィンホールで催されているメインショーのステージにカメラを向けられなくなったという。オーディエンスの方々にとって、東さんのシャッター音が耳障りだということがその理由らしい。「耳障り」ということ自体が、誠に以て失礼な言い方ではないか。しかも、MOPAS側から委託を受けて、船内のイベントを紹介すること、いや、記録として残す「職務」を遂行しているのだ。長野オリンピックの時の新聞社の報道担当者でもあった。シャッター音が、アスリートの選手に与える影響など、充分過ぎるほどに把握している人である。「耳障り」という言葉がよく口を突いて出たものである。たとえ、フラッシュが不用意に光ることがあったとしても、こうしたホールでは、プロの露光計算は船客の比ではない。高感度で被写体を捉えるだけではなく、PCで色調整まで毎晩されているのだ。心ない船客のクレームだとしたら、恥ずかしい限りだ。物腰の柔らかい東さんは、怒り心頭を抑えて、淡々とこのことを吐露された。しかし、僕の目には、東さんの顔に皺が増えたような気がする。

 

Dscf3570

午後から、波は穏やかになってきた。地下のシアターで映写される映画「ジャンヌ・ダルク」は、既に朝のデッキゴルフの時間で終わっていた。16時からの映画「ルマン」を観ようとしたが、ベッドで横になっているほうを選んだ。ルーアンからモンサンミッシェルへのツアーを控えているからだ。妻は、町子さんの「アートクラフト」教室にせっせと通っている。考えてみると、デッキゴルフ以外、ホントに食事とPCと昼寝という毎日になっている。

夕食前に、高嵜さんの部屋を訪ねた。デッキゴルフのメンバーと7階のリドデッキで集まる「ホールインワインの会」について話した。これまでに“ホールイン”を成功させた提供メンバーのワインは、少なくとも13本ある。1回の親睦会で飲み切るには、多すぎる。達成した回数の記録はリスペクトしながらも、その換算価格は、船内価格の10%支払いでいいことにしようや、という案が高嵜さんから出た。賛成した。翌朝、顔を揃えたメンバーの前で諮ろうということにした。

 

Dscf3571 今晩は、「地酒の夕べ」だ。日本各地の銘酒が17種類ほど並べられるだろう。飲みたい酒の番号をウエイターに伝えると、デキャンターに入れてきて、注いでくれる。先回は、これで、デッキゴルフの仲間が一人酔いつぶれてしまった。日本酒好きには、制動の効かない夜になるのだ。下戸の者には、突然テーブルの向こうから湧き上がる笑い声が、対岸の花火のように思える日である。

 

一龍齋貞心さんと夕食を一緒にしたいと電話した。意外にもお酒を飲まない人なのだ。

貞心さんとは、東京の黒門町「本牧亭」や日本橋の「日本橋亭」、また浅草軽演劇などに出演しているのを知っては出掛けて交流を重ねてきた。

今晩いろいろな話の中から、えっと驚くニュースがあった。落語発祥の地、下谷神社の話から、近くの谷中の全生庵で行われる811日の「圓朝忌」の怪談話になり、圓弥さんの名前を出した途端、「先日お亡くなりになりましたよね、圓弥さんねえ…」「えっ」と妻。「私より若いんですよね、彼は…」圓弥さんは、妻と同じ藤間流の踊りの弟子仲間であった。先月、にっぽん丸が出港してしばらく後に、他界したというではないか。

妻は、しばらく言葉を失った。

貞心さんが気遣って、話を変えた。お風呂と湯屋の違いから始まり、ふろふき大根の意味を教えてくれたり、講釈師の席には、昔、刀置きがあったという話に聞き入ったりと、彼の個人的卓話ですっかり、妻の気持ちは元に戻った。辺りを見回すと、もう客は誰もいない時間だった。ロス・インディオス・タクナウ・ファミリーのラストコンサートを聴くために、ドルフィンホールに向かったのだ。

 

僕たちは、部屋のビデオ中継でそれを聴きながら、パソコンを打った。明日からのモンサン・ミッシェルツアーのための準備を始めた。バスでの移動時間が長いので、服用する薬から、「ラシックス錠」(利尿剤)を抜いた。

 

ナイトシアターでは、「嵐が丘」が始まる時間だ。船は、投錨したのではなかろうか。どうやら、セーヌ湾に着いたようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年6月 1日 (月)

060517 ビスケー湾沖

今朝は、時差の調整で針を30分進める日だ。腕時計とデジカメ二台の時間を直す。イルカの大群が窓から見えたと妻が言う。僕が起き上がった時には、居なかった。間に合わなかった。天井のスピーカーから流れる八点鐘を聞きながら、歯を磨く。

 

八点鍾にっぽん丸はゆったりと大西洋を北上しています。ポルトガル領域から外れ、再度スペインの領域に入ってきました。現在、スペインの北西端にある港町、ラコルニヤの沖50海里(93km)を航行中です。本船から一番近いスペインの海岸までは、30海里(56km)です。
ラコルニヤの起源は、ケルト人にあると言われています。地中海から大西洋を旅していると、大昔からのヨーロッパにおける様々な民族の推移を感じます。

 

今、イルカの群れが本船の前方を元気よくジャンプしました!

 いよいよイベリア半島を離れて、フランス領へと入り、ボルドーの町が奥に位置するビスケー湾を航行します。ビスケー湾は、昔から荒れる海で有名です。そのせいか、夏が近いとは言え、海が少し荒くなっています。冬の間は大時化になることも少なくありません。

 Img_1092 現在、本船の後方からやや強い風波を受けている理由は、北大西洋の北西に995hPaの低気圧があり、そこから温暖前線と寒冷前線が延びているからです。また、 気圧の谷ができて、低気圧に吹き込む風が南からのやや強い風波となっています。幸いに追い風なので、あまり動揺を感じません。ビスケー湾の荒れる海の 「夏版」を体験してください。ただこれ以上、海が荒れることはありませんのでご安心ください。
久しぶりの2日連続の終日航海日です。これまでの疲れを癒してください

 

朝食もレストランの一番奥のコーナーで黙々と口にする。体は、昨夜のバンテリンが効いているようで、デッキゴルフには支障がないように思える。

 

プロムナードデッキを歩いて行くとすれ違いで、寒いからと着替えに戻ってきた工藤さんと出遭う。後部デッキに出ると既にオールスタッフが集まっていた。菅谷さんが手招きしている。僕には赤組の番号順が与えられていた。誰が味方か判らない。急かされるままにスタートラインを打ち出した。唖然とした。敵陣は、高嵜、松田、工藤のベテラン組だった。それに、高橋、横田、ミセス松田の三人。赤組は菅谷、菅井、山縣、中島、萩原、黒川。


今朝の工藤さんは絶好調だった。第2ホールから第3ホール、そして第4ホールを敵無しの無風状態でスイスイと打ち続け、5番ホールにも1打目でワンパット圏内に付けた。僕はといえば、ロングの距離がさっぱり当てられず、たとえ当たったとしても敵玉を弾き出すほどの力もなく、自軍を助けることも出来なかった。

ゲーム展開で言えば、各ホールで赤白が混在しているのではなく、白パックと赤パックがそれぞれのホールで一色になっていた。ワンサイドゲームに近かった。白玉が権利玉(第5ホールを陥れた時点)となってゴールの周辺に集まったとき、1015分となった。時間切れで我々の負けが決まった。


P10300772回戦は、白組が横田、菅井、工藤、萩原、高嵜。赤組は山縣、松田夫妻、菅谷、中島となった。先攻の白が速攻をした。赤の中島さんが意外にも1ホールを苦戦した。白の横田さんは早くに自力で抜けだした。赤の山縣さんが、4ホール目で出し入れを繰り返していた。白組は、全員が権利玉になるのに、時間はかからなかった。

白は工藤さん、横田さん、菅井さんと三人がホールアウトをしてしまった。こうなると、我々白は、高嵜さんと僕の二人で、ゴールに接近してくる敵の赤組を応撃する位置に着いた。敵はミセス松田が上がった以外は4人が残塁している。


何度かの攻防戦を繰り返しているうちに、上がれという高嵜キャプテンから指令を受けた。高嵜キャプテン一人で4人を相手にするという。陽動作戦が取りにくいが成算有りだろうとみて、僕は上がった。その後、敵側の中島さんが上がり、1対3。


高嵜さんが勝負に出た。敵の松田キャプテンを場外に打ち出そうとした力強いショットが無残にもミス。悠々と松田キャプテンが打った玉がゴールの外円にぴたりと止まった。脱帽のナイス・ミドルショットだった。残っていた山縣さんへの格好の台を創った。これで、僕は2戦連続敗戦。休み明けを飾れなかった。


 

昼食は独りだけでいた高嵜さんのテーブルに案内された。奥様は酔ったのだと嘘ぶいておられたが、妻はランドリールームで廣子さんに会っている。そこへ、道子さんが来て、「高嵜さんって、独身?」となったから、高嵜さん、喜んでその気になって言う。「ああ、奥さんではないんだ。彼女とは、船内同居しているだけ」いつものように、とぼけている。街に出歩いているときは、他のご夫妻のように手を繋ぐほどの距離では歩いていない。さっさと先に歩いて、廣子さんがかなり遅れてついてくる。そのせいかと笑ったが、僕も同類だった。


P1000444 食事が終わって、また廣子さんに、妻はランドリールームで会ったという。本当にそうなら、体調が戻られているといいのだが。廣子さんは、卓球にかけては船内随一で、椅子を片付けたドルフィンホールで鋭いスマッシュを決めているほどで、船酔いにも負けない方だと思っている。船は、さきほどよりゆっくりと揺れ始めている。


食後の昼寝をして、1745分のモンサンミッシェル・ツアーの説明会に1階シアターに降りる。今回は、バス2台で60名の参加だそうだ。ツアースタッフは伊藤、平山さんと清水チカちゃんの3人。

 


レストラン瑞穂は1830分にドアが開く。ところが、気の早い人たちは、随分早くからエントランスに集まり、ドアに向って長い行列が出来る。どうもそうして並んで待つのは苦手だ。列が引いた頃合いで入りたいと、少々遅れ気味に出ていく。今晩のドレスコードはインフォマーシャル。ネクタイさえ締めていればいい。カジュアルジャケットを羽織っただけで出掛けた。階段を下りたところで、丁度、高嵜夫妻、松田夫妻、菅井夫妻と一緒になった。


平野マネージャーに8人席を頼むことにした。妻は、事前に高嵜さんから一緒のテーブルにと誘われていたようだった。休み明けの連敗を詫びる意味で、ワインボトル、白赤2本を頼んだ。赤のキャプテンと白のキャプテンが揃ったことだからだ。


和気藹々で話が高まった。食事も終わり、デザートも珈琲も飲み終わった。さて、チェックをしようにも、テーブルにワインの伝票が来ない。この様子を見ていたのだろうか、松田キャプテンが、「私の奢りにさせてもらいましたよ、連勝したのは今日が初めてだったので」。そう、声が飛んできた。詫びるつもりが、祝いのワインとなった。もっと、早くにそれに気付けばと、恐縮してお礼を言った。

 

食後のコース、メインショーには今晩は行かずに、体を休めることにした。体調を整えて、明日もデッキゴルフがしたいばかりに、だ。明日は風が強そうだ。ミスをしないように!と。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月 6日 (水)

060516 ポルト


 

朝は時差の調整で1時間巻き戻した時間となっていた。起きたのは、715分。つまり、時差がなければ、朝食にはアウトだった。昨晩は、二人とも3時までパソコンを叩いて写真の整理をしていた。


999_3447 朝食には、高嵜さん、東夫妻、仲野先生とのテーブルに案内された。なんだかんだとメールの話などをしているうちに、シャトルバス発車の時間になってしまった。急いだ。

「このポルトには、カンペールを売っている店はないようですね」内山さんが僕を見つけ歩み寄ってきて申し訳なさそうに、そう報告してくれた。この街で、靴探しは、諦めた。

 

<コース名:ぶらり散策 古都ポルト半日観光(午前)>これが、本日のオプショナル・ツアーのタイトル。

9時のスタートで、バスは2号車。日本人ガイドは清水さん、ローカルガイドはパウロさん、そしてドライバーはマルデマールさん。にっぽん丸の赤いポロシャツを着たツアースタッフは、ディラーをしている佐藤敦子さんとスポーツトレーナーの高橋けいこさんの二人。「夜の女と朝の女のコンビです」と、巧い自己紹介があった。乗客に受けた。拍手しながら笑いこけた。

 

ポルトはヨーロッパ大陸の最西端で、リスボンに次ぐ第2の都市。商工業の街である。人口は1000万人で、ほぼ東京都と同じだが、土地は92100㎢で、スペインの1/5。北から南までは560km、海岸線は850kmと、細長い国である。

市内に30万人、郊外には60万人で、都心部への通勤ドライバーによる朝のラッシュは何処の国も同じだ。街が世界遺産に認定されたために、街のあちこちで道路や世界遺産建築の保全工事が行われて、年中工事中になっているそうだ。ポルトガルのオフィスは10時始まりが多いので、このラッシュ時を港から中心街に向かう道は30分と少々時間がかかる。

 

999_3445ポルトは、正しくは冠詞が付いて「オ・ポルト(港の意味)」という。昔から交易、航海の出発点としていたことが解る。カレはローマ軍が駐留していた当時、リスボンとブラガ、またローマとブルガを結ぶ交易の中継地点として栄えた。

ローマ帝国が衰退した後は、ムーア人に50年間支配され、フランス・ブルゴーニュの貴族アンリ(エンリケ)伯爵が、教会勢力や十字軍などの支持を得て、レコンキスタ(国土回復運動)を起こした。ポルトゥカレ伯になったアンリ伯の息子、アフォンソ・エンリケスが、更にレコンキスタを進めて、1143年にカスティーナ王国から分離独立をした。ここに、ブルゴーニュ王朝が始まり、初代ポルトガル王になった。この時、北のポルトとドウロ川を挟んだ南の、ガイアという地が共に連合した。ガイアは、以前、カレと呼ばれていたことから、「カレの港」、「ポルトゥス・カレ」という呼称が、この国名、ポルトガルになったのである。

 

14世紀には、欧州に蔓延した黒死病を怖れた貴族や地主が、教会や修道院に土地財産を寄進したことから国王の税収が減少し、再びカスティーナ王国の軍が動き出した。この対抗策として、英国の弓兵の援護を受けることで、英国との同盟が強化されていった。ワイン製造輸出業者には、何代も住み着いた英国人が多くなっていくのは、こうした背景があったからである。

 

15世紀から16世紀にかけてポルトガルは、世界に君臨する海洋王国だった。その植民地だったブラジルやアフリカの一部では、現在でもポルトガル語が通用する。

1543年、日本の種子島に来たのは、ポルトガル人だった。それ以来、随分と日本語化された言葉が多いのは、よく知られているところだ。


Paoのパン、capaのカッパ、kopのコップ、それにボタン、タバコ、金平糖、カルタ、ばってら(バテラ船)、チャルメラ(チャラメラ)、シャボン、ピンキリ(ピント=ひよこ、キリ=キリスト)、おんぶする(オンブ=肩)、先斗町(ポント=先っぽ)、トタン、天ぷら(テレプラス。この日は、肉食が御法度のキリスト教徒は、野菜や魚をフライにしていた)だが、カステラに至っては、豪州のカンガルーと似た問答が語源となった。大名に献納するとき、木箱に入れた。家来が指さしてこれは何だと問うた先には城の焼き印があった。ムーア人を追い出した七つの城を紋章にした焼き印だった。キャッスル=カステラと答えたというのだ。誤解がそのまま、日本語化したのだ。ポルトガル人には、意味不明の代物となったのだそうだ。

未知の人との交流には、思い違い、勘違いがそのまま、その人の評価にされかねない。だからして、この船の中での船客同士の誤解も、互いに避けたいものである。

 

バスは、シャトルバスの発着所になっている市庁舎の坂を降りていった。アリアードス大通りの広いグリーンベルトを抜けて、グレリスコ教会には向かわず、左折してサン・ベント駅から坂を下り、カテドラルへ到着した。

999_3462 カテドラルの正面を見上げると、鎧甲冑姿の銅像が立っている。イマラ・ペセラとかいう武将で、ムーア人をこのポルトから追い出した守護神のような人物だそうだ。聖堂の壁一面は、そのムーア人が残したアート・タイルの技術で描かれた青と白のアズレージョが、彼を引き立てている。

 

このカテドラルは祭壇が見事だと言われているが、内部に入る様子もない。「道路側」「道路側」とガイドが口にしたのは、眼下に流れる「ドウロ川」のことである。ここから、そのドウロ川の対岸にあるワインセラーの眺め、また、市中の眺めがいいのでカメラスポットとして停車したに過ぎなかった。



999_3473 ドウロ川には5本の橋が架かっているそうだ。その中でもエッフェルの弟子が1886年に造ったというドン・ルイス橋が見える。エッフェル塔を横倒しにしたような橋だ。設計したエッフェルの弟子は、ベルギー人技師で、この橋の高さは68mもあるという。両岸の高低差のために2重構造で、上はポルトの中心と対岸の丘の上を、下はポルト貿易センターとヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアのワイン工場を結んでいる。バスはこれから、ワインの貯蔵庫が建ち並ぶ街、ガイア地区に入るのだ。

宮崎駿のアニメ「魔女の宅急便」でキキがホウキに乗って飛んできた街だよねと、誰かが話していた。

 

エッフェルと聞いて、思い出すことがある。リスボンで、エッフェルの造った、いかにも堅牢そうな大きなエレベーターに乗ったときのことだ。今日が僕の誕生日だと口にしたら、乗り合わせたアメリカ人観光客がハッピバースディ・ツーユーと全員で歌ってくれた。パリに向かう前日の42日だった。エッフェルと聞くと、嬉しいそれを思い出す。


 

999_3480 999_3481 ドウロ川を渡ると、ワインブランドの看板が一斉に目に入った。牛のマークのオズボーンとか、よく飲んでいたサンデマン、帆船マークのカレム、獅子のマークのティラーズ他、ワインラベルの屋外広告が山の斜面に沿って立ち並んでいる。川縁には、クラッシックな船がワイン樽をくくりつけて浮かんでいる。ワインブランドのロゴやシンボルマークが帆に描かれている。訊くと、ラベーロ船という。あたかも、川がショーウインドーのようだ。現在は宣伝用としてドウロ川に浮かんでいる。今は、年に1度、624日の聖ジョアン祭の日に、昔ながらの衣装を着た船頭らが、河口からこの場所までレースをするんだそうだ。

 

日本人が最初に口にしたのは他ならぬポルトガルのワインである。16世紀半ばポルトガルの宣教師によってもたらされた。安土桃山時代にフランシスコ・ザビエルがまず鹿児島で領主、島津貴久にチンタ酒を献上し、次は長門の地に伝導し、領主大内義隆に献上した。織田信長は滋養強壮によいと珍重していた。珍陀(チンダ)とは、ポルトガルの赤ワイン、ティントであった。

「ポートワイン」と言えるのは、上流域のドウロ山地で栽培された葡萄酒をパイプという樽に詰め、ラベーロ船で、このガイア地区に運び、酒庫で一定期間の熟成を経てポルト港から出荷されたものだけである。尤も、いまではラベーロ船ではなく、大半がトラック輸送をしているのだが…。

 

999_3479我々のツアーバスのコースには、サンデマンで試飲することが入っている。バスは、サンデマン本社の前で下車した。



 

999_3492なにやら、柱に目盛りの描かれた玄関を入る。

 

理由が判った。雨季になると対岸のドウロ川は洪水になるそうだ。長年に亘るその洪水の水位を、玄関に掲示しているのだ。貯蔵庫の中にもそれがあった。伊勢湾台風に襲われた名古屋の実家も、その恐ろしさを忘れないようにしろと、父親が柱に傷を付けて、海水の高さを示していた。たとえ洪水に浸かっていようとも、1週間は持ちこたえられるように樽は造られているという。我々をガイドする社員は、ブランドマークのサンデマン・マントを羽織っている。

 

サンデマン・マントと呼ばれているこの黒マントは、コインブラ大学(ポルトからバスで1時間半の距離にある名門大学だそうだ)の学生が羽織る伝統的な黒マントであるが、実は、日本に伝わってきたポルトガル語に大いに関係する。これこそがcapa(カパ)、つまり、合羽である。


P1090084 上野の合羽橋の合羽は、人の名前である。湿地帯だったあの地域は、ドロウ川同様に、頻繁の出水で住民が困っていたのを、私財を投げ打って堀割工事に当たったのが、合羽屋喜八という人物で、隅田川の河童たちが手伝いに上がってきた完成させたという謂われがある。その河童は、河童川太郎として、商店街に立像が立っているが、現実の合羽喜八は、合羽本通りの曹源寺に墓がある。僕の家から歩いて10分ほどのところだ。

 

江戸時代の日本では、男の道中着が「合羽」と言われ、近年「ケープ」といえば、女性の、和装洋装に羽織る短いマントの名称になっている。

 

薄暗い樽の保存庫を抜けると、明るくなった広間に通された。ここで、PR映画を観させられた。日本語版だった。1928年に創業されたサンデマン・ワイン。「サンデマンは、見事なアドマンだった」のだ。実は、英国人が買い取って創りあげたワインである。経営者が実行したのは、同業者に先駆けてロゴマークを制定したことだ。ラベル・マークをデザインしてボトルに貼り付けた。媒体を活用して、ブランド化を加速した。そのロゴ・マークは、ポルトガルの学生マントとスペインのカバレイロ帽子を組み合わせたもので、名前まで、「サンデマン・ドン」と名付けてキャラクタライズしていたのだ。かの、牛のマークやティオペペのおじさんマークは、その後に生まれたキャラクターなのだろうと想像できる。いまでは、山の斜面に誇らしげに立っている姿を、ボルサ宮前のエンリケ航海王子が指さしているようで面白い。

 

ポートは、いわゆる通常口にしているワインとは違う。シェリーやマディラといわれるアルコールの強いワインである。アルコール度数は20度。発酵中のワインにブランディを加えて、発酵を途中で抑えることによって葡萄が本来持つ果実の甘さを残しているのが特徴。白は冷やし、赤は常温でいいとされる。

3年前のティオペテの工場では、試飲できる種類は多く、つまりは買える種類も多かった。ここで試飲できるのは、当てがいぶちの量で出された2種だけ。アペリチフとビンテージの極端な2品種だった。尤も、ティオペペの時も、空き腹で試飲を重ねた人は酔ってしまった。そしてあのときは、工場直販でしか手に入らないという銘柄を、僕も随分と買ってしまい、バスまで両手に重い荷物を持って閉口したが、今回は、玄関前にバスが着くのでこの点は楽だ。

ビンテージは、コルクを開けたら、二日間しか持たないが、1994年もののビンテージなら、いくらか日持ちがいいと説明される。結局は、1994年ものを買う人を増やした。

 

こうしたガイアのポートワイン工場は、20カ所弱ある。いい気分で試飲のはしごをすると、強いワインだから、酔うこと間違いなしだ。開館時間は10時頃から夕方までで、正午から14時までは休み時間となる。尚、土日祭日は閉館のところが多い。


 

999_3498999_3495 再び、ドウロ川を越えて、ボルサ宮に向かった。エンリケ航海王子が指さす銅像の前でバスが停まった。エンリケ航海王子は、外洋航海には2回の経験しか持っていなかったが、その後、彼は航海大学を創ったそうだ。

そう、このエンリケ王子は、ポルトガルの万国博覧会のシンボルとしてリスボンに建てられた「発見のモニュメント」で、バスコ・ダ・ガマやマゼランら探検家や科学者、ザビエルなど30名を率いて舳先に立つ王子である。

 

ボルサ宮の「ボルサ」は、株を意味する。焼失した修道院跡へ19世紀に建てられた証券取引所で、ポルト商工会本部である。ボルサ宮の特徴は、高い天井の明かり取りをガラスで設計した中央のドーム。1842年に、ポルトガルで初めて鉄を使った建築として残ったのだが、これが、後の鉄橋建築への先がけとなったのだという。証券取引所ありて、ドン・ルイス橋が架かった。

 

また、「アラブの間」は、ムーア人、つまりアラブ芸術の微細な模様で、アルハンブラ宮殿を模したものだった。極彩色のアラベスクが見ものだが、壁のタイルの一部には、「すべてはアーラの神のもの」という、アラビア文字が文様となっていた。3年の年月を費やしたこの柱の装飾には60kgの金が、すぐ横にあるサン・フランシスコ教会では、樫の木で彫刻された、二重三重の立体的な内部装飾に金は100kgが塗られた。そう聞かされて、眺めていた船客から、感嘆の声が出る。当時植民地だったブラジルから金が大量に手に入るようになり、このような贅沢な装飾が可能となったという。

左から2番目の礼拝堂にある、キリストの家系を木の幹と枝に示したのは、有名な「ジェッセの家系樹」だった。また船に横たわったマリア様、というのはサン・フランシスコ教会だけだとガイドの説明があった。

 

 

どんよりとした曇り空だった天気は、光が出てくると、夏になっていた。長袖を着ていたが、汗ばんできた。帰船して半袖に着替えた。

ここ、ポルトガルの気候は、5月から10月までが夏で、特に、6月から8月までには、40℃の日が続くことがあるそうだ。冬は12月からで雨季に入り、3月のある日を境に急に春めいて4月は日本で言うところの梅雨になるという。つまり、日本と同じ四季があるのだ。

しかし、今冬は、52年ぶりにリスボンに雪が降ったことが世界的なニュースになった。雪が降ったことよりも、そのことで、リスボン市民が大人も子供も雪投げに興じて、1時間業務がストップしたことが事件だったのだそうだ。

 

999_3509 999_3507プショナルツアーが多くある日の船での昼食は、ビュッフェ形式になる。船内に残っている人数が少ないことからのバランスである。冷やしうどんを見つけたのでがダブルにしてもらう。僕にとっては、食べてはいけない牛丼があった。たまらず、1/4の小盛りにしてもらう。醤油味を口にしたのは、何ヶ月ぶりだろうか。刺身でさえ醤油を使わず、山葵だけにしている。ゆっくりとミニ牛丼を味わった。埠頭では、新鮮な食材が運び込まれていた。

 

シャトルバスは13時から1便のみとされていたが、ツアーバスの帰船時間が遅れたこともあって、1330分にも増発しますと、クルーズスタッフが教えてくれた。妻を急がせたこともあり、菅井美子さんは早く市中に入って、ゆっくり歩こうとステップに足をかけていた。

シャトルバスが走り出した。ツアースタッフがガイドをしてくれる。「アズレージョなら、是非、サン・ベント駅舎の壁を見てきてください」三木エージェンシーから派遣されているガイド役兼ツアースタッフの伊藤さんから薦められた。まずはそこへ向かうことにした。

 

下車したら両替をしたい、と菅井夫妻がいう。チベタベッキア以降、ヨーロッパでの船内両替は行いませんと通達があったので、ここらで不足分を変えておく必要があったのだ。探しながら歩くが両替所はなんなく見つかった。

自分たちだけで、替えてみるといい、二人は中に入った。レイトは149円だった。嬉しいことに高く戻っていた。


サン・ベント駅へは、下調べ済みの道で抜けて行こうと歩き出したが、美子さんが不安がった。一旦本通りに戻ってから駅を目指した。近道も間違ってはいなかった。頭に中に入れてきた地図は、大丈夫だと安心した。赤いポストがあった。街に対して急に親近感が湧く。

 

   999_3523_2 999_3522999_3516サン・ベント駅は、20世紀初頭に建てられたというポルトの表玄関である。事前にボルサ宮で絵葉書を買っておいたが、壁から吹き抜けの高い天井までのブルータイルの壁画、アズレージョをこの目で観ることができた。カメラにも収めた。史実に基づく歴史や生活をテーマにしたタイルの壁画だということだが、ガイド無しのため、詳しくは解らなかった。ここから更にリスボンへ向かう南に下ったアベイロ駅の駅舎には、もっと多くのアズレージョを見られるそうだ。鉄道列車での観光なら訪れることも出来るが、時間のない旅である我々には、記憶に留めるだけにするしかない。


999_3517 駅構内は終着駅としての列車留めがあり、上野駅に戻ってきたような気分になった。

改札口のない欧米の駅は、往々にして日本人を戸惑わせる。ホームに出る口に、電磁チェックの機械が立っている。日付と時刻をチケットの磁気カードに記録させるようだ。僕が、グラナダからマラガまで乗ったときには、こうしたシステムは、まだないアナログの時代だった。乗客がそれにチケットをかざして通るのを見て、菅井夫妻は、ローマでの列車体験の戸惑いが解消されたようだ。

 

駅を出た右手には、少しだらだらとした登り坂がある。その先に、地元の人で賑わう商店街が見えているが、美子さんはどうやらこの坂は登りたくないらしい。それならば、と美子さんが行きたがっている青果市場へと、頭の中の地図を思い浮かべて、緩やかな道を選ぶ。しかし、市場の閉まる時間が気になった。マラガの二の舞になる。歩きながら妻には、この辺りの右側だがと、小声で言っておいた。5mも歩かないうちに、地下に色とりどりの花が目に入った。999_3528 999_3529 生花市だ。覗き込むと、青果も並んでいた。階段を下りてみると、ここが、目的のボリャオン市場だった。なんと、足下に市場が現れるとは!地下だとは、地図に書いてはなかった。夏でも冬でも室温が安定していて、いい考えだ。

 



降りると、美子さんは、一目散にキュウリを求めて早足になった。妻には、イチゴがあったら買おうと言っておいた。イチゴは1kg2ユーロだった。美子さんからは空豆も見つけた、と声があった。美子さん、マラガでは買えなかった酒のツマミを見つけて嬉々としている。きゅうり1本、空豆、イチゴお買い上げ!!

 

999_3537 頭の中の地図では、市場の裏側の通りが、確か、繁華街のサンタ・カタリーナ通りになるはずだが、念のため、野菜を売っている小母さんに訊いた。2本向こうだと教えられた。一足先に出て確認する。角にはアズレージョで彩られたアルマス教会があった。


さすがにサンタ・カタリーナ通りは観光客が溢れていた。この土地で、もしも「カンペール」があるとしたなら、ヴィア・カタリーナというショッピングアーケードかもしれないと、目星を付けておいた。意外に大きいビルだった。念のために入って探しておきたかった。僕以外は、靴に興味があるわけではない。念願のきゅうりや空豆も手に入れたことだからと、三人には階上のカフェで休憩してもらうことにした。999_3541

 

アーケードの掲示板から、フットウエアの店を3軒見つけ出し、その階数を憶える。エスカレーターで登り、素早くカンペールのロゴか、それらしい靴を探す。ロケハンの時、僅かな時間に買い物をしていた癖が出てきた。最後の1店舗に、ついに、それはあったのだ。

店内には、カンペールのロゴマークもなく、他のシューズと混じってひっそりとディスプレイされていた。ところが、探しているデザインではない。そのカンペールは、ブラウンの一枚皮。日本には未だ出ていない形だった。

サイズ42を出してもらう。プライスは123ユーロ。なんてこった!原産地のスペインでありながら、ローマの三越と同程度の価格とは。高い。…迷う。

……少し、気が急いているのが判る。クレジットカードを出す。ところが、この店、キャッシュ以外は駄目だという。「銀行で替えてから来てくださいな、待ってます」と、女店員はにこやかに笑顔で言うのだ。「オブリガード!」と一旦店を出て、みんなの待つ最上階のカフェテリアに上がった。経緯を話すと、美子さんが現金を貸すわよと言ってくれる。もう一度、冷製になる。

履きたいデザインとは違う。迷ったくらいなのだからと、此処では買わないことにした。エスカレーターで降りながら、全員で店を見て回った。ネックバックをカバーする帽子を美子さんが見つけた。女性用だった。彼女は迷うことなくそれを買った。これで、美子さんは、デッキゴルフのための帽子、短パン、シューズを外貨で揃えたことになった。

 

もう少しサンタ・カタリーナ通りを歩ける時間はあったが、バス停に早めに帰りたいという意見が強かった。左折すれば市庁舎の裏に出るだろうという勘で路地に入った。美子さんの不安そうな顔を横目で見ながら、ドンドン進んだ。やがて、視界が開けて市庁舎の脇に出た。美子さんが叫んだ。「あっらあ、あそこぉ、シャトルバスの乗り場ね、ね、そうでしょ!出たああ!はははぁ」笑った。


アリアードス大通りのシャトルバス発着所には、既ににっぽん丸の船客が集まっていたが、予定のバス発車時間からすれば、25分も前であった。

ブラジル王と呼ばれたドン・ペドロ4世の騎馬像のあるリベルダーデ広場から、以前はムニシピオ(市庁舎)広場と呼ばれたフンベルト・デルガード将軍広場までのアリアードス大通りは、銀行を中心としたビルに囲まれている。ぶらつこうにも、時間つぶしの場所はなかった。ただただ、バスを待つだけだった。

 

16時半、帰船して展望風呂に行く。中で、西出さんとバッタリ。一日中自由行動だったという。ドウロ川での50分間クルーズもしたし、ワインの試飲もしっかりしたし、自分たちの足で、ツアーバス分を安く体験してきましたよと語ってくれた。

山縣夫妻も、パンを買ってドウロ川の堤に座ってワインを飲んでいたという。中島夫妻は、エッフェルの橋の先にあった小さな公園が予想外に眺めが良かったといい、シャトルバスよりも早くに出掛けた木島夫妻は、グレリゴス教会に誰よりも早くに登って、76mから市内を眺めることをまず目標にしたという。橋と川とクルーズ船とワインという組み合わせは、意外に自由な時間をそれぞれに創らせたのだ。

 

18時、菅井美子さんから、早速に、茹でた空豆が差し入れられた。美味かった。妻はイチゴをお返しにしたようだが、あれ、甘みはなかったわねえと美子さんから教えられた。即座に答えられなかった。そうか、イチゴは妻が一人で食べていた。

 

明日はデッキゴルフに参加しよう。バンテリンを肩に足にと塗りたくった。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2009年5月 5日 (火)

06.05.09.シエナ~サンジミアーノ

 ホテルの朝は爽快だった。いつも、ヨーロッパの ホテルというと、不思議なことに、部屋にミルクっぽい香りがある。大理石の床なのか、それとも床材に染み込んだオイルの匂いだろうか、窓のパテの臭いだろうか。今日は、シエナからサンジミアーノを経て、フィレンツェがゴールだ。

 Dscf1308Dscf29821集合場所のロビーに阿刀田さんが現れた。まだ誰もいなかったので、妻がカメラを手にして言った。「高・高コンビで写真でも撮りませんか?」「なるほど、なるほど」と、先生は快く応じて下さった。

 エクセドラを出発したのは、8時10分。ホテルの前では、軍服姿が忙しなく動いている。パトカーが数台来たかと思えば、テレビ中継車まで停止した。オートバイに跨った制服組も続々と集まってきている。どうやら、高名な方が亡くなったようだ。セレモニーが始まる前に、バスはその場を離れた。

 

Dscf1311  走り出してすぐに、車窓に雨粒が斜めに筋を引く。空は、どんよりしてきた。

雨足が強くなった。風も強くなった。2箇所の観光地を傘をさして歩くのは敵わないなと思うほど、窓の外は荒れてきた。急に横殴りの雨に車内は先行きを案じて顔を見合わせる。

 長旅であるから、バスのスピードは、かなり出している。途中、トイレ休憩で立ち寄ったガス・ステーションでも、絵葉書を買う人以外は、そそくさとバスに戻って眼を閉じる。3時間ほど走ったころに、ようやく雨雲から抜け出した。

 

Pict2603 Pict2606 Pict2605  小さな村の一角にあるレストランに停まった。昼食だった。

客は我々だけが予約してあったのだろう。ツアースタッフが選んであったワインを口にしているうちに、食事が運ばれてきた。ワインは山積みにしてあるが、ウイスキーやリキュールの類いは、木箱のままディスプレイされてある。天井からは、洒落たデザインの豆球が吊り下げられてあった。夜は、案外いい雰囲気を創っているのだろう。料理よりも、パンがやたらに美味かった店だった。テーブルのあちこち、まだお互い、打ち解けるまでには至っていないが、フィレンツェまで2箇所の世界遺産を歩いているうちに、打ち解けてくるだろう。

 

 


Dscf1313 Dscf1317  車窓からの風景も 葡萄畑や糸杉並木、小高い丘陵地帯が続いた。これが、絵の具で名付けられているシエナ・カラーというものかと、この地方の土の色を眺めた。叔父が洋画家だったせいか、妻が饒舌になってきた。僕も、コンテを握ったり、イーゼルを立てて、油を少しやっていたのだが・・・。

 

 シエナ市内に入った。1314世紀、トスカーナ地方の金融業で豊かな財力を得た中世都市。街には、2本のバンキ通りがある。バンキとは、バンコ(銀行)の複数で、その通り、何店かの銀行が軒を並べていた。


 旧市街へは車が乗り入れ禁止となっているので、バスを降りて歩く。街道筋の、城壁に囲まれた村という雰囲気。数百年前から変わることのない世界遺産の街である。狭い通りには観光客相手の店が軒を連ねていた。Dscf1374_2 トレドのような陶器の皿が派手な色彩で焼かれて、店先に飾られてある。空路で来たのではないから、こうした陶器類にも興味が出てくる。船旅の良さで土産物への関心が変わってくるのだ。船室の中に入れば、例えそれが椅子であろうと、大きなテラコッタのガーデニングポットであろうと持ち帰れるのだから。尤も、バス旅行中であるから、自ずと重さとサイズには制限がある。

 

Dscf1341Dscf1353Dscf1347 目の前の景色が広がった。スープ・ディッシュのような、緩やかなスロープがついた扇型の広場に出た。カンポ広場である。いやいや簡易保険ではない。郵政とは無関係である。観光客の多くが、石を敷き詰めた、その広場で日光浴をしている。ピクニックランチの風景は家族連れ。恋人同士は膝枕。シエナのセントラルパークは、芝生ではなかった。カンポとは、野原という意味である。だから、尾根と尾根が重なって出来た自然の、なだらかなスリバチ状の場所を活かしたのだという。

 分度器のように、中心から何本もの放射線が描かれている。敷設工事のために出来た作業の痕跡かも知れないと思っていたら、間違いだった。ガイドから教えられたその筋は、市民代表の9人制の合議体で統治されていた当時を意味し、石の帯で9分割されているのだという。丁度、扇の要になる位置に市庁舎を建てたというのは、昨日のサン・ペトロ広場の設計に引き続き、なかなか象徴的な都市デザインだと感心させられる。上空から撮影された映像は、よくCMで使われるイタリアらしい風景でもある。

 

 

Dscf1351  シエナは、中世に時代から、教会も政治も軍事もコントラーダ(地区)単位に行ってきた。その17ある共同体同士が、熱く戦い合う日がある。7月2日と8月16日だ。まあ言うならば、町内対抗戦である。「毛虫」地区、「貝殻」地区、「牝狼」地区などなど町のシンボルが描かれた旗を乱舞する。広場に土砂が運び込まれ、17世紀から続くバリオという競馬コースになる。コントラーダの名誉を賭けて裸馬に跨った代表騎手が3周走り回る。そして、優勝旗を勝ち取る。昔は実戦の訓練の意味も持っていたようだ。ここが7万人以上の観衆で埋め尽くされ、興奮のるつぼと化す。テレビでも紹介されて有名な祭りである。 それよりもダイアン・レーンの映画「トスカーナの休日」で、このカンポ広場の祭りを見たことだろう。土地の娘と結婚しようとするポーランド人の青年が懸命に旗振りを猛練習して、祭りに参加したシーンだ。コントラーダの旗の柄までは覚えていないが、この競技の旗手には、「世界ウルルン滞在記」でも日本のタレントが参加した。

 

 

Dscf1321tvP1090043Dscf1344   Dscf1325 Dscf1334 広場から出て、縞々の鐘楼とドゥオモ(大聖堂)に歩く。この縞々は、シエナ独特の建築様式らしく、2種類の大理石を組み合わせてある。シエナ建築のアイデンティティとして眺めると、非常に印象的なデザインを思いついたものだと感心する。市庁舎の壁面に取り付けられた紋章も、確か白と黒の二色であった。大聖堂の中に入ると、白と黒の横縞の列柱が見事なハーモニーで迫って来る。モダンささえを感じる。縞と縞の間隔に差がある理由をガイドに質問した。シエナが隆盛を極めてくると、その権勢を誇るため、既存の聖堂を取り壊して建て替える工事が始まったが、完成までに100年以上掛かったことで、その時代差が出ているとのことだった。 


Dscf1326 Dscf1323  色大理石で描いた床の象眼細工は、シエナのシンボルを中心に、ローマ、ペルージャと周辺都市が描かれている。なぜか、ローマは象だった。シエナのシンボルは、街の至るところに見られる牝狼である。雌狼に育てられた双子のロムルスがレムスを殺してローマを建国した。一方、殺されたレムスの子供、セニウスとアスキウスがローマから北の地に逃げ延びて造ったのがシエナだった。その時、神から与えられた馬が白馬と黒馬だったという伝説。カンポ広場の泉は、獅子ではなく雌狼の口から流れていた。

 

Dscf1339  大聖堂の横、鐘楼に回ると、ロケセットのような未完成のファサードが立っている。更に大きな聖堂を建てようと工事が始まった矢先に、ペストと飢饉がシエナを襲い、財政難も加わって、正面のファサードだけのままになったものだが、皮肉なことに面白がって記念写真に収まる観光客が多い。

急ぎ足だったが、旅はまだ続く。バスは、シエナを背に、サンジアミーノに向った。

 

 

 

Dscf1314  サンジアミーノも城壁に囲まれた中世都市だが、シエナほどの広さはなさそうだ。

「塔の街」と言われるだけあって、平屋の町にのっぽマンションが建つ東北の町な景色が遠望できる。

 






Dscf1375 Dscf1358 Dscf1380  サンジョヴァンニの門をくぐると、シエナと同様、通りは商店が軒を連ねた先に、ベッチというアーチという城門をくぐると、広場があるのだ。建物に囲まれて出来た空間といったほうがいいほどの広さである。


 



Dscf1370 Dscf1364八角形の井戸があった中央に、人々が吸い寄せられるように桶を手にして集まる様が目に浮かぶ。丘の上にできた町であるから、夏季には、水が不足する。いざ、敵に包囲された時のために、何カ所かに天水を溜める地下貯水槽を設けたのだ。その中でも、最大の貯水槽があった場所だから、ここをチステルナ(貯水槽)広場と名付けられている。その左隣りがドウオモ広場で、 そこにはペンシル塔が建っている。金融、手工業などで財を得た裕福な市民たちが、各自の資産力を誇示するために、塔の高さを競ったという。勿論、抗争の際の物見台の役も果たしただけに、全盛時は72塔が林立していたが、今では14塔が残っている。

 カメラに納めたものの、「美しい塔」という丘陵地に建つ風景として捉えることが出来ない。そこで、画廊に入ることにした。

 

P1030631_2

夕景のシルエットを描いた絵や写真が、やはりこのサンジアミーノには相応しい。サイズの大きいものはやはり値が張る。迷っていると、背中に阿刀田夫人の声がした。サイズは違うが、同じ風景を買うことになった。我々のバス仲間が買った絵を見たいとおっしゃる。袋から出すと、「私も買いたい」と、店に駆け込んでいった。同じ絵が3枚売れたのだ。



Dscf1376  バスへの戻り道、ソフトクリームに目がない僕が、ジェラードを口にした。美味かった。

17時半が過ぎた。サンジアミーノは、これから徐々に徐々に、絵に描いたような美しい塔の街に変わっていくのだ。

 

 これから我々は、シエナ、サンジアミーノを制圧したメディチ家の本拠に向かって走る。


 Dscf1382

Dscf1383_2  今晩の宿は、そのメディチ家の名前を冠したホテル、グランドホテル・ヴィラ・メディチであった。アルノ川を渡ると、右手。サンタマリア・ノベラ駅とアルノ川に挟まれた位置にあった。ヴェッキオ橋までは1kmの距離だという。



18世紀の宮殿を改造したという五星ホテル。100室余りのサイズだが、時代物の装飾は風格を感じる。大理石のバスルーム、シルク系の布壁、什器類はアンティックそのもの。落ち着ける。夕食は1階のレストランで取る。話によると、1泊4,5万クラスらしい。

明日もかなり歩くことになるだろう。絵葉書でも書こうと思っていたが、体は早く横になりたがった。


Dscf1385_2

| | コメント (0) | トラックバック (1)

060515 ジブラルタル海峡


今朝は身体が重く感じる。点けっぱなしにしているテレビの航跡ナビを見ると、ジブラルタル海峡の通過を船客にみせるためだろうか、周囲が明るくなるまで、時間調整のために何度も航路が行きつ戻りつつ、していた様子が見て取れる。

3年前は、ヘラクレスの柱を巧く撮れなかったので、このまま起きて狙いたいとは思うが、なんとも身体が重い。身体を横にして眠る。

 

八点鍾今朝、620分から730分にかけてジブラルタル海峡を通過し、地中海から大西洋に乗り込んできました。

現在位置は、ジブラルタル海峡の真ん中にあるタリファ島から西側へ14海里(26km)を航行しています。海峡通航を明るいうちにお見せしたかったのですが、あいにく日の出が7:時11分と遅く、雲も重くたれ下がっており、両岸をよく見ることができませんでした。

マラガを出港後、朝6時まで3時間半ほど、時間調整をしたのですが、ポルト入港時間に間に合わせるには、これが限界であったことをご了解願います。

 

スペインのカディス湾の東に、トラファルガー岬があります。1805年のトラファルガー沖海戦は、イギリス艦隊とフランス・スペインの連合艦隊が戦い、ネルソン提督率いるイギリス艦隊が勝利を収め、ナポレオンのイギリス本土侵攻計画を打ち砕きました。

 

ジブラルタルは、スペインからイギリス、オランダ連合軍に奪回されたイギリスの領地です。

このため、ジブラルタル港は英国軍の軍港となっています。モロッコ側のセウタという港町は、飛び地としてスペイン領となっています。

 

大西洋(Atlantic)の意味は、神話で「巨大」を意味するアトラスから取ったという説と、新大陸発見の夢をはせた大航海時代の「西の楽園」を意味するという説があります。

 

ポルト港が8時入港の為、ヨーロッパ大陸の西端、ロカ岬は、深夜の通過となってしまいます事もご了承ください。

 

やはり、時間調整していたのだ。それはいいのだが、僕の体は、疲れが抜け切らない上に、室内の冷房にやられたようだ。喉が痛いし、下肢は今にも攣りそうだ。朝食に出掛ける気にはなれなかった。ドント・ディスターブの札をドアーキーにぶら下げた。

 

Img_0324 妻は、美容院に予約が入れてあったので、9時には出掛けた。僕は、デッキゴルフを休んだ。35戦連続出場が絶たれた。ニューヨークでは、あの松井も骨折したことだし、航海はまだまだ先が長い。1日くらいは、体を休めておこう。

 

9時過ぎにはトラファルガー岬を通過した。10時に、6階のラウンジ「海」で、スープ&ブレッドのサービスを受ける。美味しいと思ったスープはやはり、塩味を効かせてあったので、今後は避けたほうがいいなと思った。スコーンが出ていた。コーヒーよりも、オレンジジュースの朝にした。ヨーグルトまでは、さすがに出てなかった。ヨーグルトにいつも振りかけて服用している日本冬虫夏草は、このため飲み忘れてしまった。

 

1階の診療所へ降りた。1ヶ月毎に、田村ドクターにBUNの数値を検査してもらっているのだが、今月は少し遅れた。序でに、喉も診てもらう。

 

オーバーランド・ツアーの食事が続いたにも拘わらず、BUNは前回と同値で、上がっていなかった。毎食、メニューを気にしてくれた藤川さんのお陰としておきたい。足のむくみはある。カリウムの数値が少し上がっていた。血糖値は下がり、体重も、歩いた分下がっている。喉には抗菌剤入りのSP明治トローチと、うがい液が出された。

 

P1000077 調べ物がしたいので、5階のライブラリーに入った。いつものように、一番手前の席に座ると、東さんがパソコンを使って、撮った写真の色調調整中だった。そうそう、東さんが日本に向けて書いているMOPASのHPプログも、本日からプリントされて船内に公開となった。この日記に書いていたことが、実現したことは喜ばしい。

 

1230分、遅れての昼食となった。体調の悪いときは、ひっそりと窓際で二人っきりがいい。平野さんも心得た方で、そういう場所を案内してくださった。先回は大西洋に出た途端、揺れも荒々しくなったのだが、本日は、ぬったりとした穏やかな波で、揺れを感じない。

ご飯ものは食べたくなかったが、幸いにして今日は、冷や麦だった。冷や麦を頼んだ。顔を見てダブルで持ってきてくれた。ひんやり、するりと喉には有り難い。食べ終わってから、部屋に戻ってまた休む。眠っていた耳に、突然、天井からアナウンスが響いた。

 

P10001782 「イルカの大群が、船の左右に見えます!………いま、360°船の周囲は、イルカだらけです!」

 

悔しいが、起きあがれない。案外そうしたものなのだ。こういう時に限って、現れるのだ…。耳で聴くだけの情報。カディス湾より北部の沿岸になるのだろうか。あれほど、イルカ、イルカと走り回っていた妻も起きない。やはり、疲れているのだろう。

 

考えれば、デッキゴルフばかりではない。先回は、トルコを出てから、エーゲ海を抜けてナポリまで、ずっと航海日だったのだが、今回は、その間の寄港地にアテネはある、マルタがある、そしてオーバーランド・ツアーのイタリア縦断を入れた。そして、昨日の二日間歩き回ったマラガだ。あれから3年も経っている。体力は落ちる。そう考えると、年長者のリピーターにあの元気さがあることに尊敬の念さえ抱く。この歳までの彼らと比べれば、僕とは体の鍛え方が違うのだろう。航海の1ヶ月を越えて、ようやく自分にブレーキをかけることになった。身体は正直なものだ。夕食まで休んだ。

 

 

内山さんに、ロンドンまでの寄港地に、カンペールショップが何カ所あるか、その所在地情報を頼んでみた。ネットで探せば簡単に探し出せるのだが、と言い添えた。

 

夕食のテーブルは、山縣夫妻の席に案内された。アルハンブラ・ツアー組だった。後から座られたご夫妻も、同じだった。ブイヤベースが昼食だったが、期待していたものの、不味くてがっかりしたと両夫妻とも大きく頷く。

 

あの長い道のりはどうでしたかと水を向けると、左のご夫婦は、ガイドの歩くペースが速すぎて疲れたという。「僕は、写真を撮りながら歩いていたので、ツアーグループを見失ってしまいましたよ」山縣さんはいう。奥様の言葉を借りれば、「置いてきぼりになったのよ」と。にっぽん丸グループの後ろ姿を見失い、分かれ道の左右を反対に歩いたために、迷子になったのだそうだ。婦人警官を掴まえたり、土産物屋に入ったりして、身振り手振りで道を尋ねたという。バスは見当たらなかった。

食事の時間のはずなので、近くの食堂のウエイトレスにバスの絵を描いて時計を書いたそうだ。どうやらそれが功を奏した。にっぽん丸のスタッフにどう繋がっていったのか、わからないが、連絡が付いてスタッフが飛んできてくれたそうだ。

僕が妻をリスボンで数分間置き去りにしてバスを発車させてしまったことから考えれば、傷は浅い、浅い。笑いあえるほどの想い出創りみたいなものです、そうですね、で笑って終わった。

山縣さんがいうには、ツアーガイドが、そのとき自由時間後の集合時刻を伝えなかったそうだ。だから、これから先の予約してあったツアーバスはすべてキャンセルしたそうだ。


「マルべーリアの海岸へ行った方がよかったかな」と山縣さん。「あちらのコスタ・デル・ソールには、ヌーディスト村が夏になるとあるそうだよ」と、昔の珍道中で行けなかった体験を話すと、奥さんが、「ある人は、マラゲタ・ビーチで、トップレスの姿を見てきたと喜んでいましたわよ」と笑う。O型の明るい奥さんだ。「ところで、今朝のデッキゴルフでは、僕、2度目のホールワインをしましたよ、萩原さん」という。休んでいたので、目撃できなかった。山縣さんはとても嬉しい顔をした。いよいよ、彼もデッキゴルフに嵌ってきた。誘ってよかった。氷河を背にしてもプレイしましょう……。

 

廊下で遠藤さんから、思いがけずアルハンブラの絵葉書を何枚もお土産に頂いてしまった。イタリア旅行をご一緒した折り、モナコでフィルムが切れた遠藤さんに、せっかくだからと記念写真を妻が撮って差し上げた。そのお礼だという。アルハンブラ欠乏症の妻には、なによりのお土産になった。人に暖かくすると、暖かいものが回ってくる。そうなるものだと教えられた。

 

妻は、ひさしぶりに会った町子さんと立ち話をして帰ってきた。

 

今夜は、一龍齋貞心さんの講談「忠臣2度目の清書き」の席がある。東京公演の時、二人で日本橋亭に出向いて聴いた演題だ。パスしても、貞心さん許してくれるよね。今夜は身体を休ませる日です。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月29日 (水)

060514 マラガ2日目

今朝3時過ぎまで起きていた。日本へのメール、イタリア周遊の写真整理、下船中の航海日誌の書き込みなどをしていたからだ。二人とも730分に目覚めた。朝食は、ぎりぎりの遅組になった。急いで朝食をすませ、菅井夫妻との下船時間を910分とした。幸いナイスタイミングで、迎えのシャトルバスが来て、12分には発車した。コンクリートだけの何でもない岸壁である。昨夕に歩いたから判っている。15分はかかる。だから、シャトルバスの運行は、結構船客には喜ばれている。


Dscf3322 日曜日だから市場は閉まってい るかもしれないが、と前置きしながら、菅井夫妻がきゅうりを買いたいという。マラガ市民の台所といわれるアタラサナス中央市場へ直接行くことにした。昨日、場所は確かめてある。妻と菅井夫妻には、先に歩いて貰った。僕は、17年前に泊まったホテルを探したかったからだ。別の道を早足で歩いた。マニュエル・ガスティンという海岸通りの角のホテルは、既に別の会社に変わっていたようだ。

 

市場に向かった。やはり心配したように市場は、蛇腹の鉄格子で閉ざされて、人の居る気配もなかった。休みだった。朝が早すぎるから、街はまだ眠っている。グアダルメディナ川を渡って、人通りもない街を歩いた。川のこちらは、再開発地域となった新市街地だと聞いている。港周辺が歴史的な地域であることに比して、こちらの風景は、新建材を使った高層ビル公共建造物、アパート、ビジネスオフィスが建ち並んでいる。それまでの煉瓦や石造の建築物は、壊されて新しい街作りが進行しているのだ。


Pict2617 スペイン国内に多くの支店を持つデパート、エル・コルテ・イングレスに立ち寄ようかと近づいたが、閉まっている。正面ドアのシャッター前に、ガードマンの車が駐車してある。開店時間は10時とあるが、どうも妙である。どうやら間の悪いことに、本日は休業日らしい。菅井夫妻が楽しみにしていた子供用の衣服を買うことも、僕がカンペールを探すことも出来なくなった。

 


Pict2637

Pict2631

Dscf3360


残念だが、気を取り直して、あの循環観光バスに乗ることにした。そのバス停を観光地図で確かDscf3433めると、郵便局だった。大通りを挟んだ先だ。着時間が判らない。急いで渡った。 やがて、  真っ赤なバスが停まった。無天蓋の2階建てワンマンカーである。東京の丸の内でも走り始めた。

ケットはドライバーから直接買うのだ。124時間、乗り降り自由で、ガイドブックによれば、一人13ユーローだった。ところがドライバーは、15ユーローだという。値上っていた。レシートと赤いヘッドフォンを渡された。

我々は、2階に上がった。頭が抜けていて気持ちがいい。座席に設置された番号、8番にすれば、日本語の案内が聴ける仕組みだ。


Dscf3431 Dscf3430 3342 循環バスのコースは、港とは反対の方向へアンダルシア通りを走った。バスセンターに着いた。ここでドライバーの交代をするのだ。しばらく待つことになったので、降りてみた。何台ものバスが入れ替わりに入っては出ていく。長距離バスもあるようだ。大量の荷物を抱えて待つ家族がいた。眺めているうちに、あの喧噪なムンバイのバスセンターを思い出していた。売店を抜けて、歩くと、かなり大きなショッピングセンターがある。明かりがついている。此処は開店している。もし時間があれば、またこの巡回バスで戻って来てみようと、バスに戻った。

Pict2609

Dscf33432t Pict26322

マラガ駅を通過してグ アダルメディナ川を渡り、旧市街のアラメダ・プリンシパル通りに戻って来た。我々のシャトルバスの発着所となっているマリーナ広場を横切り、パセオ・デル・パルケを走り、波止場とパラレルに海に突き出る道を走った。リゾートマンションが建ち並ぶマラゲータビーチを回って、静かな街に入った。闘牛場は初めてかと3人に訊いた。頷く。それならば、と闘牛場前でバスを降りた

  


Dscf1738 街に貼ってあるマタドールのポスターを見かける度に注意してスーベニール・ショップも探している。有名なマタドールの出演するポスターに、観光客の自分の名前を擦り込んでくれるサービスがある。マラガには、ないのだろうか。

 

バス停の正面がゲートだ。開いている。入れそうだ。中に足を踏み入れると、頭の上から、「ウップステア!」という声が掛かった。観るなら上に上がれと老人が指を立てる。階段を上がりきると、円形の観覧席には一団の先客がいた。そういえば、観光バスが1台着いていた。合点がいった。この観光バスの出遅れた乗客と見なしていれてくれたのだろう。アメリカ人の観光客に4人のアジア人という取り合わせもあるかと、誤解されたままに我々はとぼけていた。やがて、歴戦の闘牛士たちのコスチュームなどが飾られたミニ博物館のような部屋に案内されたが、それがさすがに遠慮した。暴れ出した牛から逃げ込む時、よく、身体ごと柵の中に身体を放り入れるシーンがある。高さが2m弱の退避柵の幅は、思ったより狭く、しかも下はコンクリートだった。飛び込んだ拍子に打撲や骨折をしたりはしないのだろうか、菅井美子さんが心配していた。Pict2626 Pict2625k

 僕は、例の珍道中になる前、そもそも広告会社の国際会議に出張でマドリードに来たのだが、最後の夕方、闘牛場に繰り出そうという誘いに乗った。そこで、生まれて初めて、マタドールの技を見ることになった。闘牛は3月から10月まで開催される。丁度日本のプロ野球と同じようなシーズンだと考えればいい。日曜日の夕方、陽が西に傾くときだ。

観客席を太陽がふたつに明暗と切り分けた円形劇場で、繰り広げるマタドールと牛との真剣勝負。いや、「神聖な真実の一瞬」である。ソンブラ(日陰)席と、ソル(日向)席、その中間席の3種類が設定されている。マドリードで観た座席は、ソンブラの2階席辺りではなかったろうか。

Pict2627 3352 ここマラガでは、闘牛場の背後にマンションビルが建っている。自宅の窓から眺めていられるあのお宅は、ゲストが押しかけて大変なんだろうなと、妻に話しかけたら、彼女は、アレナの色がきれいだと連発して、シャッターを切っていた。

確かに、そうだ。アレナという砂場の色が美しかった。血を吸い込んでくれる役目を持ったこの砂は、ローマの剣闘士が猛獣と戦ったあのコロセウムに敷かれていたことで、円形のスペースを指すのだが、それを囲むように座席が設けられた大規模な室内ホールがそう呼称されるようになった。今では、舞台より下がった平地の特設席までをアリーナ席という。

尤も、闘牛場の砂は、更に特別なモノだと聞いたことがある。舞い上がり易いとマタドールの目に災いするということから、砂ホコリが立ちにくい性質のものを入れているのだと。確かめようにも我々のガイドはいない。米国人観光客のガイドに訊くわけにもいかない。そうそう、この闘牛というのは、カウボーイから始まったとも言われている。牛を誘導する際に群れから外れた牛や気の強い牛を棒で引っぱたいて、移動させたり懲らしめたりした。それがヒントになって生まれたんだよと、国際会議に出てきたアメリカ人が教えてくれた。初期の闘牛スタイルは、馬上から行ったとか言っていた。確かに、馬に乗っているピカドールは槍を刺して、牛を疲れさせる役だから、あながち間違いでもなさそうだ。

 

スペインの主要闘牛場は、マドリードの他にバルセロナ、セビリア、バレンシアなど7カ所だと書かれていたから、ここマラガの闘牛場は、セカンドクラスなのだろうか。

今日は、黄色い砂地に太陽の光が影を創るという時間ではなかったが、妻は闘牛場に足を踏み入れることが出来たことを喜んでくれた。ほっとした。

実は、今回のオプショナルツアーで、グラナダのアルハンブラ宮殿にも行きたかった妻を僕がキャンセルさせてしまったからだ。山の上で噴水という、アラヤシスの中庭は贅沢な仕掛けた中世の知恵は凄いと思うが、そこまでのだらだら道をぞろぞろ長い列をつくって登っていく、あの山道は疲れるだけだ。こういって止めさせたからだ。闘牛場に入れたのはラッキーだった。

 

次の循環バスを待つ。「闘牛の肉は食べられるの?」「いや、食べられないことはないが、聞いたところによると、硬いそうだ」

15分ほどで、赤バスが首を曲げて道に入ってきた。今度の下車駅は、ビブラルファロ城の頂上だ。住宅街を抜けて山を登りはじめたら、額に雨粒が当たり出した。2階席から1階席に下りる。

 Pict2639 Pict2635 Pict2645                                                                                  頂上からアルカバサのPict2646 Pict2640 ローマ劇場まで徒歩で下りるか、そのままバスでカテドラルまで乗って行ってしまうか、意見が割れた。停車時間の間、下りたり、乗ったりを繰り返していた。この時、ステップを少し踏み外した。足を軽く挫いてしまった。黙っておいた。歩いて下ろうと提案したのが僕だった。実は、トイレを探していたのだ。毎朝飲む腎不全の薬には、利尿剤の錠剤が含まれている。慌てて用を足して、砦の坂道を下ったのだが、今度は、昼食は一旦帰って船で食べたいという美子さんの希望。街中のレストランでもいいかと思っていたから、慌てた。ならば、1215分までに船に帰り着かねばならない。


ところが、シャトルバスの発着するカテドラルに辿り着いたが、バスが来ない。どうやら、午前中のバスの発車直後だったようで、埠頭を歩いて船に戻るはめになった。ラッキーの裏にアンラッキーが待っていた。この時ほど、船が遠くに感じたことはなかった。疲れた。


 

昼食を取った後、朝見たスーパーマーケットへ買い物に行くことになった。再び、4人で循環観光バスに乗りこんだ。バスセンターで下車して目指すマーケットに近づくと、人が多い。やはり、日常生活品の販売だから、休まないのだよと喜んだのは、束の間だった。なんと、地下のスーパーマーケットは休みだった。営業していると思いこんでいた明かりは、辛うじて開いていた1階のバール系のレストランで、人出が多いわけは、2階に続くシネスクリーンの列だった。万事休す。

Pict2664 Dscf3328 舗道にある大きなワインボトルが目に入った。「今夜は、飲むぞ~!!」ワインボトルを叩いた。よく見ると、それはワインボトルの回収容器だった。なんだか、微笑ましい街のデザインに少し救われた。

 

バスセンターから、波止場方向への循環バスに乗った。マリーナ広場で降りたが、既に、歩く足は引きずっている。4人とも、言葉少なく、ここから船まで歩きたくない気分だった。タイミング良くシャトルバスが来てくれた。有り難かった。万歩計は、14555歩を示していた。タラップを歩いている時、グラナダ帰りのツアーバスが2台着いたところだった。

 

何はともあれ、疲れを取りたいと展望風呂に急いだ。夕食前ということもあって、数人しかいなかった。聴くとなしに聞いてしまったのだが、アルハンブラ宮殿ツアーは、日中35℃までになったという。あの道をとろとろと行列して歩いたのでは、さぞかし、お疲れだったろう。食事が不味かったと互いに言い合っていた。パエリアかブイヤベースだろう、あそこでは、選べるほどにレストランはなかったと記憶する。妻を行かせなくてラッキーだったと言えるか…。


 

夕食は、偶然にもアルハンブラ帰りの木島夫妻、それと岡本展一夫妻が同じテーブルになった。とろとろだらだら坂道の話から山歩き、トレッキングの話になった。木島さんは、山仲間と結構歩いているのだという。来年はニュージーランドの山を歩こうと思うという話から、ツェルマットの話に流れた。かつて、我々は、ツェルマットの村からケーブルとゴンドラを乗り継いでモンブランへ上がったことがある。妻も話しに加われた。

インターラーケンやらグルノーブルになると、僕のスキー仲間との話になったが、岡本夫妻は、南アルプスなど山歩きをされている実に健脚のお二人だと知った。今の自分の足の弱さが情けなかった。今夜は、バンテリンをかなり擦り込んで休まないと、真夜中に足がつるに違いない。

 

ベッドで、本を読む。逢坂剛の「幻のマドリード通信」をマラガ寄港から読み始めた。スペイン内戦時代をベースにしたポリティカルミステリーの短編である。かつて我が社の広報室にいたスペイン教祖・仲ちゃんが逢坂剛である。それを航路に因んで読んでいる。「ジブラルの罠」から「カディスへの密使」へとだ。

そのジブラルタル海峡へは真夜中に接近する。真夜中に足が攣ったら、起きてヘラクレスの柱が見られるかも知れない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年4月25日 (土)

060513 マラガ入港

アンダルシア沖を航行しているのが、八点鐘の時だった。


「にっぽん丸は本日、地中海の西の端、ジブラルタル海峡近くのマラガに入港します。
マラガの港外までは83海里(154海里)で、シェラネバダ山麓にある港町アルメリアの南西沖20海里(37km)を西に向けて航行中です。13:時には港外に到着し、14:時少し前にマラガ港に接岸します。
 昨晩の2156分、緯度3805分上で、本船は西半球に入りました。
船内テレビ画面では、経度を表す数字に06つ並びました。この後も、フランスのルーアン、イギリスのグリニッジに向かう時と二度、本初子午線を通過します。経度000000秒上にいる体験ができるかもしれません。
 船のスピードを表すノット(KNOT)の意味は、「結ぶ」あるいは「結び目」という意味です。帆船時代、結び目をつけたロープの先に重りの板をつけて船尾から流し、砂時計を使って14秒あるいは28秒間に送り出されたロープの結び目の数で、船のスピードを測っていたことが由来です」

Dscf3289 Dscf3293 Dscf3288

気温は185℃というから、肌寒い。朝食を終えると、いつものように、後部デッキにメンバーは集まっていた。今日は、全員が顔を揃えていた。パックは12個要る。いつのまにか、甲板スタッフがパックに11番,12番の数字を刷り込んでくれていた。我々は、さりげない、このサービスに心から感謝していた。船はいくらか、横揺れをさせながら、ゲームを面白くしていった。

僕は、後攻赤組で、松田キャプテンの下、山縣、菅井、中島、それにスタッフの黒川君と6名。先攻白組は、高橋、ミセス松田、工藤、菅谷、高嵜という面子。

12人のオールメンバーであることと10時から講演があることを考え、3番ホールを外して、尚かつ、ゲームセットを10時とし、権利玉の多い組を勝ちとすることにした。9時きっかりのスタート。高嵜さんが打順を入れ替えてきたので、こちらも入れ替えて、僕が中島さんより前に打つことにした。途中、パソコン教室の受付時間が重なったのでと、高橋さんが抜けた。

僕は、最初のホールまでに2回「出戻り」を繰り返したことが、後半、チームを遅らせて敗因となった。

今朝は「ホールインワイン」「台無し」の他に、新しい言葉が生まれた。「出戻り」「里帰り」である。「出戻り」は、ゲートボール審判員の中島さんの創作だ。

 

10時からは、組み替えで再スタート。先攻白組は、高嵜、工藤、菅井、山縣というメンバーが我々のチーム。相手は、ミセス松田、横田、菅谷、菅井、中島。

菅谷さんが、ドボン効果を狙う余り、4ホールをクリアしないままに5ホール側に遠征してきて、フレームアウトされた。この自滅が祟って、大幅に遅れてくれた。しかも、松田キャプテンがミセス松田の専属援護に走り回ってくれている隙に、我々は萩原、高嵜が連続ホールアウトで勝った。敵は、攻撃と守備で力を二分割してしまったが、我々はコツコツと前進することに終始した結果だ。

個人戦績1353引き分け。通算2087引き分け。

Dscf1725 

 

シャワーで汗を流していたので昼食は遅れてテーブルに着く。レストランは人影もまばらだった。着岸入港して、下船はしばらく後になる。

 

15時、シャトルバスでマリーナ広場まで送ってもらう。2台の大型バスがピストン輸送してくれる。接岸した波止場からで出口まで歩けば15分はかかる。マルタ港で高台のバレッタ市まで運び上げてくれたサービスと同じだ。見た目には近いのだが、無味乾燥な波止場だと、余計に長く感じる。足の不自由な方がおられる船客には、助かるサービスであり、重なる疲労をいくらかでも軽減してくれることでは、我々60代の身にも有り難いことである。

 

マラガが今回、スペイン最初の寄港地なので、カンペールショップはないかと三木エージェンシーの若い男性に尋ねる。

「二日間の間でカンペールを買いに出たいのだが、ショップを知りませんか?」「カンペールは何処でもあると思いますが、デパートがいいでしょう。タクシーならここから5ユーロですね。但し、港から乗ろうとしますと、船客だとして高くぼられますから、街で拾ってください」

「解りました。今からピカソ美術館に行くのでデパートへの時間がないかも。今日明日のどちらかで行きます、有り難う」

 

Pict2618 Pict2662 菅井夫妻も一緒に下船して同行したいという。ピカソの生家までの道なら思い出せるからと、僕が歩いて案内することにした。

日本でもよく知られている「マラゲ~~~ニア」というあの唄は、「マラガの娘」という意味である。街は、ジャカランダの花が咲き乱れていた。妻の好きな樹である。彼女の足が止まると、きまってそれは花を撮っている時だ。

 

1989年、49歳、外資系広告会社のCDだった頃、マドリードでワールド・コンファレンスに出席した。同行出張した中島営業と休暇を取って南下した。グラナダ駅からマラガ駅へ着いて泊まったホテルは大通りの角にあり、確か、目の前が海だった。ピカソの生家は歩いていけた。カテドラルの裏の方で、あの小さなオベリスクのある公園の前にあった。アルカバサとかローマ劇場跡などというのは、全く憶えもないが、船からもらった地図にはそれらが記されてある。当時は、カテドラルを左に歩いたのだろう。


Dscf3306tDscf3308 しばらく、たらたらと歩く。見覚えのある小公園に出た。このメルセ公園の先、角にある「ピカソの生家」は、見違えるほどに改築されていた。その昔は、プレートが無ければ、見過ごすほどに質素なままだったと思う。入場料は取っていない。財団が管理しているらしい。当時の彼のパレットや机が遺されている。1階、2階と観て外に出た。

 

相変わらず公園には、ピカソの描いた鳩たちが多くいた。ここの鳩は、ピカソのシンボルになった。観光客の見つめる眼差しが違う。



Dscf1733 Dscf1735 次に行くのは、ピカソ美術館だ、と妻が眼で催促する。近くの右角で絵葉書を買った記憶を辿った。グラナダという狭い路地を入った。あった。先の右側に絵葉書スタンドが見えた。ここでピカソの鳩の絵皿を買うかどうか迷ったのだ。だが、左にあるピカソ美術館は、僕が訪れた当時にはなかった。美術館と言うよりも官邸のようだ。それもそのはず。16世紀の宮殿で、文化財に指定されている旧「ブエナビスタ伯爵邸を改修して、2003年に完成したということが判った。

 

入口では随分と待たされた。団体客の予約客で詰まっているのだろうか、人数制限をしているのだろう、そう思ったが違っていた。手荷物検査とその預け入れでの混雑だった。預け入れの反対側がチケット売り場になっていた。今は丁度、特別展が開催されていた。階層で展示物を区分けしてあるらしい。

チケットを買う段になると、売場の係員が、「常設フロアーを観るのか?特別フロアーも観るのか?それによって料金が違うが」と訊いてきた。全部を観ることにした。

チケットを渡しながら係員が、「日本人客に説明するために、3種類の言葉を教えてくれないか」と言う。「joh-setsu dake?」、「toku-betsu dake?」、「subete-miruka?」という言葉をゆっくり何度も繰り返して、係官の耳でスペルを書き取らせた。なるほど、薄暗いチケット売場には、日本語のパンフレットもあった。

 

チケットをもぎられ、中庭に入る。アルハンブラを模した造りに思えた。噴水が無いだけだ。

内装は白一色に明るい。絵画、デッサン、彫刻、陶器など200点余りの作品が展示されていて、全て、ピカソの義理の娘と孫からの提供だそうだ。

マラガで生まれ、13歳で父親の画材道具を与えられたピカソは、他の画家に比べて環境に恵まれていたと言える。そして生涯に愛したと言われている7人の女性たちが、この美術館のなかで作品となって登場している。尤も、キュビズムと言われる画風の中では、美人かどうかは判断しかねるが、女性に会う度に画風も変化していった。正式に結婚したのは、ローマで恋に落ちたロシア・バレエ団のダンサー・オルガだった。オルガを描いた時は、ヌードでもなく、キュビズム手法の変形もなく、当たり前にきれいな写実的な画風となった。「肘掛け椅子に座るオルガ」。どうやら、誇り高い名家出身の彼女は、それを嫌ったのだと言われている。

1階で目にした若い頃のピカソのクロッキーやデッサンは、その柔らかさ、緻密さに驚かされた。ポストカードを何点か買った。そのきれいなラインが一転して、キュビズム画風に変わっていくのだが、ゴッホの激しさにはない、写実的な絵画に飽き足りないものを探し続けてブレイクした彼がいた。目に見える形を上や横、右や左と縦横に視点を変え、分解し直して、面や線を描く、何とも奇異な画風に変わっていった。

印象派のセザンヌがこれまでのパース画法を崩して、多視点で描くようになったことに、ピカソは影響されたと言われる。「セザンヌの林檎」は、写真のように自分の目に見えているだけの構図に囚われず、左右上下からの視点から描いてある。

 

2階には、あの有名な、戦争の悲惨さを訴える気持ちが溢れている「ゲルニカ」が観られた。ナチスドイツに爆撃されたゲルニカ市民の阿鼻叫喚を描いた作品である。今年は、ニューヨークからスペインに返還されて丁度25周年だそうだ。いつもは、プラド美術館にあるのに、生誕125年の特別展だから、運良くマラガで観ることができたのだ。

地下の特別展では、フランソワーズと一緒の写真や、それぞれの作品を仕上げた時のアトリエ風景を撮り続けたカメラマンの貴重な写真展もあった。

 

手にしたパンフレットを見直した時だ。あっと驚いた。66歳以上は半額とあったではないか。チケット売場には、それを表示した文字もプレートもなかった。シニアの観光客が多いはずなのに、そうした気遣いが為されていなかったのは、残念である。

Is there a discount for senior?」とか「Can I take a senior reduction?」なんて、臆面もなく訊くに限る。

 

歩き疲れたので腰を休めようと、1階の中庭のカフェで座ることにした。広くはない庭だが、開放感がなによりだった。緑もあって落ち着けた。珈琲を頼んだ。

一息ついた時、菅井美子さんがローマ行き鉄道の珍道中顛末を話し出した。


米谷夫妻と一緒に、チベタベッキアで、まず支倉常長の銅像を見た後で、鉄道でローマまで行ってみようということになったという。「リターン・・・」という言葉を「往復切符」だと理解できた。駅員からチケットを受け取り、意気揚々と列車に乗りこんだ。しばらくして、検札に来た。車掌にチケットを見せた。ところが、車掌は顔をしかめて、何度も何度も同じ言葉を繰り返して文句を言う。ところが、こちらはチンプンカンプン。

彼は、長い間、チケットを指さしてガミガミ。そのうち業を煮やしたのか、チケットを持ってスタスタと立ち去ってしまった。訳もわからず慌てた。荘輔さんが後を追い、チケットを取り戻そうとした。すると、車掌は黙って睨み付けたと思ったら、チケットを床に叩き落としたという。

その剣幕に、思案した。どうやら、菅井さんたちは、スペシャルシートに座ってしまったらしかった。代金が不足であるとことが、やっとのことで判った。身振り手振りで、追加料金を支払うことを伝え、やっと一件落着したという。ローマ駅で降りたのだが、出口がなんとも寂しい駅だったという。なにかおかしい、変だぞと思い、駅の周囲をしばらく歩いたら、やっと表玄関の前に来た。気が動転していたのか、駅裏に出てしまっていたのだという。テルミナ駅らしい光景が目に入って安堵した。

今度は、帰りの乗車ホームを確かめておこうと歩いたが、教えられた番号ホームがなかなか見つからなかった。また冷や汗をかくことになった。用心のため、チベタベッキアまでの停車駅名をすべてメモ書きしたという。そしてなんと、ローマの街を散策することもせずに、確認したそのホームから発車する列車にそのまま乗って帰ることにしたのだ。

ところが、今度は途中で電車が止まってしまった。車内アナウンスを聴いた乗客たちがパラパラと降りはじめたのだそうだ。2度目のアナウンスで、さらに残りの乗客たちが降りたのだが、アナウンスの意味が解らず、4人とも顔を見合わせて躊躇した。そして、さあ、降りようと決めて立ち上がった途端に、ドアは閉まってしまったそうだ。ドアを叩いたら、ホームの乗客が知らせたのだろうか、再びドアが開いた。慌てて降りた。

日本でもよくあることだが、車両故障のために別の電車に乗り換えることを告げていたのだそうだ。往路には特別席、復路には故障という、2度もドタバタした末にやっと帰船できたのよ、という。静かな中庭の中で笑い声をあげてしまった。

 

僕も、このスペインの列車の旅で似たような経験をした。この珍道中は、拙著『思いきって世界一周』(2005年刊・あいでぃあらいふ社・絶版)142ページに書いた。マドリードからグラナダ空港に飛んだが、離陸がディレーしたので、グラナダが閉鎖してしまい、マラガ空港に着陸してしまい、深夜にグラナダまでの送迎バスが出た時のアタフタしたことだ。他人のことを笑えないよと、美術館を出て歩きながら、その話をした。

 

Pict2611 昔、こんなこともあった。「スペインで、パブロといえば、世界平和のシンボル、鳩が頭に浮かぶね」と言った。友人は、大きく頷いた。話が進むにつれて、噛み合わなくなった。

僕は、パブロ・ピカソだった。「子供と鳩」の絵であり、「平和の鳩」や「未来の鳩」だった。友人の頭の中には「鳥の歌」があった。室内楽専用ホールのカザルス・ホールを主婦の友社が建てた頃だったと思う。チェロ奏者のパブロ・カザロスに因んで命名された。

同じ名前、パブロであり、国連平和メダルを受けたときの、「国連デー記念コンサート」のことだった。有名な話だが、パブロ・カルロスは「自分の故郷では、鳥の鳴き声がピース、ピースと言って鳴くのです。このカタロニ地方(スペイン)の民謡、『鳥の歌』を弾かせてもらいたい」と言った。あのメルセ公園の鳩の鳴き声は、パブロ・ピカソの耳には何が聞聞こえたのだろうかという話で終えたものだ。

そのカザロスはフランコ独裁政権下で、反対闘争をしたために祖国に帰れなかった一人である。実は、そのフランコ政権末期ともいえる1970年に、僕たち夫婦はマドリードを訪れていた。デモ隊を望遠レンズで撮った僕は、憲兵のような大男二人に両腕を掴まれた。記者と間違えられたようで、フィルムを抜け!と怒鳴られたことがある。観光客であることを証明したいとして、ホテル名を書いたことがある。



随分とゆっくりしてしまった。夕食時間が迫ってきた。出掛けに訊いたアタラサナス中央市場(新しくない茄子と憶えるか)と、百貨店のエル・コルテ・イングレスの位置を確かめておいて、明日に備えることにした。

帰りにスーパーマーケットに寄った。菅井夫妻は、きゅうりと枝豆を探していた。が、無かった。ギネスのロング缶を買った。酒のつまみにする材料だったのだ。

 

Dscf1739 マリーナ広場に戻ったが、既にシャトルバスのラストタイムは過ぎていた。埠頭の突端に停泊している船まで歩く。15分も要した。シャトルバスの有り難さが判ったといいながら、タラップを上がった。

 

夕食を食べ終えた時、真先町子さんにバッタリ会った。3年ぶりである。ローマから乗ってきたのよと言われたが、全く知らなかったのだ。妻は懐かしさもあり、しばらく話し込んでいた。彼女は、僕の仕事仲間の奥さんである。いや、にっぽん丸では、妻の好きなアクセサリー教室の講師なのである。これから帰国まで一緒だという。航海日には、妻は生徒になる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年4月 1日 (水)

060512 .マジョルカ島沖

8時、スペイン領海のバレンシア湾に入った。そして、バレアレス諸島の沖を航海中である。今日は曇りだ。風はほとんど無い。気温も海水温度も同じ17。水平線は、まだ寝ぼけた手書きのライン状に見えている。イルカが見え始めたというアナウンスを久しぶりに耳にした。


Dscf3270 八点鍾『現在、バルセロナの南東90海里(167km)、バレアレス諸島・メノルカ島の沖22海里(41km)を航行中です。

 久しぶりに全天曇り空です。北アフリカのジブラルタル海峡付近から停滞前線が横たわっており、午後から夜にかけて本船の上空を通過するので、天気は下り坂です。しかし明日のマラガは、良い天気が期待できそうです。

 本日の航行予定は、バレンシア湾を南下して2003年世界一周クルーズで寄港したバレアレス諸島のマヨルカ島の北岸に10時から13時頃に接航します。その後、16時から1715分頃までイビサ島の北岸を航行します。

 今朝8時の経度が00344分ということで、経度数が少なくなってきました。今夜22時頃、本初子午線(prime meridian)である経度0000分上を通過し、東半球から西半球に入ります。

 本初子午線は、イギリスのグリニッジ天文台を通過する経度線で、地球における座標軸の東西の基点です。本初子午線から東西に180度。時間にすると、日付変更線まで12時間。すなわち1時間が15度となります。

現在、船内時間はスペインの夏時間に合わせているので、グリニッジ標準時からは2時間進んでいまして、日没時間が遅くなります。本日はマヨルカ島の風景と本初子午線通過体験をお楽しみください。』

 

朝食は、これまでで一番遅い8時20分入りだった。急ぐ先に、見慣れた姿があった。一龍齋貞心さんだった。お久しぶり、と声を掛けて、挨拶。昨年の11月、日本橋亭で会って以来である。

今朝は、9時から阿刀田夫妻の講演「短編小説の楽しさ」と朗読があるため、デッキゴルフは昼からの自由参加、有志のみということになった。

以下は講演の概要。

そもそも、「小説」とは中国語だという。「大説」が政府高官の高説や宣言などとすれば、小さな説なるものは、如何でしょうかと謙って話すレベルだと、阿刀田さんは、まず謙遜しながら説明を始めた。地中海文化華やかなりし頃、「ロマンス語」というものがあったそうな。庶民が話していた言葉で、それがイタリア語になり、スペイン語になっていく。「大説」という神の言葉などは、ラテン語文字で書いたものだ。文字は男が書き、女性は語ったのだ。それだから「物語」こそは、庶民の出来ることだった。「ノベル」という言葉も、新しいもの、珍奇なものという意味が含まれているし、「フィクション」という言葉になれば、まさに作りもの、嘘が混じるということになる。「小説」とは、ことほどさように、いかがわしい、疑わしいけど、面白いモノ、想像力をかき立てるモノ、非現実の人生を楽しむものという受け止め方をしてもらっていいのです。

小説には、長編小説と短編小説がある。長編小説は、長い物語の中で嘘を突き通せない。そのうちにばれてきてしまう。従って、あっても不思議ではないこと、あったかも知れないことが主なモチーフになる。そして長編小説は、その時代の歴史であるとも言える。それに比すれば短編小説は、礼儀正しい、お邪魔しない、お手間を取らせない。読み終わっても、短い時間であるから、時間を盗まれた気がしない。自分は、人の会話すら短編のネタにしたことがある。しかし、どのような小説も映画も、大人の鑑賞に耐えるようなストーリー性が重要であると考える。阿刀田さんは、そう言いながら、「では、家内、阿刀田桂子の朗読で、「日魚と漏電」を聴いてください」と奥様を舞台に招いた。

 

「小説家は言葉を大切にします。日本人の言語力、文化力は世界に引けを取らない。英国はシェクスピア以降、誰を輩出したか。我が国は、紫式部、清少納言、世阿弥から森鴎外、ノーベル賞作家となった川端康成にしろ、大江健三郎にせよ、歌舞伎・能からシェクスピア劇まで翻案する演出家の蜷川。いつの時代を切っても、蒼々たる人材が現れる。是非とも、世界の旅の中で、日本をも見直す眼を持って、帰って来ていただきたいものです」朗読が終わった後、彼は力を込めて、こう締めた。

 

終えた1015分、プロムナードデッキを歩くと、マジョルカ島の北岸を通過していた。しかし、先回寄港した側は、地中海側で、バレンシア湾側は、険しい岩肌をさらけ出していて、僅かに一カ所漁師町らしい家並みが見えるだけだ。裏側は、カメラに納めるような姿をしていない。妻は、不調のプリンターに思いあまって、再び通信室の出口部長に相談に向かう。

昼食後の13時から、有志だけでデッキゴルフをやることになった。

欠席は、菅井、工藤、横田、高橋。参加者は、高嵜、松田、菅谷、萩原、中島、山縣の6名。昼からのせいか、皆のプレイする気分がゆったりしている。

そんなとき、イルカが一頭、群れから遅れて泳いでいた。はぐれたのか、焦っているなと、口々に言いながら、指先ながら囃し立てる。船と併走しているが、スピードが追いつかない。徐々に後退していった。「鯨も発見!」と、操舵室からのスピーカーが教える。しばし、ゲームを休憩することにした。船が傾いたからだ。鯨を追って大きく旋回したのだ。、一頭のマッコウ鯨は、旋回した航跡の輪の中に捉えたが、この鯨も弱っているようで、泳ぎがもたついている。船客もそれほど騒ぐこともなく、静かに見守っていた。静かな、穏やかな午後である。

 

ホールインワインが出た。菅谷さんが、最多の5回目を出した。これで、ワインボトルを奢る者は、菅谷5回、ミセス松田1回、萩原1回、工藤1回、高橋1回、横田1回と、10本が貯まった。僕自身は、12勝4敗3引き分け。通算1977引き分けとなった。

 

夕方、イビサ島の北岸を通過するときには、船客はフォーマルウエアや和服に時間を費やしている。今晩は、カクテルパーティを経てディナーに入る。いや、初めて乗船したときは、カクテルパーティと言うから、立ち席であちこち回りながら、日頃挨拶できなかった方や、ご紹介したい人を互いに会わせあったりするとかしながら、自由に会話を交わせるひとときかと期待していたものだが、どうやら、日本の豪華客船でのカクテルパーティというのは雰囲気を楽しむ形だけであって、ホールで催されるそれは、立食でグラス片手に人の輪を泳ぐというのではなく、数人の間を蝶々のように、自分の衣装を観てもらおうと歩くのでもない。ただ、晴着を着てのおすまし姿でどっかりと座る。そのいい席にも早く行かないと座れないと急ぐ人がいることになる。早くから廊下に列をなすのが、席の確保のためだと知ってからは、フォーマルデーも大袈裟なこととは考えなくなった。

Dscf63414Dscf3272 座ったら、運ばれてくる4種類のカクテルから好きなモノをチョイスして口にすればいい。船長の挨拶の前には、既に近くに座った方々と互いに飲み酌み交わしている。パーティと称しながらも、あらためて乾杯の発声もない。いつも、不思議でならないと思うのだが。正装を記念写真に収めるべく、カメラマンを目で追いかけて手招きする。カメラマンもこの時間は、ビジネスタイムとばかりに、急いでフラッシュを焚いてくれる。

10分ほどキャプテントークがあって、すぐにこれまたダイニングに移動。案内されたテーブルに座ったら、ちょこまかと動くのはみっともないとして、姿勢を正している。Dscf32783 座って立って座って終わり。これはパーティスタイルのセレモニーなのだ。東さんは、紙製のタキシードを寄港地で見つけ、フォーマルデーに出たとか出なかったとか、彼の著作の中で昔に読んだことがある。このフォーマルナイトの日本的趣向が何とかならないモノかと毎回思うのだがと、苦笑いする海外赴任の経験者がいたことも記しておきたい。

 


メインホールでのことだが、この頃、我々の中での話題のひとつも、序でに今夜は記しておきたい。「メインショーの途中で退席しないで欲しい」と注意が出はじめたことだ。

カメラのフラッシュ撮影を禁じるのは解る。エンタティナーの眼に光が射すから、芸に集中している彼らに礼を逸することだ。また、立ち上がっての撮影も、ズームの効かないデジタルカメラでは、両手を上げたりすることで、後ろの人への配慮を欠くことになる。

しかしながら、その芸が期待に反していれば、たとえメインショーでも退席するのは、それが観客の評価であるとすべきだという意見。プロであるなら、引き留められる魅力を持たせることだ。退席は、むしろ、エンターティナーへの無言の評価と受け取るべきではないか。我慢して聴くことを強要することではないのだ。帰国下船間際のアンケートという事後評価を待つまでもない。厳しくあるべきだと思う。むしろ船客へプレゼンテーションしているものだからである。それは、ショー企画者への今後の問題提起でもあるのだ。なぜなら、すべてのエンターティメント、カルチャースクール、レクチュアーは、旅行費用に含まれたものであるからだ。こんな意見さえあった。「(ロス・インディオス・)タクナウがいかに素晴らしいギタリストであってもね、MCも兼ねてるヴォーカルのタカコが、ステージで身内(自分の夫)を褒めちぎって進行するってのは、客の側が馬鹿にされているような気分になるわな」。

僕も言った。「船に乗る多くのエンターティナーが、持ち時間の中で、いちいち、持ってきたからCDを買ってくれと舞台から頼むのも、プロ意識不足だね」。もっと多くの曲を聴きたいと思う客には、その旨を書いたプレートでも、入口、出口に掲示しておけば済むことだ。それが、“プロ”としての矜持だろうと思うからだ。販促の序でに聴かされたのでは敵わない。

 

 ディナーに続いて、一龍齋貞心さんの席がラウンジ「海」で始まった。演題は正確には知らないが、「荻生祖来の豆腐屋」とでもいうものだった。芝・増上寺門前の豆腐屋・上総屋七兵衛が長屋暮らしの学者に奴豆腐を売る。しかし、貧しくて豆腐にかける醤油さえ買えないこの学者・荻生惣右衛門に、情け深い七兵衛がご飯の代わりに毎日おからを届けてやった。ところが風邪で行商に出掛けられなかった数日の間に、学者は姿を消えてしまった。数年後、類焼で焼け出され豆腐屋へ、建て替えのために大工が訪れた。金は済んでいるし、当座の生活費にと金まで置いていった。明けて新年、大工が連れてきたのが、あの「おから学者」。出世した荻生徂徠だった。豆腐の未払い4匁が40両に、おから代が一軒の店を寄付したという祖来の恩返しを話に仕立てたもの。芝増上寺御用・徂徠豆腐由来の一席。

今夜の一龍齋貞心の講釈を聴けば、プロの芸が判ろうというものだ。まくらまでの時間配分といい、声の張り、客を引きつける話術といい、さすが。観客に迎合しないで自らの芸に誇りを持っている。目頭を押さえたり、鼻をすすったりする人がいたほど感動的な語り口で、ひさしぶりに名人芸を聴かせてもらった。

 

 

2156分頃、航路ナビで見ると、北緯38度47分で、本初子午線00:00になった。いよいよ東半球から西半球に入った。船内時計は、スペインの夏時間を採用しているため、グリニッジからは2時間の差がある。この0000を何人もの船客が固唾を呑んでカメラに収めているはずだ。TV番組にシャンネルを回すと、NHKの映像が写りだしていた。明日は、マラガ。オプショナルツアー不参加。ブラブラ歩きのひさしぶり自由行動日。また野菜市場かな?

 

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2009年3月16日 (月)

060511.リベリア・ラパロ~モナコ

 早朝に雨が降ったらしい。屋根も路面も濡れて光っている。ホテルはチグリオ湾のある東リビエラ海岸に位置している。ポルトフィノ半島に続く湾の向こうに、昨夜遅くに投錨していた3隻の大型客船とメガヨットは、7時半のこの時間、既に消えていた。

 Dscf1532

  朝食のレストランは、プールサイドの上階にあった。1908年に建てられたホテ、グランドホテルブリストルは、あのムッソリーニやチャーチルといった政治家にも利用されてきたらしい歴史的なホテルだという。

 

 

 藤川君がテーブルに着いた。「せっかく、リビエラという場所にいながら、朝に出て行くだけだね」と投げかけおいて、「ツアーの案内にあったリビエラというのは、このラパロが代表するのですか?つまり、リビエラに行ってきたというと、ラパロを指すのですか?」額さんに向けると、彼女は困っていた。食後、ロビーにある観光冊子を何冊も手に取ってみると、リビエラという文字は見当たらないのだが、この辺りが、ポルトフィノ・コースト(portofinocoast)という呼称が読める。リビエラ海岸でも超高級別荘地で、入り江に各国の超豪華ヨットが停泊し、有名人の豪華別荘が多いとか。

 

 

Dscf1535 Dscf3160  ホテルを出たバスは、山の上から昨日の曲がりくねった道をヨットハーバーまで下った。バスが停まった。

「では、ほんの少しではありますが、写真を撮るなり、お歩きください」

藤川君が笑顔で言った。ほんのしばしではあったが、ラパロの街を歩いた気分になった。ひさしぶりに潮の香をかいだ。

 

 バスは、ラストランで、ラパロからモナコへ向かった。海岸線を見下ろすほどの高い位置を走り続けている。

Dscf1540   「下に見えてきましたのが、ジェノバです」との案内に、カメラを向けると、リグーリア海から入り込んだ港から、狭い細長い谷へと延びたなだらかな傾斜地に街は広がっている。コロンブスが青年時代を過ごしたと言われるリグーリア州ジェノバ。ジェノバ貴族が競って建てた大邸宅群、パラッソは世界遺産になっている。そうした歴史的な街ではあるが、真上から眺めるだけで通り過ぎた。海運王国を誇った国が、現在でも地中海第一のコンテナ交易港の姿が海岸沿いに長く広がっていた。  

 

 

Dscf1542 Dscf1544  やがて、サンレモのヨットハーバーらしきものが目の中を流れていった。あっけなかった。サンレモは熱海の姉妹都市だ。サンレモ音楽祭といえば、ジリオラ・チンクエッティの名前が浮かぶが、日本人歌手では伊東ゆかりの時代だった。

 

 Dscf1547 反対の山側遥か北は、オリンピックの行われたトリノになるのだろうか。アウト・ストラーダという高速道路の標識ボードがグリーンからブルーに変わった。イタリアのリビエラ海岸“コスタ・アズーロ“から、フ ランス領域の“コート・ダジュール”に入ったのだ。この「水色の海岸」コート・ダジュール。フランス人ではなく、イギリス人によって開拓されていったという。また、ジェノバ共和国がニースやカンヌをフランスに譲渡しないでくれていたら、この美しい海岸線は、今もイタリアの領土だったのにと、額さんは残念がった。彼女は既にイタリア人なのだ。

 

 

Dscf1556_2Dscf1553  眼下にモナコの風景が目に入ってきた。1641年にフランスの保護下に入り,そして併合された後に独立したものの、フランスとの条約で,もし大公に嫡子が出来ない場合は,再びフランスに併合される運命だったが、幸いも王子が誕生した。現在は、レーニエ3世の長男、アルベール皇太子が大公位を継承している。

 

Dscf1550 “フレンチ・リヴィエラ”の眼下に、にっぽん丸の赤いファンネルが見えた。青い海に赤いファンネル、白い船体。日本が海中に浮かんでいるという想い。久しぶりの船体に乗客が沸き立つ。300日以上晴天が続くという、コート・ダジュールの観光・保養地だ。丼サイズのオニオンスープが忘れられないニースの海岸は、その約10km先だ。プールのある邸宅を探すカネボウのCMロケだったが、ほんの少し足を伸ばせばモナコまで来られたのだ。

 

Dscf15582  見晴らしのいい場所でバスが停車した。なんだか、不思議な喜びで、みんな顔が変わっている。下車して「我が家」をカメラに納める。モナコのヨットハーバーを背に互いに記念写真を取り合う。その船体から糸を引いたように、通船が白波を立てて港に向かっている。昼食に帰船する船客達を迎えに出たのだろう。

 

 やがて、バスはワインロードを下り始めた。王宮の見渡せる展望台でも再びバスが停まった。此処もカメラスポットかと、バスの中は中腰になって窓から覗き下ろす者が多かった。ところが、そこはモナコ公国への入国料を払い込む場所だった。1日滞在で約13000円、半日は半額だという。ここで、現地のガイド、ミセス梶原さんが同乗してきた。「バチカンに次ぐ世界で2番目の小さな国、モナコにようこそ」と挨拶。

 1.95k平方メートルで、人口3万人だが、純粋のモナコ人(モネガスク)というのは、7000人ほどで、他は外国人の居住だという。モネガスクであるためには、先祖代々居住していること、前科がないこと、国籍があること。つまりは、大公の許可証がいるのだと梶原さん。治安の良さが自慢の国であるには、理由があった。公安局では、街中に設置した320台の監視カメラと500名の警察官で24時間見守り、刷りや置き引きなどの犯罪予防をしているからだ。

Dscf1570  所得税も固定資産税を払わないで暮らせる国だということから、この国に住みたいという外国人が多いのだが、滞在許可証を得るには、3つの条件が備わっていないと難しい。多額の預金額、余人を以て代え難い職業、文化的才能。これは、オーストラリアの永住権と同じだが、年齢制限がない分、モナコ公国のほうがまだ緩いと言えるか。いや、3万人の中で、柔道、合気道、空手の教師がそれぞれ一人居れば済むことになるとしたら、こちらのほうが厳しいとも言える。それでも、市民税は支払わねばならないが、法人税は低くしてあるようで、10年間居住していれば、年金も出るそうだ。

 この小さな国土には40以上の銀行があり、国際投資にも強い関心を向けている。モナコ公国は、観光に頼ることなくフランスの穀倉地帯に広大な土地を所有し、小麦相場でも利益を上げている。

 カルロ王国のモンテ(山)というハンディのある狭い国土で、財政を賄うのに大胆な施策をしたというのが、世界的に有名なカジノである。カジノを楽しませる都市計画をジゼル・ガルニエに依頼した。Dscf1588Dscf1590 カジノの客のためにレストランを創り、ゆっくりしてもらうためにホテルを造り、さらに楽しみを大きくするためにカジノの中に豪華な劇場を造ったのだ。「グラン・カジノ」の近くには、「ホテル・ド・パリ」、「エルミタージュ」という高級ホテルがある。ガルニエといえば、シャガールに天井絵を描かせて造りあげたパリ・オペラ座の建築家だ。このモンテカルロという地区は、6地域に分かれている中で唯一自治権を持つ市である。「グラン・カジノ」の莫大な建設費は、カジノの公益費1年間分で償却できてしまったという見事な財政策ではあった。

Dscf1577 Dscf1578 Dscf1606  モナコの「F1シリーズ第7戦、モナコ・グランプリレース」が、今年も2728日に行われる。スタートラインも「グラン・カジノ」の前にも、既にパイプで接合するグランプリレースの観覧席が設営されてあった。世界的イベントが間近に迫っている。2週間後にはタイヤのきしむ音とエグゾーストノイズの轟音が背中の山々に鳴り響くのだ。78周(13340km)の決勝レースを待っている。Dscf1593 スーパーアグリ・ホンダ、佐藤琢磨、フェラーリーのシューマッハなどが熱い戦いの火蓋を切る。その1週間前、つまり来週、初陣を飾るのは、クラシックカー・レースだ。王様がクラッシックカー・コレクターで、それを観てもらいたくて道路を走らせたのが、そもそもの始まりだったからだ。

 銀行が集中している、他国に不動産開発をしている、カジノを建設している、公道でF1レースを実施する。こう並べてみると、モナコの中にシンガポールを見ることができる。

 

Dscf1591 「グラン・カジノ」の横に日章旗が立っていた。「モナコ・ガーデンクラブ」という文字があった。花を愛したグレース・ケリー王妃が設立したとか。王妃の要望で日本人の庭園設計師による本格的な日本庭園もあるそうだが、見る時間はなかった。

 

Dscf1580  昼食を食べたのも、一般道から、崖の中をくりぬいたエレベーターで上がったのだが、岩の多いモナコには、192基の公共エレベーターがあるそうだ。ジェノバ人の要塞だった場所に造った宮殿だから、ヨットハーバーと海の間の絶壁の上なのである。モナコ・ヴィルと呼ばれる地域になる。王宮のある砦には、バスを降りて、やはり、岩盤の中のエレベーターで上がり、さらにエスカレーターで高台に出た。しばらく歩くと、右手に王宮かと見違えるほどに装飾をこらした建造物があった。海洋博物館だという。海洋生物に関心が深かったアルベール1世がまず設立したのが、海洋学研究所で、大西洋諸島、ブラジル、北極の海まで航海を繰り返していたそうだ。

 

Dscf1608 Dscf1609  公的な建物だけかと思ったら、このモナコ・ヴィルには、モネガスクの多くがここに住んでいるらしい。皇居の中に4代目の江戸っ子家族が居住を許されているようなものか。実にオープンである。土産物屋も多くあり、狭い路地には所狭しとTシャツ屋、アイスクリーム屋などが軒を並べて、まさに観光地となっていた。いまは、F1レース記念のキャップがカラフルだ。僕もひとつ買うことにした。

 

Dscf1596Dscf1594Dscf1603  グレース王妃の眠る大聖堂に比べ、王宮は実にシンプルな建物で、衛兵が立っていることでそれと判るくらいである。国民との距離に隔たりがないようにとの外観だそうだが、内部は立派なインテリアであることは言うまでもない。現在のキャロリーヌ王女とステファニー王女は、ここモナコ公国では、二十歳になったら自立しなさいと、親とは別に独りずつ、自分の住居を与えられて住んでいる。その住まいは、海洋水族館から上がってきた右脇の建物だ。

 

Dscf1602 Dscf1599  王宮の入口横には、袴をはいた日本の武士のような銅像が立っている。13世紀末、モナコを支配していた貴族を僧侶の衣装で近づき、衣の下に隠し持った剣で倒し、モナコを敵の手から解放したと言われる国の英雄、グリマルディの像である。国旗にも紋章にも、この男性の姿がデザインされている(梶原さんの説明は、簡単すぎた。敵とは誰だったのか、調べてみた。

  当時、この地は、ジェノバの二大勢力だった皇帝派と教皇派の勢力争いの舞台だったようだ。教皇派のグリマルディが一計を案じ、修道士に扮して要塞の侵入に成功し、占拠したというもの。教皇派が統治し、遠戚であるレイニエ大公に至っているというもの。だから、グリマルディ家の紋章には、左右に剣をかざした修道士の姿が刻まれているという訳。だから、要塞の上に王宮地区があるのだ。)。

 

Dscf1569 ルイ14世時代の大砲と弾薬が積んである王宮広場からは、フランス領に統合されていた当時、この一帯は、「ヘラクレス砦」という名前がつけられていたことが理解できる。急峻な山側に建てられた高層ビル群。此処だけを眺めていれば、熱海に似ている。姉妹都市はサンレモよりも、モナコにしたらどうだったのだろうかと妻に言った。熱海もカジノ建設の動きがあるしね、と妻。

Dscf1605_2Dscf1600_2  佐藤琢磨、中田英寿、それに芸名とはいえ“公爵”を名乗っているデューク・更家が住まいを持っているという富裕層のメゾンを指さしながら、ガイドの梶原さんが意外なことを教えてくれた。

 「100㎡なら3億円弱でしょうね。でもテラスでのバーベキューは禁止です。

    当然ですが、洗濯物も禁止です。あのグレーのビルよりも上の土地に建てられている家屋は、

    フランス領のものです。実は、モナコの領地の高さは、山の○○mまでなのですよ」

え、山の途中で国境になる?意外だった。しかし、その何メートルまでなのかは聞き逃してしまった。モナコは海岸線を埋めるか、地下に掘るか、地上に積むかしか、国土を拡げる方策はないのだという。だから、いつも、工事が絶えないのだとも。

 

 海から見て王宮の左、ニース側にフォンガヴィエイユという工業地区がある。1976年、レーニエ公は、狭い国土を拡げる策として海を埋め立てることにした。この地区が誕生したことで、国土の16%が拡大したのだという。しかも、この工業地区には、煙突もパイプも見えないように、ビル内部に組み込まれているそうだ。自動車の部品メーカーから、リキュール、香水メーカーなどを誘致して、これまで国の財源の95%をカジノに依存していたのを、これら企業の法人税で14まで補えるようになり、失業率も0に近い状態という。

 

 通船で帰船する時間になった。ヨットハーバーに下りた。待つ間、ガイドの梶原さんに話しかけた。

    「モナコにずっと住んでいたの?」「いいえ、最初はグルノーブル」

    「ああ、グルノーブルね、あそこで滑りたかったなあ。

     オリンピックで有名になってしまったね」

    「スキー好きですか?」

    「ああ、小学5年からやっていた。大学の時、都連のスキークラブに入っていた。

ところで、グルノーブルに、カズっていう日本人居なかったかい?」

    「えっ!カズさん!」

    「そう、富樫一紀っていうんだけどね」

    「知ってますっ!どうして~、まあ!」

    「えええ、カズ知ってるの!」

二人の声に周りが驚いて振り向く。モナコを離れる直前で、この奇遇。驚くのは僕の方だった。

 カズとは、グルノーブル時代によく世話をしてもらった仲だという。自分は日本人と結婚したが、今は子供と二人でモナコに住んでいるが、カズの消息は知らないという。カズと僕との出遭いはパリだった。先に書いたカネボウのCMロケでパリ入りした時のことだ。

 ロケハンの範囲が広すぎるため、コーディネーターの会社でも応援スタッフが必要だった。グルノーブルからやって来た若い日本人が付いた。

 彼の初仕事が、パリ市内に見つからない小道具を集めるため、パリからバイクを飛ばして深夜300kmの距離を往復することだった。事故もなく、それをやり遂げてけろっとしていた。グルノーブルでは農家に住み込んで働き、時には日本のスポーツ紙に依頼され、ツール・ド・フランスの模様を撮って送ったりもしていたので、体力はあったのだろう。呑み込みが速く、機転が効くので、オデッサフィルムのヤニック社長に、今後日本人スタッフと充分やっていける若者だと保証できるから、会社で採用して欲しいと進言した。

 それからのカズの評判は、年々高まった。独立してフランス人と結婚もして、押しも押されぬコーディネーターになった頃には、僕の仕事は、カネボウを離れていた。味の素ゼネラルフーズやリクルートのフロムエーという、アメリカの西海岸ロケが多くなっていった。

Dscf1612Dscf1620Dscf1614  カズの動向が判ったら、互いに知らせ合おうと約束して、迎えに来たにっぽん丸のボートに乗った。

   人の繋がりとは不思議なものだなあと、ローマからのガイド額さんとモナコのガイド梶原さんに手を振りながら、モンテカルロ港を離れた。ツアースタッフの藤川君と清水智佳ちゃんが、驚いたという気持ちを、「イナノーバァ~~!」と、ボートの上でのけぞった。

Pict2518

Dscf3259

 久しぶりの船内での夕食、二人の男性が隣りに座った。二人ともがっしりとしている。見かけない顔だった。

    「私たちは、しばらく船を離れておりました。もしかして、

    ローマから乗船されたアーティストの方々ですか」

声楽か、ピアノか、頭の中では、紹介されているエンターティナーのパンフレットをめくっていた。思い当たらない。さては、また、海上自衛隊からの隠密派遣の研修出張者かとも思ったが、返ってきた答えは違っていた。

    「私たち、『海』の編集取材で乗ってきました。今度が50号記念でして…」

『海』とは、MOPASの会誌だ。なるほど、そう言われると、同業者の顔に思えてくるから不思議なものである。

    「オーバーランドですか。阿刀田さんとご一緒でしたか」

    「ええ、阿刀田さんとは親しくさせていただきまして、名前が高、高で、

    家内が奥さまと同じ桂子、けい子で、同じ名前同士でしたので」

妻はスーパードライを頼んだ。彼らもアサヒビールを飲んでいる。

    「アルコールはおやりにならないのですか?」

    「いや、ビールは大好き、でした。ビールの担当をしていまして…。

    飲み過ぎてか、通風が出てしまいましてね、いまでは焼酎ですが、

    瑞穂のダイニングでは、お湯割りは頼めませんので…」

 刀豆茶を4日間も飲んでいないせいか、足にむくみがある。1ヶ月ぶりの検査をシップドクターに頼もうと思っている。そんな訳で今夜は、妻だけがアルコールをオーダーしていたのだ。

 

 オーバーランドツアーの感想を訊かれた。妻が話した。ややあって、僕が、ガイドとの奇縁を話した。CMコーディネーターのカズを話した途端、「おい、あんたの先輩だよ」ともう一人の男性が肩を叩いた。

「もしかすると、貴方が編集で、そちらの方は、広告担当…営業ですか?」

 

 なんと、広告担当者のほうはTWAだという。「ならば、中野圭さんをご存じですよね?」「はい、以前の上司でした」。驚いた。一気に距離が縮まってしまった。

 中野圭氏とは、茗荷谷の自宅に行ったりしていた仲で、博報堂時代の営業・制作のコンビだったからだ。彼は確か、欧州の社長を経て帰任し、しばらくTWAジャパンの役員を務めリタイアーした。TWAは博報堂とのワールドワイドの企業連合体であり、近々TWA博報堂が設立される。すると、もう一人の男性が、僕も赤坂の会社に少し勤めていましたという。赤坂とは、東急エージェンシーのことである。

 なるほど、平マネージャーが、今晩、この席をセットした意味がわかった。

 こうなったら、あとは業界話になった。推測年齢からして、東急エージェンシーなら、前野社長時代ではなかろうか。クリエイティブは種田・宇野時代でしょうかと訊くと、種田ルーム時代当時の営業だったと。東急109の役員になっている沢渡ちゃんも知っているという。TWAの彼は、東急の馬場時代を知っているという。三人とも、かつての僕の仕事仲間であり、ライバルだった。にっぽん丸にも、広告会社出身がいる。イノバウワ~をやらなかったツアースタッフ、森田由香さんだ。第一企画勤務の時、ディアマンテの新発売を担当していたという。親友の藤原利洋SP局長と、青学後輩の前田耕作SP部長が担当したのだから、ここでも繋がっていたのだ。その後、常務になった藤原は、悔しいかな、肝臓癌で先立ってしまった。

 

 

 夕食後のメインショーは、ミュゼット・アンサンブル・コンサート。

日本人と結婚した千葉在住経験のある1951年生まれのパトリック・ヌジェ氏と、エディット・ピアフの最後のアコーディニストだったというジェラール・ピエラ、それにシャンソン歌手の夜だった。いつものようにメインホールは2階席にした。ところが、私語がうるさい客と隣り合わせたのには参った。抜け出る。

 

 日没時間が2030分ころだと東さんから教えられていたことを思い出した。プロムナードデッキを歩いてみた。コート・ダジュールのイエール諸島沖だろうか。

 

Dscf1658 Dscf1666  抜け出て良かったあ…と思わず呟いた。右舷にサンセット。左舷にフルムーン。このサンセットが、実に見事な大絵巻。先回でも目にしたことがないほど、天を焦がす大きな夕陽だった。 “島倉雲”(映画界やCM界でこの人に描かせたら、スタジオが空に抜けると言わせるまでのスプレイアーティスト)があった。雲の形が適当に切れ切れになっていて、その隙間からこぼれ出す真っ赤な光芒。圧倒された。息を呑むとは、こういう時に出る言葉なのだろう。クルーズでなければ、体験できない光景だ。

 飽きない空のショーが、プロムナードデッキには繰り広げられていた。僅か10数名の船客のために燃えていてくれた。興奮しながら、90枚以上はシャッターを押した。

 

Dscf1699 Dscf1702  「こっちのほうは満月ですよ」

  左舷から船客が親切に教えに来てくれた。天空に満月。海面との間は、薄い青みがかった霞が漂い、月明かりは静かに波に揺れている。一幅の掛け軸のような墨絵のような世界であった。こんな色彩を目にしたのも初めてだった。しかし、東さんほどの腕はない。いい写真に撮れているかどうかは自信がない。

 

 メインショーの船客には申し訳ないほど、静かな、静かな、ため息の出る天空のショーだった。

 

 

 ナイトシアターには出掛けずにパソコン打ちに取りかかった。なにしろ、チベタベッキアからモナコまではパソコン不携帯のため、メモのみ。書き出しておかないと忘れてしまう。ここ数日は、寝るのが遅くなりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年3月 3日 (火)

06.05.10. フィレンツェ~ピサ~リビエラ

Dscf1389 Dscf3051 Dscf1394 朝早くに、屋上テラスに上がる。ヴェッキオ橋から北西に7ブロックほど離れていることが地図から読み取れたから、もしやと思ったのだ。案の定、ドゥオモの赤い球形が霞んで見える。屋外プールのあるホテルは、フィレンツェでは唯一此処だけだと聞かされたが、屋上からの眺めもいい。7時モーニングコール。7時半、1階のレストランで朝食の席で船客に教えたら、何人かは慌ててエレベーターに走った。8時、バゲージをドア外に出す。8時半ロビーに集合。このタイムスケジュールは、変わりない。

Dscf1401 Dscf3063 今朝は徒歩観光だと思っていたら、タクシーに乗り合いでヴェッキオ橋の袂に行って欲しいという。ウフィツイ美術館入場の時間が迫っているに違いない。アルマーニ、グッチ、トラサルディ、フェラガモの通りは歩けないままに、ヴェッキオ橋に着いた。200円で乗れる小型バスが走り回っていた。


13世紀初頭まで、ベネチア、ジェノバと並び、海運国家として繁栄を極めたフィレンツェ。東西に流れるアルノ川に南北の道を造るには、橋が要る。沼地の続く両岸で台地が近い場所に橋が架けられた。洪水などで何度も架け替えられたのに、ポンテ・ヴェッキオ(古い橋)という名前になっている。まあ、最古の橋、だと解釈しておこう。パリの最古の橋が、ポン・ヌフ(新しい橋)と呼ばれているのとは対照的だ。

川沿いには3,4階の建物が積み木細工のように並んでいて、空が抜けている。川面に映る景色を、シングル・スカル艇が静かに切り裂いていく。

Dscf1421 Dscf1420 Dscf1409 Dscf1407 我々には、橋を渡る時間もなさそうなので、カメラに撮るだけで終わった。橋の上に回廊ができたのは、川向こうのピッティ宮殿とベッキオ宮殿を結ぶためだったが、メディチ家の人物が暴漢に襲われないためでもあったようだ。建築家パザリに造らせた。この当時は、橋上の店は肉屋が並んだ。しかし、肉の臭いが回廊に漂うのを嫌って撤去させ、今のような金細工職人や宝飾店に許可を与えたのが、今の貴金属店街になったのだそうだ。

古代、最初に住みついたのは、エトルリア人。ローマ人は、彼らのことをエトルスキと呼び、住んでいる地域をエトルスカと称した。それがトスカナ…「トスカーナ地方」となったのだ。

 

P1030162 P1090078 ガイドのヌガさんが手招きをした。長い行列を尻目に我々は、別のドアから入ることになった。親指と人差し指で作るコの字の形をした細長い建物である。それまで各所に分散していた行政・司法関係省庁を一箇所に集束させようと、メディチ家の君主、コジモ一世が統制力を強めるために造った総合庁舎だった。だから、ウフィツイはオフィスの複数形という意味。最上階に美術品を展示し始めて今日に至る。


Dscf1427Dscf1423 「時間を有効に使いまし ょう」と、ヌガさんがリクエストを募った。どなたかが日本から持ってきたガイドブックを読み上げた。笑い声が起きた。「では、駆け足ですが、此処までこられて観ておいてよかったと思われるように、ご案内しましょう」と、背中を向けた。

「受胎告知」、「アダムとイブ」、「ヴィーナスの誕生」、「春(プリマベーラ)」などなど、ついに本物を眼にしたかという想いで、ホー、ハーと溜息が連続する。頭の中は、美術の教科書をめくっているようだ。エルミタージュ美術館とは違い、カメラ撮影は禁止なので、人の足は止まらないのがいい。

Dscf1439

P1030161P10803414Dscf1436Dscf1432

 







P1030157

外に出る。ベッキオ宮殿側に歩く。 右手手前に、「海神ネットゥーノの噴水」、中に「ダビデ像」、そして奥に「コジモ一世騎馬像」が、左角を回ると、市民集会の場であったロッジア・ディ・ランツィ(列柱廊)には、メディチ家が彫刻の展示場にしてしまった。特に、ブロンズ像で筋肉を表現した「ペルセウス像」は、一瞬の眼力で人を石に変えるという魔女メンドーサの首を手にした、有名な傑作である。

 

P1030163P1030164  フィレンツェは、古都・織物産業の京都と、織物ファッション産業では、岐阜も共に姉妹都市になっている。フィレンツェは、13世紀ころから織物産業で経済力をつけた商人達が金融業を興し、銀行家となっていった。しかしながら、キリスト教の教義では、謙遜と倹約を重んじさせていた。高利貸しは最も罪深い職業だとされていたため、贖罪の意味を込め、宗教施設の改築や寄付をすることで、芸術家達を育てるパトロンになった。キリスト教に奉仕するという名目が立って、誰に反感も買わないで権勢を保持できたというわけだ。

P1090060 もし、彼らが依頼することがなければ、ミケランジェロもボッティチェリもラファエロも、多くの作品を残しはできなかったし、ガリレオも研究できなかっ たのではないか。ダ・ヴィンチがモナリザを50歳はじめの頃に描き上げたのは、ここフィレンツエだ。

街の至る所で眼にするメディチ家の紋章は、百合の花に丸薬が6個、真ん中に1個。丸薬と決めつけるのも強引かもしれないが、医師というmedicoの複数がmedici、つまりメディチであるからには、先々代の家業は医薬関係ではなかったかという説に信憑性がありそうだ。

 

Dscf1441Dscf1440シニョーリア広場からは、あのドゥオモのクーポラ(大円蓋)が、でんと腰を据えて見下ろしている。日本人には、江國香織・辻仁成、原作の映画「冷静と情熱のあいだ」で竹野内豊とケリー・チャンの約束の場所として思い出される大聖堂である。

  15世紀に出来たという高さ107mのドゥオモ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母大聖堂)。ジョットの鐘楼からクーポラを撮りたければ、414段。クーポラのテラスに出たければ、464段登る時間が要る。上部に上がれば、オレンジとベージュの家並みから、遥かトスカーナ地方の景色が一望出来るというのだが、修復建築中だった。今回はお預けとなった。今日は、昼食後に、まだピサの斜塔へも走るのだ。P1090062 P10803444 ドゥオモを見上げる位置に置かれている建築家のブルネレスキ像のように、ただ見上げるだけにした。急ぎ足で、サン・ジョバンニ礼拝堂に向かった。ブロンズの大きな扉の説明が始まっていた。ミケランジェロが絶賛したという「天国の門」だ。太陽の光を浴びて黄金色に輝く、レリーフの旧約聖書物語だ。

 

さて、昼食のレストランへ向かいますと、ツアースタッフの藤川君が手を上げて歩き出した。何処にあるのだろうと、後について歩く。Dscf1397 Dscf1398 この辺りは、道が碁盤の目のように、整然としている。シーザーが退役軍人に土地を与えて移民市を造らせたのだそうだ。彼らが花の女神「フローラの町」という意味で名付けた、フロレンティアが、フィレンツェの原形になったという。市の紋章が百合の花なのだ。僕も10年間ミッションスクールで学んできたので、百合の花が三位一体を表すということは解る。

 

サンタ・マリア・ノッベラ広場を抜け、駅を横切り、人通りの少ない道をなにも案内がないままに歩くのは疲れる。空腹感もあり、文句も出る。年配のご夫婦でなくとも、足が重い、遅れる。15分ほど歩かされた。右の小路にあるレストランにやっと辿り着いた。位置的にはホテルの裏側に近いか。

 

料理は取りたてて特別なモノではなかった。今回のオーバーランドツアーの食事は、どうやら、日本人の口に合うボリュームを配慮し過ぎで、いわゆるコース料理とは言えず、中抜きの品数であった。寄港地の異国で食べる楽しみは、その国の香辛料やソース、また西欧人の分量を知ることでもある。尤も、僕の減塩調理については、藤川君に毎食気遣って貰っていたことは感謝である。

ところで、ナイフ、フォークもこのフェレンツェで生まれたのだ。12世紀ころ、ベネチアの上流階級でもパスタを手で食べていたのだろうか、干し草を掬う農具からヒントを得て、フォークを作ったという話がある。メディチ家の姫が、フランス国王への嫁入り道具として持ち込んでから、ヨーロッパに広まったという話。ポルトガルの姫が英国に嫁ぐことで紅茶が伝わったことにも似ていて、伝来の歴史は面白い。

Dscf1450_3


 

Dscf1449 Dscf1455 Dscf1448 フィレンツェを離れる前に、ミケランジェロ広場の丘から展望しようとなった。フィレンツェの旅番組では必ず此処からの映像が流れる。見どころを凝縮したスーベニールボックスのようだ。僕は400ミリ相当のズームレンズで捉えられるが…。せっかくの景観を前にしても、フレームの邪魔になるのが、売店にぶら下がるカラフルなシャツである。サッカーチームのシャツやチームフラッグが、景観を汚す。観光ギフトも時代には逆らえないのだろうか。しっとりした京都嵐山の渡月橋で、クレープ屋のワゴンが動かないでいるようなものかな・・・・観光客相手の商売とはいえ、場違いである。

0063

 

ピサでも同じ風景があった。ただ、露天が並んでいるのは、ドゥオモや斜塔の視覚に入らない脇道だ。ピサはフィレンツェから90km西にあり、アルノ川の河口からも10kmの距離だ。ジェノバやヴェネチアと伍して海軍力を誇った。その力は、マジョルカ島やイビザ島まで勢力を伸ばしていた時代もあった。


P1090050 Dscf3124Dscf1490 アーチを潜ると、遠くにお馴染みの斜塔が見える。右側が露天、左側には芝生が広がり、礼拝堂、納骨堂、ドゥオモ、鐘楼という順序で建ち並んでいる。

正直、建物もステンドグラスもフラスコ画には見慣れてしまい、関心は、鐘楼(斜塔)以外なし。

P1090076 その鐘楼だが、アルノ川の運んできた土砂の上に建てたため、地盤が軟弱で、2層目を建築時に傾き始めたらしい。それ以降は傾きを補正しながらの工事で、なんと完成までに180年も掛かったという。しかし、その傾きのお陰で、ガリレオの実験が世界を変えたのだから、判らないものだ。

「失敗は成功の母や」誰かが言った。「そう、いつも子供の心を持ち続けることやね、いっつも、なんで?なんで?って、疑うこと!」と誰かが返した。どっと笑い声が青空に吸い取られていった。


0073 8層の白い大理石塔は、一時地盤沈下騒ぎもあったが、不倒工事をしたので大丈夫という観光当局のお墨付きが出たことを新聞で読んだことがある。現在の傾き5°30′だそうだ。カメラを向けると妙なことに、塔を正対で撮ろうとしてしまう。横に垂直なものを写し込まないと、何でもない塔になりかねない。階段を上ることが禁止されているので、ガリレオの気分にもなれない。斜塔の下に集まっている観光客を入れることになると、8層まで写せない。


Dscf1487 0082 そこで、芝生の上でも、道端でも、観光客が一様にピサを押して支える役をする。これは、丁度、運河を通過するときに、架橋直下で両手を上げて、持ち上げるギミックと同じだ。この芝生では、みんなが倒れてくるピサの斜塔を立て直そうと声まで出して懸命に力を入れている。

スヌーピーも、汗かいて支えているTシャツが面白い。型抜きの斜塔の土産物は、子供だましレベル。アイディアのある斜塔土産は見当たらなかった。

 

16時、ピサを走り出しても、田園風景の中に、斜塔は背伸びして見送ってくれているようだった。かなり先まで、塔の頭は見えていた。バスは一路、リグーリア海の海岸線をサントリーのCMソング「冬のリビエラ」に向けて走る。

明後日は、ジェノバ、サンレモ、モナコという、中世の歴史都市から目映い光のきらめくリゾート地が待っている。

 

18時半、リビエラに着いたらしい。コンクリート打ちの波止場があるが、想像していたリゾート地ではなかった。鳥羽辺りの観光地にでも寄ったような気分だ。バスは、山側の曲がりくねった道を上がっていった。今度は、温泉場のような道である。急に開けたと思ったら、今夜のグランドホテル・ブリストルのアプローチだった。


Dscf3147_2 Dscf1530 

ルームキーを手渡され、部屋に入る。テラスは広く大きい。眼下にプール。湾の対岸に、メガシップが沖留めしている。山の端に夕陽が落ち始めている。白い客船が赤く染まっているように見える。リビエラの夕景だ。


 

夕食は、テーブルでワインボトルを別に取って、長旅に乾杯して、始まった。ここで3泊目。歩いている間に自己紹介をしあうこともあり、名前で呼び合う仲になっていた。

オードブルはスモークハムと薄切り肉のチコリ添え、パスタ入りのビーンズスープか、スモークサーモンのマカロニ。魚のソテーか、仔牛のヒレ肉、香草添え。デザートはクリームカラメルのカスタードプリン。コーヒーかティ。以上。

Dscf3142

| | コメント (0) | トラックバック (3)

«060508 チベタベッキア~ローマ